1-4(帰還)
盛大なくしゃみをしたクリフは、鼻をすすりながら怪訝な顔をした。
誰かに噂された気がする。
「大丈夫ですか?」
外から声をかけられ、クリフは「ああ」と返事した。くしゃみのせいで腹がしくりと痛んだが、それも近頃はようやく薄れた。暖かさが増したせいもあるかも知れない。
ネロウェン国王都が近づき、月も、マラナの月である。
ロマラール国のマラナ月なら、動物は冬眠から目覚め、植物も息吹を取りもどす月である。月の終わりになれば、色とりどりの花も満開になる。山を歩いていても野生の花畑などがあって、目にも楽しい季節だ。
今月中にロマラール国に帰れるだろうかとクリフは思った。
故郷の花畑でも見ればラウリーの心も少しは癒えるだろうか、と思ってしまったのだ。
クリフは板張りの床を這って、幌から顔を出した。馬車はあいかわらず一定の揺れで急ぎもせず遅れることなく歩き続けている。クリフの乗る馬車は、縦に延びる列の真ん中辺りに位置しているので、先頭がどうなっているのかはまったく見えない。
クリフは馬車の入り口からよいしょと体を乗りだして、御者席の男に並んで座った。男は手綱を気遣いながらクリフを見て、眉を寄せて嫌そうな顔を作った。
「寝て下さい」
「暇なもんでな。それに、もう体を起こした方が良い」
上着をはおりながらクリフは、周囲を見渡した。視界の中に、紫髪を持った者はいない。目覚めてから、まだ一度も会っていなかった。話によるとマシャと共に前方を歩き、ディナティに付いているということだったので、ひとまずは安心しているのだが。
その様子を想像すると少し異様だろうなぁ、などと思う。
ネロウェン国軍隊の中、王様の後ろに、白いドレスを着た女が付いているのだ。しかも血のりの着いた服だ。
「まぁいいか」
と隣りに座る男サキエドが呟いたのが、かろうじてクリフにも理解できた。そんなクリフの視線に気づいて、サキエドが言った。
「せっかく入城ですから」
景色にちらほらと増えてきた家並みが、王都到着を示していた。
感情表現が下手なのか、彼の見せる笑みはいつもぎこちない。だがサキエドは無骨な暖かみを感じる男だった。マシャから、彼がこの戦いで大切な部下を失ったことを聞いている。そのできごとが逆に、彼に柔和さを与えているのかも知れない。おそらく戦場に出れば誰よりも勇ましいのだろう、とクリフはサキエドの顔を見て思ったものだった。
前を行く馬車の上にどんと壁がそびえ、そこから歓声が振ってきた。沢山の──王都中の人間が門に集まって出むかえているのではないかと思える大音響である。クリフの座る御者席の板が振動しているようにさえ感じられた。先頭は、もう街に入ったのだ。
ほどなくクリフの乗る馬車も、門に飲みこまれた。
高くそびえる門はよじ登ろうとしても到底登り切れるものではないだろう、堅固なものだった。木で組み、土で固めてあるのだとサキエドが言ったが、そんなもので造られていると思えないほどに厚くどっしりとした門だった。それが大きく開け放たれて次々に帰還した兵らを飲みこんでいく様子は、きっと壁に登って上から見おろせば圧巻に違いない。
門の向こうに広がる王都は、一足早く戻った使者の伝達により、すっかり歓迎ムードになっていた。どこまでも続く建物と人の波は、すべてが歓喜に包まれて熱狂的だった。
「国王万歳……かな?」
「そうです」
クリフが人々の叫びを聞きとって呟くと、サキエドが口元をほころばせた。
クリフはやっぱり外国語を覚えるのが苦手なので、ここでもまだ5文字ぐらいしか覚えていない。一日に2度はマシャが様子を見に来てくれるし、サキエドもロマラール語を話してくれるので、不自由がない。そのうち不便が出るかも知れないので覚えるべきだろうとは、頭では思うのだが、やっぱり身に付かない。
