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8-7(結末)~エピローグ

 死んだ……?

 クリフは肩を落として膝をついた。

 そんな彼の心からは、すでに老婆の顔が消えつつあった。

 誰かが見えたような気がする。

 何かがあったような気がする。

 自分の気のせいだったのだろうか──。

 そしてクリフの記憶に残ったのは、オルセイが死んだという、そのことのみ。

 オルセイが消えたという、そのことのみ。

 自分が刺したという、そのことのみが残った。

 クリフの脳裏に、かつて思った言葉がふと浮かんだ。ソラムレア国での戦いが終わった時に思ったものだ。

『想像したのよりも意外に、期待したより簡単に……』

 そして、望んだことは叶わずに。

 クリフは血の地面に手をつき、その手を自分の頬に当てた。暖かい。つい先ほどまで、オルセイの中にあった血。むせかえる臭いに、どこか友の香りが漂う。

 クリフは唇を噛みしめた。固く目を閉じる。血の手で自分の両肩を抱くと、彼はひれ伏すそうに、血の地面に額をこすりつけた。

 ラウリーはそれを見ながら──いや、目に映ってはいても頭まで入ってこない光景を眺めながら、立ちつくすしかできなかった。言葉が何も出てこない。するべきことが思いつかない。自分のすべきことがすべて、消えてしまったのだから。

 何一つ、できなかったのだから。

 ラウリーの正面、少し離れたところに倒れていたリンが、体を引きずるようにして歩いてきた。他人に治癒を施し、ダナを封じる力を使った小さな彼女の体力も、もはや限界に達していた。ラウリーは彼女を見て、やっと言葉を取り戻した。

「リン。……クリフ」

 ラウリーは、うずくまるクリフの横に座った。ひざまずき、血の海に手を沈める。あまりにも現実味のない暖かい液体が、ぬるりと手にまとわりつく。

 クリフは血を流しながら、歯を食いしばって泣いた。声に出さず、押さえつけて嗚咽していた。足元の血をかき集めるように、腕を濡らして手を浸し、抱きしめて、握りしめた。自分の血と混ざったオルセイの血に口づけるようにして、丸く、小さく、彼はうずくまった。あまりに残酷な形見だった。

 リンがクリフの前に膝をついた。彼女もそれに手を触れた。赤くぬらぬらとした液体が、彼女の指先を染める。彼女はそれをじっと見つめてから、クリフに手をかざした。

「いらない」

 クリフが気配を察し、うつむいたまま、かすれる声で呟いた。クリフの怪我を治そうとしたリンは、手を下ろした。止まらない血が皆の足元を染めていく。

 ラウリーの横にエノアも立ったが、彼は黙ってこの光景を眺めるだけだった。フードに隠れた瞳が何を見ているのか、それは誰からも見えないし誰にも分からない。

 ラウリーは立ちあがり、両手で胸を押さえた。

 一度は自分の中に感じたはずのダナ神の心が、悲しくて、痛くて、冷たくて。それが消えて、空虚になった。ラウリーはふり向き、エノアを見あげた。

「ダナは、浄化されたのでしょうか?」

 エノアは黙ってラウリーの肩に手を置いた。血の気が引いた白い手にもかかわらず、とても優しい熱を感じた。

 胸を押さえたままラウリーは、天を見あげた。眩しいほどの日の光が、高原に降りそそいでいた。光は、毎日変わりなく均等に照らしてくれる。どんな毎日であっても、変わりなく。いつか来るべき『死』の日まで。

『いいや、無さ』

 ふと思い出す、誰かの言葉。

 あれは誰?

