6章・鈍色の石-1(平穏)
重かったまぶたが、ふいに軽くなったようだった。
視界はまだ暗い。しかしただ真っ暗闇だった目の前に、今は光が差しているのが感じられる。
うっすらと目を開けてみると、思ったほどには光量がなく、そこがどこなのかも見えなかった。2,3度瞬きをして、目を慣らしていく。眠りが深かったためか、目覚めた瞬間には自分が誰なのかも忘れていた。
腕を上げてみる。
自分の手が見える。傷も何もなく、血色も良い。クラーヴァ国紋章の入った指輪も、中指にちゃんと収まっている。どうやら体もすべて無事のようだ。
イアナザールは周囲を注意深く見つめながら、徐々に経緯を思い出した。
翠の魔法使い。
ソラムレア国の屋敷で閉じこめられていた、レンガ造りの部屋から手を引かれて飛び出した後のことだ。自分を引っぱるその男が何者なのかが分からず、屋敷廊下の真ん中で、イアナザールは彼の手を弾いて立ち止まったのだった。その背後では、多くの者の叫び声と破壊の音がしていた。その音に負けないように、イアナザールは声を強めた。
「貴様は何者だ?」
敵意をこめて。
ラハウと敵対関係にあることは理解できたが、かと言って味方とは限らない。
彼から感じる強大な魔力は、信頼の値ではない。イアナザールの知るもっとも強い魔法使いはラハウであり、20数年間信頼し続けた挙げ句に裏切られたのだ。その重みは何物にも代え難い。
だが振り向いた翠の男は、言葉を発しなかった。
屋敷廊下のど真ん中、急にイアナザールに向けて手をかざしたのだ。
「何を……?!」
イアナザールは直後、意識を失った。
そして気付いた時には、このベッドの上だったというわけである。
そう。
イアナザールが今横たわっている場所は、ベッドだ。荒い綿の手触りと柔らかな毛布の感触。ずっしりと毛皮が大きく体全体を包み込んでおり、暖かかった。
目が慣れてくると、凹凸とした天井が見えた。
「?」
よくよく見ると、それは岩だった。うっすらと光が当たり、頭の大きさほどの岩や小さい石がひしめきあっているいるのが見える。湿っているのか、岩の表面がところどころ光っている。その隙間からは、わずかに草も生えている。当然暖炉などあるべくもない場所に思えたのだが、顔に当たる空気も暖かかった。
イアナザールは上体を起こした。
途端、くしゃみが出た。
背中に悪寒が走り、急に空気が冷たくなった。
「お目覚めかね?」
知らない男の声がして、イアナザールは驚いて顔を上げた。気配を感じなかったのだ。男は、正面に立っていた。男の顔が逆光になっていて分からない。彼の背後に、光源があった。室内を満たしている光は、すべてそこからのものだった。
室内、と思ってからイアナザールは、そこを見渡した。
室内ではなかった。いや、ある意味“室内”と呼べる場所なのかも知れないが。イアナザールが眠っていたベッドも、彼の知る『ベッド』の趣とはずいぶん違うものだった。たっぷりと藁のようなものを積んだ上に布をかぶせた、その上に寝かされていた物だったのだ。その下の地面は、土のようだった。壁も、すべてが岩と土と草に囲まれていた。
イアナザールは内心、首を傾げた。
眠っている時にはとても心地良いベッドだと感じていたのが、起きてみると、ひんやりとしていて布も硬く、毛皮もさほどに気持ちよくないのだ。
男がイアナザールの正面に立ったまま、手に持っていた布の固まりを差しだした。両手で広げて見せる。
上着だった。
「これも着なさい。山の朝は寒い」
そう言われ、自分の姿を見おろす。服はすべてソラムレア国で着ていた元のままの格好だ。ブーツを脱がされていただけだった。
男が歩き寄ってくれたため、光源からずれて顔が見えた。頭に毛がなく、なのに顎には黒い髭を蓄えた初老の男性だった。乞食かと思うほどのみすぼらしい身なりだったが、その服は何枚も重ね着してあって首にも細い布を巻きつけ、それなりに暖かそうに見えた。
姿や顔形は厳めしかったが、髭の上に浮かんだ微笑みと二重まぶたの黒い瞳が、とても穏やかな男だった。
イアナザールは受け取った上着を着ながら、光源を見た。
その向こうに、森らしき木々と枯れた草原が見える。ところどころ、雪もあるようだ。草の間に、白く光る物があった。となればどうやら、眠っていたこの場所は洞窟らしい。イアナザールとその男性以外には、誰もいなかった。翠の魔法使いすら。
「ここは?」
「洞窟さ」
「そうでなく」
男はくつくつと笑って、イアナザールの側に転がっている岩の一つに腰かけた。投げ出した足を、あぐらに組む。
「ここは、もうクラーヴァ領土だ。イアナザール殿下」
「国内?」
「東の森、と言えば、お分かりになりますかな?」
