6-6(進軍)
オルセイの座っている目の前で、少年が無邪気にグールと遊んでいる。
オルセイはそれを、不思議な気分で眺めていた。
少年は黒い髪を後ろに束ね、金の留め具でひとくくりにしている。他の皆と同じく褐色の肌をしていて彫りが深く、精悍な顔だ。マシャとそう変わらない年だと聞いたが、もし、もっと背が高かったなら、下手をすれば20歳ぐらいの感じにも見えるだろう。
だが他に誰もいないテントの中でグールを前にすると、年齢通りの顔に見えてくるから面白い。他にといっても、オルセイとマシャはいるのだが。彼は、自分たちにだけは何の気兼ねもしてない様子だった。
どう考えても、一国の王には見えない。
総勢600人からなる軍隊は、この少年、ネロウェン国ディナティ王直属の軍だった。
オルセイに謝罪し介抱した彼らは、進軍を止めるわけには行かないからと言い、オルセイらも同じ行き先であることから、オルセイらを馬車に乗せて連れてくれることになった。夜は王たっての命令により、町に入った場合には同じ宿で、テントの場合でも同じテントの中に入れられて、ゆったりと休養を取っている次第である。
その道すがらでもってオルセイは、ようやく情報交換をした。
何しろ言葉が通じないので、相互理解に時間がかかる。オルセイはこの時ほど大袈裟なジェスチャーを使ったことはなかったものだった。
しかも双方の言葉を知っているのがマシャだけなので、余計もどかしいのだ。ただ言葉を変換して伝えてくれれば良いのだが、マシャ、やたらと余談が多い。まぁマシャに“ただの翻訳係に徹しろ”などと言っても無理なのは、目に見えているのだが。
王の側近だとかいう髭男が主に会話の相手だったのだが、彼がオルセイに何か言うたび、
「あ、ごめん、ちょっと待って」
とマシャが言い、オルセイを置き去りにして髭男と話し込んでしまうのだ。しかも厄介なのが、これが段々けんか腰になってくることである。で、安静と言われた体を無理矢理起こして、マシャを引き止めにかかるハメになるのだった。
「駄目じゃん、寝てろって言われたくせに!」
と、マシャの怒りの矛先が変わる。
万事そんな調子だったので、進む話もなかなか進まないのだった。ある意味オルセイは、そんなマシャをなだめながら髭男と苦笑をかわすだけで、彼らとのコミュニケーションが取れて有り難かったが。
しかもマシャは、ディナティ陛下のことがお嫌いらしい。
元々マシャはオルセイの扱いについて腹にすえかねていたようだったのだが、それに加えて、このことの発端になった少年の態度がどうにも高飛車でカンに障るのだと言った。
「だって、あたしより一個上なだけらしいんだわね、あいつ。なのに王様だよ王様! この国どうなってんのさ? しかもねぇ、あいつの言葉遣いったら、オルセイは分からないから良いだろうけどねぇ、すっげぇ腹立つんだよ。最初にボコボコになったオルセイに向かってあいつが言った言葉、何だったと思う? “許せ”だよ。“すまない”とか“悪かった”とかじゃないんだよ。あれで謝ったつもりなんだから、このくそ、貴族ってヤツは、くわー、腹立つ!」
どうどうどうどう。
オルセイは上げにくい腕を上げて、沸騰するマシャの肩をポンポンと叩いたものだった。
最初に会った時すでに、身分が高いんだろうなという予感があったので、オルセイはこの少年がこの国の王だと言われても、思ったよりは驚かなかった。
むしろこれだけの境遇を貰えたことは、感謝に値するだろう。間接的とはいえ、彼を気絶させたのは間違いなくこちらなのだ。しかも一国の王である。マシャはああ言うし、実際オルセイも貴族だとか異国の王だとかがどれほどの価値ある存在か知らないのだが……自分たちは、かなり幸運ではないのだろうか、と思う。
それが、ディナティ王の気まぐれなのか、何かの意図があるのかはまったく分からないが。
少なくともディナティは、オルセイらのことをやけに気に入っている。
マシャ曰くの高飛車な少年は、夜に軽装でテントに入ると、実に無邪気な目に戻る。マシャと同じ、水色の瞳。髪も肌も黒いが、瞳だけは白いほどに薄く鮮やかだった。
オルセイはふと、この少年王の名前に気付いた。
ディナティ。彼の守護神は、ナティ神だ。
