6-7(離別)
ネロウェン軍に世話になってから、十数日が経った昼間のことだった。
街道を北に歩く軍が昼の休憩で止まっていた時、オルセイは自分用にあてがってもらった馬車の中に寝そべっていた。もちろん人を乗せるためだけの豪勢な乗り物などではなく、平らな板張りの簡素な馬車だ。だが幌がかかっているだけマシだろう。日陰になっていて涼しい。荷物も沢山積んである。彼が背をもたせかけているのは、干し肉の詰まった皮袋だった。
そこへマシャが、怒った顔で飛び込んで来たのだ。オルセイはぎょっとした。マシャは荒々しく馬車の幌を開け、オルセイの側に投げだされていた毛布を広げて頭からかぶると、皮袋の上に寝転がり、丸まってしまった。
馬車の中にはオルセイしかいないし、今は御者も休憩中で不在だが、外には、すぐそこにまで沢山の兵らが座っている。そんなに目立つ行動をしては、彼らが何かと思うことだろう。
「マシャ?」
オルセイが声をかけてみたが、マシャは無言だった。
いつもはオルセイの乗る馬車に、マシャもゴーナを並べて歩いている。だが今日は、昼前にマシャが右大将シハムに呼ばれて不在だった。王とシハムは先頭近くに立って軍を率いている。オルセイの馬車は列の真ん中辺りだ。
どうやらマシャは、そこで何らかの役割を与えられていたらしい。ので、マシャの怒りの原因はその時のものなのだろうという想像はつく。だが何があったのかはまったく検討がつかない。
「マシャ!」
と、少々おかしな発音で名を呼び、馬車の幌を開けたのは、髭面のシハムだった。彼を見るとオルセイはいつも、何となく黒船“ピニッツ”にいた大男ギムに似てるよなぁなどと思ってしまう。いや、ギムよりもこの男の方が年上だし、威厳や威圧感も彼の方があるのだが。
名を呼んだ後に彼が続けて話す言葉は、もう理解不能だ。
それに対してマシャがまったく応えないので、弱り切ったシハムとオルセイは顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
オルセイはマシャを残して馬車を降り、シハムに、何があったのかを尋ねるジェスチャーを繰り返した。オルセイの体はほぼ治っていた。今はこの軍をいつ離れようかと機会をうかがっている状態なのだ。ディナティがもっと嵩高な王だったなら、離れやすかっただろう。
それとも、そう思える何かが起こったのか。
オルセイは馬車を指さし、首を傾げて見せた。憶えた言葉で使えるのは一つだけだ。
「何があった?」
オルセイの問いにシハムが口を開きかけて閉じ、オルセイに付いてくるよう合図した。兵らの手前、言えないのだろう。シハムは厳格な表情のまま、休憩中で食事などしている彼らを避けて、先頭へ歩いた。
地面に絨毯を敷いた上に、ディナティは座っている。ディナティを囲むようにして数人の兵がひざまずいているが、その正面には、およそ軍人らしくない、軍隊の中では見なかったと思える男が王にひれ伏していた。
男の後ろには、ネロウェン軍のものとは違う馬車があった。幌の色も違うし、二人の若い男女が御者席に座っていたが、あか抜けた華やかな格好をしている。ひれ伏した中年男性は顔を上げてオルセイを見ると、
「新しい通訳の方ですか?」
と言ってパアッと明るくなった。その言葉はロマラール語だった。
マシャが必要とされたわけは、これで分かった。
だが彼女の怒りの理由が不明だ。
「いえ、俺は違います。あの……マシャが、さっきの子が何か失礼なことを?」
オルセイの言葉に、男はいいえと首を振った。
男は、自分はヤフリナの商人だと言った。元々はロマラールと商売をしていたのだが、貿易が途切れると聞いたために早々に見切りを付けて、ネロウェン国に来たのだそうだ。ネロウェン語はカタコトである。だが軍隊が来ていると聞いてチャンスと思い、何とかあってもらい、マシャを介して謁見していたということなのだ。
「雇った私の通訳を連れてきてはいけないと言われました。まさか国王様直々の軍隊だとは知りませんでしたので……このことは他言無用と言われました」
なるほど、言われてみればネロウェン軍が町に入ることは殆どないし、物資の補充も極力抑えている。王のねぐらだというのに、宿の部屋も簡素だった。そう取り立てて隠している風ではないので、町に混乱をきたさないための配慮だろう。
そしてこの謁見の最中に、問題は発生したのだという。
