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6-5(凶兆)

 それが、このようなことになろうとは。

 というのは当然、マシャだってまったく予想していなかった。

 マシャがオルセイに「あの軍隊を追おう」と提案した理由は、2つある。今までは街道を無視して歩いてきたが、オルセイが目指す方向になら街道を使って歩いた方が楽だと考えたからだ。あまりに方角が違ってくるようなら、その時にまた考えたら良い。

 川や崖、沼や森だって、人の通れないところは数多である。街道は“人が通れる道”なのだから、使わない手はない。それに、町へもすぐに入れる。

「この国には“ピニッツ”が停船できる町がないからね」

 道中マシャはオルセイに説明しながら、こんなことを言った。最初に“ピニッツ”が停まった場所は、港ではなかった。小さな島が幾つも点在している辺りに黒船を停め、そこから小舟を出して上陸したのである。徒歩で小さな町まで行き、そこでゴーナに乗ってからはオルセイが「こっちだ」と感じる方向に向かって走っていた。この方法で旅を初めて、まだ一週間もたっていない。

 船から下りたばかりのマシャが、そう簡単にピニッツのことを忘れられるわけもない。そんな怪しい団体を発見してしまった以上、それを追いたくなるのも当然で。

「じゃ、頼んだよ」

 と言って彼女が別れた相手は、町の一角に潜む情報屋の男だ。

 軍隊を追って辿り着いた町でマシャは、その不穏な団体の存在を“ピニッツ”に伝えるべく、情報を流すことを生業にしている男に接触したのである。町の暗いところに降りていってなされた取引は、マシャが“ピニッツ”の名を出しただけで、すんなりと運んだ。

『ネロウェン王都から出発したと思われるネロウェン国軍、総数およそ数百人から千人あまり。現在、東の町を経て進路を北に変更、進軍中。憶測だが、ジェナルム王都に向かっているものと思われる』

 このことを、ルイサはもう知っているかも知れない。だが、自分の目で見た確かな事実がルイサとナザリの耳に入れば、それは大きな武器になる。なぜなら、ルイサたち“ピニッツ”は、ネロウェン国王都へ闘いに行ったのだから。

「まぁ闘いっていうのは大袈裟だけど。オルセイたちが取ってきてくれた鉄のカケラを持って、ネロウェンのお偉いさんと情報の駆け引きさ」

 町を出て、北に向かってカツカツと小走りにゴーナを走らせながら、マシャが言う。街道から少し逸れたところを、街道と平行に走っているところだった。軍隊を追い抜くために、街道を離れたのだ。

 マシャの用事が終わった以上、いつまでも軍隊の尻についている必要はない。本当を言えばもっと深く潜入して彼らの目的などを知りたいところだが、それは危険だ。それに軍隊の足に合わせていたら、急ぐはずのオルセイの道のりが遅くなってしまう。マシャもそれは承諾していた。

 ところが。

 追い抜いて、日のあるうちに次の町に入って宿を探し、今夜はベッドで眠るのだぁ……と思っていたマシャを待っていたのは、固い土くれだったわけで。押さえつけられて地面に転がされ、今に至る。

 幸い女であることがバレていないので貞操は無事だが、目前のオルセイを見るにつけ、自分の5秒後はもう危険かも知れないと思う。

 接触するつもりのなかったこの男たち──ネロウェン国軍に捕まったのには、訳がある。決してマシャから先に首を突っ込んだのではない。オルセイでもない。

 いや、しかし騒動の元凶になってくれたのはグール“クリフ”なので、そういう意味では、それは飼い主であるマシャのせいなのかも知れない。でも“クリフ”を担いでいたのはオルセイだ。

「だから誤解だって言ってるじゃないか! あたしたちは彼を助けたんだよ!」

 押さえつけられた状態で、マシャは何度もこう叫んでいた。ネロウェン国の言葉なので、通じていないはずがない。興奮して聞く耳を持っていないのだ。彼らは完全に、オルセイが彼らの仲間の少年を、誘拐もしくは暴行などを企んでいたと思っている。

