8-2(来訪)
「王、大変です!」
国王の寝所であるテントの入り口を開けひろげて、兵が一人、転がりこんできた。文字通り彼は転げて砂で体中を汚し、顔にあざを作った。起きあがろうにも足に力が入らないらしく、彼は四つん這いになって王にひれ伏した。
彼は緊張して硬直し、ガタガタと震えていた。顔にはべったりと、砂と脂汗が貼りついている。
「何ごとだっ」
ばっとベッドからはね起きたディナティは、軽装ながらも、すぐに出られる格好をしている。マシャも同じだった。ただ、ターバンを巻いたまま寝ているわけがないので、赤茶の髪が寝癖で跳ねたままである。
マシャは、髪を束ねながらテントを出ようとするディナティの背後に回り、さっと胸当てを広げた。ディナティが素早くそれに腕を通して装着し、続いてマシャから差しだされた上着を受けとった。マシャも自分に胸当てを着けながら、ディナティに続いた。
兵は腰を抜かしたまま、自分のかたわらを大股で通過する王を追って、這いつくばって外に出た。
「敵が……敵襲がっ」
北を指さす。
テントの外はもう、見張り兵が出した警備によって、てんやわんやになっていた。本来なら、王のテントに入って良いのはシハムエラ右大将だけだ。だがそのシハムが王への通達を先行できないほどに、事態が切迫していた。
まだ明け方で、太陽も出ていない。
しかも王都には遠い。
ディナティは一体、何が襲ってきたのだと思い、状況を把握できなかった。
その直後、マシャが呟いた一言により息を呑んだ。
「オルセイだ」
さすがにグール“オルセイ”のことでないのは分かった。
ディナティはまさかと言いたかったが、声が出なかった。マシャの表情が、まだディナティが見たことがないはずのオルセイを彷彿とさせるほど、恐怖にこわばっていた。
表情のない連中と、薄笑いを浮かべたオルセイ。
もしそれが本当だとすれば、彼らはジェナルム王都から一晩中、一睡もせずに歩いてきたことになる。おそらくは一秒も休まず……。シハムですらゴーナを疾走させて朝から晩までかかった道のりなのだ、普通に歩く人間が、普通に一晩で来れるはずがない。
けれど彼らは来た。
狂人たちが。
マシャが上着もはおらずに、弾かれたように走った。
「あっ。おい、マシャ?!」
ディナティが驚いて呼びとめたが、マシャは聞こえていないフリをした。
ネロウェン軍は、風を避けて小高い丘の下にテントを張っていた。丘は陣営の北にある。その丘の上に、ネロウェン兵が次々に登っていって、そこで戦闘態勢を整えている。こちらからは見えない丘の向こうに「敵」が迫っていることを物語っている。
だが600人の馬車村は多少広がって陣を作っていたので、まだ夢の中にいるような兵ら全員に準備をさせて迎え撃つには、時間がかかっていた。
「敵は?!」
「丘の向こうに」
叫んだマシャに、思わず兵の一人が答えていた。
「ジェナルムだ! ジェナルムの平民が……」
なだらかで茶色い土くれの丘から、悲鳴が上がった。マシャは「やはり」と思うことに失望感を味わった。
その間にも止まることのない狂気の軍勢が、そこまで迫っている。準備のできた弓兵が、頂上を陣取りに走る。投石機の用意も急速に行われている。だが石の数が少ない。石を抱えての進軍では遅くなるため、戦闘前の補充を予定していたのだ。まさか、こんな攻められ方をするとは誰も思っていなかった。
普通なら、そうだろう。
だが相手は普通じゃなかった。
兵らに指示を出す者が声を上げている。張りのある通る女性の声に、マシャはそちらを見た。
「報告をっ」
「は、はいっ。北の森よりこちらに迫る、ジェナルム人とおぼしき民間人の大群は、およそ数百かと……」
「いや、千! 2千人いるかも知れないぞ!」
走り寄ってくる別の兵が叫んだ。
「総大将はいるのか? 先頭は?」
「いえ、それが先頭もすべて、ぞろぞろと固まって歩く平民ばかりで……」
言いよどむと、また他の兵がやってきて女性隊長のそばにひざまずく。
「群れの中ほどに、一人だけゴーナに乗りし男がおります。他はすべて徒歩ですので、おそらくはそやつが……」
「ど真ん中か」
