4章・漆黒の船-1(病気)
出航は、とどこおりなかった。
沖に出て流れに乗るまでは忙しかったが、出てしまえば、クリフらの仕事はない。風を読んだり、帆を動かしたりなどできないからだ。まぁ、忙しくとも、やっていることは雑用だが。
しかしその雑用も、基本的には人数が足りているので、そうそう毎日何かを言いつけられるということもなく、比較的ゆったりとした船旅ができたのだった。
途中だけは。
最初は、大変だった。
「クリフ、どうだ?」
あてがわれた船室の扉を、オルセイが開ける。部屋にせせこましく設置されている二段ベッドの下段には、ぐったりとクリフが横たわっていた。出航の時ほどの揺れではないが、今でもあいかわらず、船は穏やかながら揺れていて、そのせいでクリフは青い顔をしているのだった。
生まれて初めて船というものに乗ったのだから、酔うのも仕方がないというものだったが、最初の日に同時に倒れたオルセイの方は慣れて起きられるようになったのに対し、4日たってもまだまったく治る気配のない自分が悔しくて、もどかしくてならなかった。
そんなクリフは、自分の怒りを隠しきれずにオルセイを睨みつけてしまった。
しかしオルセイは気付かなかったのか、
「ほらスカの実。貰ってきたんだ」
と心配げな顔のまま、手に持っていた赤い実を差し出した。握りこぶしより、少し小さいぐらいの実が、2つ。
「いらねえ」
「何か食わんと、体が保たんぞ。治りも遅くなる」
クリフは額にあてた腕の下から恨めしそうにオルセイを見上げたが、実を受け取る時には、
「ありがとう。すまん」
と、しおらしく呟いた。
相当参っているらしいというのは分かったが、それにしても長い船酔いだとオルセイは思った。出港時に比べて揺れはもうほとんどないし、オルセイはもう慣れた。いくら船に乗るのが初めてだと言っても、一向に良くなる気配のないのは、おかしいのではないか。
しかしそうは思っても、当のクリフにそのようなことを言うわけにはいかず、オルセイはなるだけ平然とした顔をしているしかない。
「食えば、少しは良くなるさ」
そう言ってオルセイが、クリフのベッドの端に座った時だった。
ノックが2回。
どうぞと言う間もなく扉が開き、マシャがにゅっと顔を出したのだった。
「気分はどう?」
「あのなぁ」
オルセイがげんなりする。しかしこの娘にノック云々と礼儀を説いても、聞かないだろう。だがマシャのそうした行動には嫌味がなく、むしろ爽やかだった。ので、つい苦笑する。
彼女はひょいひょいと入ってくると、後に続いてきた人物に道を譲って後ろにまわり、扉を閉めた。オルセイはパチクリとした。彼女がそんな謙虚な行動をする相手を、オルセイはまだ一人しか知らない。ルイサだ。
しかし入ってきたのは男で、しかも船員として顔を合わせたことのない者だった。
とすると、彼がそうか。
そう思ったオルセイは立ち上がり、ロマラールの礼で男に挨拶した。名前が分からないので、
「船長ですね?」
と問いかける。
入室した男は30歳前後だろうか、船員の誰よりもほっそりとしていて、鋭利な顔をしていた。若干垂れ目気味だったが、その細い眼からはなたれている光は深く青く、冷たく尖っている。一見優しそうに見えるが、とんでもない、こいつは食わせ者だとオルセイは思った。
クリフも横になったまま、事の次第を見守っていた。少しは挨拶した方が良いらしいとクリフは上体を起こそうとしたが、肘を突いても、肩を浮かすことさえままならなかった。
「クリフ」
「そのままで。体を動かさないでください」
男はそう言うとクリフに近付き、手をかざした。その途端、いきなりクリフが意識を失い、すっと寝入るではないか。オルセイは一瞬慌てたが、そこにある空気に押しとどめられ、固まった。
魔力だ。
ぼんやりとではない、はっきりとした、異質な空気の流れが発生していた。男に向かって空気が流れ、その手からクリフに向かって、何やら厚みのある濃い霧が放たれている──ようだった。男自身が発する雰囲気が変わった。
ベッドの側に突っ立ったまま呆然となったオルセイの腕を、マシャが引っぱった。いつの間に近付いてきたのか、猫のような娘である。
「マ」
言いかけて、マシャのジェスチャーに遮られた。黙れ、という仕草。オルセイはマシャに引っぱられるままにベッドを離れ、部屋の隅へと移動した。
男は、聞きなれない言葉を口ずさんでいた。
しかしオルセイは、それを知っているような気がした。
いや、違うな。と思う。
オルセイが知っているのではなく、オルセイの中のものが知っているのだ。これまでの21年間、一度たりとも魔力などというものを感じ得たことはない。あれば、もっとラウリーのことを見直していただろう。オルセイは父やクリフと違って、ラウリーの魔法に関して「自分がしたいことなら、すれば良い」というスタンスを取ってきた。しかしそれが実際に、生活のためにどれほど役に立つのかというところには、まったく関心がなかったのだ。ただの趣味程度にしか思っていなかった。
