7-4(望郷)
さて、その“不穏な国”ジェナルムに向けてソラムレア国を移動するクリフらは、国境近くの山村に入っていた。
アンテナ役であるエノアがいるため、方向には迷いがない。
だがエノアは今、休養を取りながら旅をしている状態である。ソラムレア王宮におけるラハウとの戦いで傷ついた体が癒えていないままに“転移”を重ねたことが、とうとう爆発してしまったのだ。すぐにでも4度目の“転移”をしてダナの石を得たいのはやまやまだったが、今のエノアに、それは不可能だった。
クーナの鏡とイアナの剣を使って体力を回復し、そして少しでも距離を縮めて行く──今はそれしか方法がなかった。
クリフとラウリーたちが出会ったゴーナ小屋にいたゴーナを買い、3頭で旅をした。ラウリーがリンを乗せている。
最初の数日はエノアの体力回復のために、ずっと街に滞在した。旅を始めたのは、それからだ。エノアの魔力が回復するまで、地道な旅が続いた。
それらの時間を使ってクリフはラウリーやエノアから事情を聞き、ようやく落ち着いたのだった。ただし、代わりに不可解なことが山積みにもなったが。
「ダナの石?」
クリフは最初、ただ“ダナの石を手に入れる”と言われて、何のことか分からなかった。しかしイアナの剣の柄尻やクーナの鏡にはめ込まれている装飾を見せられ、オルセイに憑いているものはダナだと聞かされ、やっとエノアの言う“ダナの石”がどんなものかを理解したのだった。
頭では。
だが体は、心は、それに対して拒絶した。
まったく実感が沸かない。
死の神。
そんなご大層なものが憑いているなどとは思えないほど、オルセイはただのオルセイだった。
あの時以外は。
コマーラ家で、目覚めたばかりのオルセイ以外は。
『魔道士か』
知らない者の顔をして薄笑いを浮かべ、エノアを見下ろしたオルセイ。だがあの表情は、神などという超越された者の持つ顔でなく、もっと、人間だった気がする。生々しかった気がする。
7人の神々は、元々人間だった者たちを唯一神ファザが神にした者たちだ。それぞれが人を導く力を持ち、人の営みを見守っている。
だから7人は、今でもまだ神ではないのかも知れない。
「クリフ?」
クリフは、はっとして顔を上げた。
「何よ、考え込んじゃって」
「ああ……」
クリフは曖昧な顔をして頭を掻いた。歩みの遅くなってしまったクリフを置いて、ラウリーがどんどんと歩いていく。
「早く」
10歩先から振り向いて声をかけてくるラウリーは、やけに元気だった。いよいよ明日だということで、気が高ぶっているのかも知れない。と、クリフは思う。一昨日からずっとエノアとリンは、宿の一室に閉じこもっている。明朝に“転移”をするということで、『気』を高めているのだ。
ラウリーには別の重要な役目があるため、“転移”の呪文には参加するなと言われた。クリフとて、宿にいても役に立たないので、一日ぶらぶらと村をほっつき歩いている次第である。
「悩んでみても仕方がないでしょう。行けば分かるわよ」
うつむくクリフに、ラウリーはそんなことを言った。かつてラウリー自身がエノアから言われて不満に思った言葉だったが、人に言う時にはそんなことを忘れている。案の定、言われたクリフは少しムッとした。
「そりゃ、お前は良いかも知れんがな」
そもそも今までずっとオルセイが東へ行きたがる理由は、ただ「呼ばれている」としか分からなかったし、ソラムレア国での騒動だって自分にはチンプンカンプンだった。いきなり神だとか浄化だとかいう常識をぶち抜いたことを言われても、脳味噌に染み込まないというものだ。
クリフはラウリーを睨んだが、その睨み方は今イチ弱い。ラウリーの格好が格好なので、調子が出ないのだ。
旅を初めて以降も、ラウリーはずっと長衣のままである。しかもリンが、毎朝必ずラウリーの髪を梳くので、ラウリーがまるで良いところのお嬢さんに見えてしまうのは、クリフとしては実にやりにくい。
だから一度からかってやろうと思って、ブラシを入れられているラウリーに「貴族みたいだな、召使い連れて」と言ったことがある。だが、これは彼女を憤慨させてしまい、真顔で「リンは召使いじゃないわ」と怒られた。
「じゃあ、どうして毎朝そんなことしてんだ?」