この時にこの商人、マシャが女だと気付いたのを口に出してしまったのだ。
それに対してマシャが珍しく、詰まってしまったらしい。何しろ彼は片言のネロウェン語で、冗談のつもりで「王の愛人か?」と聞いたらしいので。これにはさすがにマシャだけでなく、王も右大将も仰天してしまった。
しかも、その後がまた最悪である。
大慌てで否定するマシャに、右大将シハムが何やら言ったらしいのだ。その内容はオルセイの想像でしかないのだが、シハムはマシャに「そういうことにしておけ」とか何とか言ったものと思われる。もしくは「本当に伽役になれ」ぐらい言ったのかも知れない。商人曰く、シハムがマシャに言ったことがきっかけで彼女が激怒し、その場を立ち去った、ということなので。
「大将様、顎を思いきり殴られましてね……拳で」
商人がこそっとオルセイに耳打ちした。シハムの顎は、確かに髭が邪魔をしてちょうど見えにくかったが、よくよく見ると、左顎辺りがうっすらと赤いのが分かる。仮にも一国のお偉いサンに向かって、とんでもないことをしでかす娘だ。分からないでもないが。シハムも自分が悪いと思ったから、ああしてマシャの後を追いかけてきたのだろうから、まぁ問題はないだろう。
ディナティ王が商人らに、短く「去れ」という意味の言葉を発した。オルセイもこのくらいは分かる。
その声音は暗かった。交渉も決裂らしい。商人がオルセイに、情けない声で「取りなして下さい」と泣きついたが、オルセイは首を振った。
満足に話せない、通訳になってやれないということもあるが、この男の迂闊な発言がマシャを傷つけディナティを不機嫌にしたことを思うと、大きな罪ではないとはいえ、弁護してやる気になれなかった。悪気のない罪もある。
オルセイも下がるように言われ、ほどなく一行は動き出した。その頃にはマシャは自分のゴーナを操って、何ごともなかった顔をしていた。近寄りがたい空気を発していること以外は。
変わりなく進軍し、変わりなく夜を迎えた。
ディナティが素顔に戻るのは、建てられたテントに入ってからだ。すっかり日が落ちて眠る直前にならないと、少年はわずかな憂情すら吐露できない。
「マシャは?」
テントには、ディナティとオルセイしかいなかった。オルセイが首を振る。
「後で行く」
本当は「探して来る」と言いたかったのだが、知っている言葉ではこれが精一杯だ。ディナティはロマラール語を使っており、オルセイはネロウェン語で返した。
少し笑う。
近頃はマシャを介さず、2人で会話しようとすることが多かった。ディナティとしては直接オルセイと話がしたいのだろう。見たところ同じ年代の、気軽に話せる者が彼にはいない。戦の前のささやかなくつろぎとして、オルセイらの存在はディナティにとって清涼剤になっているようだ。オルセイらが魔法を使えないらしいことはバレつつあったが、それは逆にオルセイらを危険視する目を和らげていた。ただの使いの旅人、という立場が確定したのだ。
だからこそシハムがマシャに、王の側にいろというようなことを言ったとしても、無理のない話だったが。
「知らなかった」
「女だと?」
ディナティが頷く。
知らなかったというよりは、知ろうとも思わなかったというのが本音だろうなとオルセイは思った。マシャの立ち居振るまいが上手いので、誰もマシャを見咎めない。商人がそれを女だと分かったのは、ロマラール人を見慣れているためだろう。
こちらの人間は皆、彫りが深くまつげが長い。マシャも目がぱっちりしていてまつげも長いが、年齢より幼い男の子としか見られなかった。何せ色気もないし。
ディナティは、
「危険だ」
と呟いてから、言葉の不足をどう補ったものかと悩んだ末、
「オルセイ、去れ」
申し訳なさそうに言った。今イチ意味が分からない。
だがディナティがもう一言付け加えたので、何となく納得した。
「女は危険だ」
「うん。理解した」
戦争だから危険、という意味もあろうが、男しかいない集団の中に女を一人放りこむというのは、例えそれが10代の少女であっても色ごとの相手にしか見えないだろう。
“ピニッツ”の連中は、あたしを押し倒したり触ったりしないから。
そう言った、マシャ。
できれば同じ目に遭わせたくなどない。しかしそれは、ここを去ったらなくなる危険なのかと自問すると、そうではない、と答が出る。もし今回のようにオルセイの手に負えない人数に襲われて、その中でマシャが女だと知られた場合……しかも相手が軍でなく無法者なら?
