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7-7(恐怖)

 その、風景──。

 最初は豊かだと思っていた草木が消えはじめ、気づくと、道の先はひどい荒れ地になっていた。今は冬なので草も木も色をなさないが、よく育った太い幹が沢山つらなる、光のよく当たる森だったものが、ジェナルム国王都に近づくにつれて枯れてきたのである。

 辿りついたその街は、爽やかな朝日の当たる土地であるにも関わらず、死んでいた。

 本来、国の中心部であるひらけた華やかな王都の周囲は、もっとも豊かでなければならない。すべての文化はここで開花し、すべての宝がここにあるはずなのだ。土も木も建物も、全部が国の財産である。

 王都ならば美しい景色が堪能できて、おいしい食事がとれて、綺麗な服を着て賑やかな人通りを歩ける──そういうものなのだ。

 マシャがそんな風に当たり前に思っていたものが、この王都には存在していなかった。

 心までもを切るような寒風が、びゅおっと吹きぬける。

 枯れた森を抜けると枯れた土が旅人を出むかえ、死んだ建物がポツポツと建ちはじめた。練った土と木を使った建物は、昔はさぞ暖かな雰囲気を持っていたのだろうと思われるが、今は不気味にそびえる無機質な物体でしかなかった。

 そんな物体が段々と増えて、大通りの中央にひときわ大きな御殿が見えてきた。低い壁に囲まれているが、正面の門は開いていた。四角く切りだした石を積みあげた平坦な建物は、まるでそれ全体が一つの巨大な墓であるかのように、それを見る者に恐怖を与えた。マシャとシハム右大将と、もう一人の兵士の3人に。

 マシャについてきたグール“クリフ”も何かを感じるのだろう、ぐるぐると喉の奥から、嫌悪感を含んだうなりを吐きだした。マシャは身を震わせてから、ゴーナの上、自分の足の間に丸まるグールを、ひと撫でした。

「シハム様。これは」

 街全体を包む異様な空気に耐えきれなくなった兵士が、口火を切った。誰もいない街。乾いた風は、本当にこれがジェナルムの風かと思うほどに冷たく、硬い。昨夜はテントを張ったので夜の町は知らないが、通りすぎたところにも妙な気配はあった。ので嫌な予感はしていたのだが、それよりもなお、この王都はひどく荒んでいた。

「あ。こら」

 3頭のゴーナが街の入り口で足踏みした。先へ進みたくないらしい。いくらシハムが首を撫でてやっても、兵士が叱咤しても駄目だった。マシャのゴーナも同様だ。

 3人は、早駆けをして本軍より先に王都に訪れた。名目は使者だ。けれど実際は偵察である。城にいるはずのダナザ王に書を届け、国境に駐留しているはずのネロウェン国の動向を尋ねるのが目的である。以前に王の元へ来たはずの自軍の使者がどうなったのかも、あまりケンカ腰にならないように聞きたいところだった。

「置いて行こう」

 シハムが言い、ゴーナから降りた。マシャも同じように降りたが、グール“クリフ”がゴーナの毛にしがみついてしまって動かないので、2人に後れを取ってしまった。もう一人の若い兵士が、ちっと舌打ちした。

「トニマン」

 シハムにいさめられた。

 だが舌打ちしたくなるのも仕方がない、とはマシャ自身が思った。いくらゴーナに慣れていても、グール付きの少年では、物見遊山に来ているのではないのだぞと言いたいことだろう。マシャだって、マシャより手際の悪い者が相棒になったら、同じように舌打ちするだろう。いやマシャの場合、まっ向正面から相手をけたくそに叩くだろうが。

 それでもマシャは、この偵察に参加したかったのだ。

 自分から志願した。

 最初、このトニマンという兵士と彼の上司の2人が使者の予定だったのだが、それがシハムとの3人編成に変えられたのは、マシャが申し出たためだ。マシャはシハムの同行を断ったのだが、一晩越さなければ王都には着かないという理由により、マシャが女性であることを知っているシハムが同行することになったのだった。

 マシャは申し訳ない気持ちになったが、かといって偵察隊を降りる気もなかった。

 少しでも早く行きたいというのが正直な気持ちだった。オルセイの足跡を自分で探りたい。何も考えられないほどに速く駆け、自分の出せる最高の力で前に進めたら、多少だが気が紛れるのではないかと思った。

