4-7(後悔)
5日目の太陽は、もうすっかり海の底に沈んでいた。
空にはポッカリと月が浮かび、海もその色を移して、ちらちらと輝いている。薄く広がる雲が時折月をかげらせた。
ただでさえ黒い船の帆が、月を背にして、一層黒く浮かび上がる。その黒い影の中から星空を眺めていた人物は、その思いの外明るい夜空に、少し目を細めた。
月に背を向け、甲板の手すりに体をもたせかける。ふわりと長い髪が揺れ、月の光をすって金色に輝いた。瞳は深く青く、愁いを帯びていた。
長いまつげが、ピクリと震えた。伏せられていたまぶたが上がり、目前に立った人影をとらえた。
「5日たったよ」
腕を組んで、足を斜めに投げ出した小柄な人影が、静かに声をかける。
「そうね」
彼女が答える。
「出航しないのかい?」
「しなきゃあね」
ドライなふりをする勝ち気な声も、この時ばかりは暗かった。が、ルイサの方は表情も感情も殺さず、どっぷりと沈んだ様子を露わにしている。マシャの比ではない。珍しいな、とマシャは思った。
「ルイサ、あいつらに帰ってきて欲しかったんだ」
「まぁね」
ルイサが肩を竦め、少し微笑んだ。その後ろでは月が、再び雲から顔を出して、輝きを放っているところだった。マシャはルイサの横に立ち、手すりに肘を突いてその光景を眺めた。
「前の時みたいに、魔法をかけてやれば良かったのに」
「どうやって? “戻れ”って?」
ルイサが苦笑する。
前の時というのは、クリフらが海賊ピニッツに遭遇したときのことだ。初めて会った酒場“シェラ・ベルネ”でルイサがクリフらに「南の森には近付くな」と言った時、すかさず魔法がかけられていたのである。クリフらが、森へと来るように。そうとは知らずクリフらは、自らの意志で森の中へと分け入っていったように思っていたのだ。
「私のは、魔法だなんて大層じゃないわ。せいぜい勘が良い程度よ。そう何度も、効かないわ」
「らしくないね、ルイサ。もしかして、あいつらに惚れた?」
「少しね」
「ぶ」
ルイサのおどけた言い方に、マシャが吹きだした。
「まぁね、たまには良いよね、ああいう無鉄砲な単純馬鹿男も、退屈しのぎにはなるわ。でもこうなることは予想してたんだからさ、頭を切り換えないと、次の行動が鈍るよ。あいつらが戻らないってことは、あいつらかテネッサ・ホフムのどっちかが裏切ったんだから」
「筋書き通りにね」
マシャの早口を遮るようにして、ルイサが低く冷たく言い放った。マシャは、ルイサともあろう者に向かって自分が過ぎた発言をしてしまったことに気付き、ハッと口を押さえた。
「……ごめん」
「いいえ」
またすぐに柔らかい笑みを作り、ねぎらうようにしてマシャを見る。
「切り替えができてないのは、確かだわ。あの子たちに情が移り過ぎちゃってたし、戻って欲しいと願ってたし」
ルイサは大きく息をついて、伸びをした。マシャがふと思いつき、呟いた。
「だから、なるだけ会わないようにしてたんだ」
「あんまり強くないわよ、私」
海からの風がルイサの髪をもてあそび、かすかに輝かせた。月の落ちていく空が、ゆっくりと漆黒に変わっていく。空の真上には星が光っていたが、町側、山の向こうは暗くて何も見えなかった。
「ああいうまっすぐな目が怖いのは、自分の弱さがさらけだされるからかもね」
「詩人じゃん」
今度はマシャがおどけて言い、ルイサを吹きださせた。
「この程度で詩人になれるかしら」
「なれるなれる。踊れないほどお婆ちゃんになっても、吟遊詩人で食べてけるよ」
「年寄りの吟遊詩人なんて聞かないわ」
2人は今日を惜しむかのように、キャラキャラとくだらないお喋りに興じた。先ほどの話を忘れるかのように。
