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8章・天上の光-1(前夜)

 新しい月を迎えたクラーヴァ国王城は、寒気に身を潜めるようにひっそりと佇んでいた。

 すかんと晴れた空から降り注がれる太陽の光は、その畑の作物たちをじっくりと育てているところだった。まだ芽を出していない作物は土に包まれて、春の息吹に備えて力を蓄えている。その蓄えた力を横取りするかのように、芽吹く直前にまで育った彼らを土からずっぽりと引きずり出し、寒風の中にその身をさらしてやるのだから、人間というのは残酷な生き物だ。

「ふっ」

 青年が腕に力をこめて、土の中から丸々と太った根を抜きとった。黄金色に輝いて見える、実のような形をした根。これが冬の間の、生きる糧になる。

「しかし珍しいな」

 声をかけられて青年が身を起こし、その方向を見た。赤茶色の髪から、汗が落ちて光った。同じ畑の中で同じ格好をして作業をする初老の男も、同じように汗をかいていた。綿のシャツとズボン。首に巻いたタオルと、革の手袋。彼はその者を「この国の王ですよ」と言っても信用してもらえなさそうだと思った。それと同時に、自分のことも王子ですよと言っても分からないに違いないと思い、笑いをかみ殺した。

「何がおかしい? イアナザール?」

 父王が体を起こし、腰をトントンと叩いた。いいえ、とイアナザールと呼ばれた彼は微笑んだ。父王がそんな息子を見て言った。

「わしが畑にいるのを、お前は嫌がっていたというのに」

「嫌じゃない気分の時も、たまにはあります」

 イアナザールはそう言いながら、父王ライニックの側に置いてある篭の中へ、収穫したそれを入れた。ライニックは息子のいきいきとした、それでいて穏やかな横顔を見て、嬉しそうな顔をした。

「やっとお前も、畑の意義を分かってくれるようになったか」

「意義が分からなかったわけではありません。王みずから、国務の時間を割いてまで見せる手本ではないと思っていたまでです」

 ライニックは、まだ二十代半ばの自分の息子に冷静なツッコミを入れられ、言葉に詰まった。

 だが国王は、この無心で土を触っている時間が好きだった。彼にとっては安らぎであり、落ちついて物事を考えられる時間でもあった。だから、城にいる時には毎日朝夕に一時間ずつ手入れをするこの儀式を、止めるつもりはなかった。

 そう、儀式だ。

 手本などという気持ちではなかった。ライニックは、神に祈りを捧げるかのように、土に祈るのだ。どうかこの行為が土を汚すものでなく、この上に人が生きるため受けいれてもらえるものであるようにと願うのだ。

 その祈りを、イアナザールも知っている。

 知っているから、今日は何となく一緒に祈りたくなったのだ。

「昔のお前は、そんな土くれよりも支えになるものが自分にはある、と言って反発したものだがな」

「イアナの剣ですか」

 イアナザールは苦笑した。

 ふん、と力を入れ、ライニックが根を引き抜いた。淡い光の中に豊かな土が跳びはね、丸い命がキラキラと輝いた。

「私はイアナ神に傾倒していましたし、剣とも心が通っていた。向上し、戦い、常に前進することが人間なのだという信念を持っていました」

「いや、それは間違いではなかろう。時は流れている。止まっているかに見える太陽も、常に動いている」

 ライニックは根の土を払いながら、太陽を見あげた。

「剣のなくなったことが、私には良いきっかけだったのでしょう」

 イアナザールも空を見あげた。汗を掻いた肌に、ひんやりとした風が心地よかった。城内に作った畑の中で、良い大人2人が土にまみれながら会話しているというのもおかしな話だったが、悪くない気分だった。

「何、神の媒体というヤツは、ひとりでさまようものだと聞いている。海底に放置されたり、砂の中に埋もれていたりするものだ。必要とする者が必要とした時、必要ならば現れる。今のお前に必要がないというのは、とても平和でありがたいことだよ」

