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1-2(落胆)

 意識が浮上する。

 自分の視界というものを認識した後に、初めて自分が目をつむっているのだと人は気づく。気づくと、そのまぶたを開こうとする。何やら自分の目じゃないようで、やけにまぶたが重かったが、かろうじて開くことができた。

 そうして、徐々に思いだす。

 自分が誰なのか。

 ここがどこなのか。

 なぜ眠っていたのか。

 寝ころんでいるらしい自分に見えるのは、薄暗さと、茶色い天井──(ほろ)の曲線とそれを支える木造の芯である。わずかに見える光の筋は幌の切れ目、入り口だろう。自分の背には柔らかいものが敷いてあったが、終始ガタガタと揺れていた。ここは馬車の中なのだ。しかも移動中らしい。この揺れのせいで、目が覚めたのだ。

 顔をしかめる。と、

「気が付いた? 分かる?」

 視界の隅に、娘が入ってきた。微笑んでいる顔には疲労が出ている。哀しみをたたえていたが、穏やかな目だった。頭に布を巻きつけ、少年のような格好をしている。

 ラウリーと声を出しかけてから、口をつぐんで言いなおした。

「マシャ?」

 喋ってみて、自分の声のかすれ具合に驚いた。

 我ながら元々そんなに良い声ではないものの、それなりにはそれなりに張りのあるつもりだ。それが弱々しくすり切れて、腹に力が入らない。

 腹。

 そう思って彼は、重い腕に力を込めて腹を触ろうとした。毛布がかけられている。それでも上から触れてみると、腹に布が巻いてあるらしいのが感じられた。何重にも固く巻いてある。触れた時、鈍い痛みが腹から胸、背中や足へと体中に走っていった。

 その痛みに顔をしかめた彼に、マシャと呼ばれた少女が苦笑した。

「まだ起きちゃ駄目だよ、クリフ。死にかけてたんだから」

 そうは言いながらも娘の「死にかけ」という言葉に危機感はない。助かるものと確信していたということだ。

 彼、クリフの脳裏に、自分がそうなった経緯が駆けめぐった。自分の腹を刺した人物。オルセイ。

 自分が刺した人物。

 オルセイ。

「う、ぐ」

 クリフは急に吐き気に襲われ、身をよじった。

「クリフっ」

 マシャは慌てて彼の肩に覆いかぶさった。反転して身を伏せたクリフは体をずらして板に肘を突き、吐くそぶりを見せた。が、うめいても何も出なかった。酷使した腹が、またズキンと痛む。そこには空腹感も含まれているようだった。胃が空なのだ。

 だが親友の最後の姿が脳裏を巡るたびに、クリフは頭が痛くなって体中が締めつけられ、嘔吐した。胃液だけが2、3滴ポタリと落ちた。

 体中を赤く染めた姿。

 背中に生えて、異様に白々と輝いていた剣先。

 どこも見ていなかった虚ろな目。

 オルセイは、クリフを見なかった。いや、目はこちらを向いていたが、認識はしていなかった。自分に何が起こったのかも分かっていなかったろうに。誰に刺されたのかも分かっていなかったろうに。誰を刺したのかも分かっていなかったろうに。

 吐き気が治まらない。瞳孔が開き、体が痙攣した。気づくと、背中を抱きしめられていた。痛いほどに。

「ゆっくり。ゆっくり、浅く息をして……そう」

 言われて少しずつ小さく呼吸をして、ようやく痙攣が治まった。

 クリフはガックリと頭を落として、息を長く低く吐いた。マシャは抱きしめていた手をほどいて、背中をさすってくれた。

「……ありがとう。大丈夫だ。大丈夫」

 息をつく。

 まだ、オルセイが死んだなどという実感は得られない。

 あれほどの凄惨な光景を目の当たりにしても。

 クリフのために用意されたその馬車には余計なものが何もなく、馬車の半分は柔らかで大きなクッションが敷きつめられていた。他には何もない。腫れ物に触れるように扱われている自分自身に、クリフは苛立ちを感じた。

