表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/192

7-3(交渉)

 豊かな金の長髪を一つに束ねて持ち上げ、手際よく、くるくると後頭部にまとめる。ピンを髪に差し込んでひっつめ、首筋と耳と額がすっきりと出ると、彼女の横顔は、いつにも増してきりりとして見える。

 そして次に、着慣れたラフな上着とストールをすべて脱いで、かっちりと縫い目の揃った四角く白い正装で身を包むと、そこには生半可な男では太刀打ちできないほどに男前の騎士がいた。

 首元まですべてのボタンを止めて、上着には金糸を織り込んだベルトを締め、白いパンツに黒いブーツを履いている。歩くたびに踵がカツンと鳴る、その音すらも凛々しい。白いマントを背になびかせて歩く彼女は、一つの扉の前で止まった。

 幾何学模様の装飾が施されている、木の扉。その周りの壁は土のような色をした石であり、床も同じ石で埋め尽くされている。ロマラール国の建物とはかなり違う様相なので、その通路に、彼女の格好はひどく浮いていた。しかし浮いていることが変なのではなく、それは彼女が特別だからだと思わせる何かが、彼女にはあった。

 白く細い手首が上がり、扉をノックする。

「失礼致します」

 ネロウェン国の言葉だ。

「お待ちしていました」

 男性の声が応えた。

 すぐに音もなく扉が開けられ、部屋の主は、入室した彼女に若干躊躇してから微笑んだ。口元と目尻に、深い皺が寄った。

 彼女は男の躊躇を気に留めず、左胸に右拳を当てるロマラール国騎士の敬礼をした。

「ロマラール国騎士団長、ルイサ・エヴェンです。お初にお目にかかります、アナカディア・トゥブーセス様」

 ロマラール人の彼女が話す綺麗なネロウェン語に、50、いや60は下らないだろうその男はホッと肩を下げて、先ほどとは違うニュアンスで微笑んだ。

「アナカダとお呼び下さい、エヴェン侯爵殿」

「では私のこともルイサと」

 そこで初めて彼女、ルイサも微笑んだ。男のような格好をしても、華やかさは少しも損なわれていない。

 ネロウェン国王宮の一室にしては地味で狭いその部屋は、左大将アナカダ専用の執務室であり、個人的な部屋でもあった。基本的にこの城の出入り口は扉も窓も隔たりがなく、すべて吹き抜けになっており、大きな廊下とバルコニーに覆われている。しかし個人の部屋、特にアナカダの部屋にだけは改築がされており、ヤフリナ国式が取り入れられている。つまり、木の扉と木の窓で、密閉空間が作りだしてあるのだ。

「お人払いを了承して下さり、感謝致します、アナカダ様」

「いいえ。互いに公に出られぬ不徳の身なれば、仕方のないこと」

「お戯れを」

 トゲのあるジャブである。

 ルイサは(こた)えていない顔で一礼すると、アナカダに勧められた椅子に腰かけた。これもヤフリナ式だ。通常ネロウェンでは、身分の高い者以外は椅子を使わない。だがアナカダの部屋には、奥に業務用らしき大きな机と椅子、そして手前に、客人用の丸テーブルと椅子が4脚、置いてある。威厳のためでなく、生活の一部として取りこんであるのだ。

 相当博学で、そして前衛的な男と見るべきだろう。年にごまかされてはいけない。

 だがアナカダの服装は、生粋のネロウェン人だ。ネロウェンの服は、特に高貴な者はふっくらとしたフォルムの服を着る。彼も頭のターバンこそないものの、袖の広い麻の上着と、裾を足首で絞った厚手のズボンを着ていた。アナカダも貴族であり、それなりの権力を有していると見て良いだろう。

 そうでなくては困るのだが。

「いや、しかしロマラール国の使者エヴェン侯爵殿が、まさかこのように美しい女性であるとは聞いておりませんでしたので驚きました」

「恐れ入ります」

 ルイサは愛想を振りまいた。

 彼女の白い騎士服には、胸の真ん中にブローチが着いている。かつてクリフとオルセイが、ヤフリナ国領主テネッサ・ホフム・ディオネラに会うために通行許可証として用いた、ロマラール国の紋章である。少しでも交流のある国の上層部なら誰もが知っている、ロマラール国騎士団長だけが持てる印籠だ。