部下の言葉を交互に聞いていた彼女は、チッと舌打ちをした。マシャの耳にも、その報告はすべて聞こえた。北の森から彼らがゾロゾロと出てくる様子が想像できた。森と丘の間には、若干の平地が広がっている。ネロウェン軍は丘の上から、それを狙い撃つつもりなのだ。
北の森をさらに北上すると小さな村が点在していて、それからまた森に入り、ようやく王都にたどり着く。それだけの距離を彼らは一晩で、しかも歩いてきたのだというのは……考えたくない。
「弓矢隊、前へ!」
女性隊長が声を張りあげた。兵らがどよどよと走りだす。
髪の短い彼女のシルエットは、下手な男よりがっしりとしている。筋肉を隠すドレスなどを着れば、魅力ある貴婦人に見えるだろう彼女は、しかし、そうした風情を感じさせない、徹底した男性になっている。
「キャナレイっ」
マシャは彼女に駆けよった。
他の誰に頼むよりも、彼女が一番確かだとマシャは推し量った。その推量は当たった。
「どれ?」
キャナレイ自らが、そばにあった武器庫の馬車に首を突っこみ、選んでくれた。これが他の男だったら、小僧は引っこんでろなどと言われて相手にされなかったかも知れない。もしかするとキャナレイは、自分が女であることすら本当は見破っているのかも知れない……とも思った。
同じ女だと知っていたら、なおさら「あなたは女だから止めなさい」なんてことを、キャナレイなら、言わない。
マシャは叫んだ。
「槍!」
「使えるの?!」
さすがにキャナレイも仰天している。
「分からない。でも、使う!」
敵の懐に入る術も知らない小柄な自分が使う武器は、おそらく槍しかない。無鉄砲な自分ではあるが、考えなしではないつもりだ。そう思いながらマシャは、キャナレイが差しだしてくれた長い槍を受けとった。木造の槍はマシャには重く、少しよろけたが「ありがとうっ」と叫びながら走ってごまかした。
「借りるよ!」
「あっ」
マシャは立ちつくす兵の一人を押しのけて、そこの馬車につないであったゴーナを拝借した。武装されていつでも出られる状態だったゴーナは、急に飛びのられても驚かなかった。腹を蹴られて、一気に走りだす。
「マシャ!」
そこへディナティが走ってきた。国王であり、これだけ大変な局面だというのに、マシャの名を呼んでいる。マシャはくっと目を細めたが、無視してゴーナを即した。
だが、その目前に突然、何かが飛んできた。マシャが大慌てで胸にかき抱くと、それは子グールだった。
「“オルセイ”」
かつての赤毛のグールを思い出させる、見事な跳躍だった。マシャは、グールでも自分の兄弟が死んだことが分かるのだろうなと思った。いつも一時も離れずに一緒にいたのだから。
『マシャと“クリフ”がいなかった時の、“オルセイ”の荒れようは凄かったぞ』
昨夜、ディナティが寂しそうに笑って言ったセリフだった。
マシャはグール“オルセイ”を股の前に座らせた。
「行こう」
グールの黒毛を撫でてやりたかったが、片手に槍を持ち、もう片方に手綱を握っているので、触れない。だが主人の気持ちは理解したのだろう、グール“オルセイ”は短くシッと叫んだ。マシャは口を引き結んで恐怖を振りきり、丘を睨んだ。
ずっと守られてきた。
“ピニッツ”でナザリに。ネロウェンでオルセイに。その後はディナティに。
恩に報いたいと思ったこともあって志願したのに、偵察隊ではシハムに守られた。
守られる者でなく、守る者になりたいのに。
その時、丘の上がどよめいた。
一気に騒がしくなったその叫びは、喚起や闘争の叫びというよりは、むしろ悲鳴というか、いや、何かおぞましいものを見てしまった、驚きの声だった。
敵が、連中が射程距離に入ったのだ。
「王!」
兵の誰かに呼びとめられたディナティは、マシャに追いつけなかった。
「行くな馬鹿者!」
「馬鹿はそっちだ!」
減らず口を叩きながら、マシャは方向を変えて東に走った。丘にひしめきあう隊列を避けて、麓を回りこむことにしたのだ。こちら側の方が少し高台だが、東の太陽を背にオルセイに近づくことができたら、少しは討ち取る可能性が高いかも知れない。正面からぶつかっても、平民の壁に遮られるだけだ。
オルセイ以外の人間はすべて殺してはいけない者たちだ。いや正確には、殺せない者たちだ。武器を持って牙をむいてくるが、それでも平民なのだ。
