5-3(意外)
彼は、目を閉じていた。
四方の壁は赤茶色のレンガとクリーム色の板壁を使って覆われていて、室内もそれに合わせて非常に暖かく、外の尖った空気を忘れさせてくれる。レンガ造りの暖炉からは炎が赤々と燃えさかっており、調度品の数々にも温もりがあってゆったりとしている。使い込まれ踏み込まれている床板までもが、暖かく感じられる。
暖炉前のソファでくつろぐ男の膝には、最高級のペーネの毛で編んだ毛布が掛けられており、ソファの下にもフワフワした毛皮が敷かれている。
この上なく最高に贅沢な部屋だった。
足を組み腹の上で手を組む青年はまるで、この温もりに身をゆだねて眠っているようだった。そんな彼の服もまた簡素ながら、高価なものだと知れる布地でできている。
だが瞳を閉じているだけの彼の脳裏では今も、一秒たりとも眠れない深刻な悩みと怒りと悲しみが渦巻いている。
彼はどうにかしてこの部屋から出たいと願っていたが、窓には鉄格子がはめ込まれており、扉には鍵がかけられており、しかも常に見張りがいる。人形のように突っ立ったまま、彼の一挙一投足を見張っているのだ。
贅沢な部屋は、最高に厳重な牢獄だった。
そこに収められてもう何日になるかも分からなくなりそうな日数を過ごした彼は、殺されるのでも何でもない自分の状況に奇妙な感覚を覚えつつ、それに従っている状態なのだった。
何せ人間離れした魔法使いの考えることだ、自分には分からない。
青年がそう思ってため息を天井に向かって吐きだしたその時、それを聞きつけたかのように、くだんの魔法使いが扉を開けたのだった。
「イアナザール王子様」
音もなく入室した黒マントの小さな老婆は、うやうやしく深いお辞儀をした。しかしどんなに謙虚な態度を見せられても、彼女の丁寧な口調はすべて慇懃無礼にしか思えない。イアナザールと呼ばれた青年は彼女に嫌悪感を示した。彼女と入れ違いに、見張りの兵士が退室し、扉を閉めた。
彼女が挨拶の口上を述べようとする前に、青年イアナザールが檄を飛ばした。
「何の用だ」
静かに、しかし鋭く。
だが彼はそう言ってから、内心では自分の言葉の間抜けさに、ほぞをかんだ。
自分をここに連れてきたのは、彼女だ。それが何らかの思惑あってのことなのは明確だ。用がないわけがない。
かと言って「とうとう私を殺しに来たか?」などとも言いたくない。言葉を失って、イアナザールは老婆を睨みつけた。
「まだ殺しはいたしませんよ」
老婆はくっくっと笑った。気分の悪い、カンに障る声だった。
心を読んだのか、それともイアナザールの顔が口ほどにものを言っていたのか。どちらにせよ、不愉快だ。
「ラハウ、いい加減に教えろ。お前は何のために、私をさらったのだ?」
青年は、誘拐されたクラーヴァ国王子その人であった。
この、数週間前までは我が国最高にして最良の宰相と信じていた魔法使いラハウに、術をかけられ連れ出され、ここに軟禁されて今に至る。ふとしたことがきっかけで、イアナザールはラハウのことを密かに疑っていたので、このような扱いを受けたこと自体には、さほど驚かなかった。しかし何のためにイアナザールを誘拐したのかという点は、当の本人も、いくら考えても分からなかったのだ。疑ったからか? それにしたっておかしな話だ。
そもそもここがどこなのかすら、よく分からない。目隠しされ、城の地下室のようなところに連れて行かれたかと思ったら、次に出た時にはここだった。
見張り番の外見や言語、室内の様子などから、ここがソラムレア国らしいということは理解できたものの、それ以上は分からない。豪華な家具や毎日交代の見張り兵を用意できるような家なのだから、それなりの富豪か貴族かと推測するが、ひょっとしたらラハウの持ち家かも知れない。ソラムレア国内に自分の家を用意するぐらいのことは、彼女なら簡単にしてのけるだろう。
イアナザールはここに来てから、まだラハウ以外の誰とも会話を交わしていなかった。部屋から一歩も出たこともない。
老婆はゆっくりと、フードの影から異様な輝きを放つ瞳を覗かせて、
「知る必要のないことでございます」
と、イアナザールの問いに答えた。
イアナザールは、いっそ自害してやろうかと思いつつ、かみつぶした苦虫を呑みこんだ。
しかし敵の手中にあって自害しても、クラーヴァ国の不利に変わりはない。イアナの剣も奪われているし、ラハウの腹は痛まないだろう。自分を使ってクラーヴァと何の交渉をするつもりか知らないが、平然と王子が生きているふりをしておけば良いのだから。
そう思うと、死ねない。
脱出も何度か試みたが、すべてことごとく阻止された。ただでさえ化け物じみた魔法使いにイアナの剣を奪われては、それこそ神を相手にするようなものだ、隙などどこにも、あるべくもない。
だが、それにしても……とイアナザールは思う。
「では、なぜ“今”なのだ?」
イアナザールは予断を許さない強い口調で尋ねた。
イアナの剣は国宝だ。イアナザールと共に、常にあった。ラハウがその気になれば、今の今まで宰相の皮をかぶっていなくとも、いつでも行動を起こせたのだ。
ラハウは言った。
「時が来たからでございます」