 ただしルイサのこの訪問は、最初にアナカダが言った通り、正式な謁見ではない。

 本当ならばルイサはこの男と、城でないどこかで内密に会う予定だった。

「情勢が変わり、城を出られなくなったと文を頂戴しましたのには、私の方こそ驚かされました」

 ルイサはさっそく斬り込んだ。

「王自らが新たに軍を率いてお出向きになられるほど、事態が切迫しておられると?」

「ご存じでしたか」

 歯に衣を着せずに聞いてくる美女に、アナカダが少し表情を変えた。どこまで話して良いものかと思案している顔だ。

「いいえ、ジェナルム国王ダナザ2世への謁見が目的です。視察という名目でご出立になりました」

 大人が子供に言い含めるような口調。ルイサは満面の笑みのまま、

「アナカダ様。失望させないで下さいませ」

 と、笑っていない目をして言った。

 その目に、アナカダが自分の失言を悟り、凍った。

「あなたの目前に座る田舎国の使者は、お人形ではございませんよ?」

 不必要なまでに自分を卑下するルイサの口調は、かなり挑戦的だ。ルイサが続けた。

「もし本当にそのような漫遊の旅であらせられるなら、それは私の存在を軽んじるばかりか、この戦争そのものを甘く見ていらっしゃるということになりますわね。私がお目にかかりたかった国王様は、そのようなお方でございますか?」

「まさか」

 思わず言ってから、アナカダは体勢を繕ってルイサに謝罪した。

「ロマラール国は素晴らしい女性をお持ちですな」

「お恥ずかしいですわ」

 ルイサは少女のように肩を竦めて微笑んだ。が、

「そう思って頂けると小安ですわね」

 ともつけ加えた。アナカダは下手なことを言えない自分を感じた。

 ため息をついて立ち上がり、隅に設置してある台から、2つのカップを持って戻ってくる。甘酸っぱい香りがルイサの鼻を突いた。その中には透明に見える液体が、湯気を立てていた。

「果実湯ですが、少しだけ酒を入れてあります。大丈夫ですか?」

「少しなら」

 目の前に置かれると、なるほど確かに甘い匂いには酒らしきものが混ざっている。人払いをしたので茶が運ばれてこない、だからアナカダ自らが振る舞ってくれたのだ。ルイサは礼を言って、ためらわずに一口舐めた。

「……ご存じの通り、この国に君臨したばかりの我が君は若干16歳。王家、諸侯の方々の助力なくしては、国の統治がありえません。特に王弟マラナエバ様とその臣下、それから第2皇女様の夫フセクシェル男爵様ご一族は親身になって後ろ盾をして下さっております」

 アナカダは一旦そこで言葉を切って、ルイサを見た。

「今回の陛下ご出陣も、マラナエバ様のご助言ゆえ」

 アナカダの顔は苦々しい。ルイサはなるほどと思った。つまり、この2人が少年王の主たる敵なのだ。

 王弟というのは言うまでもなく王位狙いだろうし、フセクシェル家の方も少年王を目の敵に思う何かがあるのだ。ルイサもネロウェン王家については調べたつもりだったのに、このように大きな摩擦だとは思わなかったので、内心、考え込んでしまった。

 フセクシェル家には少し面白い話が飛びかっていた。

 いや、もちろん公には国で一二を争う大富豪だ程度にしか認識されていないが、裏では武器や子供も売る輩だとか何とか……。ただの噂であり信憑性の薄い話だったのに、ここに来て急に現実味を帯びてしまった。

 余談だが、ネロウェン国は東から来た民族なので奴隷制度の消えるのが遅かったが、ロマラールやクラーヴァ、ソラムレアなどは何世代も前にその流れが途絶えている。召使いなどと名を変えれば、まだまだそうした奴隷に近い雇用は存在しているのだが、表だっての人身売買は禁止となっているのが現状だ。

 このフセクシェル家の裏がもし本当で、しかも、例えばソラムレア国に内通しており戦争勃発の立て役者の一人だったりなぞしたら、さぞかしディナティ王が邪魔なことだろう。ディナティは本心ではソラムレアとの和解を望んでいるし、敵国に武器を売る身内などもってのほかである。

 かなり大きな抵抗勢力と見て良いだろう。これだけの外部圧力だと、少年王は真価を発揮することなく失脚するかも知れない。今回の進軍にしても、何らかの策が講じられているのかも知れない。

