6-3(勝利)
「貴様が皇帝か?!」
床に仰向けに転がって怯えきっている泣き顔のすぐ横に、白光りするイアナ神剣がガチンと突き立てられる。その剣を手にしている赤毛の男の形相は、怒りとやるせなさでぐしゃぐしゃになっていた。
民を苦しめ、国税を使って戦争準備を進める男というもののイメージは、もっと鬼のようでなければならなかった。そしてクリフに向かって、剣を向けなければならないのだ。でなければ斬れない。こんな弱々しく小さくなって、失禁して震えている男なぞ、クリフには斬れない。
ここに来て、どっと体に疲れが押し寄せた。
一瞬体が揺れたのを、剣を持つ手に力をこめてぐっと支える。その時、背中からクリフを呼ぶ声がして、クリフはわずかに振り向いたのだった。
「皇帝タットワか?! ……う」
唯一ロマラール語で話してくれる仲間、カーティンが、室内に入った瞬間に口を押さえて顔を歪めた。宮殿奥の書庫は狭く、周りに散らばった紙の束やらインクからと、噴き出したばかりの大量の血が入り混じって、ムッとする臭いを作り出していた。
豪華な宮殿だった。
自分が閉じこめられていた地下牢と同じ敷地内に、こんな建物があったのかと思い、クリフは感慨と憤りを同時に憶えた。ピカピカに磨き上げられた平らな石の床、彫刻の施された柱や壁には金でも塗ってあるのか、反射して、部屋中が輝いている。決して狭くない、いやむしろ今までに見たどの建物よりも大きいだろう部屋なのに、そこをすべて金で輝かせるということの贅沢さは、クリフには想像の域を超えていた。ロマラールの城になど入ったことはないが、おそらくそれ以上だろう。
その広間に入った瞬間に、カーティンが唇を噛みしめて呟いた。
「ここの柱や壁、床の全部に、俺たちの汗が染み込んでいるんだ」
そして、こう付け加えた。
「奴らはそのことに気付きもしないで、毎日踏みつけてるのさ」
クリフには、そう呟くカーティンら反乱軍と、戦争で国を豊かにするのだとしている皇帝ら正規軍の、どちらが正しいのかなんてことは分からない。だが、自分に味方してくれて助けてくれたカーティンが苦しげに呟いた、この一言があれば、それで理由は充分だった。
「俺はこっちに行く。二手に分かれよう」
その絢爛豪華な広間がもぬけの空だったので、手分けして探し──分岐点があるたびに二手に分かれ──そしてクリフが飛び込んだ書庫に、皇帝様とそのご一行が潜んでいた、というわけだった。王ご用達の書庫なのだろうか、三方が本で埋め尽くされていて窓が天井に一つしかついていない、小さな部屋だった。10人も入ればいっぱいになるだろう。そこに、皇帝らしき男と以下5人がいた。
その部屋に入った時クリフは、閉めた扉を背中に押しつけた。
「悪いが、ここは通してやれない。降伏するならひざまづけ」
自分の言った言葉が相手に伝わったかどうか分からなかったが、剣を床に指して言ったので、意味は分かったらしい。もんどりうつようにして飛び出した男が一人、床に這いつくばろうとした。
しかし彼は座れず、体勢を崩して寝ころがった。
仲間に背中を斬られたからだ。
「?!」
クリフが驚きながらも剣を構えて成り行きを見守っていると、仲間を斬った、まだ若い風情の男が何か叫んだ。クリフにでなく、味方に向かってだ。当然、何を言ったのかは分からない。しかし、及び腰になりながらもその全員がクリフに向かって剣を向けたため、何となく想像はついた。
血の滴る剣を構えた若い兵は、兜の下から大きな瞳で精一杯クリフを睨んでいる。自分の若い頃を思い出す目だった。必死の体が現れている。少しぐらい斬られても、彼は絶対に退かないだろう。
皇帝らしき男は、簡素だが高価と一目で分かる服を身につけていた。その彼をかばうようにして立っていた兵士らは直後、一斉にクリフに斬りかかった。
クリフはほんのわずかに動きの鈍い男に向かって走り、そいつを盾にして第一刀から逃れた後、順番に、隙を見つけては斬った。鎧のない二の腕や腹、足などに焦点を絞る。止まっていると左を狙われるため、常に室内を走った。手近な本を掴み、投げ、怯んだ隙に斬る。たった4人とはいえ、王の側近の兵士らだ。それをクリフは、わずかな時間で倒してしまった。
最後まで踏ん張っていた若い兵にとどめを刺す瞬間は、さすがにためらった。
できれば逃げて欲しかった。このように強い目をした若者には。クリフは剣を退き、扉を指さし、一度だけ「行け」と叫んだ。言葉は通じなくても、気持ちは理解するだろう。