ポツリと呟かれた、小さな声だったにも関わらず、ラハウの口調もまた予断を許さないものだった。イアナザールは次の言葉を思いつかず、押し黙ってラハウの言葉を反芻した。
──時が来た。
徐々に熱を帯びているソラムレア国とネロウェン国の戦争を言ったのだろうかと思ったが、イアナザールには、このラハウがそんな小事を気にすると思えなかった。自分に想像もつかないような世界を揺るがす何か。そのぐらい現実味のないことの方が、この老婆にはふさわしい。そんな気がした。
ラハウがすっと、扉から離れた。
横に移動し、扉の縁を軽くノックする。外の兵らによって、両扉が開けられた。そこから入室する者はいない。どうやら、イアナザールに「出ろ」ということのようだ。
「お連れしたい場所がございます」
ラハウは再度、深く腰を折った。
彼女の好きにされるしかない自分の状態が情けないが、部屋から出られることに逆らう理由はない。子供のように駄々をこねるよりは、良いように扱われた方が少しでも状況が分かるというものだ。イアナザールは上着だけはおり、まっすぐ前を向いたまま、礼をしたままのラハウを一瞥もせずに部屋を出た。
着替える時間を与えないということは、誰か高貴な者に引きあわせるということではないらしい。もしくは捕虜の身である以上、着替えなど必要ないという意味かも知れないが。
部屋の外は、思いの外広かった。廊下は片方がレンガの厚い壁、イアナザールの部屋と同じ扉がつらなっている方が板張りになっている。レンガ壁の方には明かり取りの窓が小さく点々と並んでいるだけで、板壁側に設置されているランプも今は消えている。誰も歩いておらず、薄暗かった。
「こちらでございます」
先頭に立ったラハウと兵2人に囲まれて、イアナザールは目だけを周囲に動かしながら歩いた。
やがて一行は廊下の端から螺旋階段を降りた。廊下の終点には、上か下にしか行けない、その階段しかなかった。
階段はむき出しの石で、先ほどまでの部屋や廊下の雰囲気とは、まるで違っていた。廊下よりさらに暗く、装飾もまるでない。ランプやロウソクもなく、兵が用意したたいまつの灯りだけが頼りだった。この分では、地下は何も見えないほどに真っ暗だろう。
「私の“牢獄”はここに移動するということか?」
イアナザールは自嘲気味に、ラハウに言った。ラハウは振り向かず、返答もしなかった。
底冷えするような寒い空気が、イアナザールの暖かだった体を急激に凍りつかせた。冷気によって背骨がきしむように固まり、吐く息はいきなり白くなった。イアナザールは地獄に向かっている気分になった。いつかラハウに連れて行かれた、あの地下のような場所のことを思い出す寒さだった。あの時は視界をふさがれていたが、感じる空気が似ているような気がした。──ところが。
地下に降りたってしばらく行くと、ふいに空気が和らいだのである。気付くと肩を下ろすことができていた。あいかわらずの暗闇ではあったが、人が住める程度の空気がそこにはあった。
奥まで進み角を曲がると、灯りがあった。暖炉だ。
この石造りの寂しい地下の奥で暖炉だけが赤々と燃えさかっているのは、非常に不思議な光景だった。不釣り合いだ。あまりにも寒いので、そこにいる人間が凍えてしまわないようにという配慮なのかも知れないが、暖炉付きの牢獄というのは聞いたことがない。
牢獄。
そう、視界がひらけたイアナザールの前には、牢獄があった。角を曲がった途端出てきたのだ。幾つか並んでいたが、そのどれもが空だった。その一番奥に暖炉があった。ほわりとした光を発していて、その側に座る看守らしき男が火の番をしている。その男がラハウの姿を認め、深々とお辞儀した。
ラハウは一番奥までイアナザールを導いた。
無言で道を譲られ、牢の前に立つよう即される。
もしくはそこも空で、私のために用意された牢なのかも知れないが……そう思いつつ、イアナザールは牢の前に立った。横から兵らがイアナザールの少し前に立ち、たいまつをかざした。暖炉と左右のたいまつ、3つの光に照らされた牢の中に鉄格子の影が落ち、その影の中に、一人の人間が座っているのが見えた。
あぐらを掻いて座っていたその人間がこちらに目を向け、それから徐々に顔を上げた。どうやら、男のようだった。
牢の男は立ち上がり、目を見開いて、イアナザールの元に歩いてきた。
イアナザールもその顔を見て目を皿のようにし、思わず一歩後じさった。
「まさか」
思わず呟く。
そんなわけがない。
自分は、ちゃんと、ここにいる。
牢の男は汚れていて、頬がこけ、カサカサの肌をしていた。手と足に枷をはめられ、動きがぎこちない。
体は思いの外がっしりしているようで、自分より鍛えてあるということが、イアナザールには分かった。無駄な筋肉が一つもない、元気だった頃にはおそらく相当の戦士だっただろうと思われる、若々しい肉体だった。
そう、この青年は、自分より若い。
イアナザールは直感でそう思った。
自分の、わけが、ない。
「どういうことだ?」
発言したのは、イアナザールの方だった。
こんな地下牢の奥で、自分そっくりの人間を見せられて、どう反応しろと?
