5-6(困惑)
あまり遠くないどころか、本当に近くへの“転移”だった。
遠くへの“転移”を瞬時に行うことは、例えラハウといえど無理だ。
彼女がとにかく離れたかったのは、イアナの剣からだった。まさかあのように暴走し、自分の手に負えなくなるとは思わなかったのだ。使えない道具に頼るよりは、素手の方が良い。
だから追ってきたエノアに、剣を放棄したラハウは容赦のない一撃を放つことができた。イアナの剣を手にしているよりも、よっぽど強い。
エノアが吹き飛んだ。
暖炉の側の壁にぶつかり、レンガが音を立てた。しっかりとはまっていないのだろう、赤茶のそれが少し浮いてガタガタしている。灰が辺りに舞った。
暖炉に火は灯っていない。敷かれた毛皮が蹴飛ばされてよじれた。天井近くの壁のランプが少し揺れたが、明かりは消えていなかった。
「ラハウ!」
叫んだのは、エノアではなかった。
ラハウでもない。
ラハウは部屋の中央に立っていて、声はその向こう、エノアと反対側から聞こえた。先ほど兵らによって地下から引きずり出されていったはずの王子、イアナザールだった。彼は握りこぶしを背中の壁に打ちつけた。
ここはイアナザールの部屋だったのだ。牢から連れ出されて、またここに戻されていたのだった。吹っ飛ばされたエノアは体を起こしながら、呑気にも「先ほどの男と同じ顔だな」と思った。こちらが本当のイアナザールか、とも。
ちなみにクラーヴァ国北の森の、ウーザ・リルザの洞窟で力を蓄えていたエノアが“転移”をおこなって最初にクリフの元に出たのも、クリフが持つイアナの力と、ラハウが持つイアナの剣のためであった。本人の潜在意識というべきだろう。それを上手く引き出して使いこなせれば、魔法使い、いや魔法師になれる可能性を持つ力だったが、残念ながら、その力を持っていることと使えることは、別問題のようである。これもまた“魔力”として自在に操るために必要な“能力”の一環ということになるのだろう。
だからエノアが“転移”をして出てみたら、そこには剣とクリフがいたというわけである。
エノアが城で王や皆の“心”から読んで(・・・)おいた「イアナザール」とは違う男がいたので、呆気なく無視した、という経緯だった。かつてこの旅が始まる前、魔の山で遭難しかけていた男その人だとは思わなかったので、エノアも内心は驚いていたのだが。
エノアはイアナザールの姿を見ながら、ふと自分が先ほどの男の名すら知らないことに気が付いた。
まぁ、どうでも良いことだったが。
ひゅっと音がした。
エノアは暖炉の側に立ったまま、少しだけゆるりと動いた。エノアがいたその場所に、何かがひどくぶつかる音がして、暖炉の灰や薪が跳ね上がった。その上に設置されていたランプも、風圧で壊れた。まだ日は高かったが、急に明かりが消えたため、室内がふっと暗くなった。その中でラハウがちっと舌打ちをした。
「ラハウ様!」
「これは一体?!」
また別の声が上がる。
扉前に張り付いていた兵ら二人だった。先ほどイアナザールを地下から連れ出した連中だ。
「お前たち、まだイアナザールを殺してなかったのかい」
ラハウがこともなげに言い、兵らを詰まらせた。
「この男とイアナザールを殺すんだ!」
まるで若者のように覇気のある声で、ラハウが命令した。兵が弾かれたように走り出す。一人はイアナザールに、一人はエノアへと槍を向ける。
「どういうことだ、この者は誰だ!」
縛られていない自由なイアナザールは兵の槍を避けて走り、ラハウに殴りかかろうとした。しかし見えない渦がラハウの目前で起こり、無謀な青年は吹き飛ばされた。元いた壁へと叩きつけられる。
「ぐ?!」