若者は、理解したようだった。
クリフと若者の視線が絡まる。
だがその時、彼はクリフに突進した。吼えながら剣を突き出す。彼は与えられた選択を拒否したのだ。
クリフもそれに応じないわけに行かなかった。
「貴様が皇帝か?!」
そうしたやるせなさを抱えたクリフが最後に闘うボスは、完全無欠の凶悪無比な化け物でなければならなかったのだ。そうであって欲しかった。
──なのに彼の前に残ったのは、ただの、臭くて汚れてよどんだ目をした男だったのだ。
「皇帝、タットワ……」
部屋に入ってきたカーティンとその仲間は、死体をどけて通路を作って、クリフの側に近寄った。薄弱とした皇帝の顔に手をかけ、仰向かせる。カーティンがため息をついた。
「こいつは、皇帝じゃない」
クリフに向かって、クリフの言葉で話す。ねぎらいの声音だったが、クリフは愕然とした。声を上げそうになったクリフを、カーティンが制する。
「待て」
それから、ソラムレア国の言葉を男に投げかけた。男が短く答えている。聞いたことのある言葉の意味は、確か「はい」だ。カーティンがクリフに言った。
「この男は、皇帝の影武者だった。本当の皇帝は、おそらく兵士の格好をして戦場にいた方だ。クリフ。お前が倒した、あの男だったんだ」
「……え?」
疲れ切った頭に、言葉が浸透していかない。しかし徐々にクリフは、広場にいた豪傑のことを思い出し、確かにあの男の方がよほど“皇帝”という名にふさわしかったことを理解した。
「すると」
「ああ」
だらりと力の抜けたクリフの背中を、カーティンが右腕だけで抱きしめた。クリフの手の中で、急に剣が重く感じられた。
「もう終わった。こいつを斬る必要はない。クリフォード・ノーマ。君のおかげだ」
「終わった……のか」
呆気なく。終わりというものは案外、何でもそうなのかも知れない。想像したのよりは意外に、期待したのよりは簡単に終わってしまうものなのだろう。
「さあ、表に出て、この首を一緒に掲げてくれ。戦を終えよう。歴史が変わるんだ」
カーティンにはじわじわと喜びが感じられるらしく、声が高くなり、言葉が速くなった。ソラムレア語で仲間に話す声は、もっと速くなっていた。その場にいた者が一斉に歓声を上げた。
転がるように、我先にと部屋を飛び出し広場に面した正面玄関へと走る。外ではまだ戦乱が続いていたが、もはや形勢は誰の目にも明らかだった。投降する者もちらほらと見える。
長い槍の先に、皇帝だった者の首が突き刺さった。
金髪を蓄ている、皺が多く厳めしい面構えのそれは、まだ何かを言いたそうに中空を睨んでいる。だがその目は明らかに白く濁っていて、もうこの世にいない者であることを示唆している。
広場もすべてが見通せる玄関にその槍を持った男が立ち、高々と持ち上げる。持ち上げながら、雄叫びを上げた。
その声に、広場の何人かが反応をし、何人かが指をさした。宮殿玄関に並んだ反乱軍の連中を、皆が見始める。そこで叫ばれている、その言葉に愕然としながら。
槍を持った男だけではない。他の者も、カーティンも、皆が一緒に立って叫んでいた。同じ言葉を。
その言葉に惹かれるようにして、反乱軍の兵士がどんどんと広場に集まりだした。徐々に人々の声がまとまっていく。大きな波のように、音がうねり始める。ただ一つの言葉を、合唱する。
「皇帝は死んだ、という意味だ」
カーティンがクリフに耳打ちした。一緒に叫べということだろうか。クリフは初めて口にするソラムレアの言葉を、そっと呟いてみた。
「皇帝は、死んだ」
「そうだ」
カーティンが大きく頷き、クリフの背を押した。階段の上から、目前を見渡す。広場に立ちつくす戦いを止めた男たちと無数の屍がそこにはあった。
投石機によって建物が崩れ、いたるところで土煙が上がっている。広大な土地全部が戦場になったのだ。栄華の限りを極めたのだろうすべての建造物が、今や廃屋になっていた。金を剥がしている者も見える。壺を持って走っている者がいる。生々しい戦争の傷跡だった。
クリフは叫んだ。
「皇帝は死んだ!」
剣を振り上げる。途端、神の光が辺りを照らした。宮殿での異変に気付いていなかった者すら、その光によって振り向いた。皇居だけではない、天にまで昇るその光を、街中の人間が見ていた。国外れの者すら、空を見あげた者は気付いたかも知れないほどの光だった。
