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3-7(過去)

 最初にその意識を捕らえたのは、ウーザだった。

 彼の守護神クーナは白色が象徴だったが、人の体に宿ると黒として現れる。対極の2色を持っているクーナは、真実を司る神だ。だがウーザは魔道士となったこの時も、何をもって“真実”に従えというのかという悩みを、持っていた。

 そのように乱れた心で、彼女の悲鳴を聞くことができたのは、偶然だったのか、それとも乱れた心だからこそ聞けたのか。他の魔道士らは固く心を閉ざし、彼女の叫びに応じない。他の、山に入ってくる人間と同様に、彼女のこともなかったことにするつもりなのだ。

 神の、魔力の真実を守るため。

 魔道士になりえるのは、それだけの魔力を持った、選ばれた人間だけなのだ。沢山の人の手に物語が伝わることは、いつしか元の形を歪めることになる。力を持たない者が神に仕えることは、いつしかその信仰心を忘れ、我欲に走る。欲を捨て神の一切を受け継ぎ、それを変わらず語り伝えるためには、すべての『力』を必要とするのだ。精神力、体力、知力、心の力。すべてが揃い、ひいては魔力となる。それが神の力だ。

 つまりは『完全』なる者、すなわち神。完全を目指すためには不完全を、つまり不安定に揺らぐ心を、鍛えなければならないのだ。感情は心を揺るがし、欲は憎しみを生む。魔道士は、ただコツコツと生きるのみである。生きていれば、『力』がついてくる。力を欲しいと思ってもいけない。それは欲だ。人を大事だと思ってもいけない。望みは、欲だ。

 しかし。

 魔道士は、人だ。

「この子を! お願い、この子を……!」

 もはや腰まで雪に埋まった女が、叫ぶ。

 深い山の奥に入りこんでくる者を、魔道士は容赦なく排除した。この女も例外ではなかった。吹雪が彼女を襲う。必要のある者なら、生き残る。それがやり方だった。

 しかし女はすでに、息絶える寸前だった。

 彼女の叫びは、実際には声になっておらず、血を吐きながら呼吸しているだけだった。女はさしたる装備もなく厚着もしておらず、しかし胸に抱いた赤ん坊だけは、しっかりとした毛布にくるまれている状態だった。

 女は美しかった。痩せて頬もこけ、凍傷で真っ赤になっていたが、涼しげな目には力があり、整った顔をしていた。全体的には、非常にはかなげな印象を与える女だった。肩辺りで切り揃えてある髪は、風に振り回され乱れていた。美しい銀髪だった。おそらく長かったのだろうが、金のために切って売ったのだろうと思われる。売るために髪を伸ばす女は多い。

「お願いします、この子だけは!」

 女は、自分が誰に向かって叫んでいるのか、知っていた。知っていて山に登った。そしておそらく、自分が死ぬであろうことも覚悟して来たのだ。

 倒れた女は、雪に顔を埋めながらも子供だけは守っていた。体を盾にして、吹雪から子供を守っている。目を開けたまま意識の薄れていく女の顔はすっかり雪にまみれており、その氷った水滴が涙なのかどうかも、もう分からない。

 力がなくなり光が消えていき、ガラス玉のようになった、そんな彼女の目に、黒いマントの男が姿を現したとしても、もはや反応することはなかった。見えていなかったのかも知れない。

 ウーザは黒いフードを外し、女を見下ろした。猛吹雪の中にあってウーザの体は雪に埋もれず、風にあおられもしていなかった。

 ピクリとも動かない彼女の心は壊れたかのように、一つの言葉だけをつむいでいた。

「この子を。この子を。この子を」

 ウーザはこの母親がすでに死んでいることに気付き、顔を歪めた。赤ん坊のためだけに、心臓が止まったことにも気付かず叫んでいたのだ。魂を使って訴えていたのだ。

 女の心が繰り返す言葉は、思念でしかなかった。

 ウーザが『力』を駆使して彼女の記憶を拾い上げると、彼女が赤ん坊を連れて山に登った理由が、若干見えた。生まれたてにして魔力を放出し、押さえつけようとした父親を潰してしまった赤ん坊の姿が。