 だが仰向けになってため息をついた時、クリフはその相手が泣きそうなぐらいに心配しているのを見たので、心を落ちつけることにした。笑うことはできないが、怒らないことならできる。

「マシャも無事だったんだな。良かった」

 ホッとしたマシャが微笑んだ。

「……ラウリーは?」

 かつてにも死にかけた時、一番最初に見えたのはラウリーだった。今も、マシャには申し訳なかったが、やっぱりラウリーと思ってしまった。だが今ここにラウリーはいない。

 問いに対してマシャが顔を曇らせたので、余計そのように危惧された。

「怪我したのか?」

「違うよ。そうじゃないけど」

 マシャらしくない言いよどみが、耳に引っかかる。

「はっきり言ってくれ」

「そだね」

 膝を立てて座るマシャは肩を落とし、息をついた。黙っていても仕方がないと思ったのだろう。

「クリフのこと、心配はしてたよ。でも……今は、顔を見れないって」

「……あ」

 少し考えれば分かることを、まったく考えていなかった。確かに言われてみれば、そうだ。胸に刺さった。自分も口に出してやろうかと思ったが、それを言うのはあまりにも冗談にならず、言えなかった。

 兄貴を殺した男の顔なんざ、見たくないだろうな。

「でも会わないと。クリフがラウリーを説得しないと、ラウリー、死んじゃうかも知れないよ」

 マシャは足を崩して、泣きそうな顔でクリフに詰め寄った。

「ラウリー、ほとんど何も食べないんだ。もっと食べなきゃって勧めても、今は喪中だからって言うんだ。喪が明ける前に、死んじゃうよ。何とかしてやってよ」

 言いながら、マシャはもう涙目になっていた。堅固なラウリーのことだ、本当に誰が何を言っても無理なのだろう。そんな想像だけ容易な辺りが、我ながら苦笑してしまう。

 想像の中のラウリーは、白い服を着ていた。

 戦っていた時。

 オルセイと剣を交えていた自分との間にラウリーが入った時、クリフはラウリーの心に触れた。ように思えた。

 その、ラウリーの心。

 彼女の服は──死に装束だった。

「ラウリー……何を着てた?」

「何って」

「あの白いスカートか?」

「ああ長衣(ローブ)だっけ。うん、それ」

「血のついたままか」

「クリフ、よく分かるねぇ」

 涙目のまま力なく、マシャはおどけて見せた。

「晴れた日には洗ってるから、血の色は薄れてきたけどね。この血が消えたら脱ぐって言って」

 クリフは苦笑しようとして、顔を歪めた。失敗したので、重い腕を無理矢理上げて、目を覆った。

 ラウリーの中では終わっていないのだ。だから脱ぎたがらない。魔法使いの正装はつまり、喪服でもあったのだ。

「どれぐらいになる?」

「戦争から? もう5週間はたったかな。今はマラナの月だよ」

「そんなに」

 クリフは愕然とした。クリフの記憶は、丘の血溜まりにうずくまっていたところで途切れている。そのまま気を失い、今に至る。時々目が覚めた気がするが、夢だったのか現実なのか。

 ここがどこなのかにもよるだろうが、ずいぶん過ごしやすい気候だ。ロマラールの冬のような、我慢できない寒さではなかった。5週間も眠っていたなら、当然だ。

 ロマラールにおける“喪中”は一ヶ月おこなわれる。ソラムレア国からジェナルム国へ、オルセイの元に“飛んだ”時の月はクーナだったはずだ。そのようにラウリーと話をした憶えがある。