分かった。ソラムレア国との境近く、北の方に位置する未開の森だ。凶暴な獣が多く気候も厳しいので、人はここに足を踏み入れることができないと聞いたことがある。
なのにそこにいる、この男。
「あなたは?」
イアナザールはベッドの上に座り、男に向きなおった。男は微笑んだまま、懐から一振りの丸い実を取りだした。一粒一粒は指の先ほどの大きさしかなかったが、果汁の沢山詰まっていそうな、みずみずしい実だった。全体的に白いが、茎のついている方がほんのりと黄色い。
「その前に、食べなされ。腹がすいとるはずだ。丸3日間、眠っておられたのだからの」
そう言われて、イアナザールは初めて、喉の渇きや空腹の体に気が付いた。しかし素直に受け取ったものの、すぐには口にしない。男が言った。
「わしは、ウーザ・リルザと申す者。魔法使いだ。殿下をここに連れてきた男、エノアに代わって、面倒を看させて頂いた。これでよろしいかな?」
だがイアナザールの警戒は解けなかった。翠の男はエノアというのか、と思っただけだった。この男はあの者と仲間らしいというのも、安堵にはつながらない。
ウーザは肩を竦めた。
「では、わしもクラーヴァ国宰相ラハウ殿は嫌いでの、と言えば、少しはご信用下さるかな?」
ウーザのおどけた調子に、思わずイアナザールは吹きだしてしまった。口を拳で押さえ、少し俯く。
「あなたはラハウをご存じなのですね」
そう言ってから、この男ウーザが自分のことも知っていることに気付く。だが自分は、こんな男、魔法使いが自国にいることを知らなかった。国の魔法使いは、国の宝だ。強大な力を持った魔法師、魔法使いで、王宮のリストにない者がいることが、驚きだった。
この男の魔力は、強大だ。
それをイアナザールは、肌でだけでなく頭でも理解していた。その理由は、今彼が持っている白い実である。普通は秋になる、栄養価の高い実なのだ。その寒空の下、しかもこんな時期外れに取れる実ではない。彼が、ウーザが魔法でもって育てた実なのだ。
そんなことをするのにどれほどの力を要するのか、イアナザールは知っていた。
そしてこの、心地よかったはずのベッド。これも、イアナザールが眠っている間だけウーザが魔力で包んでくれていたのだと思われる。だから暖かく、気持ちが良かった。だから起きた途端にベッドは冷えて硬くなり、急に寒気を感じたのだ。
イアナザールは、白い実を食べた。一粒ずつ、ゆっくりと胃に収めていく。
すべて食べ終わってから、イアナザールは立ちあがり、ウーザの側に片膝を立ててしゃがんだ。立てた膝の上に両手を置き、頭を下げる。
「助けて下さり、感謝致します」
「わしはエノアに従ったまで」
「エノア……殿、とは、翠の髪をした方でしょうか?」
「左様。今まだ精神を集中しておりますでな、しばらくお待ち下され。もうすぐだ」
「外で?」
ウーザは苦笑とも取れる複雑な顔をした。本来ならエノアもまだ洞窟の中にいた方が良いのだが、先を急ぐと言って聞かなかったのだ。“準備”するためには同じ洞窟内にいるとウーザの魔法の邪魔になるし、エノアも、気が削がれて集中できない。
「では、あなたにお訊ねして良いでしょうか? あの方が誰なのか、どうしてラハウと争っていたのか」
「わしに分かることならば」
ウーザは洞窟の出入り口から視線を戻し、イアナザールに微笑んだ。
イアナザールはまず、自分が誘拐された経緯をウーザに話して聞かせた。自国の良き宰相であったラハウが突然自分を連れ去り、ソラムレア国に軟禁したこと。彼女の目的はどうやら、イアナザールの中に潜むイアナ神の魔力だけだったらしいこと。ところが急に「代わりが見つかった」と言われ、殺されそうになったその時に、エノアが現れ、ラハウと戦い、自分を連れ去ってくれて今に至ること──。
「私にとてもよく似た男で、ロマラール語を話していました」
「ふむ。興味はあるが、残念ながらわしはその男を知らん」
ウーザはそう言ってから、色々と答え始めた。
まず、ウーザ自身はラハウともエノアとも旧知の仲であること。だがラハウとエノアは、今回おそらく初めて顔を合わせたのであり、そして敵対関係にあること。
その理由をウーザは、「なぜならエノアは、クラーヴァ国王に頼まれて、殿下を救う者だったからだ」と説明した。ラハウに対抗できる者としてエノアが雇われ、イアナザールを助けた。自分はその手伝いをほんの少ししただけだ、と。
「そして今、エノアは殿下をクラーヴァ国城にお連れするために“転移”の準備をしておる」
「転移」
