8-4(原因)
「死ぬな! マシャ!!」
赤毛の戦士が叫ぶ。
驚いた。
ダナ神という突拍子もない話を聞いてから、ある程度は何かがあると予想していたものの、実際の目前には、彼の思いつく想像のすべてを超えた世界が広がっていた。ゆっくり見回している暇はない。戦いながら、状況を判断するしかないのだ。
オルセイでないオルセイと、剣を交えながら。
──森と山に囲まれた、自然豊かな緑の地。
今はまだ草の息吹を土の下に隠しているこの丘も、春になれば小鳥がさえずり小川が通るだろう。東に見える白い山々がその化粧を解き、雪解け水を流してくるに違いない。草の上に寝転がれば、すぐそこに美しい景色が楽しめて、丘から見おろす地平線近くにはのどかな村が見えていて、風や森、水や動物の色々なさざめきが聞こえる。広い青と広い緑が人々を包みこみ、幸せにしてくれる。そんな素敵な憩いの地になることだろう。
血さえ、吸っていなければ。
──朝一番、ソラムレア国の国境付近からこの場所へ一気に“転移”したクリフらを待ちうけていたのは、この戦場だった。ダナの石に向かって“飛んだ”4人は、もろにオルセイの上に出た。クリフの前にラウリーらが現れた時と同じだ。
「きゃあ?!」
「うわっ」
まだ慣れないラウリーとクリフが、また悲鳴を上げる。
オルセイはエノアの『力』を感知し得ていなかったらしい。顔に張りついていた笑みが消え、オルセイは、彼らが落下してくる直前に飛びのいた。
降り立ちながらエノアは、最も起こって欲しくなかった状況に目を細めた。
「ダナ!」
皆が体勢を整えている間にすでに、エノアはオルセイに向かってナイフを投げていた。もちろん、そんな攻撃が効くとは思っていないが、ラウリーらを襲わせないための足止めにはなる。
これが最後の戦いだ。
エノアの顔色をラウリーがもし見ていたなら、悲鳴を上げていただろう。それほどにエノアの顔は蒼白になっていた。だが瞳は爛々と輝き、強い光を発していた。このために体を整えた。魔力だけが、体を食いつぶさんばかりに充実していた。魔力を放出して体が使い物にならなくても構わなかった。
案の定、ナイフはオルセイが振ったマントの風で呆気なく落ちた。だが周囲にいた能面の狂人たちの動きが鈍った。エノアはすかさず魔法攻撃に入った。
その時、クリフがマシャを見つけたのだ。
「まさか」
どうしてマシャがいるのだ、と思った。だがそこにうつむいて倒れる茶髪の少女は、間違いなくクリフの見知った姿だ。その側に黒いグールまで転がっている。しかもその向こうには、長い金髪をなびかせて戦う美女の姿まで見えるではないか。大男もいる。ほんのわずかな間だけ一緒だった、遠い過去に思える懐かしく憎い仲間。
「クリフ?!」
気づいたルイサが、手を止めてしまった。途端、褐色の男がルイサに剣をくり出す。ギムが横からルイサを守ったが、足が一歩、足らなかった。
「きゃあっ」
ルイサの右腕に赤い線が走り、細身の剣がカランと虚しい音を立てて落ちた。しかし2刀目は出させない。それは、ギムが止めた。
褐色の男サキエドの剣が跳ねてルイサとサキエドの間に、若干の距離ができた。そこにクリフが飛びこみ──彼は、渾身の力で男を殴った。クリフは剣を抜きもせずに飛びこんだのだ。
殴られた男がひるんでいる隙に剣を抜いて斬ろうとしたクリフだったが、男はそのまま気絶していた。奥歯の一本や2本は折れただろうほど、男の頬が、たった一発で腫れた。
クリフは、全身に力がみなぎっているのを感じた。マシャの姿を見て湧きあがってきた、“怒り”という力が。
「クリフ、生きてたのね?!」
右腕を斬られたルイサをかばって、ギムがジェナルム人を蹴散らす。
「ルイサ、ナザリはどこだ」
クリフは言いながら、マシャに駆けよった。うつ伏せに丸くなって固まっている彼女の背が、真っ赤になっている。
「死ぬな! マシャ!!」
仰向けにして抱きあげると、手にべっとりと血がまとわりついた。温度のある液体を感じると同時にクリフの心に『なぜ』がわき出て、硬直してしまった。それをルイサたちが囲んで守る。
