7-2(狼狽)
ゴーナ小屋に寝られるだけでも、ありがたいというものだ。
赤毛の青年は、狭い小屋の中に積みあげられた藁の上にゴロンと横になり、いつか一緒に小屋で寝泊まりした子グールのことなどを思い出していた。赤毛と黒毛の、コロコロとした動物たち。今ではずいぶん大きくなっただろうな、と思う。
そんなグールに自分の名前が付けられているとは、まさか夢にも思っていないが。
クリフは寝そべったまま、カーティンの母親が持たせてくれたチーズを噛みちぎった。カーティンらは、他にも旅に必要な様々なものをクリフに与えてくれた。ゴーナはもちろん、食糧や水、医療品やマントまですべて揃っている。
まだ、ソラムレアの革命は終わったわけではない。むしろこれからだろう。国民の手による国造りなど、想像もつかない。皇帝派の残党もいる。物資は貴重なはずだ。自分のやりたいようにやっただけだったクリフは、かえって申し訳ない気持ちになった。カーティンの恩に報いるどころか、足を引っぱってしまっている。
「良いんだ。これでも、ささやかだと思っているんだ、受け取ってくれ」
カーティンは充分な路銀までもを、クリフに渡した。クリフは、初めて見る紙幣というものに、破れそうな頼りない印象を持った。だが、これがソラムレア国の現状ということなのだろう。銀や鉄、銅をすべて戦争道具へとつぎ込み、金は外国との取引で流出していった。その結果が、この紙なのだ。
布でもなく、植物を水に溶いて作ったというこの“紙”の技術に驚くと共に、何やらもの悲しい気分になった。
「時代は変わってんだなぁ」
「は?」
「いや、何でもない」
苦笑して、カーティンの右肩を叩く。カーティンは果敢に起きているが、げっそり痩せた顔と、左腕の消失が何とも痛々しかった。
まだ朝靄のかかる町外れで、クリフはカーティンに見送られながらゴーナに乗ったのだった。
「元気でな」
クリフは無理矢理、笑顔を作った。
ひょんなことで関わってしまったこの国の未来を思うと、今去るのは、後ろ髪を引かれる思いがした。けれど自分にはやることがある。行かなければならない。
クリフの様子を察して、カーティンはカラッと笑った。
「大丈夫さ。来年また来いよ。きっと皇居の真ん中に“イアナの英雄”の像が建ってるぜ」
「ぞ、像?」
「俺が建ててやる」
「止めてくれ」
げんなりしながら笑いつつ、クリフは反転した。一度ふり返って手を振ったが、その後はもう見なかった。だが、靄の中に消えていくカーティンの姿やソラムレアの街並みが、クリフの目に見える気がした。うっすらと白くなっていくカーティンの笑顔。荘厳な廃墟を抱え、ひっそりと建つ街。
「また来年か」
その時のことを思い出しつつ、クリフは堅いチーズを咀嚼した。
来年にはどうなっているだろう、と思った。無事、オルセイと共に家に帰っているのだろうか。その時そこには変わりなく、義父と義母とラウリーがいるのだろうか──。
そんなことをぼんやりと考えていたクリフは、段々と眠気を感じ始めた。
ところが。
「きゃっ?!」
一気に目が覚めた。
「うわ?!」
仰向けに寝ている、自分の目の前に。
小屋の天井近く、中空に。
つまり、真上だ。
人が出現したのである。
出現した人間の背中が、どんどんと大きくなっていく。
クリフに向かって落ちて来たのだ。
しかも3人。
「だあぁあぁっ?!」
「きゃあぁ!」
ドドン! と盛大な音がして、クリフは干し草の中に埋まった。しかもその重みと圧力で押しつぶされた腹から、危うく飲み込んだチーズを吐き戻しそうになってしまった。クリフは目を白黒させながら、つばを飲み込んだ。
剣を取ろうにもあまりに突然の出来事だったし、乗ってきた物体が邪魔をして、手が伸ばせない。藁が舞い、咳き込んだ。急な来訪者に驚いたのはクリフだけではなかった。小屋に並ぶゴーナたちも悲鳴を上げて暴れた。一頭ずつ柵に入れられていなかったら、小屋を壊し、クリフを蹴飛ばしていただろう。
「ちょ、ちょっと」
どもりながら、クリフは上に乗ったものを押し上げた。と、何か柔らかい物体が手の平に収まり、クリフの脳裏が真っ白になった。先ほどの悲鳴は、女のものではなかったか、と。落ちてきたのは、人間ではなかったかと。
全員揃って咳き込みながら、上に乗っていた者がクリフに気付いて動いてくれた。ようやく自由を得て体を起こしたクリフが、最後まで放していなかったのは──。
