1-7(累卵)
その後ルイサは、王の寝室に招かれた。
踊りをひとしきり堪能してから、ディナティが左大将アナカダに耳打ちしたのだ。
「踊り子に、今宵は退室せずとも良いと」
その意味が分かる大臣連中はすぐにどよめき、ざわめきは波のように広間全体に広がった。
ルイサはただの踊り子として王の前に立ち、名乗っていなかった。当然、最初に彼女が発した言葉の真実を理解した者は誰もおらず、最後に王が発した言葉もそういう意味に受けとられた。
金の踊り子は王の寵愛を受けるに値すると。
皆が納得していた。
それほどに素晴らしい踊りだった。
「ル……」
最初に出現した彼女を見て声を上げかけたのは、クリフだった。
酔えない頭が余計に冷めるような衝撃だった。
クリフは踊り子のルイサを知っている。目の離せなくなるその踊りを、見間違えるはずがない。ディナティが「しっ」とクリフを制した。
ディナティは彼女の、戦争の時とはあまりに違う姿、男を悩殺せんばかりの媚態を見て取り、ロマラール国使者としての謁見ではないと察したのだ。
まさしく悩殺だった。
男だけでなく、女も殺された。
誰も見ようとしなかったラウリーがショックを受けるほど、彼女の存在は大きかったのだ。ショックを受け、凝視してしまってから……無理矢理に目をそらしたのに、その先のクリフを見るはめになってしまった。
見ないようにしていたのに、踊り子の出現によってクリフの気が自分からそれたのが分かった途端に、ラウリーの方がクリフを気にしてしまったのだ。あのように自分を恥辱しておきながら、妖艶な女一人によってすっかりラウリーのことを忘れているようなクリフの横顔に、ラウリーは感情を感じていた。
怒り。苛立ち。憎しみ。
何を見ても何を聞いても動かなかった、動かしたくなかったはずの心が、動きだす。
踊りを初めて見るラウリーには、それが戦場で見た女性とは結びつかない。
広間で一番白く美しい肌を持ち、華美に“女神”として飾り立てられている紫髪の娘が、すっかり影を薄くしていた。野性の獣のようにうねり、飛び、金の光をまき散らして歌いながら舞う女が、皆を圧倒していた。目が、彼女から離せない。何とか顔をそむけても、広場中の者が彼女の虜になっていることを見せつけられるだけである。
彼女が最後のステップを踏み終えたと同時に、広間に拍手と歓声がわき上がった。熱気に包まれた歓声にある種の高揚を味わったラウリーの中で、何かが切れた。だが、その切れたものが何なのか、ラウリー自身すら分かっていなかった。そして、そんな彼女に誰も気付かなかった。
人形のように固まってしまったラウリーに気付くことのないまま、少年王は踊り子に声をかけた。
そして踊り子は、当然のように王の寝室へと呼ばれたのだった。
「いやいや少年王様も、男でございましたな」
「許嫁がおられませんでしたかな?」
「妾も正妻もまだのはず。あの踊り子が第一号になるのですかなぁ」
「あのような佳人では、国王様とて手に余りましょうぞ」
ほっほっほ、などと広間に無責任な笑いが飛びかう。
王らの退席した後にはずっと、勝手な憶測と噂が広間を賑わして終了した。誰かは、王が声をかけなければ自分があれを手に入れたのにと言ったりもしたのだが、ディナティは気に留めていない。
それよりも何より、踊り子ルイサの登場が心を占めているからだ。あまりにも突飛で、あまりにも人目を惹く堂々とした登場だった。
「ディナティ様。大丈夫です」
寝室の周囲から廊下まで一通りを見回した初老の男アナカダが、部屋の入り口に立って、そう報告した。寝室の中に座るのはディナティ王一人である。
廊下側の入り口には他の部屋と違って扉を設置してあるが、窓側は吹き抜けだ。窓からそよぎ込む風が、音もなくカーテンを揺らしていた。
ディナティは部屋の中央に、無造作に座っていた。部屋の中央に絨毯が敷いてあり、ディナティはそこへ、さらに厚い座布団を使って座っている。他に3枚ほどの座布団が散らべてある。だがそれ以外はほとんど何もない、余計な装飾のない部屋だ。
部屋の主もまた、今は盛装を脱いで簡素な服になっていた。
ディナティはアナカダに、小声でうむと頷いた。