「それだけ、ひどい怪我だったってことだよ」

 むしろ、一月たっても心の傷は癒えていないほどに。マシャの様子は、かえってそう思わせた。

 それほどに眠り続けていた自分。自分でも分かる、腹の傷は致命傷だったはずだ。

「俺、助かったんだな」

 マシャを治療した少女が思いだされた。彼女がしてくれたのだろうか。

 それを言うと、マシャは違うんらしいよと首を振った。

「ラウリーは“あの方”が助けてくれたんだって言ってた」

「“あの方”?」

「覚えてない?」

 クリフは記憶をまさぐった。死に至りそうな大怪我を治せる人物は、マシャを救ったあの少女ぐらいしか浮かばない。

「あの子しか。えーと、リンだっけ?」

「うん、あたしもね。彼女は覚えてるんだけど、その彼女を連れていった人ってのが、まったく記憶にないんだ」

「連れていった?」

 クリフの喉は、長く話しているせいで段々とかすれ具合がひどくなってきたが、それでも会話を止められなかった。知らないことが多すぎる。

「いなくなったんだ。ラウリーが、“あの方”が連れていったんだって言ってた」

 自分の記憶にない、第3者。

 旅立ちの最初は、オルセイと2人だけだった。ルイサに出会ってロマラール国を出て、ヤフリナ国で襲われて捕まって。そこにいた奴らに、ソラムレア国へと連れて行かれて。牢に放りこまれた記憶はある。自分にとてもよく似た男がいたような気もする。ソラムレアの兵に襲われて、反乱軍に加勢し、勝利して──。

 穴が、ある?

 クリフは自分の物覚えの悪さにきょとんとした。だが、おかしくない気もした。記憶なんてものは時間がたてば薄れる。反乱の後で世話になったカーティン・ボーラルの家で彼らと何を話していたのかだって、一言一句覚えてなどいないのだから。

「クリフも一緒か。でも、ラウリーが嘘を言ってるとは思わないけどね。つじつまが合わないから」

「名前は?」

「分からないって。ラウリーもはっきり覚えてるわけじゃない、そこが奇妙な話でさ」

「……」

 何と返して良いものか。答えあぐねていると、マシャは話題を切りかえた。他の様々な出来事をクリフに説明してくれた。

 ジェナルム国が正式に、ネロウェン国の属国になったこと。

 今、このキャラバンはネロウェン国王都に戻るところであること。

「怪我してるクリフを動かすのはどうかって話があったんだけど、ディナティ王の帰国に合わせてラウリーもネロウェンに行くってことで話がついたもんでさ。あのままジェナルム国にいても良くないから、ネロウェン王都からロマラール国への船を手配するって」

 そう言ってマシャは、ネロウェン軍の中でクリフとラウリーが神か女神であるかのように優遇されていることをつけ加えた。ここでクリフが口を挟んだ。

「道理で居心地が悪いと思った」

「分かんの?」

 マシャが吹きだす。

「でも、そんなこと言ったら御者に悪いよ。ネロウェン国王軍親衛隊の一番隊長おん自らが、“イアナの英雄”が乗る馬車の手綱を取ってるんだからね」

「イアナの……?」

 そういえばと思い、クリフは自分の周囲を見回した。しかし、いつも手元にあったはずの、イアナザール王子から受け渡されたはずのイアナの剣は、なかった。嫌な予感が脳裏を駆けめぐる。その瞬間、まったく覚えがないはずの男の姿を、思いだしたような気がした。人を人と思っていないような、冷酷な男……が、いたような気がする。

「マシャ。俺の剣を知らないか?」

 案の定、マシャは首を振った。

「それも“あの方”か」

 クリフは苦虫をかみつぶした。

“あの方”とやらは記憶だけでなく、自分に重要な様々なものを奪っていったらしい。そして、オルセイが消えた記憶だけを残したらしい。

 胸が痛い。

 いっそ、この記憶も消してくれれば良かったのにと思った瞬間クリフは、違うなと感じた。忘れてはならない。忘れて、何もなかったことにしてコマーラ家に帰っても、そこにオルセイはいないのだから。