オルセイの包帯を換えてくれているマシャにそれを言うと、マシャはそれを知っていたらしく、ディナティを介さず答えてくれたのだった。
「どこの国でもそうなんだ。王族だけが神の名を持てるんだよ。昔、世界が一つだった頃からの習わしだとか聞いてる」
マシャはいけすかなさそうに言った。その口調を聞き咎めた少年王が、マシャに何かを抗議した。マシャが何か反論した。詳細は分からないが、想像はできる。オルセイは聞こえないフリをした。
グールがディナティの足元で転がり、ディナティはまたすぐに機嫌を直して、黒いグールをあぐらの上に抱きかかえてやった。まだまだ遊びたい年頃なのだろうグールは、疲れも知らずに相手をしてくれる新しいメンバーに、すっかり気を許しているようだった。満面の笑みでディナティ王の懐にタックルを入れている(ように見える)。
飼い主としてはどうやら、それもお気に召さない要因らしい。
「何さもう、あいつら、今まで育ててやった恩も忘れてさ」
ふてくされながら包帯を巻き終えたマシャが、オルセイの腕をペチンと叩いた。
「あて。お前なぁ」
「すぐくっついて良かったよね。オルセイなら、またすぐに動けるよ」
マシャがカラカラと笑った。オルセイはその言葉を、このキャラバンから離れたい、という意味なのかなぁと思った。何しろ今のマシャは窮屈そうだったので。
少年のフリをしているのだ。
元々の格好が格好だったので少女とはバレなかった、それを利用してマシャは、ずっと少年で通しているのである。そういう意味では王専用テントに一緒に入ることを許され、広く豪勢なテントの中で3人だけでくつろげるというのは有り難いことこの上ない。テントはごく少数で、殆どの兵士らは馬車の中や、下手をすると野宿などという者もいるのだから。
オルセイは最初、自分たちだけがこんなに優遇されるのは申し訳ないと伝えてくれ、とマシャに言った。だがマシャがこれを拒否したため、結局厚意に甘んじることになった。マシャなど、こんな優遇は当然だし、もっとサービスせんかい、と言いきったものだった。こっち以上にあっちが悪い、と。
それを聞くと、あながちマシャもこの生活を嫌っているわけではないのかなぁ、などとも思う。多分「少年王と3人」というのが嫌なのだろう。マシャはディナティ王の前では絶対に着替えないのは当然、ターバンも寝る直前まで取らないし、さりげなく、手の届く範囲内には近付かない。
だがオルセイの方は、マシャが言うほどにはこの少年王を嫌いじゃなかった。
まず顔つきがまっすぐで良いと思ったし、ことの発端をオルセイらのせいにせず自分の失態として髭男に説明したのだ。
髭男はその真相を少し疑わしく思ったようだったが、追求すれば王の立場がなくなるし、噂になるのも兵らの志気に関わるために黙認することにしたようだった。彼はこのことは内密にしてくれ、とオルセイらに頼んできた。
「王は即位したてなのだ」
と髭男は、マシャを介してオルセイに言った。
王として初の進軍でもあるため体裁がある、王の賓客としてしかるべき態度を取っていてくれという内容の口止めだった。今イチ腑に落ちない言い方ではあったが、自分たちもディナティに守られたことになるのでオルセイは承諾した。
髭男は、右大将シハムと名乗った。
本名はシハムエラ・アッジェラダーナとか何とか言ったのだが、耳慣れない言葉は記憶にとどまらなかった。
「右ってことは、左もいるのかな?」
オルセイの問いに、2,3やり取りをしてからマシャが、
「左大将は王都に残ってるんだってさ。この将軍様、ディナティの右腕みたいだよ」
と説明してくれたのだった。
マシャはこの時、首をひねっていた。
最初に懸念していた「開戦」がどうやらまだらしいことが、様々な言葉の端から読みとれたためである。
なのに、どうして駐屯軍もいるはずのジェナルム国に、わざわざ新しい軍を、しかも王様自らが進める必要があるんだろう? と言うのだ。
しかしオルセイは、それは聞くなよとマシャに釘を刺した。そこまで突っ込んだ質問をしては、こちらが怪しまれてしまう。“たまたま王を助けた、通りすがりの旅人”でなくてはならないのだ。
「俺たちは北に行く旅人。彼らは北に行く軍隊。それ以上は危険だ」
だが口数が増えると、どうしても“それ以上”が出てしまう。