そのせいで注意力が散漫になっていたので、2人は甲板に上がってきた人影に気付かず、思わず小さく声を上げてしまったのだった。その人影が、普通よりも気配がなかったせいもある。
「誰?」
「戻ってきたなら、さっさと部屋に入って寝ちまいな! 早朝には出発なんだからね!」
桟橋を渡る音と共に上がってきた影は、船の外からの者だ。ほとんどの者は、朝に備えて眠っている。出航の時だけは気を引き締めるのだ。それでない時は港町に繰り出していって飲むも騒ぐも自由だが、今日になってまだ町に出ている者がいるとは思わなかったので、そんなマシャの声は怒気をはらんだ。驚いてしまった自分の不覚をごまかすためもあったろうが。
「?」
だが、人影から返事はなかった。
マシャは、船員ではないのだろうかといぶかしんだ。彼女らの方からは、人影にマストの影がかかって見えにくかった。もっと近付いてくれれば分かるが、ルイサらのたたずむところは船首で、登り口からは少し離れている。
この港町は“ピニッツ”の拠点の一つである。隠れ里なのだ。大抵の者は黒い船が何かを知っているし、知らない者はその不気味さゆえに近付かない。しかし時々チンケな愚か者が入ってくることも事実だ。その者がその後どうなったかは、誰も知らない。
しかし、マストの傍らから出てきた影は、見知った顔だった。
「オルセイ!」
2人は同時に声を上げていた。
黒い髪と、少し背の高い中肉の体。左腕には包帯を巻き付けているが、その他に怪我はないようで、しっかりと立っている。
ゆっくりと近付いてくるオルセイに駆け寄ると、オルセイは俯いた前髪の間から、冷ややかにルイサを見た。それからマシャに目を移す。思わずぞくりとした。マシャは、暗いのでそう見えるだけかなと思おうとしたが、しかしどう見ても、オルセイは怒っていた。
「無事だったのね」
そう言ってオルセイの顔を覗きこむルイサの胸元を、オルセイが無事な方の手でぐいと掴んだ。
「きゃ」
「オルセイ!」
ルイサは足が地面から離れそうなほど引き上げられ、小さく叫んだ。だが実際にはそれほど驚いていなかった。オルセイの怒りはもっともなのだ。
彼だけが戻ってきた時点で、確定できた。
裏切ったのは、テネッサ・ホフムだ。
ルイサは分かっていながら、オルセイに聞いた。
「クリフは?」
オルセイがさらにルイサを睨みつけた。
「今すぐ行くんだ」
「オルセイ! オルセイったら! 止めなよ、あんた誰に向かって、」
「黙れ!」
マシャのさえずりが、オルセイの怒声に遮られた。
マシャはオルセイとルイサを引きはがそうとしていたが、その声で、ビクリと手を引っ込めた。
「テネッサの家に行くんだ! クリフを助ける!」
「無理よ」
ルイサは表情を出さずに言った。
「もう殺されてるわ」
「逃げのびたかも知れない!」
「なら、助けに行くのは無駄だわ」
「あいつは帰ってくる!」
「もう5日たったわ」
問答を繰り返すうちに、段々とオルセイの手から力が抜けてきた。ルイサは自分の襟首を掴んでいるその手に、そっと自分の手を重ねた。オルセイがそれを振り払い、ルイサがよろけて尻もちを突いた。伸びた襟元が急に離れたのが、反動になってしまったのだ。
「あっ」
「ルイサ!」
マシャがルイサに駆け寄った。キッとオルセイを睨み上げたが、今度はマシャは喋らなかった。葛藤を抱えたオルセイの苦しげな顔が、そこにあったからだ。
「俺は……俺も……」
オルセイは独り言のように呟いた。
「あいつを見捨てた」