 旅立つ時にグールらがついて来てくれようとして、マシャは心を癒された。2頭とも連れてくるのはディナティに申し訳ないと思ったので、“オルセイ”を軍に残し、“クリフ”を選んだ。

 道中の“クリフ”は自分の役割が分かるのか、ふり落とされないようにしっかりとゴーナに乗り、時々マシャをねぎらうかのように見てくれていたものだったのだ。その“クリフ”がゴーナを降りることに、ためらいを見せるとは。

「お待たせしました」

 ようやくグール“クリフ”を降ろして、マシャはシハムの背中に追いついた。

「?」

 2人の足が止まっている。

 マシャは街の大通りに目を移し、そして、きょとんとした。

 一瞬「なぁんだ」と安堵した。

 人がいるではないか。

 大通りに少しずつ、街の人間が姿を見せている。商人や農民が皆、普通の格好で普通に歩いている。まだ早朝で人が歩いていなかっただけなのだ。

 そう思って安堵しかけたマシャを、シハムが否定する。

「おかしい」

「シハム様」

 トニマンが腰の剣に手をかけた。今は早駆けをしていたため、厚い防具を身につけていない。重ね着した木綿のシャツの上に、簡素な皮の胸当てを着けているだけだ。そんな格好では王に謁見するのに失礼だろうという意見もあったのだが、何が起こるか分からない以上は最低限の備えが必要という結論から、この格好になった。

 だが、街からにじみ出てきた人々がどこか異常であることに気づいた時、シハムらは最低限しか装備しなかったことを後悔したのだった。

 全員、こちらに向かって来るのだ。

 ゆっくりと、だが、しっかりとした足並み。

 人の数がどんどんと増える。

 10人だった者が、50人、100人……とうとう数えきれない群れになった。マシャは顔が判別できるほど近づいた先頭の男を見て、ぎょっとした。町人の格好をしたその男の目には色がなかったのだ。虚ろな、何も考えていないかのような能面で、手に包丁を持っているのだ。

 他にも全員が鍬や鎌、剣を持っている。しかも寒そうなぐらいに薄着な者もいるのに、彼らは誰一人として冬の気候を感じていない。普通に歩いている。風が吹いても、砂が舞っても気にしない。

 シハムが少し首を動かして合図し、3人はじりじりと後退した。連中の歩みは遅い。今なら彼らを刺激せずにゴーナに戻って逃げられる。かも知れない。

 だが。

 マシャの足が、止まった。

「マシャ? 逃げるぞ」

 シハムが小声で呼びかけたが、マシャは一点を見つめたまま動けなかった。

 大通りに女子供や老人までもがひしめきあい、歩いて来る中で──ただ一人、ゴーナに乗った人物が人垣の向こうに見えた。厚手の艶やかな、赤いマントを揺らし、細かい金刺繍の入った優雅な上着を身にまとっている。その額には、高貴な者が着ける(サークル)が光っている。いつもなら似合わないとあざ笑ってやるだろう格好が、今の彼には似合っていた。

 いつかの時に恐怖を感じた、うっすらとした笑み。

 そこに光る、気味の悪いほどに鮮やかな、紫の瞳。

 その目がマシャを見つめ、その手がすうっと空に伸びるのを、マシャは呆然と見ていた。

「マシャ!」

 それと同時に。

 シハムが後ろからマシャの腕を掴んで、引っぱった。

 街の者が一斉に走りだした。

 叫び声も何もない。

 足音だけが駆け足になり、石畳に鳴り響いたのだ。

 シハムもトニマンも、剣を抜いて走った。この連中に背中を見せるのは怖かったが、追いつかれるのはもっと怖い。何の武装もしていない、何の訓練もしていなさそうなただの平民が、この上なく恐ろしい。中には兵士らしき者もちらほらと見えた。身分の高そうな太った男などもいる。のべつまくなしだ。

 大通りの中央、一番奥にドンと構える王宮の2階に、誰かが立っていた。王が国民に手を振るためのバルコニー。マシャはそれを王様かなと思ったが、たった一人立つそのシルエットはドレスだった。誰だろうと思ったが、シハムもトニマンも、もうそれどころではなかった。マシャの足元を走るグール“クリフ”が、しきりに吼えていた。

