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7-5(降臨)

 時は少し戻る。荒野のキャラバンを抜け出したオルセイは、一人ゴーナを駆り続けていた。ゴーナがひづめで土を蹴り上げる音だけが延々と砂に吸い込まれていく、孤独な旅である。多くを考え出すと自分の思考に潰されそうで、オルセイはただひたすらに走り続けた。

 夏のような熱砂を通り抜けると、低かった木々が段々と高くなり、いつしか風景は砂のものとはすっかり違っていた。ジェナルム国に入ったのだ。国境らしい国境もないままオルセイは、あっけなく緑の地に足を踏み入れた。

「旅人かい? ここは、もうジェナルム国だよ」

 ネロウェン国の言葉でそう教えてくれた村の男は、ネロウェン人とも違うことが明らかな黒髪の異国人に対して、不思議なくらい警戒心を持っていなかった。

 なだらかな山が近く、森の多い景色は美しく、平和そのものだ。いると聞いていたネロウェン兵は、どこにもいなかった。すべてが北の国境に行ってしまったのだろうか、それにしても南一帯のオルセイの通る道に、戦争の気配などまったくない。──異常なくらいに。

 心が、ザワついた。

 オルセイは無性に、行かなければいけないと思った。

 休む間もなく、すぐにまたゴーナに乗った。

 村を出たオルセイは段々とゴーナの速度を上げて、気付けば、寝る間も惜しむようにして走り続けていた。ゴーナの息があがり、口から泡を吹くほどに。そんなゴーナのことを、急ぐオルセイはまったく気遣っていなかった。

 行かなければ。

 何をそんなに思い詰めているのか、自分でも分からなかった。いや、思い詰めているのは自分ではなく、自分の中の何かだろう。だがそんな区別もつかないほど、自分の心が痛かった。

 同化してる?

 ふと時々、我に返る。だが、またすぐに焦りが心を埋めて、オルセイを先へ先へとかき立てるのだ。少しでも早く会いたい。そんなような感情が、体内に渦巻く。近付けば近付くほど、ゴーナは速くなった。周りの風景が消えていく。オルセイの目に、何も映らなくなっていく。村も町も森も、何も見えない。

 ──気付けば。

 オルセイの立ったその場所は、すべてが死んだかのような荒野になっていた。

 腹の鳴った音で我に返ったようなものだった。腹が空いていると感じた時オルセイは、何となく自分が生きている証拠だと思い、ほっとした。

 振り返ると、森があった。どこか色褪せているような森だった。ジェナルムは冬を忘れさせる豊かな緑だと思ったのが幻だったと思わせるような、荒廃した、うっそうとした塊だった。

 森を抜けて開けたその場所は、さんさんと日が照っているにも関わらず、どこかどんよりとした暗さがあった。草木が枯れてなくなったその向こうに、廃墟のような街が見える。遠目だったが、オルセイはすぐにそれを「廃墟だ」と思った。それほどに、生の気配を感じなかったからだ。だが近付いていって観察したら、建物は倒壊したり古びてなどしていなかった。ただ、人が一人もいないだけで。

「うわっ」

 突然ゴーナが、足を曲げた。疲れ果て、オルセイの重みに耐えられなくなったのだ。

 オルセイが飛び降りると、ゴーナは横倒しになり、しばらく荒い息をしてから動かなくなった。オルセイは手早く荷物を外し、先を急いだ。

 歩いていると、段々と家が増えてきて、ところどころでカツンと石畳に靴の当たる音がした。その音が徐々に増えてきて、やがて街に入っていた。ジェナルム国に来てから見た、どの街よりも大きい。もっとも、途中からはほとんど見ていなかったが。ロマラールの王都と同じくらいの規模はありそうだ。だがここがジェナルム国王都なのかどうかは分からない。心の内が追い求めるままにやってきただけで。

 大通りの真正面にひときわ大きい屋敷があっても、それが一体何なのかはさっぱり分からない。誰かに聞きたくとも誰もいない。林立する建物はどれも、扉を固く閉めていた。こじ開ければ誰かがいるのかも知れないが、今は正面の屋敷から気持ちが離れなかった。

 そこに何が待っているのか、ここまで来ても不明だった。オルセイの中にいる“何か”は言葉を持っていない。オルセイに何も伝えてくれない。オルセイには。

 だが黒髪の下に光る紫の瞳は、喜びの色を示していた。すべてを把握している目だった。

 オルセイの人格を無視して、“何か”がオルセイの表情を作っているのだ。

 体はまだ、オルセイの思う通りに動く。

 だが自分自身がどこか、少しずつおかしい。

 オルセイは我に返って驚愕し、街外れに振り返った。

 ゴーナ。

 ここまで一緒に旅をして、無茶をさせて死んでしまったゴーナ。自分が殺したのだ。なのに自分は今、何をした?

 何もしなかった。

 オルセイは片手で額を押さえ、目を見開いた。自分ではない自分がいる。いつからだ? ネロウェン国に来た時からか? ロマラールを立った時? 覚醒した時か?