 だが時間がたつにつれて、ラウリーからもその声は消えてしまった。

 その時、周囲の気配に気づき、ラウリーは自分の周りに視線を戻した。

 すべての人が、かしずいていたのだ。

 皮の鎧や胸当てなどを着けた兵士らしき人物が全員、ラウリーたちにひざまずいて頭を垂れていた。この惨劇の元凶が消えた瞬間を、皆が見ていたのだ。丘の中腹に立つラウリーらを仰ぐようにして固まった彼らは、まるでラウリーが女神であるかのように神妙な面持ちで片膝をつき、祈りを捧げていた。

「──」

 ラウリーの一番前に屈みこんだ黒髪の少年が、何かを言った。だがネロウェン国の言葉をさほど知り得ていないラウリーには、彼が何と言ったのかが分からなかった。彼は顔を上げてロマラール語で、

「救う者よ」

 と言いなおした。

 凛々しい少年はラウリーと目が合った時、悲痛な顔をした。呆然と立つ紫髪の娘が、両頬を静かに濡らしていたからだ。彼女は自分が泣いていることに気づいていないのか、頬を触ることもしなかった。ラウリーは少年に体を向けた。白い服を血に染めて泣くラウリーの姿は、痛々しかった。

「私は、救えませんでした」

 その言葉を理解する少年王は一歩進んで彼女の足元にかしずき直し、その血塗られた手を取って、甲に唇を当てた。それから、その隣りに立つ黒マントの男に深く頭を下げた。

「あなたたちは救いました。私たちを」

 その少年王の横に初老の男、右大将シハムと、隊長サキエドに支えられて、先ほどマシャと呼ばれていた娘が歩いてきた。青い顔をしながらもしっかりと顔を上げている彼女に、ラウリーは驚いて手を差しのべた。

「駄目よ、寝てなきゃ」

 マシャはシハムらの手を離れ、ラウリーの腕にしがみついた。

「ラウリー、でしょ? 妹の」

 鮮やかな紫の髪に触れ、マシャは背伸びをしてラウリーを抱きしめた。誰の妹なのかは、聞かなくても分かる。ラウリーはその時になって自分の嗚咽に気づき、声を上げてマシャに手を回した。力強く抱きしめる。解放された泣き声が、荒野に響きわたった。さするように、マシャが優しくラウリーの背を叩く。

「いっぱい、いっぱい喋ろう」

 マシャはそう言うと、今度は丸くなってうずくまるクリフを抱きしめた。

 何も言わずに体を離すと、マシャはその向こうにしゃがみ込んでいるリンの手を握りしめて、ありがとうと言った。マシャの膝にも、オルセイの血が染みこんだ。

 クリフの腕に、グール“オルセイ”が鼻をこすりつけていた。


          ◇


 ロマラール国より参戦したエヴェン侯爵の一派は戦後処理のさなかに、マシャの目覚めも待たずに消えた。

 オルセイに“ダナの石”を与えた女は、何も憶えていなかった。

 ある日、突然ジェナルム国王ダナザ2世が乱心したが、その後、自分も自失したのだという。

 だが自分がダナザ王の后である以上、王が不在である今、すべての責任が自分にあると彼女は言い、ネロウェン国王ディナティにひざまずいたのだった。その後、彼女は『王の不在』よりも更に悲しい現実を直視することになる。それは皆が薄々分かっていたことだったが、今は顔をそむけたかった。他にも見なければならないものが、沢山ありすぎて。

 カンと晴れた空の下に、むっとするほどの臭気が漂っている。

 多くの血を吸った大地は、生涯、弔い続けられることだろう。人々は鎮魂歌を贈り続け、生涯、忘れないことだろう。

 願わくばいつかこの大地に、花が咲きますように。

 すべての人間が、大地に祈った。

 気の遠くなるほどの弔いが続いた。

 天の光が、少し西に傾いていた。

 長い一日だった。

 多くの者が死んだ。

 傷ついた者を看病する者がいる。

 命のない体を抱いて、嗚咽する者がいる。

 自失して座りこむ者。

 後悔に嘆く者。

 土を握りしめる者。

 地平線を見つめる者。

 天を仰ぐ者。

 立ちあがる者。

 歩きだす者。

 誰かが言った。

「帰ろう」




     ◇


 ――エピローグ


 少年は剣士を目指した。

 少女は魔法使いに憧れた。


 青年は剣の哀しみを知った。

 娘は魔法の苦しみを知った。


 神の力宿る時代に息づく人々は、

 懸命に生きていた──



 ~第一部「ダナ降臨」完~

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