4-2(上陸)
「見えてきたぞ!」
上空から声が降ってきた。見張り台にいる男が叫んだのだ。黒い甲板の上に人が押し寄せ、その全員が前方に顔を向けた。風が強いので、皆が一斉に目を細める。
青い空と青い水平線の間にへばりつくようにして、うっすらと白い隆起が出現していた。
今までにはいなかった白い鳥が、鳴き声をあげながら船の周りを飛んでいる。陸が近い証拠だよ、と誰かが言った。
「あれがヤフリナ国か?」
顔をしかめていたクリフが、船の縁に乗り出していた身を戻し、近くに立っていたマシャに気付いて声をかけた。すっかり元気になっている。マシャはクリフの姿を認め、ちょっと微笑んで「そうだよ」と答えた。
それから上目遣いに、すぐにいつもの小悪魔的な笑みを作った。
「到着準備で忙しくなるってことだよ。お2人さんに仕事さ」
オルセイがクリフの横で苦笑した。
頭上で鳥が笑い声のように鳴いている。
陸は、みるみるうちに近づき、黒い船を受け入れた。
とりあえず2人は、マシャの言葉通り即座に仕事に狩り出され、何も考える暇なく働かされた。イカリを降ろせだとか縄を繋げといった、様々な威勢の良い声が船内に飛び交う。帆がたたまれ、船はうなりをあげて停まった。
それは、ちゃんとした港だった。
ロマラールで停泊していた時のような、怪しげな崖下などではない。サプサの港によく似た、それでいて微妙に何かが違う町だった。建物の色や形、歩いている人々も、殆ど変わらない。なのにどこかに違和感を感じる、初めて触れた“異国”の空気に、クリフたちは不思議な思いがした。
「ほら、ボサッとしてねぇで、この荷を降ろすんだ!」
すっかり聞きなれた罵声が飛んでくる。ギムだった。ギムの声は、ひときわ大きい。
図体だけでかいんじゃないんだな、などといらぬことを考えながら、2人は皆にまぎれて作業を始めるのだった。
桟橋の上、船の側に停まった馬車に、言われた荷を積む。
「ん?」
クリフはふと手を止めた。
かたわらに、篭を背負った少女が立っていたのだ。手に2輪ほど花を持ち、それをクリフに見せるようにしながら、何やら小さい声で話しかけてくる。鮮やかな色合いの服だが薄汚れており、訴えるような潤んだ大きい瞳が印象的な少女だった。髪にも艶がないように見える。
しかし、耳を澄ましても、何と言っているのかがまったく分からない。以前ルイサが、ヤフリナは同じ言葉だと言ったのは、ロマラールに来るヤフリナ人が同じ言葉を話してくれているという意味だったようだ。クリフは困惑を隠しきれない顔で、周りに助けを求めた。クリフの目は自然とオルセイを探していたが、オルセイにだって分かるわけがないだろう。
港には多くの人が闊歩していたが、クリフらに目をとめる者は誰もいない。“ピニッツ”の船員らも、ちょうど姿が見えず、クリフは一層困惑した。同じ人間同志が会話できないという初めての体験に、彼は面食らった。 その時“ピニッツ”の甲板から、何も作業をしておらず優雅に降りてくる男が見えたので、クリフは思わずその男を呼んだのだった。
「おい、あんた! そこのあんただよ! この子、何言ってんだか分かんねぇか?」
船では見なかった顔だなと思いつつも、遠慮なくロマラール語でまくしたてる。少女が一歩退いた。
「ああ、いや。驚かすわけじゃなかったんだ」
クリフは少女に振り向いてから、再度男を見た。
頭にバンダナをした、切れ長の目をした男はきょとんとしたようだったが、すぐにクリフに近付いて、側の少女に話しかけたのだった。
その言葉は、分からなかった。
しかし、決して優しくはない、冷たい言葉であることは理解できた。声の色もそうだが、言われた少女が何やら悲しい顔をしながら、しょぼんとして去っていったので。
少女は振り向きもせず、早足で行ってしまった。背中の篭から、黄色い花が一輪こぼれた。
クリフは居心地の悪い思いを味わい、強い口調で男に聞いた。
「今、あの子に何を言ったんだ?」
男はその目をクリフに向けた。
その時には、決して冷たくはない表情になっていたが、本能的に油断ならない相手だな、とクリフは感じた。
