4-5(驚愕)
「こちらでお待ち下さい」
流暢なロマラール語に案内されて、2人は小さな部屋に通された。
先日のようなことがあったので、クラーヴァ語の挨拶を教わってはおいたのだが、結局それは使わずに済んだ。言おうともしたのだが、実践となるとやはり言えない。
あの長い航海中に時間は腐るほどあったのだから、習っておけば良かったなぁと思っても、後の祭りである。“違う国の言葉”というのが頭では分かっていても、どうもピンと来なくて、今までほったらかしにしていたのだ。今さら悔やんでも遅い。
その部屋に通されるまでの屋敷の通路は、あまりに豪華で、2人には驚きだった。
幅の広い廊下、点々と設置されたランプ。白いしっくいの壁が火を良く照らしていて明るい。風が吹いてカーテンが揺れても、ランプの火はおいそれとは消えない。外の雨を忘れそうな、暖かい光だった。
なのに、けれど、心がざわついて落ち着かない。
気押されているからかも知れないし、服が濡れているためかも知れない。護身用の短剣を、身体検査で取られたせいかも知れない。
2人はとにかく荷物を置いて体を拭き、着替えてみた。
「今日中に会ってくれるのかなぁ」
「さぁな」
「さぁなって、あのな」
「何だよ」
「俺はこの重苦しい空気が嫌で、わざと明るく言ったんだ。会話しろよ、会話」
「重苦しいか?」
オルセイはきょとんと周囲を見回した。一つしかない窓は閉められており、ランプが壁とテーブルに一つずつ。確かに少し暗いかなという気はするが、取り立てて言うほどのことでもない。
「俺の気のせいか?」
クリフは頭をぐしゃぐしゃとタオルで拭いながら言った。
ぐっしょり濡れた服を上から下まで全部着替えると、ようやく少し落ちついた。髪は湿っているし、体もまだ凍え気味だが仕方がない。しかし内陸のためなのかどうか2人にはよく分からなかったが、ロマラールの冬よりずっと過ごしやすい気がする。
前髪をかき上げると頭の後ろに張りつき、2人とも2~3歳は年上に見えた。
「この頭の方が良いかもな」
先ほどの詫びのつもりで、オルセイが笑って言った。クリフも少し笑った。
どんな人物と会うことになるのか分からないが、2人の年は若いし、格好も普段着だ。どんなに頑張ったところで、貴族が着るような服など出てくるわけがない。
替えの服も封書も、油でかためた皮の袋に入れてあったので、まったく濡れていない。封書の口にはロウで押印がしてあるのだが、それも取れておらず無事だ。
中に何が書いてあるんだろうという興味はあったが、皮紙は厚く、ランプに透かしてみてもまったく読めなかった。
「何が書いてあるってんだ、大層な」
クリフがぼやいたと同時に扉が叩かれ、2人は一瞬ビクッと肩を竦めた。
「公爵様のお越しだ」
扉が開き、先ほど案内をしてくれた男がそう言った。その後ろに続いて、見るからに身分の高そうな初老の男性と、陶器のカップを3つ乗せたトレイを持った女性が入ってきた。女性は机にカップを置くと、すぐに出て言った。召使い、というものらしい。
男がクリフたちに席を勧めた。荷物をどけて、全員が席に着く。その間も男の目は、ずっとクリフが手に持ったままの封書に向けられていた。
「まずは飲んで、暖まりたまえ。こんな夜遅くになってまで急いできてくれて、感謝するよ」
綺麗なロマラール語での、優しい物言いだった。
物腰も穏やかで、怪しむべき挙動はどこにもない。ゆったりと机に手をついて優雅に腰を下ろす、その動作のすべてが「自分たち庶民とは違う人間らしい」という風に見えた。どう考えても、この男と同じ年齢になった時に、自分もこのようになっているとは思えない。
「テネッサ・ホフム・ディオネラです。紋章を」
「名乗った方が良いですか?」
「紋章と手紙さえ本物なら、あなたたちの名前は不要」
男、テネッサはニコリとして、オルセイの差し出した紋章を受け取った。真実の言葉には違いないし、彼なりの気遣いから来た台詞なのかも知れなかったが、クリフは少し冷徹な人だなと言う印象を持った。笑顔の裏に冷酷無比な顔を隠しているような気がする。先日会った“ピニッツ”の船長ナザリと似ているが、この男の方が感情が露骨だ。演技がかって見えるほど。