ルイサもマシャも、オルセイらがホフム邸でどのようなことになり今に至るのか知らない。しかし今までに見知った2人の様子からして、本当にオルセイがクリフを見捨てて逃げてきたとは考えにくい。マシャはそう言いたくなって声を上げかけたが、その前にオルセイが近付いてきたので、言えなくなった。
オルセイは再びルイサを引きずり上げた。
「止めなよ!」
マシャが懸命にそれを止める。誰かを呼びに行きたかったが離れられない。その間にルイサが殴られるかも知れないと思われるほど、オルセイからは怒りが溢れていた。
「お前は俺たちを計ったんだ!」
「知らないよ、言いがかりだよ!」
「こんなことなら、言いなりにならなければ良かった!」
「違うって言ってるだろ?!」
ルイサは、立たされながら終始無言だった。
「あいつはあんたを信じてたのに!」
そんなことは分かっている。
私だって信じていたわと言いたかったが、ルイサはそれを言えない。言う資格がない。
「行けよ、北へ!」
オルセイは左手でルイサの腕を掴んで押さえ、右手をバッと構えた。
殴られる! と思ったマシャが、慌ててオルセイの右腕にしがみついた。力を込め、振り回されても動かないほど抱きしめた。
「止めて! オルセイ、止めて! 悪いのはあたしだよ!」
「マシャ?!」
「マシャ」
驚いたのは、ルイサだった。
マシャはオルセイにしがみついたまま、泣きそうになった。
「そうだよ、利用したんだよ。危険は知ってた。でも行かなきゃいけなかった。“ピニッツ”じゃない者が行かなきゃならなかった。ちょうどよく、あんたたちが来たんだ。でも帰ってきて欲しかったんだよ! 殺されるために行かせたんじゃないんだよ!」
一生懸命に叫ぶマシャの体が、小刻みに震えている。それに気付いて、オルセイは力を緩めた。しかしまだ、ルイサを掴む手は放さない。
「なら、危険があると言って欲しかった。それでも俺たちは、クリフは、裏切らなかった」
マシャは、オルセイの腕に力がなくなったことに気付いて、離れた。自分が泣いていなかったかどうかと思い、少し目尻に触れてみる。まだ、泣いてはいなかった。
「生首すら持って帰ると言った男なんだ」
「そうね」
ルイサが言った。
「だから助けに行くんだ!」
「オルセイ!」
「もう無駄よ。可哀相だけど、諦めて。あなたまで、むざむざ死にに行かせるわけには行かないわ」
「死ぬもんか! ……う」
「静かにしたまえ。皆、寝ている」
オルセイはルイサを放し、俯せに崩れ落ちた。その後ろに、銀に光る髪が現れる。ナザリだった。
思わずほっとしたマシャが、ナザリにすり寄った。放されたルイサは今度は倒れず、伸びた襟を直した。乱れた髪に中から手を入れて、ふわりと散らす。金の髪がしなやかに揺れて、落ち着いた。ため息を一つもらす。
「言い訳は、何もできないわ」
「することなどない。条件は、最初から提示していたのだから」
あくまで冷静なナザリは、その細身に似合わない腕力で、気絶したオルセイをひょいと抱え上げた。船底の船室に放り込むべく、歩きだす。
「予定は絶対だ。この先の方が重要なことは忘れないで下さい、騎士団長殿」
ナザリは急に敬語になってルイサにそう言うと、彼女を残して去った。ナザリを手伝うため、マシャも一緒に歩きだす。気になって2度振り返ったが、今は一人にした方が良いだろうと思い、何も言わなかった。
残されたルイサは、また静かになった甲板に一人たたずみ、手すりに手をかけて海を見た。海からの風が冷たい。もう寝なければ、明日は早い。しかし寝てしまえば、今日が終わる。
もう月すらも、海に半身を隠していた。
「クリフ……」
ルイサは呟き祈ったが、翌朝になっても、望んだその姿が現れるべくもなかった。
~5章・赤光の剣に続く~