 能面の群れが、迫ってくる。

「走れ!」

 シハムはさきほど残したゴーナが悲鳴を上げて逃げるのを阻止して、飛び乗った。手を離したマシャにふり返る。だが、そこでシハムは愕然とした。

 部下のはずのトニマンが、顔色を変えてマシャに襲いかかっていたのだ。信じられない光景に、一瞬シハムの思考が飛んだ。

「嫌!」

「トニマン!」

 若い兵の剣が、驚くマシャに振りかざされた。だが寸前で、それを止めたものがいた。トニマンの足に、何かが飛びついたのだ。

「“クリフ”!」

 赤毛のグールだった。

 その声に、人垣の向こうで悠然とゴーナに乗っている男がピクリと動いたが、当然、誰もそれを見なかった。

 その間にもグール“クリフ”は若い兵の足に噛みつき、剣を止めていた。

「うわっ?!」

 トニマンが生の声を出した。ずっと彼は襲いかかる時、無言だったのだ。街の連中と同じ状態だった。グール“クリフ”が驚いたトニマンに蹴りつけられ、ギャンと短く悲鳴を上げた。

「す、すまん」

 トニマンが自分の蹴ったものに気づいて、うろたえた。正気に戻っている。グール“クリフ”は宙を飛んだが、一回転して着地した。

 その時、うろたえたトニマンの背中に、町人の剣がふり下ろされた。追いつかれたのだ。トニマンは身をよじったが、避けられなかった。

「きゃああ!」

 マシャにも別の手が上がったが、今度は自力で押しのけた。必死に走り自分のゴーナを探したが、マシャのゴーナはもう逃げていた。トニマンのものも。シハムがこちらに駆け寄ってくれている。

「トニマン!」

 マシャが大通りにふり返った。

 が。

「え?」

 ──その時。

 ふり向いたマシャの視界に、変なものが見えた。

 一瞬マシャは、目に埃でも入ったのかと思った。目の前、ど真ん中に、小さな白い点が見えたのだ。

 何だろうと思っている暇はなかった。点は、すぐに消えたから。別の変なもの、赤い塊がマシャの目前を横切ったので。

 視界すべてを遮ったものが消えた直後、マシャの目に飛びこんで来たのは、弓を構えている男だった。人垣の向こうにいてゴーナの上から、マントをはためかせて、彼は弓を持った手をまっすぐマシャに向けていた。

 けれど、その右手に矢はない。

 弓が弦を揺らしている。彼の右手は開いている。弓を引き終わった、矢を放った後の姿勢である。

 まっすぐと向かってきた矢。それは正面から見たら、小さく白いただの点だ。マシャのこめかみに向かって放たれた、白い矢。

 それを遮った、赤い塊。

 マシャは恐怖に背を硬くしたまま、ぐぐと首を動かし、横切った赤い影を目で追った。それは、マシャから少し離れた横方向に落ちていた。今までに見たこともないほどの大きな跳躍で、彼は主人を救ったのだ。

 赤茶色の毛皮の下に、鮮やかな鮮血がどんどんと広がっている。丸い肉塊の中央にピンと立った白い矢は、彼の小さな胸を貫いていた。

「“クリフ”……?」

 マシャは立ちつくした。動けなかった。目が、脳が、この光景を拒否しているのだ。

 遠くに立つゴーナ上の彼が、自分に矢を射たという事実。それを止めた小さなグールの命が今、自分の目前で消え去ろうとしている事実。襲いかかる狂人。死んだ王都。いっそ自分も狂ってしまえたら、どんなに良いだろう。

 そう思ったマシャの視界が白くなり、一瞬、心から何もかもが消え去った。だがマシャは狂人になれなかった。直後、シハムに抱え上げられ、体が宙に浮いたから。

「きゃ?!」

 マシャが我に返った。

 返った目の前では、トニマンが苦戦していた。すでに何人もの人間に囲まれ、がむしゃらに剣を振っている。その背中が赤く染まっていた。だがトニマンを助けに行こうとしたシハムの足元にも、表情をなくした女性が鎌を持って突進していた。

「む!」

 シハムは剣先で彼女から鎌を叩き落とし、蹴りつけて気絶させた。死んだ人間にさえ見える連中だが、ちゃんと生きてはいるようだ。シハムはゴーナに乗せたマシャに剣を預け、鞘を持って走った。