イアナザールは打ちつけられた瞬間こそ声を上げてしまったが、その後に呻いたりはしなかった。
すかさずエノアが動いた。物理的な攻撃である。エノアのマントの影から飛び出した3本のナイフが、兵らと老婆に襲いかかった。
「うあっ!」
奥の壁、イアナザールの側にいた兵士がもんどり打った。胸の下辺りを押さえて転がる、その指の間から血が吹き出ていた。しかしラハウともう一人の方には、何の効果もなかった。マントの一振りによって、全てが力なく落ちたのだ。
老婆のマントの中身には、骨と皮しかないのではと思わせるものしかなかった。小枝のような足と、よく動いているものだと感心させられる糸のような腕、内臓が詰まっていないように見える、ありえない細さの体……。長衣の、腰で結んである紐があまりに痛々しい。その下に腰など存在していないかのようだ。
ラハウはすぐにそれらをマントの下に隠した。元通りの彼女は、やはり不敵な老婆でしかなかった。
エノアは躊躇しなかった。
つもりだった。
ドン、と耳元で爆発にも似た音が炸裂した。一瞬、エノアの視界が赤く染まった。
膝がまるで自分の意志と関係なく折れ曲がり、エノアは地に落ちた。床板が赤く染まっていくのが見える。
今、エノアの右手には白銀の、クーナ神の鏡が握られている。この上なく力がみなぎっているはずだった。少しばかりの“転移”をしても、まったく力は衰えていない。しかし逆に、その大きな力を抑える努力も必要になる。そのバランスをエノアは失敗し、ラハウに付け入られたのだ。エノアは床に手を突いた。
「魔法使い殿! ラハウ!」
イアナザールの声が頭上で聞こえる。自分が地に伏せったためかと思ったが、違うようだ。イアナザールの声はもがいていた。
見ると。
青年は、ラハウの力によって頭上高く、天井近くにまで持ち上げられ、壁に、押さえつけれていた。
「落とすよ。一発でしとめな」
ラハウが残った方の兵に言った。兵が槍を構える。
エノアは“力”を飛ばした。
しかし老婆の前で、それは四散した。完全に読まれている。ラハウの力を甘く見過ぎていた。最初にクラーヴァ国で闘った時の反撃が効いたからといって、あんなものはラハウにとって何でもなかったのだ。もう一人協力してくれる魔道士級の者か、神の媒体が必要だ。
目の前で、イアナザールが殺されようとしていた。
イアナザールは声を上げなかった。
ただ、睨み殺そうとせんばかりに、黒いマントの老婆を見下ろしている。苦しげな表情。呼吸ができないのだ。
そのイアナザールの体が、落ちた。
串刺しにすべく槍が待ち受けている。確実に首を落とそうと、刃が上を向いて待っている。
その刃が、
「うらぁ!」
血を吸う直前に、叩き折られた。
「?!」
直後、イアナザールが床に転がり、咳をした。喉を押さえ、空気を肺に入れようとしている。
部屋の扉が破られていた。
そこに入ってきた第三者は、手枷をしていた。
ラハウが目を剥いた。
「貴様!」
「貴様じゃねぇ、クリフだ!」
向かった兵士に、その第三者が跳び蹴りを喰らわした。バランスを崩し、一緒に倒れる。彼の手から、イアナの剣がこぼれた。
「剣!」
イアナザールがそれに飛びついた。
「しつこいこわっぱだね! 地下で大人しくしていれば良いものを」
ラハウが手を挙げ、イアナザールとクリフの動きを封じにかかる。もう片方の手では、エノアを。エノアの額から血が流れている。エノアは鏡をラハウにかざし、呪文を唱えた。
力がぶつかり合う。
空気が荒れ、嵐が起こった。辺りの物が風に飛び、室内を乱している。オルセイの時と同じ現象だった。
ラハウがそちらの闘いに集中したため、ほんの少し抑制が緩んだ。その隙をついてクリフが走った。老婆に体当たりしようとしたのだ。しかしずいぶん古典的かつ幼稚なその攻撃は、辿り着く前にあっさり返された。