クリフは、その者の姿をにわかには信じられなかった。
確かにそれは女だった。
紫の髪を持つ女。
だがクリフの記憶にある彼女とは違い、その者は動きにくそうな白い服を着ていた。少し髪も伸びたようだし、やつれたかな、などとも思う。だが、そこにある表情はクリフの知っている彼女だった。
彼女は勝ち気な目をしていて、顔を真っ赤にしていた。わなわなと唇が震え、肩をいからせてクリフを睨み、
「どこ触ってんのよーーーっ!!」
バチコーン! と勢いの良い破裂音が小屋いっぱいに鳴り響いた。
じゃれる2人を無視して、3人のうちの一人、少女がよろけながらも立ち上がり、膝の汚れをパンパンと払っていた。黒マントの男は少し体を避けただけで、藁の中にうずくまったままである。顔は見えないが、少女の方が相当に顔色を悪くしていることから見ても、こちらもかなり疲れているようだ。
こいつは元気ですが。
そう思いながらクリフは、目前の娘を見る。クリフの頬にはくっきり手形が着いていた。まぁ拳じゃないだけマシだったのだろうが。
だがそう思った彼女もやはり、威勢が良かったのは最初だけだった。立ち上がることもできず、ふらふらとしている。
「あ……ラ、ラウリー?」
クリフは今度は気を付けて、ラウリーの肩を支えた。ラウリーのはずだ、と思った。
そうはいないだろう、紫の髪。そして見覚えのある黒いマント。文字通り降って湧いた彼女に、何と言えば良いのやら。しかしそれは彼女も同じようで、目をさまよわせている。
「ひ」
「ここはどこでしょうか?」
ようやく“久しぶり”と言いかけたセリフを遮られて、クリフは内心つんのめった。少女が、もの凄く淡々とした口調でクリフに話しかけてきた。子供じゃないのか? と思う冷めた口調だったが、外見は明らかに10歳程度の少女だ。
クリフはこの少女の髪も紫系であることに気が付いた。ラウリーほど鮮やかではないが、赤っぽい、かなり目立つ色だ。伸ばしたそれを三つ編み一本にして、前に垂らしている。全開の額が、まるで彼女の冷淡さを強調しているようだった。
「ソラムレア国の外れ」
答えたのは、クリフではなかった。
どこか人間離れした、天から降ってきたかのように実体のない声だった。無色透明な、声。つい今しがた自分が感じた重みは幻だったんじゃないかと思うほど、この黒マントと少女には人間の気配がなかった。
ラウリーは、人間だ。
だが聖女のように白くスマートな服に身を包んだラウリーは、どこかあか抜けている。一括りにしたざんばら髪とズボンの格好で走り回る彼女しか覚えていなかったクリフを、ドキドキさせた。ラウリーは足を崩して座っていたが、ぞろりと長いスカートが細い形をしているので、はだけてはいない。だが投げ出した足の先がスカートから出ていて、小さな靴しか履いていない彼女のきょっと締まった足首が、モロにクリフの目に入った。
「もう!」
ラウリーがクリフの視線に気付き、急いでスカートを引っぱって足を縮めた。クリフもごめんと呟きながら、慌てて視線を外して立ち上がり、ゴーナに括り付けてある荷物を漁りだした。
その間にエノアは体を引きずるようにして、クリフが寝ていた場所に近付き、イアナの剣を手に取っていた。
「エノア。休んで下さい」
ラウリーが声をかける。しかしラウリーも、すっとは体を起こすことができなかった。連日の寝不足と運動不足のせいだ。長距離の、しかも3人という恐ろしい“転移”に、体が負けてしまったのである。
魔力不足、というのもあるかも知れない。リンは立って戸口に歩いて行き、戸を開けて外に出てしまった。戸の向こうにはもう夜が差し迫っているようで、リンに当たる光が暗く赤かった。
「あ。それは俺の……」
クリフがエノアの様子を見て声を上げたが、途中で止めた。イアナの剣は、自分のものではない。
だがクリフがエノアに近付くと、エノアは剣をクリフに差し出した。
「返してくれるのか?」
「お前も、同じ場所へ行くのなら」
「行くさ」
同じ場所という言い方が、すでに分かっているということだ。
クリフはオルセイと共に消えた。エノアはオルセイを追っている。クリフは南下している。オルセイは、南にいる。
「クリフ、兄さんは? 兄さんは今どうなってるの?」
ラウリーが四つん這いになり、クリフに詰め寄った。きちんと挨拶しないまま会話に突入したことに内心ため息をつきながら、クリフはラウリーに、細身のズボンを手渡した。腰と足首をひもで縛るタイプのものだ。