「待って、“クリフ”が! “クリフ”!」

「諦めろ! 死んでいる!」

 確かにグールだった肉塊は、もうピクリとも動いていなかった。それはゴーナの上からでも分かった。だが、せめて遺体を持ち帰りたかった。あんな細いたった一本の矢が、それまで共に生きてきた“クリフ”の命を奪ったというのが、マシャには耐えがたかった。

 こっちの“クリフ”には生きていて欲しいと願っていた。そんなマシャの心を埋め尽くすのは、なぜここに連れてきたのかという後悔ばかりだ。

 だがその時、シハムはマシャに向かって飛んできた何かを叩き落としているところだった。マシャが驚いて顔を上げると、シハムに「伏せろ!」と押さえつけられた。矢だった。彼がまた、マシャの言葉に反応して矢を飛ばしてきたのだ。「クリフ」に反応して。

 マシャがゴーナ上に座るその者を、睨みつけた。

「──オルセイ!!」

 シハムも分かっていた。その者がオルセイだということを。

 マシャの気持ちも分かっていた。グールを抱きあげたい悲しみも知っていた。だがすべて後回しだ。今はトニマンを救い、この狂人の海から逃走することが先決なのだ。この異常な状況から、脱出しなければならないのだ。

 しかしトニマンは、肩に包丁の一撃を受けているところだった。

 いくら彼が優秀な兵でも、一人で100人を相手にするのは不可能である。彼はそれでも戦っていた。すでに何カ所もの傷を負っていたが、もう自失していなかった。いや、いっそ先ほどのマシャのように自分から進んで心を失えば、その方が楽になれるのに、彼はそうしなかった。

 後から後から追いつく者が、まず手近なトニマンを襲った。灰色の街の大通りは今や、黒くどよめく人の海に埋めつくされていた。そこから体一つ飛びだして、ゴーナの上から冷ややかにマシャらを見つめる、紫の瞳。

「トニマン!」

 シハムが人の群れを蹴散らして彼に手を伸ばしたが、トニマンはその手を取らなかった。

「早く逃げて下さい、くい止めます!」

「馬鹿を言うな、乗れ!」

 しかしそう言っている間にも、トニマンとゴーナを平民らが取りまいた。ゴーナがいななき、前足を上げた。危うくマシャが落ちそうになった。誰かがゴーナの毛を引っぱったのだ。マシャの鼻先に剣が突きつけられ、思わずマシャはそれを(はた)いた。刃と水平に叩いたので剣が横に振れて落ちたが、マシャの手の平からも血が出た。シハムがマシャの肩を掴み、胸にかき抱いた。

 トニマンが、懸命にシハムのゴーナに手を伸ばし、尻を叩きつけた。

 彼はすでに額から背から腹から、全身を真っ赤に染めていた。

「トニマン!」

「逃げ……ぐっ。王に! 王に」

 トニマンの腕に槍が刺さった。トニマンは顔こそ向いてはいたが、頭から流れる血が目に入り、もう見えてはいないようだった。人々が彼に群がる。まるで獲物に食いつく獣のようだった。

 群れの中に埋もれていくトニマンの顔が、笑みを作った。何かを言ったように見えたが、もう言葉は聞こえなかった。

 若い戦士が最期に見せた笑顔は、狂ったオルセイの薄気味悪いそれでなく、使命をまっとうした、悔いのない笑みだった。赤く染まったトニマンの顔が、手が、群れの中に消えていく。

 シハムは歯を食いしばり、狂人たちに背を向けてひたすら走った。さしもの群衆も、ゴーナの足には敵わない。みるみる景色が遠のいた。

「トニマン! “クリフ”!」

 マシャはシハムの腕の中から、後方に手を伸ばした。

 涙を流しながら、マシャは「どうして?!」と叫び続けた。答えの出るわけがない問いが、マシャの中で空回りする。

「どうして……! どうして!」

 灰色の街が遠ざかり、森の向こうに消えていく。

 どす黒いよどんだ空気が、マシャたちを捕らえようとするかのごとく、森を駆け抜けた。風が悲鳴を上げる。まるで、お前たちは逃げられないとでも言っているかのように――。


 ~一部最終章「天上の光」に続く~

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