 ──違う。

 オルセイは自分で、自分に言い聞かせていた。

 再び前を見る。目前に石造りの屋敷がそびえる。

 ──俺自身が、“意識”を受け入れた時じゃないか。

 オルセイは足を踏みしめて、大通りの真ん中を屋敷に向かって歩いた。

 ──ロマラールの森で感じたものを、俺は拒まず受け入れた。言葉を持たないその“意識”は“体”を欲しがっていた。だから自分の体を、与えてやったのだ。

 衛兵もいない、開け放たれた門をくぐり、オルセイは玄関の扉を開けた。通常の倍はありそうな木の扉だったが、思いの外軽く開いた。

 石で建てられている屋敷の中も、石だった。磨かれており、床の中央を正面の階段に向かって広く赤い絨毯が敷かれているのも立派だったが、冷ややかで暗い踊り場だった。

 階段には絨毯が敷かれていない。それを登ると、音がコツコツと異様に響いた。どこにも音を吸収しない、人の気配がない寂しい音だった。

 階段を登りきった正面の奥に、ひときわ豪華な扉が見えた。左右にも廊下があり、部屋は幾つもあるのに、オルセイにはその部屋しか見えていなかった。

 この奥に、旅の終点がある。

 自分はこのために、ここまで来たのだ。

 誰もいない街は、開け放たれた門は、オルセイを迎え入れていた。迎えられた以上、行かなければならない。家族を置き去りにし、友を犠牲にしてやってきた道のりなのだ。

 オルセイは明かりのない石の廊下を、一歩一歩踏みしめて進んだ。

 心がはやる。

 すべてが明らかになる。

 質素な装飾の、大きな扉。木の扉は、石とレンガを組み合わせて作られた壁にはめ込まれており、オルセイが手をかけると、先ほどと同じく何の抵抗もなく開いてしまった。思ったより静かに、だが微かに空気の震える音を立てながら、両側に開いていった。

 ぽかんと開け放たれた、それでいてどんよりと重い空間が広がっていた。誰もいない、何もない、真四角の部屋。

 いや。

「来たか」

 まったく見知らぬ人間が、懐かしい友に出会ったような顔をしてオルセイを見た。オルセイの顔が笑みを作っていた。

「?!」

 気を引き締め、自分の片頬をパンと叩く。オルセイは一歩、後じさった。

「あらあら、まだ正気なのね」

 見知らぬ人間がもう一人、自分に向かって微笑んでいた。深く薄汚い緑の瞳が、らんらんと輝いている。

 暗い光がどこからともなく射し込む広間らしき滑らかな石で囲まれた部屋の奥に、椅子に座る男と、かたわらに女が立っていた。その2人に、人の気配はなかった。

 部屋の中央には彫刻を施された通路がまっすぐと延びており、その両側に柱が林立している。それらの影に人がいる気配もなかった。奥に位置する、この2人だけだ。

 オルセイが後じさったのは、自分の行動に対してだけではなかった。そこに座る男──老人が、あまりにも恐ろしい姿をしていたためだった。

 骸骨(がいこつ)のような顔と、わずかばかりの白髪をたくわえた頭。その額には、申し訳程度の(サークル)が引っかかっている。痩せすぎで頭まで痩せてしまったのか、サークルが今にも鼻先に落ちそうだ。金色をしたそのサークルがもし落ちたら、鼻が削ぎ落ちてしまうじゃないかと思われるような、そんな男だった。厚い、赤いマントに、細かな刺繍の入ったチュニック。おそらくはこの国の最高権力者だろう格好を、死にかけの骸骨がまとっている。

 その横に立つ女性は、年の頃30半ばか40かという風貌だった。妖しい形のドレスは体全部を覆っているようで、その実、全部を見せている。鎖骨から肩のライン、胸の谷間、曲線を描く腰の下に、スカートを割って覗く白い太股。体のすべてが男を誘っているような女だった。少し乱れた黒い髪の先が一房、乳房に沿ってカーブしている。オルセイより少し緑がかった黒髪。

 そこにはめ込まれている双眸は、完全に狂人のそれだった。

 オルセイは後悔した。

 見るべきではなかった。来るべきではなかった。

 なのに足が動かず、目が離せなかった。目に見えない誰かが、オルセイをそこへ貼り付けてしまったかのような……そう、金縛りにでも遭ったような。

「待って、おりました」

 一つ一つの言葉を出すのも辛そうな骸骨が、絞り出すようにして言葉を放ち、食いしばって立った。一歩一歩、戸口で立ちすくむオルセイに近付いてくる。まだ逃げられる距離だし、いざとなれば相手は老人と女である、どうとでもなる。と、心の表層では強がってみるのだが、オルセイの足はビクとも動かなかった。しかし顔の筋肉は、恐怖を示している。オルセイのものだ。

「真の、神よ」

 重そうにマントを引きずって歩いていた骨だけの男が、道半ばで崩れた。まさしく“崩れた”と呼ぶにふさわしい倒れ方だった。足が、体の重みに負けたのだ。踏みしめた右足が、突然折れた。奇妙な方向にカンカンと3カ所ほど折れ曲がり、まるで一つの建物が崩壊するように、男が落ちたのだ。