イアナザールは魔法書でしか読んだことのなかったその技の名前に、驚愕した。そして、確かにそうだ、あれは転移だったと思い出す。イアナザールが軟禁されていたレンガの部屋に、突然現れたラハウとエノア。自分がさらわれた時も、おそらくそうだったのだろう。ラハウは“転移”をできる身でありながら、クラーヴァ国内にいる間はその力を隠していたのだ。
思えば、彼女はほとんどその力を見せることがなかった。宰相としてクラーヴァ国に存在していたのも、彼女が魔法使いであることが直接の原因だったのではなく、外交手腕の見事さ、回転の速い頭、豊富な知識ゆえだった。国内に魔法を普及させのも彼女だ。使い手が非常に限られる、定着の難しい分野だったが、それゆえに国で管理するのが簡単な、貴重な宝となった。
そうして育てられた魔法師らの中でも“転移”を成功させた者はいない。
イアナザールはふと、もう一つの恐ろしい名を思い出した。
どんな魔法師すらも不可能な技を瞬時にしてのける、ラハウという老婆。エノアという若者。
彼らはもしや、魔法使いだとか魔法師などという名ではなく──……。
「どうなされた?」
ウーザが、イアナザールの思考を遮った。
我に返り、顔を上げる。
「いいえ、何でもありません」
イアナザールはぎこちない笑みを作った。
「ただ」
流暢に話そうとして言葉に詰まり、一度、ぐっとつばを呑みこむ。
「ただ、我が国のリストにないあなた方、エノア殿やウーザ殿が、どこでどうそんな強い魔力を得られたのであろうと思ったのです」
イアナザールは率直に聞いてしまいたい質問を避けて、慎重に言った。本当ならば、聞いてしまおうかと思った。「あなた方は、魔道士ではないのですか?」と。だがその言葉を口にする勇気はなかった。伝説の名だし、神に近いそんな者に自分が助けられたなどというのがおこがましく、恥ずかしい妄想のような気がしたからだ。
ウーザはイアナザールのそんな思いを理解していた。
「殿下。あなたのお聞きになりたいことは、よく分かる」
あぐらを掻いたその上に両手を重ね、ウーザは深く頷いた。
「わしは保守的にはないので、いずれ知れることならば、知れてしまえと思うておる」
「?」
話が見えず、イアナザールは神経をウーザの話に集中させた。
「だが、人が様々なことを知りたがるのを、良しと思わん輩もおる。ただ生きて、生きるその中で知れることだけを胸に生きよ、と。殿下が欲するその答えは、災いになるやも知れんのだ」
「つまり“聞くな”ということですな」
回りくどいウーザの言い方に、イアナザールは肩を竦めた。ウーザが声を上げて笑った。
「申し訳ございませぬ」
ウーザが笑うのを止めて、外に気を配った。イアナザールは何も感じなかったが、ウーザの耳には何かが聞こえたのだろう。
「殿下。こちらへ」
ウーザが立ちあがり、洞窟の外へとイアナザールをうながした。イアナザールも立ちあがり、体調を確認し、岩や石を避けながら歩いた。もっと衰弱しているのかと思っていた自分の体は、思いの外しっかりとしている。ウーザのおかげだろう。
洞窟は広く、腰をかがめずとも歩ける充分な広さがあった。頭上に手を伸ばすと、岩に指先が触れた。ひんやりとしている。
出入り口だけが若干狭く、イアナザールは体を折った。最初に出た頬に、冷たい風が当たった。一瞬目を閉じる。足元を見て立ちあがり、伸びをして目を上げる。
呼吸すら忘れた。
凛とした空気の中にそびえる針のような木々の中に、溶けこむようにして座っている黒マントを着た男の姿が、とても美しかった。溶けこむように。けれど、何者も寄せ付けない、明らかに異質の空気が彼を取り巻いている。周囲に吹いている風も、彼の周りにだけは吹いていない。マントは揺れず、フードの奥にちらりとだけ見える髪も、ピクリとも動かない。
なのに、春のように柔らかでたおやかな風が彼を包み込んでいる、そんなイメージがあった。
顔は見えないし、見たこともない。あれほどの戦闘にあって、深いフードはまったく取れなかったのだ。なのにイアナザールは、黒いその姿を“美しい”と感じた。人としてというより、まるで人智の及ばぬ自然の壮大さ、雄大さに心を打たれたかのような、そんな感動だった。
イアナザールは、何となく「信じる信じないの問題じゃないな」と感じた。
自分などが抗うことのできない、そうするしかない相手なのだ。
木の側に腰かけた彼の正面に立つことには、躊躇がなかった。彼がすでに、イアナザールが正面に立つことを許していたためである。彼はイアナザールが立ったと同時に手を差し伸べた。
その手を掴む。
「良い旅を」
ウーザが言った。
もうお別れなのだ。
イアナザールはふり返り、ウーザに礼を言おうとした。
しかし口を開く前に、ウーザを含む森の景色が歪んで消えてしまったのだった。