その“ただの”魔力に振り回されて、このようなことになっているのだが。
オルセイは、自分が立っている場所を思い起こしてため息をついた。自分の人生計画にはカケラも含まれていなかった場所に、存在している自分。これというのも、身のうちに潜む何かのおかげだ。まったく人生とは、どうなるか分かったものではない。
「何笑ってんの?」
マシャが小声で、オルセイの腕をつついた。
「ああ? 笑ってたか、俺」
「笑ってたよ。嬉しそう」
「さあ?」
オルセイは肩を竦めた。何が嬉しいのだか、自分でも分からない。しかし体内の何かが喜んでいるのでなく、自分が嬉しいのだということは、分かっていた。
オルセイは顔を引き締めてクリフを見た。
冬だというのに、クリフの顔にはうっすらと汗が滲んでいた。顔色が悪く、暑そうでもないのにだ。男は手をかざしたまま詠唱をしていたが、しばらくするとそれを止め、口を閉じ、手を下ろした。
手を下ろすと同時にクリフの顔からは汗が引き、頬に赤みが差してきたように見えた。
「終わりました」
「クリフ」
クリフの足元の側に歩み寄って感じる空気の流れは、正常になっていた。男からの特別な気配も消えている。
クリフを覗きこむと、そのまま彼は眠っていた。つい先ほどまで起きていたようには感じられない、深い眠りだった。呼吸が長く静かで、ベッドに沈み込むように眠り込んでいる。子供のように安らかな顔だ。
「治してくれた、ということですか?」
オルセイは男に向きなおった。
男は最初に入ってきた時と変わらない目で笑顔を作り、オルセイに右手を差し出した。
「自己紹介が後になってしまった。気を集中していたものだからね。船長の、ナザリ・オリミアだ」
「オルセイ・コマーラです」
オルセイは手を握る時に躊躇しかけたが、気取られぬようになるだけ自然に握手した。手から受ける感覚もやっぱり普通で、オルセイは内心安堵したのだった。
「今のは……魔法ですか?」
オルセイは思い切って聞いてみた。男、ナザリはすぐにそれと理解したオルセイの知識に、ほうという感嘆の顔をした。
「さよう。しかし完全に治ったわけではない。私は彼の“気力”に少し手を貸したに過ぎないのだから」
「?」
さすがにオルセイはナザリの言わんとするところが掴みきれず、首を傾げた。ナザリはオルセイがさほど詳しいわけではないことを悟り、表情を和らげた。教師のような顔つきになる。
「根本の病気そのものに働きかけたのではない、ということだ。“病は気から”というだろう。気が弱っていると、病気につけ込まれる。逆も然り。私は、この男の弱った“気”に少し息を吹き込んでやったに過ぎないのだ。病に打ち勝つ力が持てるようにね」
「あの。“病”って? クリフはただの船酔いじゃないのか?」
「敬語使いなよ!」
マシャが口を挟んだ。
「構わないよ、マシャ」
ナザリは慈しむ目をしてマシャに微笑むと、かたわらの椅子に腰を下ろした。頭に巻いていたバンダナを外すと、青みがかった銀の髪が汗で濡れていた。短く刈り込んである髪は後ろに撫でつけられており、ふわりとしている。それが乱れて一房額にかかっている、そこから雫が伝い落ちた。顔色もずいぶんと悪い。
「あんた、いや、ナザリ。大丈夫なのか?」
「無理しすぎだよ、ナザリ」
マシャがナザリの額にかかった髪に指を触れ、もう片方の手で手ぬぐいを差し出した。ナザリは受け取り、顔の汗を拭いた。
「魔法というやつは便利なんだが、使いすぎるとこうなるのでね」
「ふうん」
何ともコメントのしようがないので、オルセイは適当に相づちを打つしかなく、その曖昧な言い方を聞き咎めたマシャが、冷ややかな目を向けてきた。まるでラウリーがいるようだなと思い、オルセイは内心で苦笑した。
しかし、ラウリーも時々魔法らしきものを使っていたが、そのように体調が悪くなるというのは初めて聞いた。そのように危険な技であると知られたら親から止められると思い、ラウリーが故意に隠していたのか、それとも本当に知らなかったのか。
どちらにしろ、ラウリーが使っていたものが魔法とも呼べないほどの小手先の技であったことは、分かった。本物の『魔法』を目の当たりにした以上、その違いは明確だった。ひょっとするとラウリーのそれは魔法などではなかったのか、と思えるほど。何せ、ロウソクの火が消せるだとか、事故のないように祈っておいた、などというものだったので。
オルセイは、ラウリーが今ここにいたら、この男のことを尊敬するだろうなぁとボンヤリ考えた。
「さて」
とナザリが立ち上がった。
「ナザリ」
マシャがその小脇を支えようとしたが、
「いやいいよ」
軽く手を上げて、それを制す。オルセイを見るのとは違うその優しい目は、やはり兄妹なのだなぁと思わせた。だが「兄さん」とは呼ばない辺りが、マシャらしいといえばマシャらしい。
「用件のみですまないが、これで失礼するよ。また改めて話をしよう」
そう言ってナザリは部屋を出ていったが、それからネロウェンまでの十数日、結局「また」は来なかったのだった。