テネッサが紋章を認め、オルセイに返した。
「言葉を」
「“我に道を与えよ”。──だったかな?」
「結構です」
オルセイが言い、クリフが手に持っていた封書を机に置いた。しかし、その上から手をどけない。テネッサは眉を片方、かすかに上げた。
「渡してはいただけんのかね?」
「そちらの品と、交換します」
「なるほど」
テネッサが軽く手を挙げると、後ろに立っていた男が部屋の扉を開けた。待ち構えていた使用人らしき娘が、トレイを掲げている。クリフは内心「まさか生首じゃあるまいな?」と思ったが、そこにあるのは押印がしてある封書と、それに、小さな鉄の塊だった。
クリフは危うく疑問を口にしそうになって、息を呑み込んだ。
トレイの上に乗っているのは、どう見てもただの鉄くずだった。
オルセイはそれを手に取った時あまりの軽さにぎょっとしたが、顔には出さないようにして胸元にしまい込んだ。それと同時にクリフが封書を差し出す。テネッサは満足げな顔をして、ゆっくりと受け取った。
テネッサはその場ですぐ封を開けて中身を確認しにかかったが、クリフの方は、躊躇した。押印を外してまで確認しなければならないのかどうか。
するとテネッサがそれを察したのか、微笑んだ。
「どうか、封のはがれることなく、無事エヴェン様に渡してくれたまえよ」
クリフは内心苦虫を味わった。
黙って会釈して、懐に手紙を納める。
「取引は、無事終了だね。泊まって行きたまえ。部屋を用意させよう」
テネッサは言いながら立ち上がった。それと同時にクリフが立ったので、オルセイも立ち上がる。
「いえ、俺たちは帰ります」
クリフの言葉にオルセイは抗議しかけて口を閉じた。外は雨だし、もう夜更けなのだ。けれど一刻も早く帰りたいクリフの気持ちも、分からないでもない。
テネッサはせっかくの厚意を無にされたが、笑みを崩してはいなかった。
「ではゴーナを出しましょう」
と言った、そこまでは、ロマラール語だった。
なのに。
一度身を翻して部屋を出ようとしたテネッサが、突然クリフたちの方に向きなおって、何かを叫んだのだ。形相が変わり、叫びは、怒号だった。
「──!!」
何と言ったのか、分からない。
しかし、ごく短い単語で叫ばれたそれは、クリフには「殺せ」と聞こえた。
そう聞こえたことにまさかと思ったが、それより先に体が動いていた。
「オルセイ!」
2人同時に身を伏せる。わずかに動きの遅れたオルセイの頭上を、髪をかすって、矢が飛んでいった。後ろから、前へと。
2人の後ろにあった窓がバンと開き、そこから矢が放たれたのだ。前方に立っていたテネッサは、2人が矢を避けるとは思っていなかったらしく、危うく自分が射られそうになり驚いていた。矢は、幸い彼の側をすり抜けた。
しかし不幸にも、テネッサの後ろから入室してきた男らに命中したのだ。
「ぐわっ?!」
「うっ」
前後からクリフらを挟みうちにするつもりだった彼らは、まさか相打ちになるとは思わなかったのだろう。そこに一瞬の隙ができていた。
考えている暇はない。
「どらあぁぁあぁ!」
クリフが思いきり机を蹴飛ばし、テネッサらにぶつけて怯ませた。その間にオルセイが椅子を縦にして窓に飛び込み、弓を持った連中に向かって突進する。思わぬ体当たりを喰らわされ、男らは統率を失った。
オルセイがすかさず、倒した男の腰から剣を抜き取った。その時にはクリフも飛び出しており、手近な男の横っ面をはり倒しているところだった。事態に付いていけない男は、腰の剣を抜く暇もなくのびた。クリフもそこから剣を頂戴して、オルセイと2人で走り出した。後にはだらしなく大の字になっている男が、3人。
「──! ──!!」
テネッサの声が、部屋の中から聞こえる。
よくは分からなかったが、少なくとも友好的な叫びでないことだけは、理解できる。