もしかしてこの男もヤフリナ人で、言葉が理解できないのだろうかと思ったその時、男の口から流暢なロマラール語が流れ出た。
「花売り娘だよ。相手にしない方が良い」
クリフはカッとなった。
「そうじゃない。俺はあんたに、あの子が何を言っているんだと尋ねたんだ。そして今は、あんたがあの子に何を言ったんだと聞いたんだ。結果を聞いてるんじゃないんだよ」
何かを見透かされているような気がして、クリフは苛立った。その顔にバンダナの男が苦笑して、
「血気盛んな男だな」
と言った時、別の作業をしていたオルセイが甲板からこれを見咎め、走り寄ってきたのだった。
「クリフ! あ、ナザリ」
「ナザリ?」
男はオルセイに振り返って笑みを見せてから、クリフに向きなおり、手を差し出した。
「自己紹介がまだだったな。この船“ピニッツ”の船長、ナザリ・オリミアだ」
「お前の病気を治してくれた人だよ」
クリフはオルセイから、自分が船酔いでなく病気だったことと、それをナザリという船長が手ずから治してくれたことは聞いていた。いわば命の恩人だ。
しかし今は出されたこの手を掴むには、感情が邪魔をしていた。
「クリフォード・ノーマだ。その件に関しては礼を言うよ、ありがとう」
だが手は出さない。ナザリは何ごともなかったかのように、手を下ろした。オルセイがナザリの後ろからクリフに向かって「お前なぁ」という顔をした。オルセイの言いたいことは分かっていたが、今しがたの少女の件に、一応の納得をしないことには、気が収まらなかった。
それをナザリも察していて、
「君の意見を尊重しなかったことは、謝ろう」
と言った。
「しかしここには、ああした物売りや乞食が多い。いちいち相手にしていると面倒なのだ。そうした理由からだ、理解してくれ」
ロマラール国も、そう豊かな国ではない。しかし皆が平均的に貧しく似たような暮らしをしているためか、自給自足が基本の生活なためか、乞食などといった輩はあまりいない。王都にはいたように思うが、クリフのいた村には存在しなかった。この国は──少なくともこの町は、それだけ貧富の差が激しいということになる。花売りから花を買う、乞食に金をめぐむ、そういう余裕のある者がいるということだ。
クリフにはそうした事情はいまいち分からなかったが、ナザリの譲歩した言い方に、矛を収めることにした。実際にまだそれを体験したわけではないので納得はしきれなかったが、本当ならば、今後実感するだろう。クリフは素直に謝った。
「分かったよ。こっちこそ、すまない」
「敬語使いなってば!」
いつそこにいたのか、マシャがクリフの後頭部をベシンと叩いた。馬車の影にいたようだ。
「あてっ。お前な」
ズボン姿で少年のようなマシャは、短い髪に手を入れて、ちょっと首を振った。
「お前な、じゃないよ。仕事しな仕事。航海中タダ飯食わせてやってたんだよ、いざって時に怠けててどうすんのさ、使えない男だね!」
相変わらず見事な毒舌だ。誰も何の口も挟めない。ナザリすら。
マシャはくいと顎を上げると、
「それが終わったら、船長室に来な。ルイサが呼んでるんだ。ナザリもね。“ピニッツ”に遊んでる暇なんてないんだよ!」
と言い終えると同時にきびすを返し、さっさと甲板に上がっていくのだった。後に残された男3人が、呆然とそれを見送る。
「勇ましい副長だな」
誰にともなくオルセイが呟いた。
「まぁな」
とナザリが笑った。
「可愛い子だよ」
可愛いかぁ? という顔を露骨にしたのは、クリフである。
オルセイのラウリーに対する思いと同じで、ナザリも妹のことを可愛がっているらしい、というのは、端で見ていてよく分かる。オルセイとナザリには、そんな共通した何かがあった。クリフはそんなもんかね、と内心肩を竦めた。
「あ」
そう思いながら甲板を歩くマシャを見上げた時、クリフは彼女が手に抱えている黄色い花束の意味に気付いたのだった。先ほど少女が落としたと同じ、あの花である。
「あれ」
とクリフがマシャを指さしたが、当のマシャは聞こえなかったのか、気付かない様子で甲板の向こうに消えた。
「可愛い子だろ?」
腕を組んで、ナザリが笑った。