4-4(承諾)
この程度の降りなら、いっそ雪になってくれた方がマシなのだがなぁと思いながら、クリフは皮のフードを深くかぶり直した。しかし正面から受ける風と馬の揺れによって、どうしても段々と浅くなっていく。
「ええい、面倒臭い!」
クリフはとうとうフードを外して、顔一杯に雨を受ける方を選んだ。目を細め、前方を睨みつける。どこまでも広がる森林の向こうには、まだ何の光も見えない。目的の場所は遠いようだ。日がかげっており、昼過ぎから降り出した雨がいっそう雲を厚くして、元々暗かった視界が、もっと暗くなっていく。
手綱を引いて疾走する2人は、クリフとオルセイだ。
それぞれのゴーナにまたがり、時々立ち止まって景色を眺めたりしている。冬の雨は氷の針のように、容赦なく2人の体を突き刺していた。何度目かの休憩を取った2人は木陰に体を入れたが、それで雨風から逃げられるはずもなく、ほんの気休めでしかなかった。
「この道だよなぁ」
オルセイがポケットから磁石を取り出し、景色とそれとを見比べた。クリフもそれを覗きこみ、自分たちが向かうべき方向を見て、険しい顔をする。
自分たちが慣れ親しんだ山なら土地勘だけで自由に動き回れる2人だったが、知らない国の知らない森ではそうも行かない。見たことのない木が林立する風景に必要以上の焦りを感じてしまい、あまり良い気分の旅ではなかった。
しかも雨に降られるわ、風に吹かれるわ。
しかしこれがルイサに言われた“仕事”なのだから、仕方がない。
「おいクリフ、生きてるか?」
「死なねぇうちに辿り着きたい」
「元気だな」
「おい」
軽くジャブのような会話を交わしてから、2人は再びゴーナの背に乗った。夜になってしまわないうちに、言われた用事を片付けてしまいたい。それも不機嫌の理由の一つだった。
ルイサに頼まれた“おつかい”。
「なんで俺たちなんだよ。ギムとかトートとか、他にも人手はいるじゃないか」
ルイサに用件を聞いたクリフの開口一番は、不満だった。
クリフとオルセイの2人だけである屋敷に行き、ある品物とこの封書とを交換してきて欲しい、と言われたのだ。
ルイサはいつもの調子で、
「大丈夫、ちょっと行って、ちょっと換えてきて欲しいの」
と言ったが、その“ちょっと”が山向こうの大富豪とやらで、持たされる交換物が封書ときた日には、あまりに怪しすぎる。
呼ばれて入室した船長室の真ん中、丸テーブルを挟んだ向こう側で、ルイサは足を組んで微笑んでいる。素直に笑い返すには胡散臭すぎた。話の曖昧さに、オルセイの方は怒りを通り越して呆れている。
「理由があってね。先方に、私や“ピニッツ”の顔をさらしたくないの」
「で、俺たちに行けと?」
比較的冷静なオルセイが応える。
「そう。そのために、あなたたちをこの船に乗せたんだから」
ルイサは言い、2人に酒を勧めた。テーブルにはマシャとナザリも着座していて、全部で5人。マシャも同じ酒を飲んでいたので、クリフも口を浸けた。しかし思いの外強く、危うくむせそうになる。オルセイがそんなクリフを見守った後、おもむろに、ちびちびと飲み始めた。クリフはオルセイを横目で睨んだ。
「あのさ、」
クリフが不機嫌な顔のまま、テーブルにカップを置いてルイサを見た。たっぷり息を吸い、ゆっくり諭すように話す。
「凄く行き当たりばったりじゃねぇ? たまたま出会った俺たちと、たまたま崖下のアジトで再会して、たまたま強かったし船に乗りたそうだったから、乗せることにして利用しました。ってのは……口に出してみると、偶然も良いとこだ」
「だって最初に言ったじゃない。他にも条件があるって」
「けど、こんな条件!」
マシャがクリフを睨んだが、クリフはそれを見なかったことにした。
クリフの剣幕に対して、ルイサは肩を竦めただけだった。組んだ膝の上に両手の平を乗せる。
「最初に会った時はね、本当に偶然だったのよ」
と言い、自分も喉を湿らせるためにカップを手にする。その中で揺れる琥珀色の液体を覗きこみながら、ルイサは言葉を続けた。
「市場を歩いていたら、あなたたちがいて。良い地図だったから近付いたの。けれどオルセイが、東に興味を示したじゃない? だから私も興味が沸いて、あなたたちがお店に来るまでの間に、ちょっと調べさせてもらったのよ。旅人だってことや、グール狩人だってこと」
「ちょっと、って」
クリフは言いよどんだ。
そんなことは“ちょっと”で分かるものなのだろうか。
少なくともクリフが、道ばたで出会った見知らぬ人間が気になったとしても、「じゃあ調べるか」で調べられるわけがない。名前すらも分からないのに。ましてグール狩人などと。