ラウリーも、クリフを守って矢をつがえていた。エノアたちとは遠くない。ただ、すぐに人が押しよせてきて戦いを余儀なくされ、身動きが取れなくなったのだ。
ラウリーの弓矢は、ソラムレア国の村で調達しておいたものだ。威嚇のために、襲ってきた女の肩をかすめさせた。しかし現実を見ていない女の目は白く虚ろで、矢になどひるみもしない。
「この!」
鉈を振りかぶった女の右手を殴りつけ、弓で顔を引っぱたいた。それでも女はひるまない。
「何、この人たち……」
ラウリーはぞっとした。
が、ゆっくり考えている暇はない。後ろに気配を感じ、慌てて横に飛んだ。スカートの裾が狭いせいで、上手く動けなかった。クリフの言った通りだ、この服では動けない。ラウリーは苦笑した。実戦つきだと思っていなかったのだ、仕方がない。
すかさずラウリーは両手で裾を握って、思いきり縦に引き裂いた。スカートが割れて、中からズボンが覗いた。これで少しは楽に動ける。
体を起こして立て膝をついたラウリーは、自分の後ろにいる者にふり向いて、思わず弓を引いてしまった。だが相手は人間だ、それに気づいてラウリーの顔がこわばる。しかし、それよりも何よりもラウリーはその者を見て固まった。
子供だったのだ。
「嫌あぁっ!」
ラウリーは思わず恐怖と混乱で、矢を落とした。能面の少年がまっすぐラウリーに向かってくる。ラウリーは後じさって滅茶苦茶に弓を振りまわした。
「来ないで! 来ないでえっ!」
「ラウリーさん!」
子供の足を、少女が止めた。飛びこんでいって足を払い、後ろに回りこんで手刀を入れたのだ。少年は、糸の切れた人形のようにガクリと落ちた。落ちる少年の背から現われたリンは、すっと立っている。
リンがラウリーの頬をはたいた。
「ダナに呑まれます」
その一言でラウリーは我に返り、顎を引いて頷いた。色のない連中の顔が並ぶ中で、初めてリンの目が生きている者と実感できた。強い目と強い意志。それに感化されるようにして、ラウリーも気を強くした。ラウリーは今さらながら、自分がリンに惹かれたわけが分かった気がした。
すぐ近くて、
「ナザリはいないわ」
クリフの問いに、ルイサが首を振っていた。
「他に魔法を使える者は?」
問われ、再び首を振る。その間にもルイサとクリフを守って、“ピニッツ”や騎馬隊、ネロウェン兵の面々がめいめいに戦っている。クリフは迷わず、マシャを地に寝かせた。
「待ってろよ。死ぬなよ」
クリフは上着を脱いでマシャの腹に巻きつけると、剣を握って立ちあがった。
「クリフ?」
ルイサが制したが、クリフはそれを無視した。
そんなクリフがラウリーの側を通ってダナに向かって歩いていったが、ラウリーは、それを見送るしかできなかった。死にかけている少女や金髪の女性などが誰なのか、おそらくは旅の途中で知り合ったのだろうが、それがなぜこうなっているのかが気になる。が、ラウリーは何も言えないし、何も聞けなかった。それほどに今のクリフには触れられなかった。
「ダナだか何だか知らねぇが……!」
そう呟いてから、クリフは黒いマントがはためくその場所へと突進していった。
仰向けに寝かされたマシャの下に、地面を染める鮮やかな赤い色が広がっていく。マシャは目も口も半開きで、虚ろな顔だった。何も見ていない目のふちに、涙が一粒光っていた。
「オルセイ!!」
クリフは、オルセイとエノアが魔力対決で力比べをしている、そこへ割って入った。2人が風を巻きおこす中に突っこみ、オルセイに斬りかかった。
剣の気配に、オルセイが右手を上げる。均衡の破れた魔力に負けたエノアの全身に、強い風が叩きつけられた。エノアが倒れて地面を滑った。それと同時にクリフとオルセイの剣が、ガキン! と激しい音を立てていた。オルセイは、少し驚いた表情を出した。
「貴様」
小さく呟いたのは、オルセイだ。彼の声で、彼の口から発せられたにも関わらず、それは別人だと分かる声音をしていた。少なくとも、クリフの知るオルセイではない。
「俺が戦う! エノア、あんた、あの子を助けてやってくれ!」
クリフが剣でオルセイを抑え込んだまま、後ろにいるエノアに言った。しかし身を起こしたエノアは口元の血を拭いながら、言い放った。
「できない」