昨日あれからマシャは、本来の敵は大将のオルセイただ一人だと思う、と皆に述べた。何とかジェナルム人を殺さずにオルセイだけを捕らえる方法はないだろうか、と提案した。しかしそれは不可能だという結論に収まり、あまつさえ、魔法はどうしたと嘲られた。あげく、平民であろうとも武器を持って刃向かってくるのなら、その時点で敵だという意見が出て、そのまま終結してしまった。
だから自分で行くしかない。
敵は足を止めていないだろうから、もうほとんどの者が枯れ野に姿を見せているのではないかとマシャは推測する。もし、このまま見つからずに彼らの横を通りすぎて北の森に潜むことができたら、後方からの攻撃でオルセイを討ち取れるかも知れない……と、マシャは考えた。
連中の、まず手近で大きな敵へと向かう習性は、もう学習済みである。普通なら考えられないような戦術だが、連中になら、もしかしたら通用するかも知れないという勘が働いた。
ぐんぐんとネロウェン軍から遠ざかる。誰かがマシャを見咎めて何か叫んだようだったが、それも無視して丘の下を走った。荒れたゆるい曲線の向こうから、人の形をした物体の群れが見えてくる。その群れは、丘を覆うかのように進んでいた。その先頭の方、丘に登りかかった辺りでは、もう衝突したらしい。ネロウェン軍が先に、丘を駆けおりて攻めたのだ。ネロウェン軍の覇気のある声が聞こえてきた。
丘を抜けたマシャは、目を疑った。
人。人。人──。
森の端から荒野全体をまでも覆いつくすような人の波が、そこにはあった。密集した人の群れは、もう何千人いるのだか分からない。怒濤の大波だった。ネロウェン軍の600という数字に見慣れていたつもりだったのに、ひとかたまりになって押しよせてくる人間の塊は膨大で堅固で、たまらなく恐ろしい怪物に見えた。
見た瞬間に体全体から力が抜けていくような、強烈な絶望が胸に湧いた。王都の人間だけではない。オルセイは、あの悪魔は、ここに来るまでに通ったすべての集落から人間を引きずり出してきたのだ。
その群れの中には、ネロウェン兵らしき人物もいた。マシャと同じ格好をして、感情を亡くして歩いていた。思わず立ち止まったマシャの体が、がくがくと震えた。背中に異常なまでの悪寒が走った。マシャとその群れの間には距離があり、藪なども挟んでいるので、連中の顔が判別できるか否かの近さではあるが、まだ気づかれてはいない。
マシャは再びゴーナを進めた。だがその目へ、さらに信じられない者がよぎった。
群れの半ば辺りの一番東側、つまりマシャのいる側を南に向かって歩いている、その人物。
いや似ているだけだ、とマシャは思った。思おうとした。だが似ているだけにしては、あまりにおぞましい姿と言えた。よくよく見ると彼らは、無理な進軍のために足を故障している者が多かった。疲れを知らないようなので一定の速度で歩いてはいるのだが、それに対して体がついて行かないのだ。足を折ったのかくじいたのか、脱落している者も少なくないようだった。そうして倒れた者の上を、後ろの者が気にもしないで踏みつけて、歩いていく。
──無茶苦茶だ。
マシャは嗚咽を堪えて、彼らの遠く後方へと走った。
空が白んだ。山脈から覗いた光が草原に長い影を落とし、同時に草木を光らせた。死んでいる植物が、ほんの少しだけ生きているかのように輝いた。死んでいるかのような人の横顔にも、明るい光が差しこんだ。
「トニマン!」
マシャの近くで、思いもよらない声がした。
ぎょっとしてふり向くと、ネロウェン軍内で陣営を指揮していなければならないはずの人間、サキエド隊長がそこにいた。ゴーナに乗り、マシャのすぐ斜め後ろをマシャと平行して走っていたのだ。
マシャの心に、どうしてこの男がここにという疑問とは別に、やっぱりあれはトニマンだったのかという苦汁の感情が広がった。肯定して欲しくなかった。若いその兵は自分の目前で、血を流して死んだのだから。
いや違うな、とマシャは考えを改めた。完全に息絶えた瞬間までを見届けたわけではない。だから、あれは、やっぱり──。
「サキエド隊長、どうしてここに?!」