「どうやって調べたんだよ、そんなこと。まさか、宿まで後をつけてきて、子グールがいるのを見て、それで俺たちがグール狩人だって分かったのか?」
「そこまで暇じゃないわよ」
「それに、そんな尾行で、どうやったらあんたたちがグール狩人だって分かるってのさ? 子グール飼ってりゃ狩人だってんなら、今、あたしはグール狩人ってことになるよねぇ?」
マシャが口を挟み、まくしたてた。ルイサに対するクリフの物言いに、腹を立てていたのである。まあまあとマザリがマシャをなだめ、クリフはオルセイになだめられた。放っておけば、この2人ならつかみ合いのケンカもやりかねないなと思ったのは誰だったか。
「まあ情報網ってヤツね。サプサの町であなたたち、グールを換金したでしょ? こんな季節にグールを捕まえてくる人なんて珍しいからね、すぐ分かったわよ」
気を取り直して、ルイサがにっこりと笑った。
「だからあなたたちが相当強いんだなぁって想像もついた。……理屈は通ってるでしょ?」
確かに筋は通る。
それであの夜、ルイサは店に来たクリフたちに船はないと言い、南の森の話題を出して、2人が“ピニッツ”に来るようにし向けたというわけなのだ。
ここでオルセイは何か引っかかるものを感じて手を挙げたのだが、
「でも実際、あなたたちがどのくらい強いかどうかってのは、そんなに問題にしてないのよ」
と先に発言されたため、手が宙に浮いてしまった。ルイサの台詞に、またクリフがいきり立つ。
「だってあんなケンカさせといて!」
クリフがそれにかみついたため、ますますオルセイはタイミングを失った。そんなクリフに、マシャがまた立ち上がそうな勢いで立腹しだしたので、またナザリと2人して互いの相方を抑えにかかる。オルセイは何となくナザリと目があってしまい、2人で苦笑した。
「問題じゃあないけど、知っておきたかったから。ギムに負けてても、殺す気はなかったわ」
クリフは鼻白んだ。確かに易々と殺される気はなかったが、あの時はそれなりに真剣だったのだ。それを問題じゃないと言われては、どう返して良いものやら。
ルイサが立ち上がり、部屋の一番奥に設置された机から何かを取り出して、またテーブルに着いた。クリフらの目の前に、コトンとそれを置く。
手の平に治まる程度の小さな飾り物だった。ツタがからまったようなデザインのブローチだったが、その模様の中央には、グールと思われる顔がある。王都で見たことがある、王族の紋章だった。
「この紋章が、あなたたちを守るわ。ロマラール国からの使いだと言えば良いの、これを見せてね。で、屋敷の中に通されたら、そこで会った人がくれる封書と、この手紙を交換すれば良い。相手は、もしかすると封書だけじゃなくて何か手渡してくれるかも知れないけど、全部、貰ってきてちょうだい」
「その何かってのは?」
「分からないわ。でも私たちにとっては、大事なものになるはず。絵や壺……いいえ、ひょっとすると人の首かも知れない」
「首?!」
素っ頓狂な声を上げたのは、クリフだけではなかった。マシャすらも思わず叫んでしまった。そんなことは聞いてないぞ、と口ほどに物を言う顔をして、ルイサを凝視する。
「脅かしが過ぎたかしら?」
ルイサはいたずらっ子のように、口に手を当てて笑った。
「どう? 怖じ気づいた? 別に船を降りても構わないわよ」
「っていうか、それ、俺たちがその用件を遂行できなかった場合はどうなるんだよ」
「できなかった場合って?」
とぼけているのだろうが、ルイサはきょとんとした目をして、オルセイに聞いた。足を組み直し、背もたれに体を預ける。あくまで余裕の体勢を崩さない。
「その屋敷とやらでトラブルがあったりとか、俺たちがここに帰ってきたら、あんたらがいなくなってたりとか、」
「あなたたちが途中で逃げ出したり、迷子になっちゃったりとか?」
オルセイの言葉を遮って、ルイサはふざけて言った。この言葉に、また馬鹿正直な男が、真っ向から立ち向かう。
「俺たちのこと、何だと思ってるんだよ!」
「仲間と思ってるわよ」
ルイサはさらっと言った。
鮮やかな笑みである。紅を引いたように艶のある赤い唇が、邪気のない言葉を放つ。
「私たちは、あなたたちが帰ってくるまで待ってるわ。行ってもらう屋敷は隣町の外れにあるから、普通なら3日で行き来できるはず。だから5日待つわ。屋敷にトラブルはない。あなたたちなら森を越えるのが容易だろうから、お願いするの。ただ交換してきて欲しいだけよ。信じて」
ルイサは、まっすぐクリフを見た。クリフが気圧されるほどに。
この目だ、と思う。