「博学ですね。初めて聞きました」

「おや、そうか?」

 ライニックが首をひねった。

「おかしいのう。魔法師ジェマに教わったのであったか?」

「さあ」

 イアナザールも首をすくめ、足元の蔓に手を伸ばした。いつの間にか消え去ってしまった剣の行方は、今となっては分からない。あれを必要とする事態がいつか来るのだろうかと思ったが、今のこの穏和さを感じるだに、そんな日は訪れて欲しくないものだと願ってしまう。

「最近めっきり、憶えが悪くなったのう」

 ライニックはまだ呟いている。

 篭に根を丁寧に入れながら、ライニックはイアナザールを見た。

「他にもな、この城のどこかに地下室への道があったと思ったのだが、思いだせんのだ」

 イアナザールは思わず手を止め、酔狂なことを言う父王に今度こそ吹きだしてしまった。

「父上、ボケるには早いですよ。この城に地下なんて、ないではありませんか。土を汚してはいけない、が、先代からの教えでしょう」

 確かに地下室というのは城の造りが弱くなるし、陰気で土を汚す行為と言える。ライニックは、最近こやつは何かと鋭いななどと思い、うなった。

「言われてみればそうだな……だが確かに……いや、うーん?」

 だがイアナザールもそう言いながらも、悩む父王の姿を見ていたら「はて?」という気が湧いてきた。

 いや、この城内ではない気がするが。イアナザールはそう思いながら記憶の中でその景色を追ったが、薄ボンヤリとしていて途切れていて、どこの地下だったのか、はっきり思い出せなかった。

 地獄のように暗くて、冷ややかな場所。

 ぼんやりとした炎が一つ、ポツンと浮かんでいた。

 そこに立つ、暗黒より暗い人影。

 あれは誰だったか。

 自分が何歳の頃の記憶なのか、それすらあやふやだ。

「どうした?」

「いいえ」

 イアナザールは微笑んで、ケッサ・ギュステを見あげた。剣の城。その名の通り、この建物は、剣が空を向いているように鋭い塔が並んでおり、剣の柄のように下の屋敷がどっしりと建っている。

 雲一つない空を仰いでいる城は、清々しく笑っているかの風情である。

 だがイアナザールの心は、何か大切なことを忘れている気がして、空ほどには完全に晴れなかった。


          ◇


 同じ空は、ロマラール国の上でもなお青々としていた。

 久しぶりに晴れたと言って喜ぶ夫の顔が子供のようで、彼女はつい顔をほころばせてしまった。山が近いので、この村にはよく雪が降る。身動きが取れないほど積もる時は少なかったが、クーナの月に入ってからは、一層寒さが厳しい。

 いつか遭難しかけたことを思いだして、男が遠くを見つめた。

「あれは、いつのことだったかな」

 彼は呟きながら、床板の上に今日の収穫を下ろした。冬眠中の動物が多い山で、捕れるものは知れている。それでも食べるために、生活のために得なければならない。肉塊と化した小さなペーネが、木の床にゴトンと置かれた。空気の冷たさと死後硬直のせいで、それはもう堅かった。半日以上ずっと歩きまわって罠も全部調べたが、獲物はこれ一頭だった。

 思わず彼は、息子たちがいればもっと良い狩りができるのに……と言いそうになり、ぐっと飲みこんだ。彼の髪にも、3日剃っていない無精髭にも白髪がちらほらと混じっている。彼は背が高い方で体つきもガッシリしていたが、それでも寄る年波は、彼から少しずつ色々な力を奪っているようだった。

 手袋を脱ぐ父親に暖かい茶を手渡しながら、母親が尋ねた。

「いつのことって、何がですか?」

「クリフと一緒に遭難しかけた時さ。あれは、オルセイが風邪をひいて、医者を呼びに行ったか何かじゃなかったかな。ひどい雪だった」

「そうですねぇ」

 母親も頬に手を当てて記憶をたぐった。そして嬉しそうに微笑んで、同意する。

「今ではもう、すっかり元気になって立派になって……旅立ってしまいましたね」

 彼女は窓の外に目を移した。今日は、その木窓を開けはなしていても大丈夫なほど暖かい日だったのだが、さすがに日が陰ってきて少し冷えた。彼女は窓を閉め、天井に吊してあるランプを下ろして火をつけた。暗くなった家の中に、柔らかな光が満たされた。

