8-6(決着)
ダナは、すべてを無にしたかった。
それが己の存在のすべてだった。
それが自分の生まれた理由。
そうしてダナはふと気づく。
死のために生まれた自分もまた、『生』であるということを。
『生』が『死』のために在るのではなく、『死』が『生』のために在るのだ。
「うわああぁぁ!」
ラウリーの目を見つめていたオルセイは、もがき苦しみ、剣を振った。呪縛から逃れようとした。
それに合わせてラウリーまでもが同じように叫び、苦悶の表情を浮かべた。両手を強く握りしめ、体を折って苦痛に耐えている。既に半分、“移動”しているのだ。
何度も繰り返してきた同じ疑問と同じ答が、人を、神を呪縛する。人はそこから抜けられないし、また、悟ることもできない。だから生まれ、また死に、繰り返す。かつて「人」であった「神」が持つ「意志」と共に。
エノアの声が高くなり、ラウリーもまた呪文を続けた。汗が滲んだ。
『死』は無ではない。
『死』が在るのだ。
「いいや、無さ」
その時、誰かの声が聞こえた。
その場にいる誰の声でもなかった。
闇から這いでて来たかのような、しわがれた、耳にまとわりつく嫌らしい声。
すぐ近くで聞こえたような、それでいて遠く空の彼方から響いてきたかのような余韻が、魔道士のオーラにまとわりつく。
その声に合わせて、周囲をまとっていた霧の壁がパンと弾けるように霧散した。霧散した空気の圧力に弾かれて、エノアとリンが吹き飛ばされた。中に立つラウリーは驚き、立ち尽くす。
周囲のネロウェン兵から、驚愕の声が上がった。
そして同時に、オルセイが奇声を発した。苦悩なのか歓喜なのか怒りなのか──そのすべてが混ざった声なのかも知れない。響きわたる奇怪な叫声に、一瞬、戦場が沈黙した。
その中でラウリーは……叫んでいなかった。
「え?」
先ほどまで自分の中に感じていたはずのダナが、急に消えたのだ。
ラウリーはオルセイの奇声に顔をはね上げ、兄を凝視した。
ところがラウリーの正面に立っていたのは兄ではなく、見たこともない黒く小さな人間だった。全身をすっぽりと黒いマントで覆っている。エノアでないのは、大きさだけでなくその者の持つ雰囲気で見分けがついた。エノアにはない、澱んだ魔性の『気』がその者を包んでいた。
しわがれた声はこの者の声だと一瞬で悟れた。老いた女性のもの。
「ラハウ!」
クリフが叫んでいた。
フードの下に笑みを浮かべ、老婆は飛んでいた。中空を滑るように走り、ラウリーに掴みかかろうと右腕を伸ばしていた。醜悪な顔がラウリーに迫る。一瞬、老婆の向こうにダナの影が見えた気がしたが、すぐにかき消されて分からなくなった。
ラウリーは先ほどまで自分の中にいたはずのダナが急に消えて呆然としてしまい、老婆を避けることすらできなかった。硬直し、足が一歩も動かない。
ぼんやりと、失敗を悟った。
成功の上での死なら、喜んで受けいれたものを。
ラウリーは見たこともなかった敵が迫る視界を、涙で歪ませた。
だが失敗の上であっても、死はやはり死だ。ラウリーは自分の役割が終わったんだなと思った。死に対して、突進してくる老婆に対して、ふいに身震いがした。
「何を分かっているというんだい、小娘が」
黒く小さな彼女から、白く大きな光が見えた気がした。老婆の言葉には実体がなく、果たして本当に耳に聞こえたものなのかどうかも分からなかった。目の前のすべてが、老婆の『気』に覆われて暗転した。感じるのは老婆、ラハウの視線だけだった。身の毛がよだち、体が凍りつく……。それがラハウのすべてであり、人間の歩んだ生をいろどるものであるとラウリーに知らせた。
すべてが、終わる。
ラウリーはぎゅっと目を閉じて、組んだ手を堅く握りしめた。腹筋に力が入った。
自分の体に、老婆の手がかかる瞬間。
「!!」
「ラウリー!」
クリフが止めた。
ラウリーの前に立ちはだかったクリフは、剣を突き出していた。渾身の力を込めている右手は、真っ白になっていた。憎悪が心を埋めていた。
「待て!」
そこにエノアの声が重なったが、クリフは止まらなかった。
老婆に対して、赤い閃光が貫かれた。ラウリーの視界が遮られた。真っ白になり、何もかもが消滅して音もない世界になった──ように感じられた。
が、すぐにまたクリフの背中が見え……クリフの向こうには、兄が見えた。
「……え?」
黒い影が、どこにもいない。
代わりに自分の目前に広がる光景は──これは、何?