ネロウェン国の建物は皆、土を塗りかためてある黄土色の四角い家だ。町中での草木は、ところどころにしか生えていない。しかも、家より高い壁が街を囲んでいても、吹いてくる風には砂が含まれていて、街の色はまんべんなく黄土色である。しかしクリフの目に映るこの街は、人々の笑顔が溢れているためだろう、やけに華やかに見えた。何百人という人の群れが通りを埋めつくし、窓や屋根の上からも人が手を振っている。真上の太陽からもぎらぎらとした強い光が、街全体を祝福するかのように注がれている。
「クリフ、また起きてるの?」
声をかけてきたのはマシャだ。ゴーナに乗り、列を逆走してきた。
彼女はゴーナに乗ったまま、クリフらの馬車に横付けして歩いた。そして満面の笑みで、通りにひしめきあう人々に向かって、さも自分が英雄であるかのように手を振っている。クリフは呆れながらも、つい顔をゆるめてしまった。
「あ、良かったクリフ、笑えるじゃん」
「お前の脳天気につられたんだ」
「言ったな」
クリフがぼそっと呟いたのを聞き逃さず、マシャは馬上から物を投げた。
「って、うわ馬鹿お前、何投げんだ?!」
ナイフだった。
外さないマシャの腕前もなかなかだが、それを両手で挟んで受けとめるクリフも、もっとなかなかである。マシャはニヤリと笑った。いつもの挑戦的な顔で。
「勘も戻ってるじゃん」
そう言われては、肩の力を抜かざるを得ない。
「まだまだだけどな」
クリフはマシャのナイフをもてあそんだ。危険な悪ふざけをする2人に、サキエドが横で鼻白んだ。そうして、すぐにマシャはまた先頭のディナティ王のグループへとゴーナを小走りに進めた。
クリフはラウリーに宜しくと言おうかと思ったが止めた。マシャも、何も言わなかった。クリフとサキエドの2人は、ため息混じりの苦笑でマシャを見送った。
マシャは元気だった。
一ヶ月がたってすっかり傷も治り、怪我人の世話から政治の庶務まで体力の続く限り、ありとあらゆる仕事に首を突っこみ、精力的にこなしていた。雑念を振りはらうかのように。何も考えている暇がないほどに。
軍人しかいないネロウェンと機能の死んでいるジェナルムの間で、マシャは大いに役立った。そして王都に着いた頃には、ディナティ王の「小姓」というよりは「小姑」のようだと言われるほどになっていた。
本来の守り役である右大将シハムが、ジェナルム国に残ったせいでもあった。
諸事を終えたディナティは、500の兵だけをジェナルム王都に残したのだ。楽園のような隣国から帰りたがらないネロウェン兵は多く、脱走する者まで現れて、この一ヶ月はてんやわんやだった。
しかも帰国後も、まだまだ雑務から重要事項まで目白押しである。
すぐにまた誰か軍人と折り合いの良い有力者をジェナルムに派遣する必要があるし、ダナザ王の国葬もあるのでジェナルム国にとんぼ返りになる。手柄を立てた者への褒美に、新しく生まれ変わったというソラムレア国の指導者との会談も最優先事項だ。
そんな、張りつめた糸のようになっている少年王にとって、小姓マシャの存在は大いに潤いになっていた。
「国王様、ご帰還!」
マシャが先頭の馬車に乗るディナティ王の少し後ろから、声を張りあげた。綺麗なネロウェン語で叫ばれたそれは、高く澄みきって響き、人々の頭上を飛びこえて広がった。群衆が手を振って、口々に少年王の名を呼んだ。マシャらの目前には、王都の中央、三重の壁に囲まれたネロウェン城“ディードム・エブーダ”が王を待ちわびていた。その異名は、こちらの言葉で「太い長老」という意味らしい。文法が違うので、ブーダが「太い」に当たる。その名にふさわしい、5つのころんと丸い屋根をくっつけた、大きくでっぷりとしたフォルムの、落ちついた構えの建物が一行を見おろしている。