 2人の胸中に、昨日のことのように息子ら3人の顔が浮かんだ。

 クリフ。オルセイに、ラウリー。一斉に旅立ってしまった、大事な子供たち。

「あいつらは、いつ戻ると言ったかな」

 父親は自分の手を見つめ、怪訝そうに呟いた。嫌だわと笑おうとして、母親もふと考える。

「そういえば……いつとは聞いていませんね」

「どこ、とも聞いていないような……」

 2人は立ったまま顔を見あわせ、閉じられた入り口を眺めた。丸太を組みあわせた木の扉は何も語らず、2人に何も思い出させなかった。

 家畜のゴーナは、減っていない。一度、2頭いなくなった時があったように思ったが、ちゃんと帰ってきている。気のせいだったのだろう、と思う。

「私、あの子にこれを持たせてあげれば良かったわ」

 母親がテーブルに着きながら、美しい水色をした石を2つ、帯の間から取りだした。なくさないように、肌身離さず持っているものだ。もしもの時には金に換えるためのものだから。一つはすでに換金してしまったが、母親はこれをぎりぎりまで使わないと決めていた。

 できれば3人が戻るまで、使いたくなかった。戻った彼らの新しい出発の資金にしたかった。母親は息子たちがどんな道を歩んでいるのか知らなかったが、何となく、何かが変わっているだろう予感を感じていた。

 それは、常に身につけているラウリーのペンダントから感じる予感なのかも知れない。

 母親は首にかけたペンダントを手に取り、指先でその形をなぞった。平らな、七角形をしたペンダント。母親には魔力などなかったが、ラウリーが「自分の心をここに込めたんだ」と言ったそれを身につけていると、心なしか胸にラウリーのことを感じられる気がした。

「ラウリーのペンダントか」

 父親も席に着き、彼女からそのペンダントを受けとった。

 彼は少し悲しい顔をして、それを眺めた。狩人を止めて魔道士になるなどという妄想を言いだした娘を、彼は手を上げそうなほど叱ったものだった。父親は、ラウリーが狩人になることも魔法を学ぶことも反対した。ただ普通に料理を作り、家を守り、丈夫な子供を産み、愛する男と共に暮らす、そんな人生を娘に望んだ。

 彼は今でも、それこそが一番の幸せなのだと信じている。間違ってはいない。

 けれど。

 父親は一つだけ、後悔していた。

 ラウリーがラウリーの視点で見ていたものを、自分も同じ視点で見るべきだった。自分も若い頃、父親や母親に反発したことがあったのだから。

 旅から戻ったラウリーとまだ話ができたなら、その時は少し魔法のことでも聞いてみようか──。

 父親はペンダントにほんわりと暖かさを感じる気がしながら、そんなことを思ったのだった。

 黙ってうつむく夫に声をかけず、母親は立ちあがって夕食の支度にとりかかった。暖炉では小さな火が、2人には大きすぎる鉄鍋に熱を通し続けている。

「無事だと良いが」

「あら嫌だ、お父さん。あの子たちのことですもの、元気ですよ」

 母親が小さく笑いながら、皿を出す。

 父親がそうだなと頷きながら、彼女にペンダントを返す。

 何もない平和な一日が、暮れようとしていた。


          ◇


 そしてさらに同じ空の下、ジェナルム国にはどんよりと雲がかかっており、星が一つも光っていなかった。

 今にも雨の降りそうな、薄明るく薄暗いおかしな天気である。夜露をともなった湿った空気は冷え冷えとしていて、体の芯まで凍えさせる。濡れた木や草に指先が触れると、痺れるように冷たく、感覚がなくなる。それまで、ずっと「暖かい」というイメージだったジェナルムが、急に彼らにそっぽを向いたような寒さだった。

 加えて、そこにいる全員の心の芯まで凍らせたのは、帰ってきた偵察隊2人の報告だった。眠っていたところを収集された彼らだったが、2人の話を聞いた後には、全員から眠気が吹っ飛んでいたのだった。