「できる! 魔法でそういうこと、できるんだろ! 俺は治してもらったん……うわ?!」
わめいたクリフに、オルセイが飛びこんでくる。周囲に巻きおこる風がクリフの動きを鈍らせ、オルセイの剣がクリフの目前をかすめた。
「ダナ」
エノアが立ち、手をかざす。ぶわりとマントが風にあおられたが、エノアは気にせず呪文を綴った。オルセイの動きが一瞬鈍り、クリフの剣がそこに入る。
オルセイが吼えた。エノアの魔力をはね返す風が威力を増し、エノアの膝を折れさせる。クリフが立ちはだかり、それをさえぎる。
「リン、お願い!」
ラウリーは叫んでいた。それを聞いてしまい、その戦いを見てしまい、胸が締めつけられた。クリフが治してもらったという相手が誰かは知らないが、リンには同等以上の力があるはずだ。
『私は、そのために来たのではありません』
リンならそう言うかなと思った。リンがそういうことをしてくれない娘だろうことは知っている。けれど自分にはその力がない。リンにしか頼める者がいないのだ。
実際リンは、そう言いそうだった。だがラウリーは押しきった。向かってくる者の一人を弓で引っぱたきながら、ラウリーは言った。引っぱたいた瞬間、弓が折れた。
「私に手を掴まれた時点で、あなたにはその役割が与えられたのよ!」
我ながら無茶苦茶な理論だ。
だが真実でもあった。
ラウリーは、ダナ浄化の役目を欲してリンの手を引いたわけじゃない。色々なものを……本当に色々なものを、彼女に感じて欲しいと思ったからだ。確かにダナ神の浄化は大事だし、リンの力も必要とする。いくら今はクーナ神の鏡とイアナ神の剣を手に入れてあるとはいえ、河一つ越えるだけであのように疲れてしまう“力”を、ましてや神などという大それた者に向かって使おうとしている時なのだ、許されるはずがない。
けれど、大事のために小事を見殺しにするという考え方を、リンにはして欲しくなかった。いや、ラウリーがどうしてもできないのだ。
「無駄な生き物だこと」
ラウリーの前に誰かが立ちはだかり、ラウリーを見くだして、そう言った。あざけりを含んだ高慢な女性の声は、ラウリーの耳に嫌らしくまとわりついた。
ラウリーがぎっと前を睨みつけると、女は、ラウリーよりももっと、最も戦争に不釣り合いな格好をしていた。豪華なドレスと、華美な髪。そして、そのどれもが薄汚れ、女が正気でないと分かる材料だった。だがこの女だけだ、敵で、言葉を発したのは。
ラウリーは用心深く構えた。
女の濃い真紅のドレスと、ラウリーの白い長衣が大きく風になびいた。戦場に花が咲いたかのような対峙だった。
「ダナ神の降臨によりこの世界が清められる。新たな歴史が始まるのよ」
女はそう言いながら、細身の長剣をすうっと自分の前にかざして見せた。女の目が細くなる。ラウリーは折れた弓を捨てて、腰に装着していた短剣を握った。これでどこまで防ぎきれるかと思ったが、女の能力の低さに期待するしかない。
「リン、早く!」
口ではそう叫ぶものの、目をそらす余裕は持てなかった。
期待はむなしかったのだ。
「?!」
速い。
貴族のような格好をした、色気があるだけの中年女性ではなかった。それでも歯を食いしばって受け止め、ラウリーは力で押し返した。
「違うわ!」
ぐっと踏み込んで女性に体当たりをする。
「清められたがっているのはダナ神よ! 人が彼を汚したのよ!」
ラウリーは叫びながら、体勢を崩した女性に斬りかかった。短剣が、長剣に止められた。金属音が鳴り響く。
「教えてよ。誰が兄さんをあんなにしたのよ」
ラウリーの目にも怒りが溢れていた。
「誰がダナ神を降臨させたのよ!!」
「誰でもない」
女は歌うように言い、ふいに微笑んだ。
「時代が彼を呼んだのよ。もう、そうするべきだって」
「馬鹿を言わないで!」
ラウリーは女性を押しきって、短剣を横になぎ払った。だが充分な長さを持たない刃は、あえなく空振りしただけだった。女性がトンと地を蹴り、そんなラウリーに飛びかかった。
「あ?!」
女性は片手でラウリーの首を掴み、右手の長剣をそこに突き立てようとした。笑みが浮かんでいた。
「私はあの方から命を受けた者。お前ごとき雑魚とは、わけが違うのよ」
あの方?!