「入れ」
戸口の内側、カーテンの向こうで待たされていた金髪の踊り子が、しずしずと入場してきた。先ほどまでの荒々しい舞いが嘘だったかのような静かな動きで、鈴の音もない。音のする装飾をすべて外してきたのだ。
露出度の高くあられもない格好であっても、それは今の彼女には騎士の正装と変わりがなかった。絹を外し、媚態を微塵も感じさせない気高い顔をディナティに示していた。
入り口に立っていたアナカダが、礼をした。
「私はこれで」
「待てアナカダ。お前も同席を」
「かしこまりました」
アナカダは、一度戸口に気を配ってから窓に歩いた。窓の前に立って、王とルイサを見おろす。2人を見る目は厳しい。アナカダもまた、この踊り子が本当に“お情け”のために訪れたのでないことを分かっていた。
“お情け”は“助力”の隠語だ。
ロマラールの使者が帰国せずにディナティに助けを請う事態が起きたのだ。
ディナティの目も険しいままである。だが、座布団を辞退して絨毯に平伏した美女は頭を上げた時に、気が抜けるような艶やかな笑みを浮かべた。
「まずは名乗らせて下さいませ」
「その格好で、名乗ると?」
ルイサは再び、深く頭を下げた。
「踊り子、ミ・ルイサと申します」
ディナティも笑みをこぼした。
「ただ一人のルイサ、か」
「ロマラール語を?」
2人が使っているのはネロウェン語だ。ディナティは緊張していた背中をゆるめた。
「小姓がロマラール人でな」
ディナティは彼女が自分の言葉に顔色を変えるかと思って注意深く観察したが、ルイサの表情は普通の感心と好奇以外には何も浮かべていなかった。
「王様の隣りに座っていらっしゃった方々も、ロマラール人のようでしたね」
「同族は分かるか」
「ネロウェン国に来て同国の者を見るのは、珍しいことですので」
「よくぞ王宮にまで潜りこんできたものだな。どんな魔法を使った?」
珍しいロマラール人が、しかも踊り子として王宮に招かれることなど普通はありえない。強力なコネでもなくては無理だ。そしてミ・ルイサは入場の時、王弟マラナエバに導かれて入場した。ということは、マラナエバの助力をもって王宮に入ってきたのだ。
ディナティにとっては、ルイサの存在が脅威となりえる事態なのである。
だが、問われたルイサは気にも留めていない風情で、肩を竦めるではないか。
「人の心を惑わす魔法を」
「?」
「後でマラナエバ様から、たいそう睨まれることになるやも知れませんが、どうぞお捨て置き下さいませね」
そう言われても、まだ意味が分からない。先に鋭く察したらしいアナカダは低く咳払いをして、ディナティに「信用しましょう」と進言した。
「ルイサ殿は王弟君をかどわかして入場したと見受けられます。だが、その踊り子が王に召されたとあっては、そりゃあマラナエバ様の面目も立ちますまい」
アナカダの説明により、やっと理解したディナティだった。ルイサは陰でそっと、かどわかした以上のことはやってるけどと思ったが、そこは言わぬが花である。
マラナエバを出し抜いて、しかも彼が口出しできぬ部屋にまで辿り着いてしまったことには違いないのだから。ルイサがディナティとすでに顔見知りだったことが、マラナエバの敗因だ。
ただし帰宅の際には、夜道に気をつけねばなるまい。むろん“ピニッツ”はとうに王宮外に配置してある。
互いに軽く笑みを見せあい、ルイサが目を伏せた。
「辛い戦いでございました」
「辛いとばかりも言うてはおれん。学ぶところも多かった」
「と申しますと?」
ルイサの問いに、ディナティが肩を竦めた。
「人の争いが、いかに矮小かということだ」
「左様でございますね」
ルイサは笑いかけた顔を引き締めて、小さく咳払いをした。突いた手を離さないまま背筋を正す。
「ですが矮小なその争いが、ひいては大きな流れを生みます。ただ一人の劣情ですら、おそろかにはできません」
意味ありげな言い方に、ディナティは片眉を動かした。あぐらの両膝に手を乗せる。
「今さら名を伏せるか」
「例えでございます」
ルイサはアナカダを一瞥してから、ディナティに視線を戻した。アナカダが目を瞬かせた。
マラナエバのことではないのか?
