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6-2(擾乱)

「くそ、ここも駄目か!」

 と吐き捨てたのは、建物から脱出を試みる若いソラムレア兵だった。外の喧噪は、この療養所にまで届いている。皇帝皇居の敷地内に作られた皇帝専用の療養所には、わざわざ山から切り出された岩を組んだ風呂まで作ってある。日に2度、体の疲れを取るために訪れているこの療養所に入っている間に、皇帝は暴動の知らせを受けたのだった。

 脱出路を探してさまよっていた従者らしき兵士が、部屋の中央、椅子に座る男の元にひざまずいた。男の体はすでに冷めていたが、怒りが彼を冷えさせていなかった。

「駄目です閣下、もはや皇居の外に出る道は残されておりません」

 閣下と呼ばれた初老の男は、手近にあったカップを兵に向かって投げつけた。何人かの女と軽装のでっぷりした体躯の男が、その男の周りで狼狽している。そのさらに周りでは、兵士の格好をした数人の男が周囲に気を配っている。

 何せ、大国に君臨する皇帝が昼間から風呂に浸かり女と戯れているなどとは、誰も思っていない。しかしどこにも逃げ場がない以上、見つかるのは時間の問題だろう。

「ラハウはどこだ!」

 苛立った皇帝の怒声に、その場にいる全員が首を竦めた。誰かが弱々しい声で「分かりません」と答える。

 ラハウさえいれば、攻め入られることはない。そんな馬鹿なと思える定説が、皇居にはまかり通っていた。それがいともあっさり破られたのは衝撃だった。信じ込んでいた自分の間抜けさを突きつけられたような気がして、皇帝はやりきれない思いを抱いたのだった。

「王宮はどうだ、もう占拠されたか?」

 再び命を受けた兵士が、屋上まで外の様子を見に行った。

「王宮は、おそらく一番最初に侵入されたかと」

 別の兵士が皇帝に口添えした。鎧もなく簡素な格好をした皇帝は、ギロリとそちらを睨んだ。もう髪も白髪混じりで皺も多い顔だったが、体つきは精悍で威厳もあった。戦争をするための体だった。戦争をするために、皇帝になったのだ。

 戻ってきた兵士が報告した。

「占領されております! ただし、」

 この男は聡明だった。

「ただし、宮殿の方に閣下がいないと分かり、数人の見張りを残して、他は戦をしております。敷地内に常駐の兵は、全滅になる恐れがあります」

 皇帝が立ち上がった。今しかないと呟いたのを聞いた女は、残念ながら誰もいなかった。

「おい、お前」

 皇帝はかたわらに立っていた、自分と似た背格好の兵士に、その服を全部脱ぐように指示した。代わりに彼に、自分の絹の服を着せる。

「お前たちは、この男を私であるかのように守って、王宮へ走れ。私は女たちを連れて、敷地の外へ逃走する。もしもの事態には、一番近くの領主、カイヌ侯がこちらへ援軍を向かわせる手はずだから、それと合流してお前たちを助けに戻る」

 男たちは、皇帝の言葉を聞いていなかった。それに期待を持つような、そんな甘い考えを持っている者は誰もいなかった。皇帝は逃げるのだ。自分たちを囮にして、逃げるのだ。

 それに皇帝のその策とて完璧ではない。女たちは震え上がっていた。

「お前はわしと共に来い」

 と言われた先ほどの聡明な兵士は、かぶりを振った。

「いいえ、偽閣下をお守りすることに全力を注ぎます。本気で守れなくては、敵の目も欺けないでしょうから」

 まだ20歳にもなっていないだろう若い兵士は、ニコリと笑った。後悔のない顔だった。

「閣下。私は閣下にお仕えできて、幸せでした。この後に訪れるであろう太平の世を夢見ながら死ねること、本望です」

 ぐっと喉を詰まらせた皇帝は、青年の頬を殴った。

「戻ると言っている! 助けると言っている! わしに仕えたことが至福だったなら、わしを信じろ」

 仁王立ちになった初老の男が、大きく見えた。思わず青年の目が潤んだ。本当に死なないかもと思えそうな、皇帝が部下を想ってくれる心が嬉しかった。

「で、ですがカイヌ侯の到着まで持ちこたえられるかどうか……ここにじっとしていた方が」

 軽装の、小太りの男が冷や汗を流しながら提案した。肥え太っただけの能なしが、と、皇帝は内心その大臣を愚弄し、却下した。いつ来るかも分からない助けだからこそ、動かずにいたら間違いなく全滅なのだ。