はね飛ばされ、床の上を滑る。いつの間にできたのか、クリフの頬が痣になっていた。手枷が邪魔をして、すぐに立ち上がりもできない。
「大丈夫か?!」
クリフを起こそうと走り寄ったイアナザールの背後に、先ほどクリフが突き飛ばした兵士が立っていた。折れた槍の半分を、上段に構えている。
「危ない!」
クリフがイアナザールを肩で突き飛ばし、自分も転がった。だが逃げ切れない。棒が一撃、クリフを襲った。
「止めろ!」
イアナザールが剣を振った。兵士が飛び退く。避けきれず、彼の腕に赤い筋が走った。
その時、部屋が静かになった。
相殺になった“力”が、ふっと途切れたのだ。
外の喧噪が聞こえてきた。
地下牢から脱出したクリフを追うのとは、別の声のようだった。
だが、すぐにまた戦いが始まる。兵は棒きれをイアナザールに投げつけ、流血して戦闘不能になっている相棒の槍をもぎとった。
エノアは魔力合戦の隙を突いて、さらに3本のナイフを投げた。そしてラハウがそれを避けているその間に別の攻撃呪文を完成させ、すかさず放つ。だがラハウはそれをも避けて、エノアに手をかざした。ラハウの後ろでは、クリフが慌ててエノアから飛んできた風を避けているのを、エノアは見てしまった。一瞬の隙。
衝撃。
エノアが再度吹き飛ばされ、血の塊を吐いた。
まさかの致命傷だった。気を抜いてはならない局面で、クリフを見てしまったのだ。
口元の血をぬぐう。
「一体、外はどうなっているのだ?!」
イアナザールが戦いながらクリフに聞いた。剣を振り、兵にとどめを刺す。
「反乱だ! 全く別の方向から、暴動が起きている! 俺はそのどさくさに紛れて走ってきたんだ、何となく走ってたらここに着いちまった!」
「暴動?」
反応したのはラハウだった。
てっきり自分たちだけが闘っているものだと思っていたのだ。
しかし耳を澄ますと、確かに別の騒ぎがあちらこちらから聞こえていた。エノアが牢を壊したその音を合図に動き出したのだ。建物を崩す音、剣を重ねる音、言い争う大量の声が聞こえてくる。いわば、戦争の音だった。
「何たること──。皇帝が!」
ラハウは短く叫び、一層強い風を巻きおこした。
ケリをつけてしまおう、というところか。
今度は目に見える攻撃だった。
ラハウは両手を高く上げた。
その上に。
火。
巨大な火の玉が出現したのだ。
空気の塊に炎が巻いている、それは頭一つ分ぐらいの大きさをしていて、音を立てて回転し始めた。
「嘘だろ、おい」
クリフは呟き、バッとイアナザールの手元にしがみついた。
「おい?!」
「頼む、貸せ!」
クリフはイアナの剣をもぎ取り、ラハウに向かって投げた。
剣から、また光が現れた。
ラハウも、その塊を投げていた。
一直線に剣が飛ぶ。
火の玉が飛ぶ。
だが。
クリフの勝ちだった。
「おのれ!」
叫ぶラハウの目の前で、塊が飛び散った。辺りに火がつき、床があっと言う間に燃え広がっていく。それを気にもしないでラハウはクリフに飛びかかろうとしたが、背後の気配に振り返った。
ラハウの頭上を越えていったイアナの剣が、エノアの手に握られていたのだ。エノアがラハウに向かって飛来した。
「ちっ!」
ラハウがそれを避ける。
けれど最初から、エノアはラハウを狙っていなかった。
彼女を飛び越えて、クリフに向かって剣を振りかざしたのだ。
「でぇ?!」
クリフが信じられない攻撃に困惑し、両手を上げて頭をかばった。その手元にエノアが剣を突き立てる。
「うわっ!」
バキンと音がして、クリフの手枷が外れた。
呆然とするクリフに、すかさずエノアは剣を押し付ける。
「後は頼んだ!」