夜、テントに入って就寝前の遊戯を楽しんでいたディナティが、ふと質問したそれは、3日ほどそうした夜を過ごした頃だった。ごく普通の何気ない言葉だったが、緊張もなくリラックスしていたオルセイはすぐに返答ができず詰まってしまったのだった。
「お前たちは、なぜ北に行くのだ? って……」
当たり前の素朴な疑問だったが、マシャに「どうする?」と言われて、オルセイは窮した。
「田舎のお婆ちゃんに会いに行くんだとかじゃ駄目かな?」
「馬鹿?」
マシャ、冷たい。
「この王様、あたしたちのことを魔法が使える人間なんだと思ってるんだよ。ネロウェン国には魔法が普及してないんだって。だからロマラール人のことを高く評価してるみたい」
なるほど、気に入られて賓客扱いなのは合点が行った。
「だからジェナルム国にいる魔法使いに書を届けるんだ、とか何とか言っとくわ。そしたら、あたしたちが魔法を使えないってバレても、それなりの立場にはあるみたいに見えるからね」
マシャはオルセイにそう言い、ディナティにもそう説明したようだった。ディナティが感嘆の目でオルセイを見ている。ちょっと気が咎めたが、オルセイもマシャの意見に乗ることにした。一瞬にして大胆な嘘を思いつくものだ。
すると、それを聞いたディナティがさらに何かを言い、そんな彼にマシャがムッとした。それはセリフの内容でなく、ディナティの視線のせいだった。
ディナティはいつも、オルセイに言いたいことはオルセイの目を見て言い、マシャに顔を向けない。これもマシャの気に入らないことの一つだった。オルセイは、まぁ良いんじゃないかなと思っているのだが。
彼の言葉が分からないので、その物言いに腹が立たないせいかも知れないが、彼の態度には礼儀があるし丁寧だ。……ということをあまりに言うと、マシャがへそを曲げるので、口に出して弁明はしないが。
「ジェナルム国自体が危険になる可能性があるから、今どうしても行かなければならない用事じゃないなら、引き返した方が良いって言ってる」
心配してくれているのだ。オルセイはディナティに微笑んだ。
「ありがとう」
だがマシャはぶすくれて、黙ったままだ。オルセイは苦笑した。
「伝えてくれないか? “心配してくれてありがとう”って」
「オルセイ、甘いね」
ぶつくさと言いながらも、マシャはそれを言ったらしい。ディナティが嬉しそうに笑った。
それからディナティがマシャに何を言ったのか、マシャもディナティに「ありがとう」と言うではないか。ロマラール語で。
次いでディナティも「ありがとう」と発音した。ぎこちないが、オルセイが理解できる言葉だ。
もう一度マシャが言い、ディナティがそれを真似る。異国の言葉を覚えるのが面白いらしい。
ディナティは夜遅くまで子グールと遊びながら、マシャから言葉を学んでいた。
◇
近頃、皆の様子がおかしい気がする。
そう思いながら一人の若い男が、人気のない草むらに向かって放尿していた。うっすらと積もっている雪が、小便の温度に負けてジュワジュワと音をたてて溶けていく。
山あいに落ちる日が視界の端に映ったので、彼はこの辺境に来てから何日たったのかなと考えた。赤くもならないうちに落ちてしまう山の夕日は、一日を一層短く感じさせる。
今、彼の目前には深い森が広がっている。
けれど背中には、山を割る、大きな木造の門が石造りの柱に支えられて建っており、その両側には砦がそびえていた。そこから伸びる道は門の大きさに似合わず獣道のように細い。草むらを踏みしだいて平らにしただけの道である。
しかしそれが門の向こうの敵国ソラムレアと、こちら側、ジェナルム国をつなぐ唯一の道だった。これを見失うと、生きては帰れないほどの深く暗い森に捕まってしまう。
「よう」
「おう」
用を足し終えた青年が服を直していると、もう一人、彼と同じ格好をした男が隣りに並んだ。彼も用を足しに来たらしい。後ろの、砦の付近には沢山の仲間がいる。中にも沢山いる。総勢2000人。いや、先週すでに一度防衛をしているので、少し人が減ったが。
半分はネロウェン国が派遣した地上兵であり、もう半分はジェナルム国軍である。ジェナルム国は元々自警団を持たない質なので、これが精一杯の数なのだ。同盟軍のネロウェンと、共同戦線が敷かれている。