 最初は母親と同じ銀髪かと思われた彼の髪が段々色づいてくると、ようやく居着いた村からも忌み嫌われるようになってしまった。一般的には神の力を人間が持つことは恐れられ、災いを呼ぶとされている。人間には過ぎた力だから。だから、『魔』という。閉鎖的な村ほど、この傾向が強い。

 女の体を狙う男には、かならず災いが起きた。女は身を売って生計を立てることも叶わず、貧困にあえいでいた。それでも。

 それでも、子供の顔を見ると、優しくなれた。

 優しくなりながら、ひどいことを考えた。

 ──この子は、生まれてきてはいけなかったんだ。

 ひどいことを考えながら、愛しくて抱きしめた。

 赤ん坊が生まれる時、天が裂けるような落雷があったことを、女はよく憶えていた。まるで天が悲鳴を上げたかのように思われた。天が、赤ん坊の誕生に怯えたかのような。何かのイメージが彼女の脳裏を走っていったが、彼女はその図をよく憶えていない。理解できる絵だったならば、もっとよく憶えていただろう。

 赤ん坊を産むことに反対だった彼女の夫は、堕ろさせようと蹴ったり殴ったりしていたが、子供は生まれてしまった。自分たちが生活するだけでも大変な飢饉が続く年にそれを生んだ女を、男はなじった。

 しかも村のおばばが奇妙なことを言うので、男は赤ん坊を殺してしまおうと決めた。

「忌まわしい子が生まれる。災いじゃ。世界が滅びるであろう──」

 そこまで『見た』時、ウーザは同調のしすぎで気持ちが悪くなった。

 誰かの心を探っていて気持ちが悪くなったなどとは、初めてである。ウーザは女から意識を外した。外しすぎて魔力が散り、思い出したように暴風がウーザを包んだ。風が彼を襲い、マントが引き裂かれそうなほどあおられた。足元までおぼつかなくなり雪に落ちかけ、慌てて『力』を回復させて、マントを鎮めた。

 女はもう雪に埋もれて血の気もなくなり、硬直していた。ウーザは彼女の腕の中から、赤ん坊を拾い上げた。女の目を閉じてやる。凍って固まっていたが、『力』で溶かしてやり、閉じた。

 そんな状態の、死体に抱かれていたにもかかわらず、赤ん坊は元気だった。母親が死んだことにも気付いていないに違いない。衰弱していたがその眠りは安らかで、凍傷にもなっておらず、可愛らしい顔をしていた。ウーザは赤ん坊から魔力を感じた。

 この子は力を持っており、その使い方を知っている。

 そう思った時、この子は魔道士だなと思った。魔道士には“なる”ものではないのだ。生まれながらにして魔道士かどうかなのだ。

 よくできているものだな、とウーザは俗っぽい考え方をした。

 山に籠もる7人の魔道士。もちろんこの子供の髪の色、ニユ神を守護に持つ者もいる。だがもう年だ。ちゃんと数えたわけではないが、多分100歳を越えて生きているはずだ。自分たちの中で、一番よく生きている。

 魔道士は下界の人間よりは長く生きるが、それでも死は訪れる。やはり、どう足掻いても人間なのだと思い知らされる瞬間だ。他のどんな神々の制約から逃れられたとしても、最後にダナに捕まるのだ。

 多分、保ってあと数年。その後を、この赤ん坊が引き継ぐのだ。

 神が仕組んだ、上手い仕掛け。

 その仕掛けの中に、自分も含まれるのだろうなとウーザは思った。きっと、自分がいなくなってもまたすぐに何ごともなかったかのように、代わりの者が現れることだろう。

 だが、それならそれで良い、と思う。

 変に気負う必要がない。自分がいなければ、という責任を持たなくて良い。責任感も“感情”である。感情は己の心を鈍らせ、判断力を失わせる。ほら、今、このように……。

「目覚めたか?」

 ウーザは抱いた赤ん坊の、ぱっちりとした翠の瞳を覗きこみ、微笑んだ。

 ──その時の微笑みとまったく同じ顔でもって、ウーザは大きくなったエノアを眺めた。

 結局その後、魔道士でいられなくなったウーザは山を降り、だが人里に関わるという意志もなくその身を隠し、この森で生きてきたのだった。感情をコントロールできなくなったからではない。自分の生き方に“嘘”を感じたからだ。