「し、しかし!」

 大臣は、なおも食い下がった。ここから動きたくないというのが本音だろう。

 皇帝は問答無用で、足を一歩踏み込んだ。

 鍛えられた鉄の剣が、シュンと鳴った。

 抜いた瞬間すら見えないほどだった。気付くと、皇帝が抜き身の剣を右後ろに振り切っており、その横に、何かが飛んでいるところだったのだ。

 それがゴトンと落ちた。

 皇帝の目の前で、首のなくなった肉体が噴水のように血を噴きながら倒れた。

 女たちが怪獣のような悲鳴を上げて、逃げまどった。転がった首は、きょとんとした目と半開きの口をしていて、今にも何かを話し出しそうだった。

 皇帝の優しさと冷酷さを同時に見た者たちは、覚悟せざるを得なくなった。ここから出たら死ぬだろうが、出なくても死ぬ。しかし出ることに命をかければ、生き残れるかも知れないのだ。

 皇帝のことを、女と遊ぶだけの豪快なオヤジだと思っていた兵士もいた。皇帝が皇帝たり得る本当の理由を忘れていた。

「さあ行け!」

 ソラムレア国初代皇帝、タットワ・バジャル。

 王制を倒し国の頂点に立ったこの男は、戦争に勝ち国を大きくすることしか考えていなかった。だがそれだけに、王制を倒した腕と迫力は健在で、皆を恐れさせる。

 その彼に怒号を向けられ、平気でいる者はいない。

 皆が一斉に、蜘蛛の子を散らしたように出口へと走る。

「走れ! 逃げろ! 俺に追いつかれた女は、敵に捕まったものと思え。辱められる前に、慈悲をくれてやる」

“慈悲”の意味を理解して、逃げないわけには行かない。その中でも比較的冷静で忠義心の厚い何人かが先導し、兵士らや影武者、女たちのそれぞれを、それぞれの方向に走らせた。

 タットワ・バジャルは剣を振り上げた格好のまましばらくそれらを見守り、すべての者が消えたのを見てから、女たちを追って走り出した。兜を頭にかぶせ、一兵士のフリをして。

 見付かるかどうか、殺されるかどうか分からない曖昧な気持ちで走れば、逃げる足にためらいが出る。しかし、追いつかれれば確実に殺されるという危機感があれば、それこそ必死で走る。療養所に出た女たちは、わき目もふらず、一心不乱に敷地の壁に向かって走っていた。そこには木が林立している。おそらく木によじ登って壁を越える気だろう。

「それで良い」

 タットワは女らの後ろ姿を見つめながら呟いた。同じ国の反乱軍だ、国の者を殺したり犯すことはなかろう。そう思ったが、血にはやって獣になった男たちは、何をしでかすか分からない。

 女たちを追うその足を止め、皇帝タットワは戦場に戻った。もはや形勢は一方的で、正規軍たる兵士らは統率を失い、振るう剣にも気力が感じられない。反乱軍の奇襲を想定していなかったわけではないが、心構えがすでに戦況を決定的にしていた。

「何だあれは……」

 思わずタットワが呟いたのは、離宮から燃え上がる炎を見たためだった。ラハウのための離宮。遠目でよく分からないが、一室が完膚無きまでに破壊されている。そこから離れようとしてしている反乱軍どもが取り囲んでいるのは、投石機のようだ。

 何発石をぶちこめば、レンガの壁があのようになるのだ? と、タットワは思った。かつて自分の抱えている軍部が開発を中止した弾だとは、知るよしもない。

 タットワは移動を始めたその機械に近づくため、手近な反乱者をなぎ払いながら進んだ。その様子を見た正規軍の兵士らが、救世主が現れたとばかりに、歓喜の叫びを上げた。

「皆の者、皇帝はご無事だ! 王宮におられる皇帝を、お守りするのだ!」

 救世主たる仮面の男の叫びに応じて、何人かが王宮を見た。敷地にはかなりの広さがあり、王宮を走る兵士の姿が数人いることは分かるとても、その顔までは判別がつかない。皇帝らしき軽装の男を守って周りの兵士らが反乱軍の見張りと戦う様子は、中央広場で悪戦苦闘する正規軍に勇気を与えた。

 正規軍の兵らが叫ぶ。

「皇帝!」

「皇帝!」

 それと同時に戦いの中心が王宮へと向いていく。反乱軍の目的は皇帝の首だ。それを取りに行く者たちを、正規軍も追う。正規軍の勢いが増した。何十人という大量の群衆が、一気に動いた。皇居が地響きに覆われる。