背を向けるクリフの脇腹に、オルセイの剣が入っている。
突きたてたクリフの剣に、オルセイが飛びこんでいた。
オルセイの背中に、胸を突きぬけたイアナの剣が、赤く光っている。
相打ちだった。
オルセイの目は、きょとんとしていた。
クリフの目は、オルセイを凝視していた。
ラウリーは、わななく口に手を当てて目を見開いていた。
世界が止まったかのような静寂だった。
──昔。
クリフがグール狩人と認められ、同じくすでに一足早く、オルセイはグール狩人になっていた頃。
クリフはいつでも、ずっとオルセイの背を見て走っており、いつかオルセイに追いつきたい、オルセイを追いこしたいという気持ちを持っていた。
そんなある日、
「もし……」
と、オルセイが言ったことがある。
狩りの合間に休憩していた時。2人はよく山を見ながら話をしていたので、この時の言葉もそんな会話の一端だとクリフは思い、笑って聞きながしたものだった。
「もし俺とお前が剣を合わせたら、どっちが強いんだろうな」
などと。
だが、その時にオルセイが見せた表情には固いものがあった。見なかったことにしてクリフは「俺が勝つ」と笑った。オルセイもすぐに、そうかもなと言って笑った。
「でも、本気になったら分からんな」
つけ加えたのは、クリフだった。
「お前が俺に、本気になれるか?」
「お互いにな」
草むらに腰を下ろすオルセイは、ごろんと仰向けになり空を見あげて呟いた。
「……いつか、ちょっと、やってみたいかな」
その時クリフは返答に困って、肩を竦めて話題を変えたのだった。
今になって思えば、オルセイもまたクリフに対して届かないと思っていたのかも知れない。──今になって思ってみても、もう何の役にも立たないことだったが……。
オルセイをつらぬいた、イアナの剣。
クリフに刺さった、ダナの剣。
オルセイの目がクリフを捕らえ、その口が動いた。
何かを言ったように見えたが、そこから言葉は聞こえず、何と言ったのかも見えなかった。そこに表情は──感情は、見出せなかった。
オルセイは一歩後じさり、自分の胸に見えている白い刃を不思議そうに眺めて、そして、引き抜いた。クリフが混乱する頭の中で絶叫したが、それは言葉にならなかった。体のどこも動かせなかった。
体に穴の空いたオルセイが、大量の血を流しだす。流す。いや違う。噴きだしていた。彼の足元がみるみる赤くなり、彼は自分が抜いたイアナの剣をガランと落として、それをぼんやりと見ていた。
見ているオルセイの目に生気がなくなり、倒れかけたその時。
彼が、消えた。
わずかに周りを緑の霧が包んだが、はじけ飛んだ。はじけたと同時に、オルセイが消えた。
立ちつくす2人の前で。
溶けるように。
煙のように。
音もなく。
だがその跡には、おびただしい血の海が残った。これが全部オルセイの体から出たものかと目を疑うほどの血の中に、クリフの血も混じっていく。
クリフを突いたオルセイの剣が、重みで体から抜け落ちた。そこに落ちているイアナの剣とオルセイの剣がぶつかり、鈍い音を響かせた。嫌な余韻が耳に残った。