引っ込みのつかなくなってそんな質問をしたクリフに、リンが珍しく応答したものだった。
「自分のためです」
クリフは当然この不思議な返答に戸惑ったが、それ以上は不毛そうだったので言うのを止めた。内心「何か儀式みたいだな」と思ったものだった。リンの無表情はともかく、ラウリーがとても憂いのある、真面目な顔をするので。伏し目がちな瞳が潤み、まつげが長く見える。ふと目を上げた時の、くっきりとした二重まぶたすら、何やら女っぽく見える。
というか、それだけ今までのクリフのイメージには“狩りをするラウリー”しかなかったということだが。
だがラウリーの方はもう、いつも通りだった。
午前中の時、一緒に食べた遅めの朝食も「良い匂いがする」と言ってラウリーがクリフを引っぱり、焼きたてのパンを並べていた宿の食堂に降りていったものだ。絞りたてのミルクを使って作られた干し肉のスープと柔らかなパンは、嫌でも食卓をにぎわせる。
「おいしい!」
ラウリーはソラムレア語を駆使して、宿の女将と話に花を咲かせたものだった。けれどクリフは話せない。
「えー、だって、ずっとソラムレアにいたんでしょ? 私より話せるのかと思ってたのに」
「悪かったな」
という会話は最初の頃に交わしていたものだったが、結局今でも話せない。なまじ話せる人間が側にいれば、まぁいいやと思うから、やっぱり覚えない。せいぜい必要最低限の5文字ぐらいだ。あとはジェスチャーである。唯一きちんと覚えて忘れられない言葉と言えば──『皇帝は死んだ』くらいだ。
「皇帝は、死んだ」
歩きながらクリフは、ソラムレア語で呟いた。
「え?」
ラウリーが振り返ったが、クリフは2度目を言わなかった。
つい先日まではこの村も、戦争の危険を感じていたらしい。というのは、さきほど食事の時に女将がラウリーに話したことだ。国境に軍隊が陣を作っていて、村からも物資を提供したり通り道になったりしたという話だった。
「でも今は王都で混乱があって、引き上げちゃったんだって」
と、宿を出てからラウリーがクリフに話して聞かせた。クリフもその部分の単語だけなら、少し分かった。敢えて訂正をするのも面倒なので言わなかったが、ラウリーが女将から聞いた言葉は「混乱」じゃない。「反乱」だ。
あの女将は、皇帝が死んだことまで知っているのだろうか。
軍隊が通ったというが、村にはそんな跡がどこにもなかった。山並みも近いのどかな風景は、こんな言葉の似合わない世界だ。人々は実直な暮らしをして落ち着いていて、風も土もまだ硬く冷たかったが、それは春に備えてじっと命を育んでいるものである。浮き足だった人々も血に染まった土も、ここにはない。けれど実際に、つい先日起こった現実だ。
死の神、か。
クリフは空を見あげた。
この反乱は、ダナ神が関係しているのだろうか?
ふと、そんなことを思った。
明日にはすべてが解決するのだと思っているのに、心が晴れてくれない。オルセイが元に戻る。家に帰れる。それは大団円だ。
だが。
また会おうと言った、老婆ラハウ。
手に入れた、イアナの剣。
クーナの鏡を持った、魔道士エノア。
今まで起こった出来事と、エノアの話が脳裏で交錯する。
浄化しなければならない死の神ダナが、降臨して望むものは……。
「クーリーフ!」
気付くと目の前にラウリーが立っていて、クリフをぎょっとさせた。また歩みが遅くなってしまった。
「もう。つまらないんだったら宿に帰って寝てる?」
「すまん」
クリフは諸手を挙げて降参した。するとラウリーは、ちょっと笑ってクリフの袖を引っぱった。
「楽しいことしましょ。付き合ってよ」
そう言ってラウリーは、誰もいない村外れの荒れ地にまでズンズンと歩いていく。荒れ地と言っても枯れた草が土を覆っているので、寝転んでも痛くはなさそうだ。村を囲む腰丈ほどの石垣を通りすぎたところで、突然ラウリーはローブを脱ぎだした。
「お、おい?!」
するとラウリーは、おたおたするクリフに短剣を一本ほうり投げるではないか。彼女も同じものをもう一本持っていて、クリフがそれを受け取った時、ラウリーは髪を縛っているところだった。ローブの下は、シャツとズボンだ。短剣は練習用に刃を潰してあるものである。ローブの下にくくりつけていたのだ。