 ルイサは厄介なことを聞かされてしまったな、と思った。

 ネロウェン国とルートを持つことを目的にここまで来たのだが、ネロウェン国の誰と(・・)つながるのかとは考えていなかった。

「お話はよく分かりました」

 ルイサは姿勢を崩さず言った。

「国王様が何の理由もなく、ただ王弟殿下のご助言を考慮しただけで出撃なさったのなら、それはさぞかし重要なお言葉であったに違いないのでしょうね」

「それは、」

 アナカダは言いよどんだが、すぐに決意したようだった。

「理由は、あります。ジェナルム(向こう)に駐屯している軍からの連絡が途切れたのです。我が国には、そちらのような伝達方法が発達しておりませんので、使者を送るしかなく……駐留軍からの連絡係も、こちらからの使者も戻らぬ状態になってしまい、国王自らが視察にお出向きになられることに」

「伝達方法?」

「魔法です」

 ルイサは意外な言葉に目を剥いた。

「聞くところによると、あなた方ロマラール人の中には手を使わずに物を持ち上げたり、遠く海を越えて会話ができる者がいると」

「ご、誤解ですっ」

 後々不利になるかと思ったが、これは訂正しないと、もっとややこしくなる。ルイサは慌てて諸手を挙げた。

「ロマラール人であることはおろか、魔法使いになったとしてもそのような芸当は無理です。それに私たちのことをどれほどご存じか分かりませんが……ロマラールには、そんなに魔法は普及していません」

「そうなのですか?」

 アナカダは半信半疑の顔をしていたが、やがて失望の表情で頷いた。ルイサの情報の大半が魔法によるものだと思われていたのなら、複雑な気分である。この執務室の両壁はすべて本などの書物で埋め尽くされている。そこから知識を得たのだろう。

「もし、ルイサ殿に魔法を使える方がいるのなら、ジェナルム国の動向を探って頂きたかった……金に糸目はつけなかったのに」

「お役に立てず残念です」

 アナカダの顔が一気に老けた。ルイサの訪問は彼にとって、一つの望みだったのだろう。

 それにしても、とルイサは思った。ソラムレア軍がジェナルムに攻め入ったがために連絡が途絶えた、ということはあり得ない。それならば、そうなったという情報がルイサには(・・・・・)入るからだ。それにソラムレアなら、主力軍は海軍であり、港から攻めてくるはずだ。危険な山越えをしてジェナルムでこぜりあいをするより、よほど効率的である。

 ジェナルムからの、すべての情報(・・・・・・)(つい)えるなど、あり得ない。

「これを」

 気を取り直したアナカダが突然、窓際に設置してある大きな執務机から一枚の皮紙を抜き出した。よほど忙しいのだろう、あちこちから本が出しっぱなしになっており、書類やペンが机からこぼれ落ちそうな勢いだ。それでも客人用のテーブルは綺麗にしてある。おそらく平常なら、仕事中の机だって綺麗な男に違いない。

「あなたの欲しているものは差し上げましょう。貿易のすべてを開放するわけには行かないが、2つの港への、一定量の取引を承認しましょう」

 ルイサは巻物を外して中をあらためた。貿易の認可証だ。

 あまりに簡単にそれを渡してくれたことに目をパチクリすると、そんなルイサに左大将は苦笑した。

「ヤフリナ国を介さずにロマラール国と直接交流ができるなぞ、願ってもない事態なのですよ、ルイサ殿。そのことでヤフリナ国が損害をこうむり、ロマラール国との仲が悪くなることまで、あなたは見越しておられるはず。当然の流れですからな。だからこそ今日ここに来ることを内密にしてくれと、あなたは私に頼まれた」

「その通りです」

 と口では言いながらも、ルイサは舌を巻いた。

 やられた。

 この男、ルイサにエサをぶらさげて、ルイサを試しているのだ。今ここで認可証を受け取れば、ロマラール国は王家とつながった(・・・・・・・・)ということになる。しかしこれを断れば、ルイサは(・・・・)王弟派だ(・・・・)と見られることになるのだ。ルイサとしては、このままアナカダと組むことも辞さないが、彼女にはそこまでの権限が与えられていない。

 ルイサは、このアナカディアという者は大将という冠ながらも軍人向きの男ではないな、と感じた。部屋の様子からしても立場的にも、世が世なら、文部大臣辺りに収まっていそうな男だ。年からしても、長期実戦などはもう辛いだろう。

 ルイサはアナカダから目をそらさず微笑んだ。

「今回、私の訪問はロマラール国内ですらも内密です。王の書状を持たない一介の侯爵に、公式の認可状など持たせるべきではありません、アナカダ様。先にお贈りした献上品も、ロマラール国からでなく、私、ルイサ・エヴェンからの私用な品とお受け取り下さいませ」