「そんな……」

「馬鹿な」

「信じられない」

 そんな声が、その場から次々に上がった。会議用のテントには現在、総勢9名が座している。6人の隊長兵士と偵察隊の2人、そしてディナティ王だった。いや、正確には9人と一頭か。黒くて丸い動物は、主人をねぎらうかのように、マシャの膝元でコロンと丸くなっている。その下に敷いてある、テント内に広げてある絨毯が、グールには気持ちいいのだろう。時々、絨毯の短い毛を、脇にこすりつけている。

 本当は彼の一番気に入っている場所はマシャがあぐらを掻いた膝の上なのだが、今は邪魔をしてはいけないと分かるのか、グール“オルセイ”にしては大人しくしていた。マシャは、そんなグールの背中に右手を乗せたままだった。よく見るとその手は、小さくだがずっと震えていた。

「そりゃあ信じられないだろうよ」

 マシャはわざと荒く言った。

「実際に見た僕だって信じられないんだ。シハム様だって」

 マシャは皆の手前、自分のことを僕と呼び、シハムに対して様付けした。が、言い慣れてないためもあって、その言葉は浮いてしまった。しかし誰も今は、シハムですら、そんなことに気づかない。

 シハムが輪の向かいで、真剣な顔をして同意する。ディナティとシハムが一番奥に座り、マシャは下座で、入り口に背を向けている。心なしかマシャは背中が寒くて、身震いした。

 シハムが後を継いだ。

「王宮までは行けませんでした。城のバルコニーに王妃様がいたように見えましたが、それ以外はダナザ王も大臣方も不明です。ですが私たちに襲いかかってくる連中の中に、以前お見かけした公爵様を見たような気がしましたので、おそらくは……」

 最初は事務的だったシハムの口調が段々と苦々しいものになり、目線も伏せられた。

「老若男女、すべての者が」

 向かってきた女。

 剣を振る男。

 鍬を握る老人。

 何人かの、斬ってしまった者がいる。

 一瞬シハムは吐き気を憶えたが、ぐっと堪えた。

 明らかな宣戦布告であり、こちらは正当防衛だった。しかし罪悪感が押しよせてくる。何とかできなかったのか、と自問する。何ともできなかった、と弁解する。

「何とかできなかったのですか?」

 心ない誰かが、シハムに意見した。思わずそちらの方向を睨んだのは、マシャだった。

 上座のディナティよりのところであぐらを掻いている男が、険しい目でシハムを見ていた。

 30は越えていそうに見えるが、まだ若く、血気盛んな顔をしている。紺色じみた黒髪は、長旅で汚れて艶をなくしてはいる。ディナティもそうだが、そういう風潮なのだろう、この男も伸ばして一つに束ねている。彫りの深い顔の中に収まっている、くるんとした目がネロウェン人らしい。

 確かサキエドという名だったか? とマシャは思った。

 物事を単純に考えられる脳味噌らしいな、という言葉が喉まで出かかった。それぐらい、マシャはこの男を軽蔑した。無責任な発言だ。

 とはいえ、彼には彼の感情もある。死んだ兵士トニマンは、彼の隊の者だったのだ。

 この6人の隊長はそれぞれ100人ずつをまとめている。その100人もまた幾つかの小さいグループに分かれている、その小隊長を務める兵士の一人がトニマンだった。

 本来ならこの男サキエドが、トニマンと共にこの任務に着くはずだったのだ。

「有望な男でした。そんな、こんなところで死んで良い人間じゃなかった」

 サキエド隊長の愚痴を、マシャが聞き咎めた。

「死んで良い人間なんて、一人もいないよ!」

 だがそれは逆に、サキエドに火をつけてしまったようだった。サキエドはあぐらをほどき、マシャに向かって立ちあがりかけて、皆から止められた。

 彼は「お前のせいだ!」と叫んだ。

「お前みたいな奴がしゃしゃり出てきたから、シハム様を巻きこんだから、シハム様を助けるためにトニマンが死んだのだ! 近い階級の兵士で同じ動きができていたら、俺なら、一緒に帰ってきたんだよっ」