イアナザールは必死に動揺を隠したが、背丈までそっくりなその男が自分の前に立つと、鏡を見ているような気がして目眩がした。男もまた鉄格子に手をかけ、イアナザールに見入っている。驚いているのだろう。
赤茶の髪に、赤茶の瞳。いや髪型が違うし、色も、男の方が若干赤い。衰弱した顔をしていても、瞳だけは強く明るい光を発している、力ある目だった。
「名は?」
ラハウが牢の男に問うた。
「口が利けないわけじゃなかろう?」
しかしそう言われて男は、一層口を強く引き結んだ。その目には、漆黒のマントを着た老婆への嫌悪の念が現れていた。
「それとも本当に利けなくしてやろうか?」
面白そうに言うラハウの声が癪に障ったのだろう、男はかすれた声で小さく、
「クリフォード・ノーマ」
と吐き捨てた。クラーヴァ国の言葉のようだが訛りがひどい、と思ってからイアナザールは、彼の言葉がロマラール語であることに気付いた。そういえばラハウは、クラーヴァ語で話しかけた。
そんな者が、なぜここに?
その疑問を咀嚼する間もなく、イアナザールはラハウが取りだしたものに心を奪われた。
黒いマントが揺れる。その中から、細長い物が現れる。
「イアナの剣!」
イアナザールは思わず手を伸ばした。
しかし両脇に立っていた兵らが素早く動き、たいまつでイアナザールを遮った。鼻先に炎が向けられ、イアナザールは身を引いた。ラハウは、ずっとマントの下に隠し持っていたのだ。
まったく気付かなかった己を、イアナザールは恥じた。イアナの剣には不思議な力がある、それは、自分だけが感じうるものだったのに。
イアナの剣。
イアナザールは魔法が使えないし、魔力もない。しかし生まれながらにして、イアナの剣の主だった。彼だけには、その呼びかけに反応するかのように剣が騒いだのだ。それをイアナザールも、感じることができていた。
なのに今の剣は、いくら呼びかけてもまったくただの剣だ。ソラムレア国に来てから、そうである。今など目の前にあるというのに、呼びかけに応じない。ラハウのせいだった。
ラハウは剣の柄を上に向け、顔を近づけた。柄尻には、赤く光る小さな、玉のような石が装飾と共に埋め込まれている。その石にキスをせんばかりに口元に近づけたラハウは、小さく何かを呟いた。どこの国の言葉でもない。魔法だ。
石がポウと輝きだした。
身を乗り出そうとしたイアナザールの両腕を兵らが抱え、取り押さえた。牢の男、クリフも格子を掴み、その光景に目を見張っていた。
石を光らせたまま、ラハウが剣をイアナザールの鼻先にかざした。イアナザールは身をよじったが、動けない。
「何の真似だ!」
イアナザールの怒号に呼応して、剣の石が輝きを増した。驚いてイアナザールが怒りを鎮めると、剣の光も小さくなった。
ラハウはフードの奥で少し口元を歪めた後、イアナザールから一歩退いて、牢に寄った。兵らが後じさり、引っぱられたイアナザールは端に連れて行かれた。
「放せ! 答えろラハウ! これは何なのだ!」
イアナザールの叫びを意にも介さず、ラハウはクリフへと剣を掲げた。何のつもりかはまったく分からなかったが、クリフは思わずその赤い柄を凝視していた。
「うわ?!」
「うっ」
途端、強い光が辺りを包んだ。石が太陽のように輝き、兵らやイアナザール、クリフはおろか、ラハウすらもの顔をそむけさせ、手で顔を覆わせてしまった。
慌ててその手を石にかざし、何ごとかを唱える。瞳を閉じるようにすうっと光を消していったイアナの剣の様子に、思わずラハウは安堵して、息をついたのだった。
「驚いたね。ここまでとは思わなかったよ」
ラハウが言い、クリフに笑いかけた。しかしクリフは、何が何やら分からない。
壁際に寄せられたイアナザールが兵らの間から頭を突きだし、顎を引いて老婆を睨んだ。
「説明しろ」
「そうさね」
ラハウが急に、問いに応じた。
「今、イアナザール王子様は用済みになってしまわれましたからのう」