4-6(逃亡)
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「何だってんだよ、畜生!」
クリフが走りながら、悪態をついた。
わけが分からない。分からないが、交渉が決裂したらしいことだけは分かる。
トラブルはないと言ったくせに! と内心ルイサを恨んでみても、役に立たない。ルイサだって予想していなかった事態なのかも知れない。
窓から飛び出した中庭には、正面に壁がそびえていて、左右どちらかにしか逃げられなかった。しかし木々が植えられており小さな池まであって、どちらに出口があるのか見えない。
だが幸か不幸か、2人の走る方向は定められた。もう一方から、新手の走ってくる声が聞こえたからだ。部屋の中にいた連中が外に回ってきたらしい。結構な人数の音がした。
一桁なら何とかなるが、このぬかるんだ土の上で雨に打たれながら、二桁の敵を相手にするのは危険である。しかも上着を部屋に残してきたので、次第に体が凍え、手がかじかむことだろう。
2人は振り返りもせずに、ひたすら逃げた。
天の助けと思わず祈りたくなったのは、先ほどくぐった玄関に辿り着いた時だった。待ち構える敵5人付きだが仕方がない。2人は彼らを倒して、外に出た。
「殺したか?」
「分からん!」
クリフが吐き捨て、剣に付いた血をブンと一振りして走った。振り向かない。正当防衛だ。
クリフらは狩人だし、何頭ものグールなど動物を手にかけてきたが、人を殺したことはない。斬るときの容量も気合いの入れ方も、グールを相手にした時のそれと同じものだったが、斬った後に残った感覚は、当然違った。食べるために斬ったわけではないのだから。
だが生きるために斬ったのだ、同じ意味だ。
斬らなければ斬られていた。
クリフは心中で言い訳しながら、暗い森のぬかるんだ道を走り抜けた。後ろからの屋敷の灯りがホンワリと夜道を照らしていたが、その先は吸い込まれそうな闇であり、足元には草が生えデコボコとしていて走りにくかった。体力がどんどんとなくなるのが分かる。力が、汗となり蒸気に変わって体から抜け出ていく。
「待てー!」
追っ手の中にも、ロマラールの言葉を話せる者がいるらしい。そんな叫びが、後ろからいくつも聞こえた。それと一緒に、ゴーナの駆ける音も混じっている。
「まずい!」
オルセイが叫んだ。
追っ手には、ゴーナがあるのだ。自分たちのゴーナもどこかにはつながれていたのだろうが、後の祭りだ。そもそも探している余裕などなかった。
このままでは追いつかれる。迎え撃つにしても、人数が違いすぎる。
それでも、やるしかないか?
そう思いオルセイの足が鈍った時、いつの間にか雨が上がって静かになった森の中に、追っ手らの音以外の音がしているのが聞こえた。沢山の水が押し流される音。
「クリフ、川だ!」
近くに川があるのだ。、雨で増水しているのだろう、結構な轟音である。2人は道を逸れて、その音に向かって走った。雨も上がっている。俺たちはついている! 自然と2人の顔には、笑みが広がった。
突然暗くなり、しかも道ではない分だけ茂みも深く、何度も足を取られそうになったが、それは追っ手とて同じだろう。疲れているはずだ。しっかり膝を上げなければ進めない。ゴーナなどに乗っていれば、よほど上手い者でなければ余計に走りにくい。奴らに追いつかれる前に川に飛び込めれば、助かる可能性がグンと上がる。
──しかし。
ドドドドドドドド……と、辺りに響かせている轟音の正体を見た瞬間、2人は思わず固まった。
川、などという可愛いものではなかった。
真っ黒な景色の中にボンヤリと見えていたそれに、光が一筋落ちた。思わずオルセイが、
「嘘だろ」
と呟く。
その呟きに合わせるように、すぐにまた厚い雲が月を隠して、大きな滝の姿を闇に消した。しかし音だけは、そんなオルセイの声をうち消すかのように、いつまでも鳴りやまない。
滝のすぐ側の崖に出てしまった2人を誘うかのように、すぐ真下に飛沫が押し寄せている。上手く落ちれば巻き込まれないで、川の流れに乗れるかも知れない。しかし岩にぶつかったり溺れてしまう可能性は充分にある。とはいえ、もう、道の選択がない。
「飛び込め!」
クリフが叫んだ。
追っ手の持つ、たいまつやランタンの光が、すぐそこまで迫っていた。
「いやクリフこれは、もう少し下流への道を……どわー?!」
つべこべ言うオルセイを、クリフが突き飛ばした。
文字通り、オルセイが飛ぶ。