オルセイの心中に、ある決意が浮かんだ。
「頼みたい。男の、頼みだ」
そうして少し会話をした後、オルセイはテントを出た。マシャを連れてくる、と言って。
目立たないようにしていても、異国人の動向には皆が気を配っている。マシャの居場所はほどなく知れた。キャラバンから少し離れて影になっている木の根元に、マシャは縮こまっていた。マント一枚だけを体に巻きつけ、そんな寒さで眠れるわけがないのに目を閉じて、オルセイを見ようとしない。足音と気配で、気付いているはずだろうに。
「マシャ」
「今日は野宿する」
目を開いた彼女が、硬い声で吐き捨てた。どうしたものかと困ってしまう。
こんなことは言いたくないが、昼間の話を聞いた誰かがマシャにちょっかいをかけないとも限らないのだ。ディナティは、そんな者は軍の規律に反するので処罰すると言ったが、何かあってからでは遅い。一人だけ例外で女性もいるが、彼女は男のようにたくましく、部隊長を務めている。それでなければいられないのだ。彼女とマシャは同じではない。
「凍え死ぬぞ。皆もっと厚着して、たき火の側で寄りそって寝てるんだ」
「死んでも良い。グールはあいつが面倒看るでしょ」
「マシャ」
捨て鉢な言い方だ。オルセイは声を荒げ、嫌がるマシャの手首を掴んで睨みつけた。木の幹に手をかけ、引っ張り上げようとする。
「俺が困る。死ぬな」
マシャの目が瞬いた。
思わずマシャは体を退いていた。マシャの目には、怖じ気づいた弱い光が浮かんでいたが、オルセイはそれに気付かなかった。
「ナザリが悲しむ」
言うべきかどうか迷ったが、案の定、ナザリの名前はマシャの心に響いたようだった。マシャの瞳の揺れが収まるまで、オルセイは見ないフリをして待った。
マシャはそれでも、まだテントを避けて馬車で寝ると言いはった。だがそれでは困る。
「大丈夫。ディナティは、そんな男じゃない」
「分かってるよ!」
マシャはオルセイの手を振り払い、自分で立った。ディナティのことは嫌いでも、そういう誤解はしていないらしい。マシャはきちんと、周りの人間を分析している。
マントにくるまって歩きながら、マシャは仕返しのつもりか、小さな声で言った。
「オルセイ時々、怖いんだよね」
「え?」
言いたいことが掴めない。オルセイはテントに入る前に、マシャにふり返った。マシャは首を竦めたが、すぐにオルセイを見上げ、強い口調を使った。
「ここの連中に殴られてた時のオルセイ、最後に凄い顔してたんだよ。ヤフリナで、出航前夜に帰ってきた時のオルセイも怖かったけど、あれは仕方がないと思ってた。でも今度のは、本当に怖かったの。自分で分かってた? 気持ち悪いぐらいに目が鮮やかで印象的で……オルセイ、笑った。ちょっと笑ってた。凄く怖かったよ。それに……」
マシャは言いよどんだが、オルセイが続きを欲した。あの時に皆が自分を見て恐怖していると感じたのは、間違いではなかったのだ。
「それに?」
「……何か、ね。頭の中に、絵が浮かんだの」
「絵?」
「イメージっていうか。石、だったの」
「石?」
わけが分からない。
オルセイの中には、そんなイメージはない。だがマシャはその時のオルセイから、脳裏に黒い映像を植え付けられたのだと言った。
「最初は綺麗な、透明で虹色だった石がね、どんどんと灰色っていうか、どす黒くなっていって……」
マシャはいつか見たそれを思い出したのだろう、身震いした。
「分かんない。石じゃなかったのかも知れない。大きさが分からなかった」
段々と小さくなるマシャの肩に手を置き、テントに入るように言おうとした。その時オルセイの手の中で、マシャの肩が震えた。
オルセイはさりげなく手を放し、彼女の背中をポンと叩いた。
「ねえオルセイ」
マシャがふり向く。
「オルセイ……オルセイのまま、だよね?」
内心、ぎくりとした。魔力を持たないというマシャに、自分の中の“何か”が感知されるとは思っていなかったのだ。オルセイは「ああ」と微笑んだが、ぎこちないものになってしまった。それをごまかすために、オルセイはマシャの頭、ターバンをくしゃりと掴んだ。
「俺は俺さ」
そう言ってからオルセイは、この言葉をいつかの時にも言ったなと思った。ロマラール国、サプサの港町で。オルセイが別人になることを恐れたクリフに向かって言った。大丈夫、俺は俺だよ、と。ただ……。