「その前に。その服の中に着たら、少しは暖かいだろ」
ラウリーはきょとんとした。ズボンを受け取る。心なしか、クリフの顔が赤い。それにつられて、自分までちょっと赤くなってしまった。胸を触ったりするからだ馬鹿、とラウリーは思った。
相変わらず無骨で髪もボサボサで、生意気そうな顔をして……でも、どこか、ほんの少しだけクリフが変わったように見えた。たった一月だったというのに。でもこの一ヶ月は、村で過ごす一年より濃かったと思う。
ラウリーは自分の姿を見降ろした。
自分も、外見だけはずいぶん変わった。
白い長衣。胸元から下の服が覗いている、その色はピンクだ。間違っても、村じゃこんな服を着なかった。髪に櫛を入れることも時々しかなかった。城を出てから3日がたったので汚れてはきているが、そんなものは以前なら少しも気にならなかったことだった。習慣が、ラウリーの中に気にする心を作ったのだ。
「ありがとう、履くわ。……出てってもらって良い?」
これも習慣だろうか。
以前のラウリーなら、クリフに一睨みで意思表示をしていたように思う。どちらにしろ小屋を追い出すことに代わりはないのだが、言い方が柔らかい。
思いがけない再会が生んだだけの、一抹の柔らかさかも知れないが。
クリフはそこまでそんな風に思わなかったので、すぐに立ち上がって出て行った。エノアもそれに続く。
「あ……」
ラウリーはエノアを呼びかけたが、普通にスタスタと歩き去ってしまったので、そのまま見送ってしまった。木造の簡素な扉が閉まる。
エノアの身のこなしは普通の者よりむしろ鮮やかなほどだったが、フードの影に見える顔は異様なまでに白かった。それを見たクリフは、小屋に泊めてもらう人数が増えたと農家の主人に言うべきかなぁと思案した。亭主の怪訝な、不機嫌な顔が思い浮かぶが。
自分一人なら宿を探す必要もないからと思ってこうした農家の小屋を寝床に貸してもらったり、野宿をしたりしていたのだが、この人数が小屋というのもキツい話だ。しかも彼らは身一つで、何の装備も持っていない。本当ならば町に降りて宿を探すべきだ。だが今の彼らでは、今夜中に町に入ることすら困難だろう。
それをクリフがエノアに話そうとした時、エノアの方が先に口火を切った。
「ラハウの傷を知りたい」
クリフは驚いてエノアに振り返ってから、それもそうか、と納得した。
この男が去ったのは、自分とラハウが戦っていた最中だ。その後の顛末は見ていない。けれど彼は今ここに来てクリフを見て、『ラハウがイアナの剣の側にいない』以上ラハウは退散したのだと知ったわけだ。クリフがラハウを倒したと思っていないらしいところが、読みが深くて癪に障る。
「ああ。あのババァなぁ」
「ラハウ様です」
周囲を見ていたはずの少女がいつの間にかクリフの近くにいて、クリフをギクリとさせた。少女の睨むような視線が痛い。いや、ただ単に『見られているだけ』のような目でもあるのだが。あまりにも表情がなくて、感情が分からない。
クリフは目をそらして腕を組んだ。
「多分……普通なら死んでただろうけど、ババァはピンピンしてました、とぐらいしか言いようがないな」
「ラハウ様です」
少女がまた呟いた。その時にようやく、ババァと呼ぶのを止めろということらしいと気が付いた。クリフは少女をちょっと見下ろしてから、エノアに耳打ちした。
「ババァの孫?」
エノアは答えない。
「感じ悪いぞ手前ぇら」
クリフがちぇっと舌打ちして、
「そもそも」
と、エノアの胸ぐらをぐいと掴んだ。マントが揺れる。体力の回復していないエノアは、抵抗しなかった。
「手前ぇあの時、俺がババァに勝てると思ってたかよ」
リンがクリフに近付きかけたが、エノアの空気がこれを制した。エノアはリンを見てもいなかったが、リンはそれを察した。そんな空気を持つエノアがむざむざクリフに胸元を掴まれているのは、エノアがこれを許しているからに他ならない。拒絶し威圧する相手ではないということだ。
「つまり、雑魚?」
クリフは苦々しく呟いた。
「お前、俺があのババァに殺されても構わなかったんじゃないか?」
「死にはしない。捕らえられても自失するだけだ」
「待てよ、それって……」
クリフは絶句した。
本気で自分を殺そうとしていたラハウの剣。それを、殺すためではないとエノアは言う。