合点したクリフも、念入りな準備運動で体をほぐした。街に滞在していた時には、時間があるとやっていた。今日は久しぶりであり、最後の稽古だ。
「手加減なしね」
「知ってるよ」
ラウリーの気合いの一刀を、クリフが笑って受け流す。
確かに楽しいし、余計なことを考える暇がなく、気持ち良かった。ラウリーもそうなのだろう、稽古は、気付くと3時間は経っていた。終わった時には2人ともクタクタになり、草むらに寝転がってしまった。
「ああ疲れた!」
ラウリーが爽快な声を出した。手加減なしの手合わせは当然、まったく歯が立たないものだったが、彼女は気にしていなかった。
「体力温存しとけって言われた側から、滅茶苦茶やるよな、お前」
クリフはよく知らないが“転移”は体力を相当すり減らすと聞いたし、それを目の当たりにもしている。だが今のラウリーが一番ラウリーらしい。ようやく会えたという気がして、おかしくなって笑ってしまった。
「こういう体力消耗は構わないのよ」
ラウリーも笑いながら、本当か嘘かよく分からないことを言った。2人ともしばらく仰向けのまま、息を整えた。
目の前をゆっくりと雲が流れていく。草のそよぐ音が、すぐ側でする。クリフは一瞬、このまま何もなかったことになっていて、起き上がったらそこにコマーラの家が建っていないかな、などと妄想した。
だが風にさらされたラウリーが一つくしゃみをして起き上がり、体から草や土を払っていそいそとローブを着込んだため、そんなクリフの妄想は打ち破られてしまった。
「そろそろ帰る? お腹、空いちゃった」
ラウリーは腰に短剣を結わえて髪をほどくと、石垣に手をかけて、村の入り口に戻ろうとした。だが彼女の行動を目の端で追いながらも、クリフはまだ起きる気になれず、大の字のまま空を見ていた。
「どうしたの?」
「……なぁ、ラウリー」
「何よ」
急に大人しくなったクリフの声音に、ラウリーの声がうわずった。
「俺は、全部話した」
クリフが身を起こし、あぐらを掻いてラウリーを見た。
「お前、何か隠してるだろ」
「……!」
ラウリーの顔には、驚きと図星が全部出てしまった。おかしな方向から切り出された口調に戸惑い、嘘をつけなかったのだ。それでもラウリーは、一生懸命とぼけた。
「な、何それ、やだな」
「あのエノアって奴やリンって子を見ると分からんが、お前なら分かる」
「って奴って言い方、止めてよ」
クリフの言い方に、ラウリーがむっつりとする。だがクリフはクリフで、エノアに人間として見てもらえていない気がして不快だったし、ラウリーがエノアを尊敬しまくっているのも気に食わなかった。クリフはラウリーのセリフを聞き流した。
「お前、リンに髪を梳かれてる時に、やたら思い詰めた顔してんだよ。その服を着る時もそうだ、ラウリーはそういう動きにくい服、嫌いだろうが。替えられないわけじゃないのに、毎日それだけを着てる。いくら俺でも、さすがに分かる」
「いくら俺でもって自分で言わないでよ」
「茶化すな」
ラウリーは笑いながらもふと、以前のクリフなら気付かなかっただろうと思った。ラウリーが祭りの時に何を着ていても知らんぷりだったし、髪を伸ばしても、何も言わない人だったから。
「意味なんてないわよ。髪を梳かれてる時には、リンが何を考えてるんだろうって思ってるだけだし、ローブは単に気に入ったからよ。私だってたまには、こういうものも着るわ」
「祭りの時ならな」
クリフの一言が、ラウリーの息を詰まらせた。
まさかこのタイミングで、祭のドレスをクリフが見ていたのだと、知りたくなかった。
「今は旅だ。オルセイを助ける、急ぐ旅だろ。俺にとっても、お前にとったって重要なはずだろ? だから、あいつと一緒に旅してんだ」
「あいつって言うのも止めてよ」
クリフが立ち上がって近寄ると、ラウリーは肩を縮こまらせた。石垣に片手をついてラウリーの正面に立つ。ラウリーは胸を押さえて呼吸して、苦笑して顔をそむけた。
「この服の方が、精神集中できるの。この服って元々、魔法使いの正装なんだって。私が兄さんを救えるんだって話はしたでしょ? リンが髪を梳いてくれるのも、そのせいよ。私に念を込めてくれているの」
だからリンが「自分のためです」か?