 吐きすてるサキエドの声が、マシャの頭にガンガンと鳴った。思わずめまいがした。しかし堪えた。マシャ左手で額を押さえ、隊長たるその男を睨んだ。

 確かにサキエドの言うことは、一理ある。だが、それは通常の話だ。マシャは、我を忘れて自分に襲いかかってきたトニマンの様子を忘れることができなかった。

 マシャは意を決して、サキエドにそれを言った。シハム右大将だから助かったのだ、と。

「トニマンが、どうして一瞬にしろそうなったのか、分からない。どうして僕がそうならなかったのかも、分からない。シハム様もね。あんたが相棒だったら共倒れになってたかも知れないなんて言ったら、気を悪くするだろうけどね」

 睨みながらマシャは、ふんと言った。

「俺は雑魚だと言いたいか?」

 サキエドがクッと笑い、再度立ちあがりかけた。皆も色めき立ち、また場を沈めにかかる。メンバーの中で唯一の女性である隊長キャナレイが、マシャに換言した。

「止めな、マシャ! あんたの気持ちは分かるけど、サキエドだって辛いんだ」

 マシャは「何が分かると?」と思ったが、それは言わなかった。焦げ茶の髪を男のように短く刈りこんだ、このたくましい女性には、少し、頭が上がらないのだ。

 それをディナティが発言して、さらに抑えた。

「以前にジェナルム王都に送った使者のみならず、先日オルセイを追わせた別働隊もまだ戻らぬ。彼らの身にも何かが起きたと思うのが普通だと思うが、どうだろう? 使者には子爵もおられた。そうなると階級は理由にならん」

 片方だけ膝を立てて座る少年王は、その膝の上に両手を重ね、そこに顎を乗せている。テント内に吊されたランプの灯りが、ディナティの横顔を照らした。憂いを帯び、落ちこんでいるように見える顔だったが、その双眸には暗い炎が上がっていた。

 その目を見た8人は、黙った。ほんの少し、グールが喉を鳴らす音が響いた。今日はテントの外も静かだ。兵らすべてが、幹部6人を集結させた一張りのテントに注目しているのだ。

 猛スピードで帰還した右大将と小姓2名の形相を、軍の全員が見た。そのただごとでない様子に、昨日まで軍に漂っていた浮かれた雰囲気は沈下してしまった。

「皆の意見を聞きたい」

 すでに決意している顔で、国王ディナティは全員を見渡した。6人が少年王と同じ顔をしていた。シハムにはまだ、若干の迷いが見られた。

「撤退すべきです!」

 マシャが悲鳴を上げた。冗談じゃない、と思った。

「一旦退き、5千なり一万なりの兵を整えて出直すべきです。これはジェナルム国の不当な先制攻撃です!」

 ただの小姓だと認識されていた少年が唱えた正論に、皆が目を見張った。しかしロマラール人を重視しており、かつ彼女の持つ能力に薄々感づいていたディナティは、さして驚かなかった。意見を呑みこみ、だが、と応えた。

「確かに兵は整えなければならん。だが、退くわけにも行かぬ。一度退いてまた出兵するのは、金も時間もかかる。援軍要請をし、その間くい止めるのが我らの役目だ」

 マシャがぐっと口を引きむすんだ。ディナティ王が正しい。

 マシャは奥歯を、ギリと音がするまで噛みしめた。

 皆、あの王都を見ていないから、そんなことが言えるのだ。

 廃墟と化した、巨大な墓場。色のない空。ぬくもりのかけらもない街。人でない人。

 あのオルセイを見ていないから。

 顔の形こそは同じだったが、まるで別人だった。時々彼が見せた怖い顔が、もっと怖くなった顔だった。

 ほんの一瞬だけ自分を見失ったあの時、マシャは“意志”を感じた。その“意志”に言葉はなかったし、マシャは何の知識も兆しも持っていなかったのに、いきなり自分の中にねじ込んできたそれがダナ神であると感じた。心の深淵がえぐられ、何かがごっそりと奪いとられたような喪失感を味わった。我に返ったマシャは、二度とあのような目に遭いたくないと思ったものである。だがそれと同時に、ほんの少しだけ、わだかまりも感じた。この先、何年も何十年も、あたしたちは矛盾して澱む晴れない心を、底に抱えて生きていかなければならないのだ。