並んで立っている男たち2人は、ネロウェンの者だった。ネロウェン人特有の浅黒い肌が、2人をことさら若々しくたくましく見せてはいたが、2人とも、どこか疲れたような顔をしていた。
「相手さん、次はいつ動くのかね」
「さぁな」
「使者は?」
「行ってないだろ」
「攻めてくる気がないなら、俺たちも帰りたいなぁ」
「おいおい。隊長にどやされるぞ」
とは言いながらも、どやされることなど考えていないかのような、のんびりした口調だった。ジェナルム国の──いや、ネロウェン国のスタンスはあくまで“防御”であり、この砦を守ることなので、門の向こうに攻めていく気はないのだ。向こうは技術国。田舎のジェナルムと砂漠のネロウェンでは、ケンカを売るだけ馬鹿を見る。
自分たちはジェナルム国を守るための正義の味方だ。その強い闘志が最初の小競り合いは退けたものの、それから一週間も音沙汰のない敵に、せっかくの炎は燃え尽きんとしていた。加えて、この砦の中で変なことが起こっている。それが余計に志気を落としていた。
「今日も来ないかー」
後から来た方が草むらを見たまま言い、それに応えてもう一人が林道に振り向く。薄暗く、もう遠くの方は何があるかも見えにくかったが、そこから何かがやってくるような気配など微塵もない。
「ああ」
感慨なさげに、男が言った。
物資の補給が途絶えたているのだ。
2000人分の食糧を、砦内の倉庫だけで何週間分も維持することなどできない。幸いジェナルム国の森は深くても高度がなく、雪に埋まるほどひどく積もらないので、補給を受けることができる。門の向こうには高い山々がそびえているので、状況としてはソラムレア国の方が過酷なはずだ。攻めるのは難しいが、守るのは比較的簡単なのである。
雪も深くない以上、補給がついえたのはジェナルム国の勝手な都合としか思えない。
だが、そのことに関しての暴動なのは起きていなかった。
なぜなら──。
──2人はさしたる言葉も交わさずに砦へと戻る。木造の扉は一度に沢山の人間が出られるようにと、かなり大きい。それが今は開放されていて、中に入ったすぐのところが広間になっており、テーブルや椅子も隅に並べてあって、皆がそこでめいめいにくつろげるようになっている。壁には剣や斧、皮の鎧などもゾロリと並べてあって、いざとなればすぐにそれを手にして出撃できるようになっている。
そこに立った2人のうち一人が、
「あーあ」
と呟いた。
「これ、何人ぐらいいるよ?」
「さぁな」
「隊長もいるなぁ」
「正義感の強い人だったからな」
「どやされなくなったなぁ」
「その代わり、俺たちも死ぬかもなぁ」
相変わらずののんびり口調で、2人は奇妙な会話をした。そして無言になり、再度その広間を見渡した。
板張りの広間には全面にニスのようなものが塗ってあり、壁を強化してある。黒光りするその液体の臭いに、慣れない最初の頃はムッとしたものだったが、今はもうすっかり慣れた。
そして、そこに混ざる異臭にも、段々と慣れた。
彼らの目前、足元には、無数の死体が転がっている。
彼らはそれを何でもないもののように避けて、自分たちの上司であった物体に近付いた。ちょうど広間の真ん中に、目を見開いて仰向けに倒れている中年の男性がいた。胸や腹に沢山の傷を受けて、全身を赤く染めている。一番ひどい死体だった。おそらく、一番攻撃を受けたのだろう。
2人は何も考えていない目で隊長だったものを見下ろしてから、ふいに広間の奥に目を移した。
「まだ生きてる」
「ああ」
「まだなってない」
「ああ」
「殺っとくか?」
「そうだな」
棒読みに、儀礼的に。
2人は歩きながら、腰の剣を抜いた。
奥の方で死んだフリをしていた男が、2人の足音を聞いてビクリと肩を揺らした。幾何学模様の襟に褐色の肌。2人と同じく、ネロウェン人だ。
よく見れば、その広間の中にはネロウェン人が多かった。何の抵抗も見せず惨殺されたらしき死体もあった。
だがそれは無理もない。彼らは味方に殺されたのだから。
「ま、待て! 待て、お前たち、同じネロウェン軍じゃないか。どうして剣を持って近付いてくるんだ! ジェナルム人も変だ。ダナって何のことだ? 石ってなんなんだ?!」