よく分からない。つながらない。
クリフは苛立った。
こいつはローブを着ると、別人になりやがる。
「こっち向けよ。目を見て言えよ! ラウリー、俺の目を見て物を言う奴だったろうが」
ラウリーの手を取り、振り向かせる。クリフは「やっぱりそうだ」と思った。ラウリーは困ったような戸惑ったような、中途半端な顔をしていた。こんな表情は、ラウリーには似合わない。もっとはっきりきっぱりと、まっすぐ前を見る娘だったはずだ。
「俺には、言えない?」
クリフは少し言葉を和らげた。
「エノアには言えるのに?」
ラウリーの顔が崩れた。バッと手を放し、一歩後じさる。
「違うわ、言う必要がないと思ったからよ。説明しようにも、クリフは魔法のこと知らないじゃない。クリフはイアナの剣で兄さんを救う、私は魔法で救う。それだけだわ」
「どうやって? 説明、聞かせろよ」
クリフが腕を組んだ。風がそよぎ、2人の髪を撫でて行く。神の色を有した、2人の髪を。ダナ神の守護が濃い、ラウリーの髪を。
「……言えない。上手く言えないから。帰りましょ」
「待てよ」
「放して!」
「おい!」
「あっ」
逃げようとするラウリーが石に蹴つまづき、クリフも一緒になって草の上に倒れた。何とか手を突いてラウリーの上に転ぶことは避けたが、仰向けになったラウリーの上に、クリフが覆いかぶさる形になってしまった。
ラウリーが逃げようと身をよじったのを、クリフはもう片方の手を突いて阻んだ。ほとんど無意識に。
2人のわずかな隙間を、冬の風が通りすぎる。
クリフの鼻に、汗の混じった花の香りが漂い、クリフは我に返って手を放した。身を起こす。
クリフはあぐらを掻いてうつむいた。ラウリーも起き上がり、その場に座る。
「ごめん」
どちらからともなく、言葉が重なった。
「これだけは信じて。私、クリフを軽く見てるわけじゃないわ。そうじゃなくて、私……」
「もう、いいよ」
クリフはなるだけ優しく言ったつもりだったが、どことなく言葉がつっけんどんになってしまった。ラウリーの傷ついた顔が、心に痛い。そうじゃないんだ、と思う。俺はラウリーに、いつもの強気で勝ち気な顔をして欲しかっただけなのに。
それはクリフの中にどうしても、自分がいつだって蚊帳の外だという意識があるせいだろう。ここまで来たものの、イアナ神の剣が手中にあるものの、それをどうやって使えばオルセイが救えるのかが分からないためのクリフの不安でもあった。
現場に“飛んで”行く、それだけに必要な人材なんだろうか、俺は。とクリフが思ったとしても無理のない話だ。事実、エノアはクリフに対してそれしか要求していない。
イアナの剣と、クーナの鏡。それからクリフが持っているらしい『力』。
これだけ揃っていて、明日、ようやくなのだ。エノアの魔力回復を待ちつつ南下する旅は、神経を消耗した。だが、それはエノアとてそうであったろう。もう、部屋に閉じこもって3日になる。それだけ、“転移”先における体力と魔力の消耗を最小限にとどめたいのだ。向こうで行うべき“浄化”のために。
ダナの石自体が完全でないため、石そのものの場所が特定できないという理由もあった。『魔力』自体は漂っている。ジェナルム国を覆う死の力が。
ダナの石そのものが“本体”だとすれば、その“中身”がオルセイの中にいる。“中身”は“意志”だ。ダナの、“意志”。
一旦は覚醒させた“意志”を浄化できなかったのは、エノアの甘さだった。“意志”は石に戻して浄化しなければならなかったのだ。動きだした、ダナ神としての力が完成する前に。“意志”が目覚めたことにより石も発動した。どちらを優先すべきだったのかは、今となっては答がない。結局は自分も過ちを犯す一人の人間であり、大きなカラクリの一つでしかないのかという気分にさえなってくる。
エノアは宿の一室に閉じこもり、部屋を暗くして精神を集中させていた。
どうして、起きたのか。
物事は、理由なく起こらない。
誰かがそれを望んだから起きたのだ。
ダナ神自身が望んだのかも知れない。
だとしても、もしそうであっても、ダナがそれを望んだ理由が要るのだ。
エノアは呪文を詠唱しながら、いつしかラハウが言った言葉を思い出していた。
『この世は融通の利かないことだらけさ』