 叫ぼうとしても、硬直して声が出なかった。

 いや自分が自分を叫ばせまいとしているのかも知れない。もうどちらがどうなのかも理解できなかった。

 オルセイは頭の片隅で、悪夢だ、と思った。

 こんなものが現実であって良いはずがない。こんな光景など、世界のどこに行っても存在していないに違いない。

 だが存在している。

「楽しいこと」

 女がくすりと笑った瞬間、崩れ落ちた男が血を吐いた。大量に、噴水のように吐き出された血が、オルセイの足元に辿り着きそうな勢いで流れてくる。もうすでに体内で腐っていたかのようなどす黒い血が、灰色の床に広がった。いったい彼のどこに、こんなに詰まっていたのだと呆れるほどの液体が、床一面を埋め尽くす。石の床は血を吸わず、ぬらぬらと輝いた。

 オルセイは嘔吐感に襲われたが、幸か不幸か戻さなかった。胃が空のためもあっただろうし、オルセイの吐くそれがもし血であったなら、自分もこうなりそうな、そんな妄想がよぎったためでもあった。

 この骸骨と自分の何かが、似ているような気がしたのだ。

 目の離せない黒い血の中に、何かが転がった。

 小さく、丸く、見落としてしまいそうなそれは、まるでオルセイに駆け寄って来るかのように、まっすぐ転がってきた。

 気付くとオルセイはしゃがんでいた。

 その丸い何かを、手に取るために。

 だが無理矢理、全身の力を使ってその手を引いた。

 オルセイは、それを拾いたくないと思ったのだ。

 べったりと血に染まった、指の先ほどの大きさしかないものが、しきりにオルセイを呼ぶ。言葉のない、声のない誘いが、オルセイの心を埋める。オルセイは自分で自分に言い訳していた。違う。俺は、望んでいない!

「強情だこと」

 薄い光が、彼女の髪を光らせていた。けれど、その黒髪は絡まりフケが湧いており、光は屈折していて、より彼女を醜く見せただけだった。顔の形の整った、妖しく美しく醜い女だった。

 それがいつの間にかオルセイの側に立ち、血の中からそれを拾い上げていた。

 女はすでに息絶えている男の塊を見下ろし、笑みを作った。

「ご立派な最期でした、王ダナザよ」

 取って付けたように彼女は言い、取って付けたように礼をした。

 丸く開いた骨の穴から、ダナザと呼ばれた者の落ちくぼんだ眼球が、射るようにしてオルセイを見つめている。お前も同じ瞳を持つ者だといわんばかりの紫の目が。ガラスのように、光る。

 女は覆いかぶさるようにして、膝を突くオルセイを覗きこみ、微笑んだ。真紅の唇が、ゆっくりと左右に伸びる。時の進みを遅く感じるその動作の間も、オルセイは立ち上がりもできず、手も足も動かせなかった。

「死の神、ダナよ」

 女は言い、オルセイの顎に手をかけた。くいと仰向かせる。

 オルセイは渾身の力を込めて、女を睨んだ。絶対に笑ったりしたくなかった。

「呑んでおしまいなさい」

 女の右手につままれた赤いものが、その血をすっと落として、紫色の表面を覗かせた。元は紫の、丸いものなのだ。目を見開いたオルセイを面白がり、女が顔を近づけて頬ずりした。

「あなたがダナ神になるのよ」

 オルセイに言われた言葉。

「お待ち申し上げておりました」

 ダナ神に言われた言葉。

 心の中で「嘘だ」と連呼しながら、オルセイは懸命に歯を食いしばった。丸いそれが唇に触れ、歯に当たる。

 神だ、などと。

 そんなものがいてたまるか、と思う。

 じゃあここにいるものは何だ、と自問する。

 女がその“何か”を見透かすように、オルセイの瞳を覗きこむ。オルセイは女の視線を嫌悪した。だが離せない。離れない。

 言葉を持たない“何か”が、言葉でなくオルセイを呼ぶ。

 お前は力を欲したはずだろう?

 自分を導いた“何か”が掲げる“力”を、オルセイは確かに感じていたのだ。

 人々に恐怖を与えた自分の目を、オルセイは確かに自覚していたのだ。

 笑っていた自分。

 石のイメージ。

 丸い石が、汚れていく願望。

 綺麗だった石の色が、黒ずんでいく様。

 オルセイは、やっと分かった。

 マシャが言った、鈍色の石。

 あれは自分の願望だったのだ。

 自分が存在する理由の果てにあるべき姿だったのだ。

 この星──ファザ神が望んだ姿だったのだ。

 そうだ。

 オルセイは呟いた。

 石を呑んだ。

 自分の意志を飲み下した。

 俺は、死のために生まれた存在なのだから。

 オルセイは笑った。

 女がひざまずき、オルセイが立ち上がった。

 その時オルセイは、一瞬だけ苦悶の表情を見せた。

 胸の内で、何かが叫んだ。

 それは一言だけを発し、すぐに消えた。

 だが彼は最後の力を振り絞った蚊の鳴くような声を、すぐに忘れた。

 クリフ、と聞こえた気がした、その声を。

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