 昼間、街道から離れた道を駆けている時に、それは起こった。

 例によってグール“クリフ”が飛び降りたのである。

「あっ、こら! “クリフ”戻りな!」

 例によってマシャが声をかけたが、しかしこの時の“クリフ”は言うことを聞かなかったのだ。何かを目指して走り出してしまった。

「くそ」

 オルセイが舌打ちする。

 一瞬このままあの子グールを見捨ててやろうかという気持ちが浮かんだせいで、オルセイのゴーナは少し地団駄を踏んだが、すぐにオルセイはグールを追いかけた。

 低い丘を越えて、(やぶ)をはらった向こうにいたのが、一人の少年だった。長い黒髪を後ろで一つに束ねているスタイルはこの国独特のものなのか、よく見かける。彼は暴走したゴーナから振り落とされているところだった。したたかに背を打ち、気絶してしまったのを、オルセイが介抱しようとしていたのである。

 で、その原因はといえば“クリフ”だ。

 グール本来の本能が蘇ったのか、彼は少年が狩りを楽しんでいた小動物ペーネの臭いをかぎ分けて興奮したらしく、ペーネに突進したらしい。そして少年のゴーナは、急に飛び込んできたそんなグールに驚いて、暴れたのだ。落ちた少年の元にオルセイが走り寄った時にグール“クリフ”がペーネの首根っこをくわえて、得意満面で戻ってきたのには、オルセイも何とも言えなくなってしまった。

 オルセイが看た分には、少年に怪我はなかった。背中から落ちたので、ひょっとしたら後頭部を打ったかも知れないのだが、うめいていたので、取りあえずは死んでいなかった。

 だが、オルセイが少年を看たのは、そこまでだ。

 その後に、少年を追って走ってきたこの連中に捕らえられ、吊し上げられてボコボコにされた。彼らが興奮する前にマシャが間に立って通訳してくれれば、このようなことにはならなかったかも……と思ったが、彼らの様子からすると無理だったろう、とも思う。彼らにとって、その少年がやけに大事な、神かと思うような存在らしきことは、雰囲気から読みとれたから。

 その落ちた少年は今、一張りのテントで眠っていた。

 彼らの駐留場所にはゴーナや馬車の他に、大きな四角いテントが幾つか建っている。そのひときわ大きいテントの中に、ひときわ豪勢な格好をしていたその少年が入っている。

 オルセイは「早く起きて俺の誤解を解いてくれこの野郎」と心底から願ったが、その反面、彼がそんなにすぐ目覚めるとも思えなかった。何しろ疾走するゴーナから振り落とされて、気絶したのだ。打ち所が悪ければ、即死ではなくとも、意識不明になってそのまま──ということもあり得る。

 少年が運び込まれたテントの入り口には、時々心配そうに中を覗きこんでいる男がいる。中年の、いや、もう初老か? 栗色の顎髭には、少し白髪が交じっているようだ。禿げてはいないが、頭の髪も薄い。だがそれらの身体的特徴を凌駕する若々しさが、彼にはあった。ずたぼろのオルセイに向けられる、髭を逆立てんばかりに露わな怒りが、彼をそう見せるのかも知れない。

「やば」

 もう幾つめか分からない拳を頬に受け、奥歯と一緒にオルセイの思考も飛んだ。

 掴まれ、引きずり上げられている自分の体に、もう力は入っていない。

 マシャのかすれた声が遠ざかる。

 周りの罵声も遠ざかる。

 視界が狭い。

 限界らしい。

 こんなことで死ぬのかなと思ったら、情けない感じがした。ヤフリナ国でテネッサに追われたことも理不尽だったが、言いがかりでタコ殴りにされるのは、もっと理不尽だ。

 思考のどこかが冷めていて、オルセイは血気盛んだなぁこいつら、と明後日なことを考えた。

 オルセイの耳に、ブウンという風を切る音が聞こえた気がした。

 閉じかけた視界に、浅黒い拳が見えた。

 褐色の指に、オルセイの血だろう赤黒い染みが点々と見える。自分の顔もずいぶん歪んでいるのだろうなと思った。視界が下半分しか効かない。まぶたが腫れているのだろう。だが足元も見えない。頬も腫れているのだ。