「では……」

「ただし、」

 ルイサは強い口調で、アナカダの発言を遮った。

「私の見聞きしたことはすべて、ロマラール国王ハイアナ5世の耳に入ります。アナカダ様の恩赦とご厚意は、必ずや国をあげてお返しできるものと存じ上げます」

 ルイサの断り方に対して複雑な表情を見せるアナカダに、ルイサは、伝家の宝刀とばかりに懐から包みを取りだした。

「?」

 アナカダが覗きこむように顎を上げる。包みは、ルイサの手中に収まるほど小さい。彼女が布を広げると、そこには白っぽい硬質の破片が一つ、光っていた。

「ルイサ殿……これは?」

「お納め下さい」

 布ごと机に置いても、それは軽いものらしく、布のこすれる音しかしない。だが手に取ると、それが鉄であり、非常に薄く堅く作られていることが分かった。

「これがソラムレア国の技術です」

 今度はアナカダが目を剥く番だった。

「ヤフリナ国のある豪商が、ソラムレア海軍と手を組んでいます。まだ現在はすぐに攻め入ってくる様子がありませんが、充分にご注意下さいませ」

「ルイサ殿……そんな、それは、どこから……」

「魔法ではありませんよ」

 ルイサは笑い、立ち上がった。

「この、たった一カケラの鉄を手に入れるために、私の部下が命を落としました。軍人として然るべき顛末の一つでしかありませんが、お心に留めて頂けましたら幸いに存じます」

 彼女のまつげが、ほんの僅かだけ震えた。

「必ず役に立てます」

 アナカダも立ち上がって力強く頷いた。

「次は謁見の広間でお会いしましょう」

 国の代表として堂々と来てくれという意味だ。差し出された右手を、ルイサは堅く握った。

「ディナティ王様のご盛況を、心よりお祈り申し上げます」

 戸口に立ち、ロマラールの敬礼をする。

 左大将アナカディアは立ったまま、退室するルイサを見送った。

 多くは語らないが少しだけ本音を見せたルイサの、微妙な立場を見て取ったのだろう。ロマラール国自体がネロウェン国に対してオープンに、友好に接することができる状態なわけではない、ということも理解できたに違いない。だがルイサが最後に出した切り札『ヤフリナ国と組んだソラムレア海軍』の情報によって溜飲を下げ、退室を許した──。

 アナカダは、切れる男だ。

 ルイサは扉が閉まった音を聞いた瞬間、思わず安堵のため息をついてしまったのだった。

「エヴェン様」

 ルイサのため息を隠すように、戸口から離れた場所に立っていた男が声をかけた。アナカダと同じく切れる男が、執務室の近くにいて、忠実に待っていたのである。

 正装をさせて銀の髪に香油をつけると、どこの騎士か公爵かという風情になるナザリは、王城での護衛にピッタリだった。その2人が肩を並べて歩いていると、きらびやかなことこの上ない。

 金のルイサと、銀のナザリ。

 だからといってコソコソとせず、一国の王女であるがのごとく堂々と立ちい振るまうルイサを不審がる者は、誰もいなかった。それが狙いだ。2人は周囲を歩く者や景色にもまったく振り向かず、まるで城の住人のような顔をしながら城を出た。

 丸いフォルムの、こぢんまりとして見える砂上の王宮を後にして、木造で黒塗りの馬車に乗りこむ。扉を閉めてカーテンも引き、風を遮る。ネロウェンの街は巻き上げる砂で、うっすらと茶色に染まっていた。

 道はしっかりとした土に固められているし、ここネロウェン王都は3重の壁に守られている巨大要塞なのだが、それでも風に運ばれてくる砂は完全に防ぎきれないらしい。

 ルイサは引いたカーテンの隙間から外を眺めていた。馬車がこの城下町全体を囲む第一城壁を抜けて第2エリアに入ったことを確かめた後、ようやく口を開いた。

「まずいわ」

「決裂ですか?」

 向かいに座るナザリが、ルイサの表情を窺う。

 ナザリは“ルイサ・エヴェン”と話す時は、敬語になる。

 ルイサ・エヴェン。

 日頃は踊り子として庶民に溶けこんでいるが、裏ではロマラールの港町サプサ一帯を治める領主、エヴェン侯爵である。騎士団長の位も有していながら、そのもう一つ裏では秘密裏に情報集めをする海兵団“ピニッツ”の頭領、ミ・ルイサ──。それが彼女の正体だった。

 単なる騎士であった彼女が海賊“ピニッツ”に出会った時、彼女の運命は大きく変わった。

 ルイサはナザリに感謝してもしきれない思いを抱いていたが、ナザリもまた、それは同じだった。ただの海賊として身を滅ぼしかけていたナザリを、ルイサとマシャが救ってくれたのだから。