そう思った時には、女性の剣が喉元に迫っていた。
「ラウリーさん!」
だがそこにリンが飛びこみ、剣を蹴飛ばした。そして女性の顎を蹴り上げる。女性がふいの攻撃にのけぞった。
「ありがと」
ラウリーもリンも、女性が起きあがってくることを予期して構えた。
しかし。
女性は、そのまま起きあがらなかった。
「……え?」
その瞬間、周囲でも戦いが止んでいた。女性が倒れたのが最後の一人だったのだ。だがその向こうでまだ戦っている人間が2人いるのを、ラウリーは見た。見知ったその2人が戦うさまは、今までに見たどんな手合わせよりも熾烈を極めており、真剣で、鬼気迫っていた。
オルセイが飛びのき、踏み込んで、上段から剣を落とす。それをクリフが、体をひねって避ける。避けながら一回転して、彼はその遠心力でもって剣をまっすぐ横に構える。だがオルセイは、下げた剣を引き上げて腕に添わせ、盾の役目にしてそれを受けた。持っている剣は両手持ちの剣なので、盾などは持っていない。
ラウリーには分かった。兄の剣が、本気で相手を殺そうとしている剣だと。それをエノアが『力』で覆い、ダナ神の魔力を半減させている。
オルセイがクリフに集中しなければならなくなり、心を盗ったジェナルム国民を操るだけの魔力を割くことができなくなり、それで戦争が止まったのだ。
長くその支配下にあったジェナルム人の多くは、呆然と立ちつくしていた。動きが止まっただけで、意志は戻っていないようである。
そして、まだ自失したばかりだったネロウェンの者は我に返り、自分の所業に悲鳴を上げていた。
「トニマン!」
ラウリーらの近くで目覚めた一人の男が剣を投げだし、ボロ屑のような男にしがみついた。男は屈強な体つきをしていたが、今にも泣きそうな顔をしてうろたえていた。
「死ぬな! 誰か! 誰か」
男の顔が上がり、ぐるっと回ってラウリーらに止まった。立ちつくす2人の少女をと、寝かされている一人の少女。男の目に、背が高い方の娘が着る白いローブは、ひときわ目についた。スカートが裂けて風に広がっている姿がまるでドレスのようで、戦場に不似合いだ。もっとも、ここにいる殆どの者は戦場にいるべきでない姿だったが。
そして、その寝かされている少女は……。
「マシャ?!」
彼はその少女を知っていた。少女は誰かのマントの上に大切に横たえられており、側には大男が立って彼女を守っていた。マントが赤く染まっていて、少女の顔は白くなっていた。
軽装に皮当てを着けて、敵陣のど真ん中に突っこんでいった無謀な娘。サキエドは変わり果てた自分の部下をその場にそっと寝かせて、マシャに駆けよった。だが大柄な男が彼をせき止め、マシャに近づかせなかった。
「放せ! マシャが」
「貴様が斬ったんだ!」
大男の怒号が響く。サキエドは言われたことの意味が分からずに「え?」と顔をこわばらせた。
その時マシャの側に倒れていた黒いグールが、コロンと起きた。そして急にサキエドに向かって吼えだした。どうやら気絶していただけだったらしい。
サキエドはその咆吼によって、自分の記憶に残る一つの映像を見つけてしまった。今、目の前にいるこの少女が倒れる時の映像だ。マシャは背中を斬られて血を噴きだした。その絵は、自分の視点だった。
誰が斬ったのか。……自分の手だ。
自分が投げだしてきた剣を見る。トニマンの側に転がっている、血のついた剣。
マシャの、血?
「うわああああ! マシャ! トニマン! マシャ!!」
サキエドは錯乱し、大男を突きとばしてマシャにしがみついた。それを見ていたラウリーが、慌てて彼を少女から引きはがした。サキエドは狂ったようにマシャの肩を揺り動かした。意識のない白い顔がガクガクと揺れた。
「落ちついて! 本当に死んでしまうわ」
マシャを抱きしめたラウリーの胸が、赤く染まった。膝をついたスカートとズボンにも、マシャの血が染みていく。サキエドは大男に取りおさえられ膝をつき、はがいじめにされた。その時、周囲の男たちに指示を与えていた金髪の女性がマシャに駆けより、ラウリーを見た。
「あなたは……」
金の女性が口を開きかけた時に、横から別の者がマシャに手を伸ばした。赤い腹の上に、ラウリーでもサキエドのものでもない小さな手が、そっと乗った。
「ラウリーさん、行って下さい。私は後から」
リンは小さく言うと、低い声で呪文を唱えはじめた。ラウリーの目には、彼女が霧を発して、それでマシャを包む様子が見えた。
ラウリーはリンを強く抱きしめたくなったが、今は呪文の邪魔になる。こくりと頷いて少女をそっと寝かせると、ラウリーは立ちあがった。
「あなたがラウリーなのね」
金髪の女性が目を細めた。
「君たちは一体……?」
大男ギムに押さえられたサキエドが、呆然とラウリーを見あげた。サキエドが戦闘中にはどこにも見あたらなかった鮮やかな紫の髪が、風に踊った。
ラウリーは金の女性に視線を送ってから、サキエドを見おろした。
「神を救いに」
そして同じくどこにもいなかったはずの黒いマントの男に向かって走った。その向こうではオルセイが、赤毛の男と戦っている。サキエドは動きを止めて、それらを呆然と眺めた。
胸を赤く染めた白いローブの姿は、髪の色が似ていることもあって、サキエドの脳裏に女神マラナを──はるか昔に神話で愛する2人の男、イアナとダナを救って死んだ慈愛の女神を彷彿とさせたのだった。