 相手の拳が、やけにゆっくりに見えた。自分の動体視力が衰えていない証拠かなと思ったが、それを避ける力が、もうない。

 オルセイはふいに、誰に対してかよく分からなかったが「ごめん」と思った。もう進めない。あんた(・・・)を受け入れた責任は、取るつもりだったのに。

 けれど、そう思って見ているのに、拳は一向にオルセイに当たらなかった。

 止まったままなのだ。

 オルセイの目前まで来ていた拳は、本当にゆっくりと動いていたものであり、そして、止まっていた。

 拳の主、禿げた男がオルセイを凝視していた。怯えた目で。

 オルセイの視界にいる全員が、オルセイを見て恐怖していた。

 喚声が止み、凍り付いたようになっている。顔をこわばらせ、何かを言いたそうな口をしつつも、けれど言葉は出ずに。

 マシャすらも。

「?」

 何が起きたのか、オルセイには分からなかった。

 驚いて目を瞬かせた時、緊張が解けて沈黙が破れた。

「──!」

 不可解な言語を叫びつつ、オルセイに近付く声がある。褐色の男らを押しのけたのは、気絶から目覚めた少年だった。

 軽装になっていたが、それでもまとっている服が高貴と分かる。彼がオルセイの前に立ちはだかって皆を一喝すると、大の男たちが一斉に膝を折った。その向こうに、少年のテントを見守っていた髭面の男が、中途半端な顔をして立っている。事情は理解したものの怒り冷めやらぬ、といったところか。

 少年は、オルセイを殴っていた禿げ男に、厳しい口調で詰め寄った。禿げ男は、殴っていたのは自分の方だったのに、解放されたような安堵の表情をしていた。オルセイを掴んでいた者たちも力を緩め、オルセイはその場に寝かされた。背中にクッションか何かが敷かれたようで、地面のゴツゴツが当たらない。そうした感覚がなくなっているだけかも知れないが。

 さらにマシャが自由にされた。

「オルセイ!」

 マシャはよろけながらオルセイに駆け寄って、覗きこんできた。頬を濡らす汗には涙も混ざっていたが、マシャはそれを、周りの連中に見られないように拭った。

「問答無用だなんて、こいつら馬鹿だよ馬鹿!」

 マシャが毒を吐いた。

 その言葉は2人以外の誰も理解しないはずだったが、ニュアンスは伝わるのだろう、オルセイを殴っていた禿げ男がむっとした。それを後ろに追いやって、少年がオルセイらの方に向いて何かを言った。

 すると、マシャが少年に噛みついた。もの凄い高速で、言葉が紡ぎ出されている。当然オルセイには、まったく理解できない。どんな国の言葉であってもマシャの剛速球毒舌は可能らしい。

 オルセイは、ネロウェンの言葉が分かったら、今のマシャのトークがどんなに気持ち良いだろうかなぁなどと呑気に思った。少年はマシャの剣幕に気押されているし、後ろから近付いてきた髭男も怒りはしているものの口を挟めず、所在なさげだ。その光景にオルセイは、思わずくつくつと笑ってしまった。

「オルセイ! オルセイ、大丈夫?」

 マシャが反転し、覆い被さってきた。内心「うが」と思う。マシャに胸を押される方が痛かったからだ。まさかと思うが、肋骨が折れているのかも知れない。それでも大丈夫だと答えてやりたかったが、残念ながら腹に力が入らず、声が出なかった。

 すぐに、数人の男がオルセイを持ち上げた。

 少年の声がして、どこかに運ばれ始めた。オルセイの耳元で、マシャの声もする。自分の状態を確認したかったが、もう目が開けられなかった。衝撃が去り緊張が消えて、ひどく眠くなってきたのだ。

 夜の風が、体に当たらなくなった。

 空気が柔らかくなったようだった。

 服を脱がされた気がする。

 何かが、体を覆った。

 それらが何なのかはもう分からなかったが、オルセイは柔らかい安堵に包まれ、深く寝入ったのだった。

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