先ほどからの流れからすれば、ただ一人と絞る以上、王弟の存在しかディナティには浮かばない。だが踊り子は、それ以上の言葉を使わない。
伏せている事情をえぐろうとしても、徒労なだけで割が少ない。ディナティは「で?」と先を即した。
「公に姿を現してまで直の謁見を求めたのだ、よほどのことであろう」
「しかも内密に」
ルイサは言い添えて、再び、ひれ伏した。
「意図をお読み下さり、機転を効かせて下さったこと、感無量にございます」
「世辞はいらん」
「では申し上げます」
ルイサは伏したまま顔だけをディナティに向けた。アナカダも態度を崩さないものの、心持ち顔つきが変わった。耳をすまし、周囲の様子に気を配っているらしい。
それでも、ルイサは隠語を使った。
「私の大事な伝書鳥を、男爵様が捕らえておしまいになったのです」
◇
男の手が、客間のカーテンを殴りつけるかのように開ける。だが絹のカーテンは空気を吸って、ふんわりと開くだけだった。
男の足が、王宮中に響きそうなほど荒々しく歩を進める。だが毛の長い絨毯は、足音を消してしまう。
邪魔な装飾をすべて外して、服も引きちぎるようにして脱ぎ捨てたが、それでもクリフの心はすっきりしなかった。
今頃になって酒の酔いが回ってきたのだろうかと思うのだが、足取りは腹立たしいほどしっかりとしている。
あてがわれた部屋は、豪勢だった。
天蓋にカーテンのついた、背の低いベッド。壁際に並ぶ細かい彫刻が入った家具に、調度品の数々。ラウリーの部屋で見たと同じ等身大の鏡もあったが、布がかけられている。クリフは、一度も布を上げていない。
ベッドに近い燭台にはランプと、寝酒らしきピッチャーとカップが置いてある。ピッチャーもカップも、透明ではないもののガラス製である。クリフはこれに手を伸ばしたが、出てきたのはアルコールのない果実水だった。
クリフはいまいましげに、それを一気飲みした。それから用意されていた柔らかな綿の服を着こみ、皮の靴を脱ぎ捨てて、ベッドに体を投げだした。自分には身に余るもてなしばかりだったが、やはり酔っているのだろう、気にすることも面倒で、当たり前に寝そべった。
ベッドはロマラールのものより薄くて膝丈もないほどの高さだったが、そこはさすがに王宮の家具だけあって肌触りが良かった。馬車だって他の者より好待遇だったはずだが、当然それよりも、さらに寝心地が良い。しかも天蓋付きである。が、寝そべった時に部屋全部が見渡せないというのが逆に落ち着かなかったので、クリフは天蓋から垂れ下がるカーテンをすべて柱にくくりつけた。
再び横になる。
だが……。
「ち」
舌打ちが洩れた。
こんなに寝心地の良いベッドなのに、いや、寝心地が良すぎるせいか。眠れない。
ラウリーのことやルイサの出現など、色々なことが気になって眠りを妨げる。
6週間もたってからルイサがのこのこと王を訪ねたのには、何か大きな理由があるに違いない。彼女がただの踊り子でないことは、マシャから説明を受けた。ヤフリナ国での逃走や白い金属、海賊“ピニッツ”の仕事──。
クリフは今日にでもマシャに、ルイサのことを聞くつもりだった。だが、すっかり酔いつぶれている風情でかわされてしまったので、また明日にする他なかった。いや、地で潰れていたのかも知れないが。
「明日だ」
自分に言い聞かせるように吐き捨てて、クリフは体を楽にして寝る体勢に入った。
ネロウェンとはいえ春になってもまだ、夜になると冷える。だが今のクリフには暑くて、クリフは胸まで引き上げた布団から腕を投げだし、目を閉じたのだった。
まぶたの裏に、この上なく華美な格好をした紫髪の娘が思いだされた。胸が締めつけられる姿だったが、それでも少し安堵した。
理由はどうあれローブを脱いで、皆に笑顔を見せたのだ。それは大きな前進だろう。
以前のラウリーの、日焼けした健康な笑顔を知っているクリフにとっては、化粧をして着飾っていても、やはり痛々しい姿でしかなかった。けれど、それでも今日最初に見た、伏せた顔よりはずっと良い。