ネロウェン国第22代国王、ディナティ。
彼はようやくこの“長老”の主になったのだと噂されていた。
即位して間もなかった彼にとって、今回の戦が初めて上げた武勲だった。王としてふさわしいどころか偶然とはいえ大きすぎる勝利で、国中に名を知らしめたばかりか、各国にまでディナティの名を知れ渡らせた。「彼には幸運の女神がついている」などと言われるところが、少し彼の気に入らないところなのだが。
「実力で勝ちたかった」
「え?」
民の誰かが“ナティ神の王”と叫んだことに反応して、ディナティが呟いた。その呟きを聞きそびれて、マシャが首を傾げた。
「何も」
ディナティはふり向きもせずに憮然と言った。
マシャの大きな瞳はナティ神の色、水色だ。ディナティは内心、この小姓が女だと知れたら余計に「幸運の女神がそばに」などと言われてうるさいのだろうなぁと思ったものだった。もっともそう思っているのはディナティだけで、王と小姓とは思えないケンカのような会話や、小姓の花のように可愛らしい笑みを見る周りの者たちは、大抵気づいていたりするのだが。
即位したてのディナティだったら、からかって遊ばれたかも知れない。しかし門をくぐるディナティ王は今や威風堂々としていて、出迎えた皆を圧倒していた。濃く日焼けした肌や、手入れもそこそこの長く伸びた黒髪などが、一層彼を見違えて見せるのかも知れない。
城に入る大きな門は木と鉄を組みあわせて造ってあり、動いたらさぞ大きな重い音を立てるだろうと想像できる。だが今は開放されていて、どんどんと兵らを迎えいれている。戦を終えた彼らは数日の後に宝を手にして、家へ帰ることになる。すでに別れた一群も何組かいて、そういう者たちにも、すでに褒美が手配されていた。
そんなこんなで城に戻り、かつ駐留した兵士は千人ほどとなっていた。城内はごったがえし、中庭に人があふれかえって活気づいている。
そしてその活気は夜まで続くのだ、と誰かが言った。
宴が催されるというのだ。
「こちらの部屋をお使い下さい」
入城したクリフの馬車は、そのまま客人用の部屋が並ぶ『ニユ宮』と呼ばれる館の中庭にまで進められた。安息の神、ニユ。くつろげ、という意味だ。
馬車に乗ったまま中庭まで連れて来られたのはクリフ一人である。他にも怪我人はいるだろうに、自分一人だけ大層な扱いをされている。クリフが恐縮して御者であるサキエドに馬車を止めるよう言うと、サキエドは「仕方がありません」とクリフを制したのだった。
クリフはため息をついた。
突然、空に湧いて出て戦争を止めたのである。鮮やかなダナの髪をした女神と、赤く輝く剣を持った軍神。この戦争の象徴的存在になっているのだ。下手をしたら王よりも高い扱いだろう、とサキエドは言った。
ラウリーがオルセイの妹であると聞き、クリフがクリフであると知り、ようやく人間扱いになったようなものだった。
クリフとラウリー、それにオルセイとマシャは都合上、一緒に旅をしていたということになっている。そこにリンも加わり、5人だ。それがヤフリナ国ではぐれ、別々に目的の地を目指し、惹かれあって合流した──ということになっている。
マシャがネロウェン軍に拾われた時に『自分たちは魔法使いの使いだ』と嘘をついたことと、リンが本当に魔法の使い手だったことが上手くかみ合って良い作り話になり、今ではほぼ誰もこれを疑っていない。魔法という要素がいかに非現実的かつ説得力のある代物かということだろう。
それというのもマシャが“ピニッツ”の副船長であったことをバラさないためだ。