マシャが、横に並んでゴーナを駆る男に声をかけた。叫びながら大きく旋回して、一群に近づいていく。その先には群れに守られて歩く総大将の姿がある。
サキエドは、
「戦術だ」
とだけ答えたと思ったら、すぐに前方を見て叫んだ。
「あそこだっ」
そして雄叫びを上げ、加速度を上げて黒い群れの中に突進した。それに続いてマシャの後ろで、さらに複数人の声が上がった。
「えっ?」
驚くマシャを、サキエドが追い越していく。そのサキエドに続いて、数十人のゴーナに乗ったネロウェン兵が、マシャを追い越していった。何が起こったのか分からなかった。だがサキエドがちらりとマシャにふり返り、
「遅れるな」
と笑ったように見えたので、心ならずともマシャの胸は高揚した。後ろから来る兵も、すれ違いざまマシャに声をかけた。
「騎馬隊が奴らを囲む!」
「向こうからも隊が包囲している」
兵らの言葉に、マシャは目を見開いた。こんな状況であるのに、顔がほころんだ。ジェナルム軍が密集してひとかたまりになったいたために採られた作戦なのだろうが、結果としてサキエドらはマシャの意見した通りに動いてくれている。それが嬉しかった。
サキエドらが突入する先、わらわらとうごめく群れの中に、守られるようにして立つ大将の姿があった。見たこともない妖艶な美女を背中に貼りつけて、ゴーナに乗って悠然と歩いている、よく見知った知らない男。
連中は感情をなくしているようでも、耳は聞こえているのか、サキエドの声に反応していた。立ち止まり、こちらに対して構えている者が見える。サキエドの後ろに続いて走っている自分の存在も、ここでばれてしまった。
──お願い!
マシャは祈りながら、狂人の中に突っこんだ。
「うあああ!」
叫びながら。いや実際、彼らに対して威嚇など何の意味もないことは分かっている。半ば以上、自分のためだ。尻込みをしないため。密集して大将を守ることだけは知っているらしい、そんな人壁を避けることなどできない。
サキエドも、マシャの少し前を走りながら、群がる人々を懸命に蹴散らそうとしていた。正規のジェナルム軍兵はほとんどおらず、本当に女子供、老人までが混ざっていることに驚愕した。話には聞いていたが、自分の目で見るのでは衝撃が違う。
あり得ない。
普通の戦ではない。
混乱しかかったサキエドは急に、ギリと強く唇を噛んだ。口の端から、細く一筋の血が流れた。サキエドはその痛みを感じながら、これは夢ではないと自分に言い聞かせた。自分について走ってきてくれる30人の部下にも、声を張りあげる。
「心を強く持て!」
普通の戦ではないのだ。
マシャの言った通りだったということだ。
彼は、昨夜にマシャが言った「大将を叩けばすべてが止まる」という言葉を覚えてはいたものの、本気にはしていなかった。この戦術が採られたので走ってきたら、そこにマシャがいただけだ。本当は見つけた時点で、マシャを帰らせるつもりだった。兵の一人にでも命令して、無理矢理戻す気だった。
ところがこの群れを見たら、そんな場合ではなくなった、というわけだ。
群れの中にいる、信じられない男。
その男がサキエドの行く手に混ざっていたために、サキエドの動きが鈍った。その男を見てしまったサキエドの部下も、思わず足踏みをしてしまった。
「トニマン」
ほんの一秒の躊躇が、命取りになる。
それをサキエドは知っていたはずなのに。
「うわっ?!」
サキエドは、ゴーナから落ちた。
「あ!」
マシャが声を上げて止まりかけたが、サキエドは行けと叫んでマシャのゴーナに剣を振って威嚇した。止まってはいけない。サキエドのゴーナを誰かが刺したのだ。止まってしまった別の兵にも、落ちている者がいた。皆、正当防衛だと分かっていても傷つけることに勇気を持てず、躊躇していた。自分たちと同じく武装した成人男子であったなら、これほどこういう気分にはならなかっただろう。
「走れぇっ」
マシャは黙って頷き、槍を握りなおした。槍を持つ手はおぼつかなかったが、頷いた時の目が強くて、サキエドに印象を残した。ふと、オルセイの術にかかり意識をなくしたというトニマンと、そうならなかったマシャとの違いが何だったのか、サキエドは分かった気がした。