クリフはネロウェン王の温情に甘えて、早くロマラール国に帰れればと思った。ルイサやマシャのことも気がかりだが、今はラウリーに気力を戻す方が先決だ。
──そんなことを考えながらまどろんでしまったので、近づいてきた気配に対してクリフは「ラウリーか?」と思ってしまった。それとも夢か、とも。
だが、どちらでもないようである。
夢と考えている時点で、頭は起きている。それに、クリフの察知したその“気配”には、緊張感が漂っていた。絶対に音を立てないようにと細心の注意を払い、一歩ずつ近づいてくる。
クリフは、どこで目を開けるべきかと思案した。
なぜならベッド際にまで近寄ってきたその“気配”は、殺気だったからだ。
クリフを邪魔と思う者がいるのか。とすれば、それは王の敵なのか、ダナの手の者か。そう思ってからクリフは、ふと苦笑したくなった。ダナは、終わったではないか。
“気配”が立ち止まった。
クリフは仰向けに目を閉じたまま、それらを肌で感じていた。窓の外からは、ゆるやかな風と葉のそよぐ音しか聞こえない。ネロウェンの夜がどんな音なのかを知らないから一概には言えないが、まだ今は深夜のはずだ。まぶたを刺すような光も感じられない。
あの戦いで感じた、体中を締めつけられるような圧倒的な『気』もない。
侵入者の荒い息が聞こえる。極度の緊張だ。
その、息の音。
息から聞こえる声。
クリフはその声に驚いて、目を開けそうになってしまった。何とか堪えた。まぶたが動いてしまっただろうか。いや大丈夫だ。気付かれなかったらしい。相手はクリフを前にしてためらい、気持ちが揺れている。
だが、衣擦れの音がした。
腕を振りあげたらしい。
心を、決めたらしい。
ナイフか短剣だ。
息を吸う音が響く。
ピン、と空気が凍った。
緊張感が一気に凝縮した。
振りおろされる……!
「う……む」
クリフは、寝返りを打った。
直前になって、振りかぶった者に背を向けたのだ。
彼女はびくりとして、腕を引いたようだった。身を竦めて、たじろいでいるらしい空気を感じる。続けて、後じさる音。
そこには、もう狼狽しか感じられなかった。
「……う」
くぐもった彼女の声は、嗚咽を堪えているものだ。
刺せなかったこと、殺せなかったことに後悔を感じているのだろうか。この男が自分を苦しめると、悔しく思っているのだろうか。だとすれば、クリフは殺したいほど憎まれたということなのだろうか。
何にしろ、クリフにはそこまで分からない。今はただ眠ったふりを続けるだけだ。ゆっくりと長く深く、そして静かに息を吐く。気取られてはいけない。相手もまた気配を察することができる、腕のある狩人なのだから。
それでもラウリーが去らずに第2刀をくり出そうとするなら、その時は起きようと決めていた。殺されるわけには行かない。守備よくクリフを殺せても、そうしたら後のラウリーはどうなる。自刃しかねない。今日のことは、酔った上の勢いか一時的な錯乱に違いない。と、思いたい。
去った。
ラウリーの気配が遠のいた。
クリフは気を抜かないようにしながら、うっすらと目を開けた。
絨毯に、カーテン越しの月明かりが落ちている。思ったよりも明るかった。そのせいもあって、自分の意識が早く浮上したのだろう。
馬鹿だなとクリフは思った。獲物を狙うなら、もっと月のない夜にするか、もっと気配を隠せ。
クリフは横になったまま、布団を肩まで引き上げた。その中で腕を組んで、身を縮める。
隣の部屋から、泣き声が聞こえるような気がした。
「参ったな」
酔ったにしろ、一時的にしろ。
侵入した彼女には“殺気”があった。グールたちと命のやり取りをしてきた、ソラムレア国で戦場を駆けた自分が、それを間違えるはずがない。
こんなことなら……と、クリフは過去に思いを馳せた。
ダナ神と化したオルセイに出会う前日、ソラムレアの村でつかの間すごした、平和な時間。
手合わせした後に転んでしまい、一瞬だけ彼女が腕の中にいた。
あの転んだ時に。
冗談でも、抱きしめておけば良かった。
クリフは自分の間抜けな後悔に、顔を歪めた。それを放棄したのは自分だ。
――まだ目覚めて半月のはずの記憶は、2年も3年も以前のように、遠い昔になっていた。