「あ、止まった。休憩かな?」

 ずっと変わりなく揺れ続けていた馬車が、ガクンと止まった。大きく体を揺らされ、また痛みが走った。

「ちょうどいいや、紹介しとくよ。あたしは、いつもここにいるわけじゃないんだ」

 マシャは足を崩して幌の入り口を開け、背中を向けて座っている男に声をかけた。長い黒髪が揺れ、彫りの深い顔が驚いた表情をクリフに見せた。手綱を御者席のふちに作りつけてある木の棒に引っかけて、彼は神妙な顔になって入ってきた。

 クリフは起きあがろうとして、顔をしかめた。

 起きたばかりの時より体が重い。

「駄目です。そのままで」

 黒髪の男は、つたないながらもロマラール国の言葉でそう言った。明らかに異国の男だし、ソラムレア国にいたカーティンよりもその言葉はひどかったが、ここでもロマラール語が聞けるのかと思ったクリフは、ちょっと目を丸くした。

「ネロウェン人もロマラール語が話せるんだな」

「違うよ。あたしが教えたんだ」

 マシャは得意げに顎を上げた。黒髪の男がクリフの側に片膝をつき、頭を垂れた。

「初めまして、サキュエディオ・イヌマンナと申します」

「サ、サキュ……オ?」

 聞き慣れない異国の言葉が、耳に馴染まない。男はクリフを見て、口の端を上げた。

「サキエドと呼び……ええと」

「呼んで下さい」

「呼んで下さい」

 言語教師のマシャが横やりを入れ、“イアナの英雄”の前で恥を掻いたサキエドはムッとした。が、マシャに対してかなり親しげであることが分かるので、クリフは安堵した。

「サキエド。俺はクリフォード・ノーマ。クリフと呼んでくれ」

「分かりました」

 サキエドは一礼した。

「敬語は使わなくて良いよ」

「それは無理です」

 サキエドが首を振り、マシャを指した。

「こいつが敬語だけを私に教えます」

「こいつって」

「マシャが私をこいつと呼びます」

「こいつ!」

「あ、本当だ」

 思わず笑いそうになり、その痛みにクリフは腹筋を押さえた。

「寝て下さい。私はこれで」

 気を利かせて、サキエドが早々に退散する。それに続いて「じゃあ」とマシャも腰を浮かせた。

「今あたし、ディナティ王の小姓やってんだ。仕事があるから」

「“ピニッツ”は?」

「いないよ」

 マシャは苦笑した。

「あの戦いのずっと前にあたし、“ピニッツ”を出てたんだ。あそこでルイサに会ったのは偶然……っていうか必然っていうか、まぁ、その辺のことは追々話すよ」

「あ」

 クリフは手を上げようとしたが、それすら重くて叶わなかった。聞きたいことは沢山ある。だが今はもう、これが限界らしい。

 最後にかろうじてマシャの背に声をかけ、マシャがふり返った。

「ラウリーに……。元気になったら会うから、ラウリーに、それまで死のうなんて思うなって言ってくれ。死んだりしたら、きっとオルセイは怒る……」

 声を絞りだしたクリフに、それを聞いたマシャは何とも言えない悲しげな笑みを作った。

「本当に似てるねぇ」

「?」

「オルセイと旅してた時にね。あたしが死ぬって吐きすてた時に、オルセイに言われたことがあるんだ。『ナザリが悲しむ』って。本当に言うこと似てるよ、あんたたち」

「……」

 返答に困り、クリフは天井を仰いだ。

「言っとくよ。また来るね」

 そうして幌が閉じられて一人になったクリフは、力のこもっていた体をほぐして、クッションに沈みこんだ。体をずらすと少し落ちついた。低く長いため息を吐く。

 色々なことが、色々と変わってしまった。

 オルセイにさえ会えば、東にさえ行けばすべてが解決して家に帰れるなどと思っていた自分が、間抜けで滑稽でならなかった。今まで何があってもそれだけを頼りに、それだけを信じてここまで来たというのに。この先、何をどうすれば良いというのか。

 クリフの脳裏はまだ混乱の中で、再び眠りについてみても、あまり心地よくなかった。

 マラナの月は始まったばかりである。

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