すぐに立ちあがった彼は飛びのき、敵の攻撃を避けた。そう簡単には斬られない。相手は確かに化け物の集団ではあるが、剣はずぶの素人なのだ。こちらは、伊達に隊長を務めていない。本当にただの平民、ただの農民。兵の姿もあったが、不幸中の幸いとでも言うべきか、そのほとんどは不在のようだ。ジェナルム国北の国境での、対ソラムレア国のためにネロウェン軍と共同戦線を張りに行っているから。
と、そう思ってから、サキエドの背に冷たいものが流れた。
嫌な連想が走った。
このようなジェナルム国民。
このような事態。
連絡の取れなくなったネロウェン軍。
ソラムレア国と衝突したのだろうか、と思っていた。
だが──。
サキエドは首を振り、その連想を一瞬で止めた。
「隊長っ」
「うわぁ」
何人かの部下はすでに落馬し、白兵戦へともつれ込んでいる。怖じ気づくなと叫んでから、サキエドも再び唇を噛んで、正面を見すえた。
「ふんっ!」
目前に迫った男を威嚇する。だがそんなことで、相手はひるまない。むしろ、そんなものは見なかったとでもいうような調子で、構わず襲いかかってくる。殺してくれと言っているようなものだ。
サキエドは男の懐に飛びこむと、腹を殴った。男は気絶してくれた。それでも、当然のように悲鳴もうめきも上がらない。
何千人いるのだろう大量のジェナルム人に、声はない。
黙々と走る平民の群れが、疲れを知らずに押しよせてくる。先頭で衝突している方も同じだろう、ちらりと見あげた丘の上ではもう、ネロウェン軍がジェナルム人に押しきられており、自国軍は、気絶させるか息の根を止めるまで退かない化け物に恐怖の叫びを上げていた。
しかも自国軍は、仲間割れを始めていた。
「しっかりしろ!」
「正気に戻れ!」
そんな声が飛びかった。
かつてのトニマンと同じ、突然意識がなくなり味方に襲いかかる現象が、あちこちで勃発したのだ。
──あいつのせいで!
「おのれ!」
サキエドはゴーナに乗っている黒髪の男女に向かって走った。途中に立ちはだかる女が鎌を振りあげる。手首を叩いて武器を落とさせたが、女の足は止まらない。その間に別の男が迫ってくる。
「ちっ」
限界だった。
サキエドは剣を振り、男の二の腕と女の両膝を切り落とした。男が武器と共に腕を落とし、女は歩けなくなってその場に崩れた。それでも痛みを訴えない2人が不気味だった。
何百人もの人間を、一人も傷つけずに突破するなど無理だ。彼らは死なない限り、進軍を止めない。こちらが逃げても投降しても、そんなことはお構いなしである。だから命まで奪わずに彼らの足を止めたいと思うなら、気絶させるか、戦闘不能状態にするしかない。辛い戦いだった。あまりにもネロウェン兵への負担が大きい。体力的にも、精神的にも。
早く元凶を止めなければならない。
そしてサキエドは、彼が元凶であって欲しい、と思った。祈るような思いで、馬上のオルセイを睨む。
そうでなくば、オルセイを倒しても彼らが止まらなかったら、どうして良いのか分からない。
そしてその時サキエドの前に、彼と同じ皮の胸当てをつけた兵が立ちはだかった。とうとう来たのだ。
「トニマン……」
サキエドはうめき、剣を構えた。
彼は頭から、腹から、背から、血を流して真っ青な顔をしていた。その目に表情はない。冷たい能面の顔はサキエドが知っている彼の顔じゃない。サキエドは見た瞬間、泣きたい気持ちになった。
トニマンはもう死んでいる、死んだと言って良い姿をしていた。右腕が折れまがり、左手で長剣を握っている。トニマンの利き腕は左手ではない。昼夜休みなく歩き続けた彼の靴がすり減って、つま先がむき出しになっている。その先からも血が流れている。
どうしてそんなになってまで、まだ生きているのか。
頼むから、誰か彼を休ませてやってくれ、と思った。
お久しぶりとも何も言わない、無機質な再会。
トニマンが、問答無用で斬りかかってきた。サキエドは歯を食いしばって剣を振り、それを受けて横に払った。
「悲しいな」
サキエドは言った。
「お前の剣は、こんなじゃない」
ただの操り人形になり、体も傷だらけでよく動けないせいなのだろう、それはトニマンの姿をした物体でしかなかった。しかし生きているのだ。まだ、死んでいないのだ。
顔を歪めたサキエドの心に、隙ができた。