『ただ? ただ、何だよ』
苛立ったクリフの顔を思い出す。
あの時、自分は言った。ただ、呼ばれているような気がするだけだ、と。そう思った時点ですでに、自分でない自分がいるのだと自覚しなければならなかったのかも知れない。
大丈夫だ。
オルセイはテントの入り口をくぐりながら、胸に手を当てた。
俺は、俺だ。
テントの中ではディナティがグールの世話をしながら、バツが悪そうな顔をしていた。入ってきたマシャを見上げ、何か言いたそうにしている。マシャがディナティを見て、その言葉をうながした。
彼は、憶えたロマラール語をマシャに使った。
「悪かった」
「……」
マシャは何も言わなかったし顔色も変えなかったが、ターバンを外して茶毛を一振りすると、絨毯に座り、グールを撫でた。オルセイもテントの入り口を閉じてマントを脱ぎながら、ディナティに微笑んだ。
◇
翌朝、ディナティは冷たい風を頬に感じて、目が覚めた。周りはまだ薄暗い。
その視界に慣れた時、見慣れたテント内に見慣れた2人がいないことに気が付いた。
「オルセイ? マシャ?」
ばっと身を起こした自分の側に、子グール2頭は丸まっている。マシャのターバンやマント、荷物は放置されているが、オルセイのものがない。ディナティはマントを体に巻きつけ、グールらに毛布をかけてやると、2人が眠っていた辺りに手を置いた。マシャの眠っていた方はまだ少しだけ暖かいが、オルセイ側は冷たくなっている。
テントがわずかに開いていた、そこから隙間風が吹き込んでいた。
ディナティがテントから顔を出すと、見張りに右大将シハムが立っていた。大将自らが見張りなど、普通あり得ない。ディナティは目を瞬かせた。
「シハム。2人は?」
シハムが首を振った。
「最初、オルセイが出ていったことに気付きませんでした。マシャはあっちに。付いてくるなというので、追いませんでした。見張りを付けてあります」
テントの側に兵士が2人、毛布をかけられて寝転がっていた。ディナティ王テントの護衛兵だ。オルセイが出ていく時に、気絶させられたのだろう。シハムが王の護衛をしている理由はこれで分かった。
ディナティは、シハムが指さした先へ小走りに向かった。
北に向かってしばらく走ると、パラパラと生えている藪の向こうに、マシャが立ちつくしているのが見えた。
「マシャ!」
思わずほっとして大声を出してしまった。周囲を見たが、見張りの姿は見えず、駐留の兵らも遠かった。マシャの見つめる先には、まだ暗い地平線があるだけだった。
彼女は着の身着のままで飛び出していた。見張るぐらいならマントぐらい羽織らせろ馬鹿者と思いつつディナティが、持ってきたマントを彼女の肩にかけた。マシャの腕は、驚くほど冷えていた。ネロウェンの朝は氷点下だ。そんな中を薄着一枚で立っていたら、風邪では済まない。
マントをかけられたことにも気付いていないかのようだったマシャが、ようやく呟いた。
「……あたし」
ディナティがマシャを見る。
彼女が一人称代名詞で自分のことをあたしと言ったのを聞いたのは、そういえば初めてだ。
マシャは北の地平線を見ながら、泣きそうな顔をして笑った。
「また、置いてかれちゃった」
ディナティは立ちつくした。
どうすれば良いのか、分からなかった。
思わず抱きしめそうになったが、マシャはそれを嫌がるだろう。と思うと、動けなかった。
東の空から太陽が上がり、広大な土地に幾つも長い影を作った。点々と生えている低い木でも、それだけの影ができるのだ。強い日差しだった。だがその中に、オルセイらしき人の影などまったく見えなかった。ゴーナを一頭連れて行ったのは間違いない。
地平線にうっすらと隆起しているのは、山だ。もうあそこがジェナルム国だ、とディナティは言った。
「お前を、王の小姓として雇う」
とディナティが言っても、まだマシャは反応しなかった。しかし、
「オルセイに頼まれた」
その言葉に、とうとう糸が切れた。
マシャは顔を覆い、声を上げた。もう足も、立っていられなかった。
ディナティは泣き崩れるマシャの横に座り、黙って地平線を見つめた。
~7章・翠眼の魔道士に続く