「お前なあああぁぁ!」
暗く小さくなっていくオルセイの叫びが、ドボンという水音と一緒に消えた。無事、水に入ったらしい。クリフもその時には中空を飛んでいる予定だったのだが──阻まれた。
足を掴まれてつんのめったクリフの背中に、男たちが押し寄せた。顔から地面に叩きつけられ、剣を奪われ腕を背中にねじり上げられ、オルセイの消えた直後には、完全に押さえつけられていた。
オルセイは、間一髪だったのだ。
「うわ?!」
押さえられたクリフの鼻先に、長剣が振り下ろされて地面に刺さった。目前で、きらりと刃が光った。
「こいつ!」
「誰か押さえててくれ、俺が斬る!」
「一人逃げたぞ!」
「あっちだ!」
そんな叫びが口々に上がる。クリフの耳に、それらは意味をなさなかったが、まぁこんなような内容だろうなということは想像できる。数人が崖下を指さし、剣や矢や石、たいまつを崖下に投げ込みはじめたから。
「止めろ、止めろー! オルセイ!」
クリフは人間の山に潰されたまま、暴れた。
水に消える直前のたいまつの炎や時折ちらりと覗く月が、滝に落ちる剣先を光らせた。次々と水に呑み込まれる剣が、オルセイを捕らえた様子は感じられないが、姿も見えないので、どうなっているのか分からない。
「オルセイ!」
「安心しろ、お前もすぐに同じところだ!」
誰かが憎々しげに言ったそれは、ロマラール語だった。身をよじったが、ビクともしない。剣が振り下ろされた。
思わず目をつむった。
死を覚悟した。
ふとロマラールのオルセイらの家、コマーラ一家が脳裏に浮かんだ。
優しい義母、師匠でもあった義父。クリフを息子と呼び、オルセイらとわけへだてなく慈しんでくれ、叱ってくれた。本当の兄弟のように一緒に育った、オルセイ。無事逃げのびてくれ、と思った。
そして駆け抜ける、紫の残像。小生意気な笑みで睨むようにクリフを見つめる紫の瞳が、はっきりと脳裏に浮かんだ。
ラウリー!
ギィンと金属音が響いた。
「──!」
次いで、すぐ近くで野太い声がした。
クリフはつむった目をさらに固くつむって首をすくめたが、覚悟したその瞬間はなかった。
「……?」
そっと目を開ける。
首を動かしてみる。
まだ、つながっているようだ。体のどこも斬られていないらしい。骨の折られそうな重みは、そのままだが。
沢山のたいまつが、地面にひれ伏したクリフを照らし出していた。首をひねると、3,4人の男が自分にのしかかっているらしいのが見える。
するとその向こうに、クリフを見下ろしている男がいるではないか。周りの連中と雰囲気が違って見えるのは、着ているもののせいなのか。
男は剣を杖のようにして右手で支え、クリフの後頭部を見下ろしていた。その側で、落とした剣を拾っている者がいる。それらの状況の意味するところが、今ひとつ飲み込めない。
男が何かを言い、腑に落ちないままの顔でクリフは、その場に座らされた。ぐるぐる巻きに縛られる。どうやらすぐに殺されはしないようだ。ひとまずはこの男のおかげで助かったということらしい。
「どうする気だ?」
男は他の者にはないマントを着けていて、装飾もやけに華やかな格好をしていた。彼らの様子からも、この男が頭領格であることが分かるが、先ほど屋敷で暴れていた時には見なかった者だった。
地面にあぐらを掻いて座らされているクリフの顔に、たいまつが近づけられた。マントの男がクリフを覗きこむ。たいまつの横に、2人の顔が浮かび上がった。
あまり良い顔ではないな、とクリフは思った。王都で出会ったことのある狡賢い商人が、ちょうどこんな目つきをしていたなと思う。あの商人よりは立派な髭をたくわえており、いくぶんかの威厳もあったが、クリフにとっては尊敬できない顔だった。コマーラ家の父親と同じか、それより少し下かという年齢だろうが。
クリフがそんな値踏みをしていることなど露知らず、マントの男は、目を見開いていた。眉を寄せる。
「……ヤンナズィーレ」
そう呟いたようだった。言葉の意味は解らないが、どうやら驚いているようだ。
「何だってんだよ、事情を言えよコラ」
しかしクリフの問いは、頬を一発殴られて封じられた。血の味がした。切ったらしい。
会話をする気はないらしいので、言葉が通じているのかどうかも分からない。クリフは口に溜まった血をべっと吐き出し、男を睨み上げた。
ひとまず命拾いをしたようだが、どうやら、もっとややこしいことが待ち受けていそうだ、とクリフは再度ルイサを恨んでみた。