言うなり、エノアはイアナザールの手を引いて走り出した。何が起きたのだと考える暇もない。
「え?! ちょっと待て、こら?!」
まさかの展開にクリフが狼狽しているうちに、エノアとイアナザールは、あっと言う間に扉の向こうに消えてしまった。
物事を整理する暇もないまま、クリフに別の剣が襲いかかってくる。死んだ兵士が腰につけていた剣を、ラハウが持ったのだ。
剣同士がガキンと重なった。
クリフとラハウが睨み合いになった。
皺の中に細く光るラハウの瞳は、冷たいほどの闇をたたえていた。
「大人しくしていれば、痛くしないよ」
と、ラハウが笑った。
「ふざけんな、このババァ」
ラハウを睨みながら、クリフは自分の剣の刃を見た。
先ほどイアナザールが一人斬ったばかりだというのに、怖いほどに白々と輝いている。クリフは一瞬身震いした。
その一瞬を見逃さず、ラハウが斬りかかってきた。
受けて、横に流す。
イアナの剣を発動させないために、物理攻撃に切り替えたということらしい。だが、そうなれば逆に、少しはこちらにも分があるというものだ。クリフは唇を舐めた。牢獄に捕らえられていた体は本調子ではないが、老婆一人に後れを取るほど落ちぶれてはいないつもりだ。
だがその考えは甘かった。
「うわーっ! うわ、うわ、うわ?!」
ラハウの連続攻撃は流れるような剣技で、しかも力強かった。まったく老婆などとは考えられない、超一流の戦士だ。無駄口など当然、叩いている暇がない。
このババァには聞きたいことが山ほどあるんだが……。
クリフは思ったが、そんな余裕はなさそうだ。剣を下げればすぐにやられる。相手は、自分と話す気など微塵も持っていないのだ。
イアナの剣は、これまでのどの武器よりも手に馴染んでいた。まるで自分のために作られたような、そんな感覚すら覚える。まったく重くなく、違和感を感じない。自分の手のように操れて、剣の先にまで自分の神経が行き届いているようだった。
なのに、ラハウとは互角だった。
いや、互角ではない。
クリフは少しずつ、押されていた。
もう体中を、じっとりと汗が包み込んでいる。ボロボロの服がやけに重く、うっとおしい。足元に転がった兵士やテーブルなど、色々なものが邪魔に思えてきた。動きに機敏さがなくなってきたということだ。火がどんどんと燃え広がっている。老婆にやられるか火事に巻きこまれるか、どっちが早いかというところである。
悔しいが、ここは何か形勢が逆転することが起こらなければ負けるな、とクリフは弱気に考えた。今のエノアとかいう魔法使いが戻ってくれば一気に逆転だろうが、何となく彼が戻ってくるという気がしなかった。
むしろ戻ってこない確信の方が強かった。
「嫌な予感だなぁ」
内心ごちる。
剣が鳴る。
まだ双方どちらも大きな怪我はしていない。だが時間の問題だろう。
ラハウが剣を振ったと同時に、手を挙げた。
「うわっ?!」
急な魔法攻撃に、足下をすくわれた。油断した。
仰向けに、無様に転んだクリフの上にラハウが立った。
クリフは剣を構えた。それで避けきれるのかどうか分からないが、その老婆からは逃亡すら不可能なことだけは間違いない。
ラハウが剣をかざす。
「楽しかったよ」
皺だらけの顔が歪んだ。
どこか遠くで、戦いの音が聞こえる。
ドォン、という爆発音。聞いたこともないほどの破壊力を感じる、恐ろしい音だった。
だが、その音が。
すぐ側で、聞こえたのだ。
いや、聞こえたなどというものではない。下手をすれば鼓膜を破られそうな衝撃だった。先ほどエノアとラハウが地下室を壊していた、あの音の比ではない。敵味方の別まくなしに、世界の全てを破壊し尽くそうとせんばかりの音だった。
形勢が逆転した。