 というような会話を、2人は一度も交わしたことがないが。

「いいえ、左大将とは上手く行ったわ。けれど思ってもいなかった事態が起こっているようね」

 揺れる馬車の中でルイサは声を潜め、ナザリに左大将アナカダと話した一部始終を伝えた。ルイサはナザリにそうした情報を一つも隠さないし、ナザリもルイサにすべて伝える。完璧な主従関係だった。プライベートすらも仕事にどう影響するか分からない。ナザリはルイサがつき合っている恋人の数と名前まで知っている。もしルイサが自分に隠す男が現れたなら、その者がルイサの結婚相手になるだろう、とナザリは思っている。

 そんな2人なだけに、2人にはこの先“ピニッツ”に起こり得る危険が、充分すぎるほど分かっていた。マシャに自分から降りると言わせたのは、そんな2人の空気だ。マシャが持つ“ピニッツ”での統率能力を失うことも痛手だったが、支障のないようには手回ししておいた。

 マシャの幸せのために。

 と、思おうとしていた。

「先日の件、」

 ルイサが片手で額を押さえ、俯いたまま呟いた。馬車の音にかき消されそうなほど小さい声だったので、ナザリは身を乗り出した。

「あの子。よね」

 疑問ではなく、確信。ナザリも躊躇せず頷いた。

『新たなネロウェン軍が投与された』というその情報は、誰から送られて来たものなのか分からない。沢山の人の手を渡って来ているから。

 しかし“ピニッツ”が開拓したこの国最高の情報組織を使って最速で届けられた知らせは、“ピニッツ”に知らせるためだけに届けられたものだ。ネロウェン国での裏社会で、海兵団“ピニッツ”としての知名度はまだ低い。なのに“ピニッツ”のために動いた情報だったということは、“ピニッツ”を高く評価している者がいるということに他ならず、何の交換条件もなしにそんなサービスがされるということは、その方角へ行った“ピニッツ”贔屓の人間がやることで──……。

「エヴェン様」

 だがナザリには、何の迷いも見られなかった。

 ルイサも迷っている場合ではない。

 むしろナザリの方がマシャに大きな愛情を持っているから、だからこそ、はっきりと切ることができるのだろう。彼は理性と感情を天秤にかけない。

 ルイサは顔を上げ、カーテンを完全に閉めた。

「ネロウェン国と友好条約を結んでいるはずのジェナルム国から、何の噂も聞こえてこないのが不穏だわ。それと、ソラムレア国と通じているのかも知れないフセクシェル家の動向も探りたい。もう少し滞在しましょう」

 ヤフリナ国を出る時に、ロマラール国には中間報告を送った。何よりルイサ自身が、こんな中途半端な経過だけでは帰る気が起きない。ルイサは爪をかもうとして、気付いて、止めた。爪の形が悪くなる。

「こういう時、つい無茶な願いが心に浮かぶわ」

 ルイサが言い、ナザリが「おや」と肩を竦めた。

「私も浮かびます」

 ルイサが顎を上げた。

 ナザリが微笑んだ。

「不可能のない“ピニッツ”を見せつけましょう」

 ルイサも微笑んだ。

「私自らが、フセクシェル家に接触してみます。旧友に、有力な商人がおります」

「あぁ」

 その商人の名は、ルイサの脳裏にすぐ浮かんだ。

「心強いわ」

 ナザリは馬車の扉を開けると、すばやく飛び降りた。ナザリは、絢爛な目立つ格好だったにも関わらず、すぐ雑踏に紛れて見えなくなった。ルイサは馬車の扉を閉めて小さく咳をすると、乱れた髪をほどいて一振りした。ひっつめられていた髪が自由を得て、さらりと背中に流れた。

「不穏、ねぇ」

 あやふやな、ルイサの嫌いな言葉だ。状況のはっきりしないことに限って、こんな言葉でごまかされる。

 実のところ“不穏”などというものはない。蓋を開ければ、誰と誰が憎みあっているのか、誰がどんな得をしたいのか。それだけだ。

 すべての人間がおのおのの方法で、ただ幸せになりたいと願っているに過ぎない。一つしかないものを2人以上の人間が「欲しい」と言いだせば、ケンカになるのは目に見えている、それだけのことだ。

 嫌いなことは解決させる。

 ルイサは馬車の窓を開け、御者席に座る“ピニッツ”の大男ギム・ヨルに声をかけた。

「船を出して、北上するわよ。ジェナルム王都に向かっているとかいうキャラバンに追いつくわ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