 さらに救世主が叫ぶ。

「援軍も来ている! 勝てるぞ!」

 先ほど見かけた投石機の一軍も、王宮めがけて突進し始めた。タットワの方角としては、近付いて来る方だ。タットワの視界に、それらが捕らえられた。

 中でも、ひときわ目立つ男がいる。

 日の光を受け、赤く燃えるような髪に見えた。男の振るう剣は美しかった。いや剣自体も美しいものだが、その軌跡と一振り一振りの動きが、流れるようで鋭くて美しいのだ。

 できる、とタットワは思った。

 ようやくそれらの男たちを目前にした時、やっとタットワはその剣が、魔法使いの老婆ラハウが持っていた、あのイアナの剣であることに気付いた。

「おい貴様!」

 ひときわ高く響く声に、投石機の上に乗って仲間の魔法使いに支えられている、片腕のない男が反応した。タットワの視線が赤毛の男にあることに気付いて、そちらを見下ろす。

 タットワは、赤毛の男が振り向くのを待たなかった。問答無用で斬るつもりだった。

 しかし、その剣は止められた。

 男がふり返りざまに剣を上げ、タットワの剣先にガチンとそれを合わせたからだ。剣が交差した状態で力比べになり、一瞬2人は睨みあった。

「イアナザール王子、か? そうか離れの破壊で脱出したのか!」

 タットワは合点し、憎きその顔を睨んだ。しかし言われた方は、何だか自分が「イアナザール」と呼ばれたようだぞ? としか分からない。

「ラハウはどこだ! まさか殺したのか?!」

「分かんねーよ!」

「あの強力無比な魔法使いが死ぬものか! 言え、どうなったのだ!」

「やかましい、邪魔するな!」

「今ここで叩き殺してくれるわ!」

「やる気か? 相手になってやる!」

 ソラムレア語とロマラール語の応酬により、まったく会話は成立していないのだが、戦いの火蓋は切って落とされた。両方の意味が分かるカーティンが何とか口を挟もうとしたが、その暇なく始まってしまっている。まぁいいかとカーティンは思った。

 クリフなら、死なない。

 まだ何人かを相手にしただけの彼しか知らないが、長い牢獄生活だった上にあの老婆との死闘を繰り広げたにも関わらず、それでもなお連勝を記す彼の強さは、ただ者ではない。元々、最初に鍛えてある良い体だと思ったが、持っている力は想像以上だった。何より、スピードが違う。瞬発力、判断力、動体視力。そういったような能力がずば抜けていると感じられた。正規軍は、まるで野生の獣を相手にしているような気分だろう。

 タットワも、戦いながらそう思った。

 目の輝きや息づかい。

 ラハウが最初に人質にすると言って見せてきたイアナザール王子は、果たしてこんな目をしていたか? とタットワは自問する。思い出せない。今の目が、強烈すぎて。

 ラハウはどこへ行ったのだろうという疑問がよぎる。

 彼女は自分が皇帝になるため必要だった人材だった。よく不在になってはいたが、不安はなかった。ようやく不安を感じたのは、イアナの剣を手に入れる少し前からのことだ。

 イアナザール王子を利用して、クラーヴァ国から軍力と財力を搾り取るのだと提案したのは、ラハウだった。その時にはすでにラハウは王子をさらってきた後で、離れに軟禁してあると言い放った。イアナの剣も奪い取ってあり、この剣と自分がいればそれだけで戦争など終わってしまう、鬼に金棒だと脅迫された。

 脅迫。

 あれは脅迫だった、と思う。

 ラハウの恐ろしさを知っていたタットワに、これを断る術などなかったのだから。この時になってようやく彼は、自分の国が老婆一人の手に良いようにされている恐怖を感じたのだから。

 そのラハウが今いないのは、安堵なのか、不安なのか。

「ラハウはどこだ!」

 タットワは雑念を振り払うかのように、大上段から剣を振り下ろした。受けるクリフの手に振動が走る。それまで相手にしていた正規軍とまるで違うことは、肌で感じていた。

「ラハウはどこだと言ってるよ!」

 ようやくカーティンが、クリフに向かって言葉を投げ得た。皆戦いながらも、この2人の剣の邪魔をしてはいけないと感じるのだろう、微妙に避けており、2人の周囲が空間になっていた。手を止めて剣に魅入る者もいた。速く重い、一流の試合を見ているかのような戦いが、そこにあった。