すべてを白く包み込み、終わりを告げる、勝利の光。
誰もが狂ったように、あらんかぎりの声を出して吼えた。誰かが英雄、と叫んでいた。また誰かは、神と叫んでいた。皆が光の中にいる赤い男、軍神の化身を見ていた。
「皇帝は死んだ!」
クリフは何度も何度も、初めて憶えた悲しい言葉を、一心不乱に叫び続けた。
そしてやがて光が消え──力尽きたクリフは、その場にくずおれたのだった。
◇
目を覚ました時、クリフの目には白い壁が映った。少し体を起こした状態で、だが座っているのよりは寝ている、そんな体勢で眠らされていた。裸の背中に触る柔らかな布の感触が、とても心地よかった。
暖かい場所だった。
ベッドは柔らかく、クリフの体が沈み込んでいる。上から毛布が2枚もかけられ、すっぽりと包み込まれていた。薄く目を開けたクリフは、良い匂いに釣られてそちらを見た。
広くない部屋の扉はすぐそこにあり、そこが開いて、スープの器が入室してきたところだったのだ。それを手にした初老の女性が、続いて顔を覗かせた。
「気分はどうだい?」
優しい、綺麗なロマラール語だった。思わず国に帰ってきたのかと思うほど。それからクリフは、これが夢なのではないかと思い、慌てて体を起こそうとした。体に大きな傷はなかったが、疲労が溜まっていた。
「すぐに起きないで。ゆっくりお休みなさい」
女性がクリフの肩に触れ、寝かしつけた。
「……あ」
クリフの頭に色々な疑問が沸いてきて、それを口にしかけたが、言葉にできなかった。何から聞くべきかもまとめられなかった。
クリフの様子を理解した女性が微笑み、クリフの欲しかった答えを次々に与えてくれた。
「ここはあの子……カーティンの家よ。私は母親」
彼女はここで少し膝を曲げて挨拶の素振りを見せてから、かたわらの椅子に腰かけた。
「あなたは丸一日、眠っていたの。今、カーティンは皇居に行っているわ。革命が成功しても忙しいものね。あなたには、とても感謝していました。頼むから、目覚めても自分が帰るまでは消えないでくれですって。あなたは、自分の生涯忘れられない恩人だとも言っていたわ」
クリフは何と答えて良いか分からず、曖昧に笑った。
手を下げると、ベッドに剣が立てかけられていることが分かった。柄に丸いものを感じる。赤い石だ。カーティンらはこの不思議な光を発した剣を、クリフが気絶している間に盗りはしなかったのだ。それどころか、抜き身だった剣に見合う鞘まで用意してくれてあった。
「さあ、これを飲んで。元気が出るわ」
豆をひいたらしい緑の液体が、器の中で柔らかな湯気を上げていた。コマーラ家の義母がよく作ったスープに似ていた。初老の女性が、少しくすりと笑った。
「あなたのお国の食べ物に似ているかしら?」
「あなたは……」
「私も、ロマラール人だったの」
クリフは意外な気持ちと納得とを両方味わった。カーティンの言葉も上手だったが、この母はそれ以上、いや、完全なロマラール語だ。顔の造りもどことなく他のソラムレアの者と違う。カーティンは父親似ということだろうかと、ふと思った。
「食べて」
勧められ、少しずつスプーンですくって口に運ぶ。ベッドの側の椅子に座った女性は、クリフの様子を、まるで自分の息子のように見ていた。
「あなたのお母様の味と、似ているかしら?」
クリフはゆっくりとそれを胃に流し入れていたが、3口目で止まってしまった。堪えようとしたが、涙がこぼれてしまった。スープの中に、ぽちょんと落ちる。
考えてみたら、捕まってこのかた──いや、ロマラール国を出てからこのかた、暖炉で充分に暖められた部屋で、柔らかい毛布に包まれて心ゆくまで眠ったことなど一度もなかった。昔と同じ状況を与えられて、やっと気付いたのだ。
暖かいということが、眠るということが、食べるということが……すべて、何という幸せだったのだろう。
熱いスープに舌を火傷する喜び。
着るものがある。
手がある。足がある。
クリフは、左腕をなくしたカーティンの姿を思い出した。彼の方がよほど重傷だろうに、することがあるからと言い、仲間の元へと走っているのだ。彼はきっと、今のクリフよりも生き延びた命の重さを実感しているのだろう。
クリフは一口一口大切に、噛みしめるようにしてスープを体に入れた。
「……スープ」
俯いたまま、声を絞り出す。
「ちょっと、しょっぱいです」
女性はクリフの膝に手を置いて、ゆっくりと微笑んだ。