エノアは説明した。あれは、相手を仮死状態にして自分の意のままに操る魔術を使うための前段階なのだと。術者の魔力が絶大ならば、そのようなことをせずとも操れるが、そんなことのできる人間は存在しない、とエノアは言った。人間は。
だが人間でないのかと思えるほど、思った以上に強大だったラハウを前にして、エノアは一時撤退を決断した。あそこで全員共倒れになるぐらいなら、イアナの剣とその力を有するこの男をラハウに捧げておいて、力を蓄えてから出直そうとしたのである。
ラハウがイアナの剣とクリフを手に入れて何をする気だったのか分からないが、少なくともダナを消し去ろうとするような、そんな殊勝な企てではないだろう。おそらくは最初にダナを降臨させたのも──ラハウだ。
ラハウはダナの石に近いところにいて、ダナが完成するのを待っていた……。エノアはそう思う。
彼女は手を出せなかったのではない。
出さなかったのだ。
そんな自分がクリフに剣を預けたのは、クラーヴァ城から“転移”をする際に到着場所にも“力”が目印として存在していた方が飛びやすいからだ。例えそれが、自失してラハウの人形になっているクリフであっても、エノアに支障はなかった。もしそうだったなら、エノアはクラーヴァ国でもっと存分に力を蓄え、万全な魔力を整えてからここに飛んで来るまでのことだ。“遠見”をしたらラハウが消えていたから、すぐに飛んできた。それだけのことである。
黙ったままのエノアにかっと来たクリフが拳を振り上げたその時、ゴーナ小屋の扉が開いた。
「クリフ!」
悲鳴を上げられ、動きを止める。戸口にしがみついて立つラウリーが、非難の目でクリフを見ていた。クリフは無言でエノアを突き放した。まさしく踏んだり蹴ったりだ。
「こいつはな。人の命を何とも思っちゃいないんだよ」
クリフが吐き捨てた。大人げなかったが、そのぐらいは言わないと腹の虫が治まらない。ラウリーの視線が刺すようで痛かったが、そんなものよりももっと痛い思いをしたのだ。
沢山の人が死んだのだ。
沢山、殺した。
エノアは返答せず、誰も見ずに小屋に入った。ラウリーが少しエノアを見ていたが、それに応えた様子もなかった。続いてリンが中に入る。リンはラウリーの顔色を見て少し立ち止まったが、すぐにまた歩いて引っ込んだ。
クリフが外に立ち止まったままでいると、ラウリーが目を伏せてクリフに言った。
「知ってるわ」
自嘲気味に。
思いがけない答だったので、クリフの方が驚いてしまった。
「でも、そうじゃないわ」
続いて、不思議なことを言う。ラウリーの顔が半分以上小屋の影に入り、表情が分かりにくかった。泣いているような、笑っているような。思わずクリフは近寄っていた。
「クリフにはまだ分からないかも知れないけれど……エノアは、人を大事にしているわ」
どこがだよ、とか、俺には分からないってか、とか、俺のことも大事にしてくれだとか色々な罵倒が脳裏を駆け巡ったが、近付いて見たラウリーの顔が泣きそうなものだったので、クリフは何も言えなくなってしまった。
「私が言うことじゃないんだけど、どうか許して」
「ラウリー」
彼女を呼ぶ声が小屋の中から上がった。何を思って呼んだものかは分からない。そこに感情は見出せなかったから。
クリフは怒る気が失せてしまい、怒りを外に放り出すかのように大きくため息をついたのだった。
「今は生きてるけど」
とだけクリフは言い、ラウリーとすれ違って中に入ったのだった。彼女のすぐ側を通った時、ふわりと花の香りを感じた気がした。クリフは息を止めて目をそらした。ラウリーはそれに気付かなかった。
暗くなってきた小屋の中にクリフが持っていたロウソクが立てられ、皆がそれを囲むようにして藁に腰かけた。ほわりとした光が木で組まれた小さな建物の中に満たされる。もう外もすっかり日が落ちたようだ。小さな木の窓を、リンが閉めた。
「まず俺からか? それで……あんた、何て名前だっけ?」
クリフがエノアを指さし、それをラウリーが見咎めた。お互いの経緯の説明交換会をしようとしたその時、エノアの体が揺れた。
フードの下からクリフの指先を見て、そして、徐々に頭を垂れる。フードが下がっていく。それを見て怪訝な顔をするクリフを見て、ラウリーも気付いた。リンはもうエノアに近寄っている。
「エノア?」
ラウリーが見た時には、彼の体が地面に衝突しているところだった。
「エノア!!」