 真実を継ぐことだけが生きる意味だと思えなくなったからだ。

 変わっていけば良い。欲に染まれば良い。

 ウーザは赤ん坊の顔を見た時、何かを伝えたいと思った。何かを教えたかった。でもそれは『真実』じゃない。お前は呪われた子と呼ばれここに来たのだと言うためじゃない。その感情を、その欲を持った時、ウーザは魔道士であることを止めた。

 洞窟の一つが、ウーザの住処だった。

 ただ生きるだけなら、どこだって構わない。野宿で良いし、それで死ぬならそれも運命。洞窟の一番奥に鏡を置いておいたことが理由だったが、それは言い訳だろう。やっぱり“家”が欲しい気持ちが、自分の中にあるのだろうとウーザは自分で思う。

「懐に入れて持ち歩くには、恐ろしすぎるのでな」

 ウーザはさして恐ろしいとも思っていなさそうな穏やかな笑みでそう言うと、手にした鏡をエノアに差し出した。

「真実神クーナの意志を含んだ鏡だ。持っていくが良い」

 エノアはウーザの差し出した鏡を受け取った。手の平ほどの大きさしかない銀色の鏡は銅でできており、その中央にポツンと白い小さな石がはめ込まれていた。石は親指の先程度の大きさで、丸い形をしていた。その裏、鏡の表面は、ずいぶんとくすんでいて、かろうじて映っているかどうかだった。

 本来手に入れようと思っていた“イアナの剣”と、同質のものである。神の石のはめ込まれた媒体だ。

 手にした瞬間に、エノアの体中に力がみなぎった。気を引き締めて抑制しなければ暴走し、町一つ、いや国一つ滅ぼしてしまいかねない。それを自在に操れるのは、魔道士もしくは魔道士と同等の力を持つ者だけである。人世にゆだねられる分には、さしたる問題は起こらない。石は、力ある者が手にしなければ、その気配すら掴めないほどに無害な存在だからだ。イアナの剣もクーナの鏡も、魔道士らが全員揃わなければ感知できなかった物である。それ以上遠いところに点在しているはずの他の石の消息は、分からずじまいだ。もっとも、それを知る必要はないのだが。

 この鏡がここにあるということは、あの老婆はこれの存在を知らなかったのか、必要としなかったのか──。

 ウーザもここにいるということは、ダナ神が降臨したことを知らないのか、他の魔道士らと同じく成るべくして成ると思っているためか。後者だろう。

 そういう意味では魔道士らしくないのは、エノアの方だ。

「名のことは、レウザが」

「レウザめ、余計なことを言いよる」

 ウーザは苦い顔をした。

 エノア、という言葉は、古代の言語で“無限”を意味している。

「母親の意識が、もう拾えなんだものでな」

 ウーザはバツが悪そうに、こめかみをコリコリと掻いた。

「この名は、嫌いか?」

 即答しようとしたエノアの口が、閉じた。名前は、名前でしかない。ただ相手を呼ぶ時に必要なだけで、まして魔道士である限りは、ほとんどまったく意味のない言葉なのだ。ウーザは愚かな問いをしたものだと思ったが、

「いいえ」

 とエノアは言った。

 ──ウーザが猛吹雪の中で赤ん坊を抱き上げた時、脳裏に浮かんだイメージは“無限”だった。

 どこまでも広がる、吸い込まれそうに真っ黒い空間。すべての光を呑み込んでいるかのような、それでいてすべての光を放出するかのような。深く大きく茫洋たる、虚無にも似たイメージが、赤ん坊の中にあった。ウーザの脳裏に、すっと自然に“エノア”という言葉が思い浮かんだ。まるで最初からその名であったかのように、言葉は赤ん坊にしっくりと馴染んだ。

 母親が、エノアにどのような名前をつけたのかは、もう分からない。

 しかし、この赤ん坊が生まれた時に彼女の心を駆け抜けた“絵”は、ウーザが目にしたそれと同じものだった。


 ――第4章「漆黒の船」に続く

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