エノアは半分だけ、この言葉に同意する。望んでも叶うなどとは限らない。それが世界というものだ。
だが望まなければ、何も変えられない。
『それに』
言いかけたラハウ。
エノアはその続きが分かる気がした。
エノアは、エノアの望む世界のために、ダナを止めようとしている。
魔道士は何も望まないと言いながらその実、何も望まないことを望んでいる。
そう思う時エノアは、ほんの少し見てみたくなる。
ラハウの思惑通りになった場合の世界を。
ラハウが望んだ世界。
ダナが作る世界。
オルセイという媒体を得たダナが求めるものは──“死”のみ。
その方が幸せなのかも知れない、とも、ふと考える。
「エノア様」
リンの声に引き戻されて、エノアは扉を見た。リンは「申し訳ございません」と一礼した。ラウリーの外出中に、ラウリーの寝床を整えてきたのだ。
リンはエノアの向かいにあぐらを掻くと、だらりと下げた両手の指先を軽く合わせた。指先に、鼓動を感じる。血の流れ、自分の呼吸、エノアの呼吸、エノアの空気、周りの空気、世界の風。イメージを膨らませる。それが整い力が満ちた時、魔法が起こるのだ。
リンは一度閉じた目を開けた。
「気が、乱れています」
エノアはフードの奥から、リンを見た。
「お前は、魔道士たる人間かも知れない」
エノアはさらりと言い、リンも当たり前に聞いた。当然リンは、魔道士なる存在が実在していると知ったのは、今この瞬間が初めてである。だが驚かなかった。ラハウとエノアに、共通の『気』を感じていたためである。むしろ、その方が自然だとすら彼女は思っただろう。
「私は、ダナの“器”になれなかった人間」
「私もニユの“器”ではない」
リンは即答せず、一拍置いた。
「過ぎたお言葉です」
「魔道士は、なれるかどうかではない。なるのだ」
リンは黙って、また一礼した。
「“転移”の詠唱を致します」
しばらくしてエノアは、扉の外に2つの気配を感じた。
一つはラウリー。一つは、イアナの“器”。
術を整え明朝に“飛ぶ”時まで、2人はこの部屋に入らない。廊下を挟んだ向かいの、別々の部屋に帰っていくのが感じられた。
エノアは愚問と知りつつ、リンに聞いた。
「明朝も髪を梳くか」
「梳きます」
エノアは、自分の心を感じる術を忘れたような彼女が唯一見せるこの意志があれば、この子はいずれ魔道士になるだろう、と思った。
その、毎日丁寧に梳かれた紫の髪を触って、部屋の扉に手をかけた娘は、まだ部屋に入ろうとしていなかった。ノヴに手をかけたところで、エノアがいるはずの向かいの部屋を気にして、立ち止まった。
明日の朝もリンは私の髪を梳いてくれるのかなぁと思ったためもある。
もしくは躊躇する自分の様子を、隣の部屋に入ろうとしているクリフに、見咎めてもらいたかったのかも知れない。
『ううん、何でもない』と笑いたいがために。自分のために。
けれど本当にクリフが声をかけてくれると思っていなかったラウリーは、心に反して、その言葉を言うことができなかった。
「どうしたんだ?」
夕食を採り終わった2人が部屋に戻ったのは、空がすっかり暗くなってからだった。エノアとリンがいる部屋は、もう闇になっていることだろう。闇の中で精神を集中し、魔力を高める。
クラーヴァ王城を出て、ソラムレア国のクリフの元に飛んでくる時もそうだった。町に入り、宿の中で疲れた体を治してから気を高め、クリフの持つイアナの剣めがけて“転移”をしたのだ。
ラウリーはその時に、改めて自分の役割と浄化の方法を聞いた。エノアがあまりにも淡々と説明してくれるので、かえって「いよいよなのだ」という思いがした。ラウリーがローブを着るのも、リンがラウリーの髪を梳いて少しでも力を分け与えようとするのも、その方法を聞いたためである。
「クリフ」
何でもない、と言いたかった。
兄を救いたい。そのためなら何でもする。それが自分の役目だと。
ラウリーは、自分に言い聞かせていた。
自分がどんな顔をしているのか分かっていなかったラウリーは、クリフが自分を見て驚く様子に、首を傾げた。だがその動きで頬をつたったものに気付き、ラウリーは慌てて、
「何でもない!」
と、ようやく言えた。
「ラウリー!」
クリフの伸ばす手から逃げるようにして、ラウリーは部屋の扉を固く閉じた。