「ねえ、あんたは憶えてるだろ? ディナティ王を助けたオルセイを、ずっと殴ってたあんたならさ。最後にオルセイが凄い顔したのを、見てただろ?」

 隊長の一人、つるりとした頭のいかつい男が、マシャを見て目をそらした。ディナティ王に乱暴を働いたと思われたオルセイが捕らえられた時に、サンドバックよろしく拳をくり出していた男だ。男は苦々しく、ああと頷いた。

「あのオルセイの顔なら、お前の話も頷ける。何かやらかしそうな奴だったんだ」

「ビスチェム」

 女性の声が彼の名を呼び、これを咎めた。キャナレイだ。だが、すでに真っ赤になったマシャは、立ちあがろうとしていた。

「ギャンッ」

 動物の悲鳴が上がる。

「あっ。ご、ごめん」

 立ちあがろうとした瞬間に、グール“オルセイ”に触れていた手に力が入ったのだ。マシャは我に返り、慌てて謝罪の意を込めて背を撫でた。しかしヘソを曲げた“オルセイ”は、トコトコとディナティの元へ行ってしまった。9人が作る円のど真ん中を、丸い獣が悠々と横切る姿は、皆の争う気を削いだ。

 ディナティの膝元に腰を落ちつけた“オルセイ”が、彼の膝に頭をこすりつけている。ディナティは複雑な表情を浮かべつつ、その頭を撫でてやった。

 ゆっくりと優しく、だが、うつむいたディナティは目だけを大男に動かして、ビスチェムと名を呼んだ。その声音に、皆が固まる。失言を咎める声だった。

 大男は、慌ててディナティに体を向けて、髪のない頭を絨毯にこすりつけた。

「お許し下さい! しかし、しかしディナティ王様。見誤ってはなりません。オルセイが突然キャラバンを去ったのも、偵察隊が帰還せぬのも不信といえば不信。それに……」

 ビスチェムはそこでマシャをちらりと見たが、その続きは言わなかった。ディナティの顔がビスチェムに、それ以上の発言を許していなかったためだ。ディナティは彼の言いたいことをくみ取り、

「だからこそ行くのだ」

 と言った。

 グールが、少年から立ちのぼる殺気を読みとり、身を縮めて警戒した。皆も王の決意のほどを改めて目にして、姿勢を正した。それぞれに顔を引き締める。誰かが剣を触ったらしく、ガチャンという音が響いた。シハムだった。

 マシャも悟った。

 止められない。

 どちらを止めたいのかよく分からなかったが、マシャは失望を味わっていた。あのオルセイに会ったら、間違いなくディナティは傷つく。自分よりも傷つくだろう。いや、それだけではない。あの平凡な格好をした狂気の集団は、この600人をすべて滅ぼしかねない力を持っている。と、マシャは考える。

 戦いの時に一番必要なのは、志気だ。

 あの連中には、それがなかった。

 ないということが恐ろしかった。

 同時に弱気も持っていないから、退かないのだ。

 斬りつけられても、目の前で仲間を倒されても何とも思わず顔色一つ変えず、ひたすらに向かってくる人間の群れ。

 だが、とも、マシャは思う。

 避けられないなら、戦うからには、それだけの堅固な意志を持って勝利するべきだ。そしてその意志の力を、この少年王は備えているように思える。ディナティなら大丈夫かも知れない。

「もし──」

 マシャは小さく呟いた。

「もしディナティ王様に、オルセイが救えるなら……」

 口に出してから、マシャは自分の言葉の意味について考えた。この場合の救いとは……。

 みなまで言うなと言いたげに、ディナティがマシャに頷いた。

 ディナティは、テント正面の入り口にまるでオルセイが立っているかのように、まっすぐ見つめた。

「見誤らぬために、見定めねばならぬ」


          ◇


 その夜、2人はひっそりと“クリフ”の墓を作った。

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