体中傷だらけになりながらも身を起こして後じさる男は、そんなセリフをわめいた。誰かがそう言っていたのを聞いたのだろう。
剣を持ってのんびりと歩み寄っていた2人の足が、少し止まった。その顔にはさしたる表情もなく、目の色も虚ろだった。
その一方が、傷ついた男に向かって口を開いた。
「ダナ神に身を委ねよ」
もう一人も、男に言った。
「感じないか? すぐそこに、死の神が来ている」
「?!」
だが男は、悲しいほどにまだ正気だった。
「しっかりしろよ、お前たち! 何を言ってるんだ? そんなものがどこにいるんだ?」
すると、正面の扉や側面からも、一度は去ったはずの兵らがゾロゾロと出てきた。この広間の死体を作った者たちだ。もう日が落ちてすっかり暗くなり、顔の判別すら困難な室内で、ゆらゆらと揺れる数個のたいまつだけが、ゆっくりと歩く男たちの姿を浮かび上がらせている。それはジェナルム国の兵が殆どだったが、ネロウェン国の者も少なくなかった。
正気を持つ傷ついた男だけは、その異常さが感じられた。死の神など感じない。あるのは、お前たちの狂気だけだ。
「残念だなぁ。こんなに清々しいのに」
そう言いながら、男が剣を振り上げた。もう一人の男も構え、そのうち、集まってきた大量の男たちが手に手に武器を持って、まだ仕留めていなかった獲物に向かった。壁を背にして囲まれて、逃げられない弱った男の顔が恐怖に引きつった。
「いつから……この間まで……いや、昨日だってまだ、こんなには……」
男は混乱しながら、必死に言葉を紡ぎ出そうとした。自分には振るう剣も抵抗する力もない。言葉でもって、何とか仲間たちが正気に戻らないかと願ったが、その願いも、あえなく尽きた。
「世界は無に帰す」
謳うように、半ばうっとりと囁かれた言葉を最後に、とうとう2人の若い兵も無言になった。元より、周りにいる者たちは誰も喋っていなかった。ただじっと黙って、何も見ていない、何も考えていない顔で迫ってくる、仲間たち。
男の目が大きく見開かれ──白くなった。くるりと眼球が回った。胸を一突きにされたのだ。ゴスンという重い音と、肋骨を砕く嫌な音が周りに響いた。続いて、次々にその男たった一人に向かって剣が振り下ろされる。彼は消えてゆく意識の中、肉片になっていく自分を感じた。
その時になってようやく、彼は仲間の言った者が何だったのかを見ることができた。
見る。いや、感じる。それに実体などない。言葉などない。あるのは、意志だけだ。強烈に流れ込んでくる、神の意志。揺らぐことのない、無という境地をめざす解放者の意志。
人のすべてを、世界のすべて、生のすべて、意志のすべてを。
何も映さず血みどろになった彼の瞳に、涙が一筋流れた。
その時にはもう、男たちの執拗な攻撃は止んでいた。
彼もダナに取り込まれたからだ。
だが体中を切り刻まれて胸を突かれた哀れなネロウェン兵は、そのまま肉塊に変じた。その肉塊を覗きこむ十数人の男たちに表情はない。
散らばった死体を無造作に踏みながら歩く人の群れは、広間から外へと出ていく。外にもやっぱり多くの死人が散らばっていて、生き残っている兵はすべて狂人だった。それが段々とぞろぞろと、砦の外に集まっていく。同じ速度の歩みで、細い獣道を南へと歩きつつあった。
暗い森の中へ、一本の筋が伸びていく。それはたいまつも何も持たず、吸い込まれるように森の中へと消えていく。
近くでその人間たちに向かって吠える獣の声があったが、それもすぐに消えた。遠くで糸を引くように細く長く鳴く声もあったが、それも消えた。森の上には、夜にだけ飛びまわる鳥の姿があるはずなのに、その森には、なかった。
今の兵らにはどうでも言いことになっていたが、国境砦の向こう側、ソラムレア国の地上兵はすでに撤退していた。自国の内乱により、それどころではなくなったのだ。それはソラムレア兵にとって不幸だっただろうが、幸福でもあっただろう。ジェナルムの砦を狂わせた風はまだ、ソラムレアの高い山脈を越えていない。
だが、やがてソラムレア国側も異変に気付くだろう。停戦と友好を求めるソラムレア国大使の足取りは、ジェナルム国の門をくぐって以降に途切れるのだから。
月が、森を、ジェナルム国を照らし出す。
ひっそりと眠るように静かなその国に起こっている事態に気付いている者は、まだ、ない。