 理解したクリフは、

「知らん! 消えた!」

 と吐き捨てた。

 さすがにタットワもこの短いロマラール語は理解して、顔を歪めた。

「消えたとは何だ!」

 クラーヴァ語で返す。タットワはまだ、この男がイアナザール王子であると思っていた。

「鈍いな、あんた」

 クリフは思わず小声で呟いたが、人のことは言えない。

「逃げたんだよ、あのババァ!」

 叫びながら、剣を横に大きく振った。一旦この男を遠ざけて、体勢を立て直すためだ。思惑通り飛び退いてくれた男は、飛び退きながら、ショックを受けていた。兜が邪魔でよく見えなかったが。どうやらラハウが逃げたというのが、戦意喪失になったらしい。クリフはここぞとばかりに斬りかかった。不意打ちを狙うのは卑怯だが、そうでもしなければ勝てないほどの相手だからだ。

 負けは、死だ。

 クリフはまだ死ぬわけに行かない。

 幸いにもゴールは目前である。オルセイが言っていた“東”がどの辺りかは知らないが、この国はロマラールより東北だ。オルセイの乗った(と思いたい)“ピニッツ”は、南のネロウェンに到着する。南下して行けば、どこかで会えるかも知れない。

「邪魔するな!」

 クリフが踏み込む。

 タットワが受ける。

 再び剣同士が鋭い音を立てた。

 タットワは力を入れて、クリフの剣を跳ね上げた。片手が離れ、クリフの胴が空いた。空いたその隙に、タットワが剣を入れようとする。

 しかし。

 クリフは、この隙を待っていた。

 体をひねったクリフが胴を空けたのは、軸足に体重を乗せて一方の足を浮かせていたからだった。足をねじり勢いをつけ、懐に入ってきたタットワの剣を、思いきり蹴り上げた。

「?!」

 思ってもみなかった攻撃に手の力が抜けて、タットワの剣が宙に舞った。タットワは思わず、舞ったその剣を見上げてしまった。剣先が光る。その上にはまだ青い、綺麗な空があった。

 その視界の端に、イアナの赤い剣が映った。

 跳ね上げられたそれをしっかりと両手で持ち、振り落としてきたのだ。渾身の力を込めていることが分かる、強い輝きだった。逃げられない。むしろその鋭い刃が皮の鎧を物ともせずに自分の肩から胸、腹へと肉体を裂いていくのが、心地よくすら感じられた。

 タットワはしっかりと、前を見た。

 この男に斬られるなら良い死に様か、と思った。

 目を閉じる。

 何かが見える。

 その何かを探っているうちに──タットワの意識は、薄れて消えた。

 呆気ないほどに潔く、一人の男が死んだ。

 ドォンと音をたてて仰向けに倒れた正規軍の兵士に、それを見ていた周囲から失意の声と歓声が同時に沸いた。肩から斜めに斬られた赤い線は鋭すぎて、一瞬遅れて血を噴きだしたほどだった。剣を振り下ろしたままのクリフは肩でぜいぜいと息をし、まともにその血を受けた。赤茶の髪が日に照らされて赤く輝き、それが血によってさらに赤く見えた。 男の兜が、倒れた勢いで取れている。

 それを見下ろして、カーティンがぎょっとした。

 他の皆も気付きだす。誰かがまさかと呟いた。だが決め手がない。

 投石機の上からカーティンがたじろぎながらも、この男の首を取っておくようにと指示をした。どうしてだとクリフが尋ねる。カーティンはどう説明したものか戸惑い、この男が有力者かも知れないからと言っておいた。

 まずはこの戦意を失わず、王宮に攻め入って真偽を確かめるのが先だ。

 誰かが、援軍が届くと言っていた。そうなると形勢が変わる。その前に決着をつけなければならない。

「取れた!」

「よし行くぞ!」

 カーティンは腕の痛みを押して、号令を発した。クリフがその号令を受けて敵の中に斬り込み、雄叫びを上げた。イアナの剣の力なのか、クリフは疲れを感じなかった。

 投石機が動き、石を放り投げ、道を空ける。

 敵を蹴散らし、進み始める。

 戦いが徐々に移動し、広場に人が少なくなる。

 後には不毛な骸が何体も折り重なっているだけだ。

 今は空が青く空気が澄んでいても、皇居広場にとごるものは人の死骸とおびただしい血だけである。風が吹き臭いを消し去ろうとしても、後から後から流れる血がそれを許さない。そのうち生暖かい血が冷えて固まり、肉は腐臭を発するだろう。

 そんな何体もの死体の中に。

 首のない亡骸も、放置された。

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