1-5(激情)
2重の入り口はずらして造ってあり、中が見えないようになっている。扉はない。2番目の入り口に、カーテンがかかっているだけである。クリフはその2番目の入り口の縁を、少しためらってから、思いきってコンコンと叩いた。
理解できない言葉が飛んできた。
多分、誰何だろうとは想像できるが。
「……入って良いか?」
中の女たちが、男の声と異国の言葉に緊張したようだった。空気のこわばりが感じられる。聞き慣れない囁きがカーテンの向こうでさざめいた。
辛抱強く待っていると、ようやく理解できる応答が返ってきた。硬い声で。
「今は会いたくないの。来ないで」
嫌われたものだ。クリフは苦笑しようとして顔を歪め、苦しいので止めて、ため息をついた。だが放っておいたら本当に餓死してしまうのではないかと思える姿だった。クリフが言っても駄目かも知れないが、他の誰もが全員無理だったなら、残るは自分だけである。
入り口の側に立ったまま思案するクリフの腕を、カーテンから出てきた手がつついた。驚いてその手を見る。褐色の肌をしていた。その手は少しだけカーテンを押し広げ、困っている表情をクリフに見せた。中年の女中はきらびやかな布を手に持って、もう片方の手で部屋の奥を指さし、クリフに何かを訴えた。
「頼む。ゆっくり」
クリフが怪しいネロウェン語で言うと、女中は口調を落とし、いくつかの単語を切るように話した。
それらの言葉で理解できたのは「着る」と「否」の2つだけだ。クリフは反芻してみた。
「着ない?」
女の顔が言葉が通じたことに安堵して、少し緩んだ。女は再び繰り返す。
「着ない」
金糸で織られた布を、クリフに掲げてみせる。彼女が指さす先を覗くと、そこには長衣姿のラウリーがいた。
「着ない、ね」
クリフはロマラール語で苦々しく呟いた。ラウリーが宴の準備として用意された服を拒絶しているらしい、と分かったのだ。
クリフは意を決し、部屋中に響くような声でラウリーの名を呼んで、カーテンを開けた。絨毯に座らず立ったままでうつむいていたラウリーがビクリと肩を竦め、クリフを眺めた。その目が怯えなのか嫌悪なのかは今ひとつ分からなかった。どっちにしろ、あまり好ましくない感情だ。
クリフは自分の側に立つ女性に顔を向けつつ、柔らかく出入り口を示した。
「行く。頼む。……ええと」
女が弱く微笑んだ。
「去る」
「去る。それ」
つくづく意思伝達は難しい。クリフは「ありがとう」と言い添えた。女が笑顔で何かを言い、奥に立ってラウリーに話しかけていた女性に声をかけて、そうして2人は部屋を後にしてくれた。クリフとラウリーだけが取り残された。
ラウリーはかたくなに前を向き、2度とクリフを見ようとしない。女中から金糸の服を手渡されたクリフは、部屋に入った。
ラウリーの足元に、篭が置いてある。その中に服が入れられていたらしい。クリフの持つものの他にも、羽根飾りや腕輪らしきものが色々と入っている。クリフは篭の側に服を置いて、しゃがんだままラウリーを見あげた。
「着替えろってさ」
「知ってるわ」
「言葉、分かるのか?」
「覚えた」
「さすがだな」
「王様と話をしてるから」
一見普通の会話だが、実際の声音はにべもないものだ。クリフはその一言一言にトゲを感じて、話していることを辛く思った。つくづく、意思伝達は難しい。言葉が通じていてさえ。
クリフは勢いよく立ちあがり、おどけてみた。腕を組み、体を曲げる。
「参ったよ。“イアナの英雄”だってさ。連中、あの剣がイアナ神の剣だって知らないはずだよな」
「クリフ」
ラウリーが、クリフを見た。ような気がした。クリフがラウリーを見ても、もう目は合わなかった。
「ふり返ってみて」
「?」
言われた通り、素直にふり返る。と、そこには壁に立てかけられている大きな鏡があった。クリフは驚いた。
鏡というものの存在を知らないわけではない。ロマラールにもガラスがあるし、銅で作った小さな手鏡などもあった。母もラウリーも持っていたものだ。クリフが驚いたのは、それがあまりに澄んだ大きいものであったことと──そこに映った自分の姿だった。
いや、顔は変わらない。目覚めてからは一日置きに髭を剃ってくれる者もいたので、自分の顔は20年間慣れ親しんだものが映っている。
しかし髪の色が違ったのだ。
赤い。
そこまでではないかも知れない。まだ赤茶と呼べる範囲内かも知れない。しかし自分が覚えている髪の色は、もっと茶色かったように思う。剃られた髭の色には気づかなかった。
驚愕するクリフの顔を、ラウリーは鏡越しにちらりと見あげて自嘲気味に呟いた。
「神の色を有する髪の、ご感想は?」
クリフは苦い顔をした。ラウリーの気持ちは分からないでもない。だが今は、それに同情する気が起きなかった。
「俺は俺だ」
吐き捨て、腕を組み直して、正面からラウリーを見おろす。そうするとラウリーは一生懸命に睨み返してきたものだったが、今はその目もない。ただうつむき、静かにクリフを拒絶している。
生を拒絶している。
「死ぬ気か?」
ラウリーは少し首を振った。
「生きる気が起きないだけ」
すべての答が凝縮されたかのような端的な回答だ。