クリフらとて最初は、ルイサのことを信用していなかった。何も教えてくれないし、船は黒いし海賊だし。なのに、それでもいつの間にか懐柔されていったのは、“ピニッツ”の雰囲気とルイサの目のせいだったのだ。この微笑みのせいだった。
「私の守護神、マラナの名にかけて誓います。たとえあなたたちが私を見捨てても、ね」
ルイサは座ったまま、右拳を左胸に当てるロマラールの敬礼をして、クリフたちに頭を下げた。皆が静まりかえる中、クリフは別の意味で憤った。
「信用してねぇじゃねえかよ」
と。
「俺たちを信用するってんなら、見捨てるなんてこと言うな。きっちり3日で帰ってやるさ、生首だろうが何だろうが持って帰ってやる!」
クリフは吐き捨てるように雄々しく言い切り、カップに残っていた酒を一気に胃に収めた。ダンとテーブルにカップを置いて、一同を睨みすえる。取引は成立だった。
──かくして指令を与えられた2人が、今に至るのであった。
そのことを思い出したオルセイは、内心天を仰いだ。最初から断る理由も術もない条件だったので、来ること自体に違いはなかったのだが、純心まっすぐなクリフを堪能したという感じがして、呆れたというか面白かったというか。
きっと、東に進んでいく先に何があったとしても、こいつはこのままなんだろうな。と、オルセイはほくそえんだ。自分の中に潜む『何か』を、つくと感じるせいだろう。俺は俺のままなんだろうかとふと思うことがあるのだ。今はなりを潜めているが、これ(・・)は暴れ出したり自分を変化させたりしないだろうかと不安になる。
そんな時、いつも変わらないクリフが隣にいるのは、やはり救いだった。
クリフは自分が勝手についてきたのだからと思っているし、オルセイも、そんなことは口に出さないが。
「どうしたんだよ!」
斜め前を走るオルセイについて走っていたクリフが、ゴーナの速度が遅くなったことに気付いて声をかけた。
「ああ、いや……」
考え事をしていたオルセイは、手綱を握り直した。
「今日はもう諦めて、野宿できるところを探した方が良いかと思ってな」
雨風とゴーナの足音に負けないように、オルセイは大声を張り上げた。するとクリフが「嫌だ!」と叫んだ。
「3日もかけねぇ。2日で帰ってやる!」
ガキかお前は。と言いそうになった口を閉じたオルセイだったが、
「お前なぁ」
つい呟いてしまった。
「何か言ったか?!」
「言わねえよ!」
よそ見をすると道を外れてしまうかも知れない。雨もまだ止みそうになく、空ももう暗い。確かにクリフではないが、こんな雨の中野宿も勘弁だ。本当なら夕方、食事に立ち寄った町で宿を取れば良かったのだが、ここまで来れば屋敷はもうすぐじゃないかとクリフが言いはり、走ってきてしまった。
すると。
そんな2人の願いが何かに通じたのか、前方に何やら灯りが見えたのだった。
点々と、何カ所かに見える光は、薄ボンヤリと家の形を浮かび上がらせていた。2人はその影の大きさに目を奪われてしまい、あやうくその手前にそびえる鉄格子の門にぶつかりそうになってしまった。
「どうどう!」
慌てて手綱を引く。
ゴーナが声を上げて、前足を浮き上がらせて止まった。息が荒い。ずいぶん無理をさせてしまったことに気付き、クリフはゴーナの首筋を撫でた。ゴーナの長い毛が、もう雨でぐっしょり濡れている。普段以上に体力を使ったことだろう。
目の前にそびえる門もさることながら、その向こうに見える屋敷がまた、半端ではない大きさだった。この辺りの山をすべて掌握しているのだろうと想像できる、城と言っても過言ではない館だったのだ。
「こ、ここか、本当に?」
思わずクリフは怖じ気づいた。オルセイも、さすがに目を丸くした。
その時2人の存在に気付いた誰かが、玄関から門に向かって歩いてくるのが見えた。どのくらい離れているのだろうか、その者が近付いてくるまでには相当な時間を感じた。おそらくこれが昼間で晴れていたならば、美しい中庭が見え、もう少し時間も短く感じたことだろう。
皮のマントをつけた背の低い男はフードを取らずに、オルセイに誰何した。
しかしその男が何と言ったのかが分からず、躊躇する。ヤフリナ語である。すると男は言葉を換えた。
「何者だ?」
ほっとしてオルセイが言った。
「ホフム公爵の屋敷はこちらか?」
「いかにも。してお前たちは?」
「使者だ」
オルセイが、ルイサから預かった紋章を取り出す。使用人らしき質素な格好をした男は、小さく頷き、「どうぞ」と門を開けた。
門をくぐったクリフは、
「私の名や“ピニッツ”のことは決して言わないように」
と念を押されたルイサの言葉を思い出して、背筋を正した。