ので、これに関してはラウリーも口裏を合わせてあるらしい。クリフは特に念入りに念押しされた。うっかり口が滑りそうだと思われているらしい。否定はしないが。『軍神だ』などともてはやされると全力で首を振って、いらないことまで言ってしまいそうになる。
参ったなぁと思いながら馬車を降りるそんなクリフに、先に降りたサキエドが手を貸そうとした。
「いや、もう大丈夫だよ」
クリフは案外と軽い足取りでひょいと馬車を降りた。とはいえ、地に足を着いた瞬間の痛みは隠しきれなかったが。
すると、そんなクリフの周囲に3人の女性が現れて群がった。年はクリフより上のようだが、美女ばかりである。クリフはぎょっとした。彼女らが小鳥のさえずるような声で紡ぐ言葉の意味が分からない辺りも、狼狽の原因である。クリフは、助けを請おうとサキエドにふり向いた。サキエドは“英雄”の情けない顔に、思わず破顔してしまった。腰に手を当てる。
「あなたの世話をします。宴の主役ですから」
「え、ええ?」
サキエドは変わらず敬語だったが、かなり砕けた口調で言って、クリフをげんなりさせた。
人混みも目立つのも嫌いだ、ソラムレアで剣を振りあげてたのは仕方がなかったからなんだ、たまたまだ、ノリだ、勘弁してくれ……と抗議したかったが、それらの言葉を吐き出す前に口を塞がれてしまった。唇で。
「!?」
召使いの美女が至近距離にいる。首に巻き付かれて身動きが取れない。クリフは目を白黒させながら、あ、異国でも愛情表現は同じなんだなぁと馬鹿なことを考えた。ただし奥手なロマラール人からすると、その歓迎の挨拶は相当濃いものではある。
するとその時、一番不本意な状態を、一番見せたくなかった相手に見られてしまった。
クリフらの立つ中庭に面したその回廊に、建物の角を曲がった向こうから人が歩いてきたのである。
2人ほどの中年の女性を前後に付けている、紫髪の者が。
クリフの心臓が止まった──ような気がした。
目は合った。
合ったが、見えていないような目だった。まったく光が感じられない。
クリフは自分に巻き付く女性らの存在も忘れ、彼女を凝視してしまった。
やつれた。
遠目に見て分かるほどに、彼女は痩せ衰えていた。誰の手も借りずに自分の足で立って歩いてはいるが、少し押したらパタッと倒れるのではないかと思えるほど、彼女がか弱く見えた。
見慣れた白い長衣に染みこんでいる赤い血が痛々しい。見慣れた……いや。むしろ見飽きた。あの服の血はきっと、もう一生洗い続けたって落ちない。
ラウリーはそのまま二度とクリフを見ず、女性らに導かれてクリフにあてがわれた部屋の隣りに入っていった。
クリフは美女らを首からほどいて申し訳なさそうに見回すと、帰りあぐねているサキエドに頼んだ。
「世話はいらない。どうしてもというなら、男にしてくれないか?」
サキエドは今しがた消えた紫髪の女神とクリフとを交互に見て、分かりましたと言った。だが微笑んだり、はやしたりはできなかった。紫の娘が、あまりに意気消沈としていてクリフをまったく見なかったことと、クリフの悲痛な面持ちを見たら、そんなことはできない。
サキエドは世話役の女中らに下がるよう言いつけ、馬車に乗った。
「代わりの者が来るまで部屋に……いて下さい」
言葉を探してからそう言い、サキエドは一礼して去った。おそらく『休め』とか『くつろげ』という意味のロマラール語を探して詰まったのだろう。
後には水の流れる美しい庭と、客間の並ぶ美しい建物だけが目前に残った。クリフは青々とした木々を眺めてしばらく思案したが、やがて顔を上げて、きびすを返した。
自分の部屋でなくその隣り、彼女の入っていった部屋へ。