クリフは声を低くした。
「もう月も変わった。いつまで喪服でいるつもりなんだよ」
「……洗ってるから、」
ラウリーは言いよどんで、目をさまよわせた。
「血が消えたら、脱ぐわよ」
「消えねぇよっ」
クリフは思わず右手をラウリーの肩にかけた。手の中で彼女が震えたのが分かったが、それがためにクリフは一層、掴む手に力を込めた。
「自分でも分かってるんだろう? その血はもう染みついてて取れない。一生脱がないって言ってるのと同じだぞ、現実を見ろよ」
「見てるわよっ」
やっとラウリーが顔を上げた。身をよじり、腕を振ってクリフの手を払いのけ──ようとした。クリフは手を離さなかった。ラウリーがいまいましげにクリフを睨んだ。掴まれていない方の手を振り、クリフの頬を引っぱたこうとする。だがクリフは、これを遮った。避けず、空いた手で彼女の手を掴み、わざと荒々しく放り投げた。ラウリーはよろけたが、クリフに肩を掴まれているので倒れなかった。
「放してよ! 現実を見てるから……だからクリフを見たくないのよ。私に構わないで」
「そうは行くかよ」
駄々をこねるラウリーに苛立つ気持ちを抑えながら、クリフはゆっくりと抗議する。
「無駄に死ぬな。そんなために、ここまで来たんじゃないだろ」
「私は……っ!」
歯を食いしばって顔を上げたラウリーの目には、涙が溜まっている。クリフは目をそらさず、それを見つめた。
「止めてよ、どうしてクリフがそんなこと言うのよ! お願い、嫌いになりたくないから、私の前から消えて」
「悪いな」
クリフはラウリーの肩を掴んだまま、冷ややかな目を崩さない。
「お前に嫌われたところで、俺は消えん。脱げ」
「嫌よ!」
さらに強くラウリーが自分を睨む悔しそうな目を見て、クリフは「そうだ」と妙な安心感を感じた。
嫌えば良い。
いっそ憎めば良い。
その方が、都合が良い。
「兄さんは戻って来ないわ、一生! 分かってるわ。この血は、兄さんの最期に残したものよ!」
「だから脱げって言ってるんじゃないか、いつまでもしがみつくなっ」
「私が覚えていなけりゃ、そのうち忘れられてしまうわ。ただでさえ、あんな哀れな死に方だったのに!」
「それは違うだろ! 忘れるんじゃない、薄れるんだ。消えはしない。その血と一緒だ」
「だから脱がないのよ!」
「だから着てちゃ駄目なんだよ!」
相乗効果で、段々と声が荒くなる。ラウリーが暴れる。けれどクリフは、放さない。
「クリフには分からないわ!」
「ああ、分からんね」
放さず。
クリフはラウリーの両肩を、掴んだ。
ラウリーがぎょっとして、涙を散らして叫んだ。
「嫌ああぁっ!!」
布の裂ける音が、悲鳴と共に部屋に響いた。
薄汚れた白いドレスが、布切れになって散らばった。ラウリーが一ヶ月以上、大事に着こんでいた“兄の形見”は、呆気なくボロ雑巾になって床に落ちた。後にはローブを引き裂かれて、シャツとズボンだけになったラウリーが立ちすくんでいた。両腕を自分で強く抱き、その手にわずかに残ったローブを握りしめている。
とめどなく涙が溢れて、流れた。
布を握りしめた拳が突き出されたが、それもやっぱりクリフは叩いて落とした。
「お前は俺に触れることすら、できん」
クリフは手に残ったローブを、なるだけ何でもないもののように捨てた。
「悔しかったら体を鍛えろ。不意打ちだろうが闇討ちだろうが、受けて立ってやる」
別の、第三者の声が入り口から飛びこんでくる。先ほど席を外してもらった女中2人が、ラウリーの悲鳴を聞きつけて戻ってきたのだ。部屋の外で待っていたらしい。
彼女らはクリフの所業を見咎め、異国の言葉で金切り声を上げた。何と言っているのかは分からないが、非難されていることは想像に難い。初めて意味が分からないことを、ありがたいと思った。
クリフはきびすを返した。
「クリフなんか……」
自身を抱きしめて縮こまるラウリーが、うなるように低い声を絞りだした。出した途端、爆発した。
「クリフが死ねば良かったのよっ!!」
つんざく悲鳴に、女中だけでなくクリフも足を止めた。ふり向く時、ぐっと顔を引き締めた。自然と睨むような顔になった。
「俺は死なん」
クリフは顔中を涙に濡らしたラウリーから目をそらして、部屋を出た。その背中を、ラウリーの号泣が追ってくる。布切れの上に突っ伏して、泣き崩れたのだろう。彼女をいたわる女中の声も聞こえる。
ラウリーの声が響いてくる隣室に入る気にはなれず、クリフは回廊を歩いた。日の傾いてきた回廊は赤く輝き、クリフの髪に映えた。自分の姿が見えないのは幸いだった。
いくつかの部屋を通り過ぎて角を曲がった頃にようやく彼女の声が薄れたので、クリフは歩みを遅くした。ふと庭を見ると、小さな川沿いに石のベンチが設けられている。クリフは回廊を出て、そこに腰かけた。座った時、音が出るほど強く自分が歯軋りしていたことに、気が付いた。久しぶりに長く立ち通しだった。痛みを堪えていたことにも気付かないほど、自身が高揚していたのだ。
俺が死ねば良かったのだ、などと――。
クリフは体の力を抜いて、そっと腹に触れた。
「俺だって、そう思うよ」