7-7(再生)
ロマラールとネロウェンは、停戦条約を結んだ。
ロマラール国の伯爵クリフォード・ノーマと、ネロウェン国の魔法使いオルセイ・コマーラによる御前試合がもたらした結果として、その約束が果たされたのだ。ロマラールの騎士団長セタク・ジュアンは拍子抜けしたものだったが、ルイサに手柄ですよとたしなめられて、調印をしたものだった。
ロマラール側の署名は、国王ハイアナ5世にセタクとルイサの連名で書かれた。本来なら国王とルイサの署名で良かったが、ラフタ山も関わりがあるからとルイサが彼に花を持たせたのである。今後サプサを復興させるための布石だ。
ネロウェン国からはディナティ国王と、ソラムレア女王ユノライニの連名となった。ソラムレア国も単独では動かないことを約束させられたのである。ユノライニとしては戦う意欲が失せていたが、祖国の連中が何をやらかすか分かったものではない。権力のあるうちに行使してしまおうという心づもりだった。
崩壊したサプサを閉鎖して、北の森を越えた村に臨時の港と保養所を建設し。
ネロウェン軍は捕虜として滞在し、農業などに従事したが、本格的な冬が来る前に訪れた迎えの船によって、徐々に帰国して行ったのだった。ヤフリナ国から届いた迎えは、ネロウェン国の左大将アナカダが手配したものである。
アナカダ自らがロマラールに来ることはなかった。
右大将シハムの訃報を受けた彼は、そうかとだけ苦々しく呟いた後、クリフォードに宜しく伝えてくれと言ったそうだ。と、クリフはネロウェン国の使者から聞いている。
「一番隊隊長サキュエディオ・イヌマンナに対しても冥福を祈る、と」
使者は付け足したものだった。
伝言を持ってきた使者の乗る船により、ディナティ王も帰国となった。
辺境の村に作られた港は、港と呼べるような代物ではなく、ただの浜辺だ。切り立った崖の合間にあり、森が鬱蒼と茂っていて地元の村人が小舟を出す程度だった場所を切り開き、縄を張って板を渡して、人が通れるようにしたに過ぎない。
船は沖に停泊するしかなく、港からは小舟で出て船へ乗り込む。天気のいい日でないと乗れない、厄介な港である。ネロウェン軍が上陸できないように厳重な警戒もされていた一帯だ。見送りも、細々としたものであった。国を挙げてというわけには行かない。
「敵国だから当然だ」
人もまばらな砂浜に立つ黒の王は、笑ったものだった。
警備として立つロマラール兵が数十人、浜辺を囲んでいる。見送り要員は10人もいない。だが数十人の方がよほどネロウェン軍を見送っている、親密な空気が漂っている。あの終結に携わった者らの間に、連帯感が生まれていた。
ネロウェン人らも同じのようで、彼らは拘留されている間も大人しく、帰る段階には「手紙を書くよ」などと言い交わす場面もあったほどだ。
見送りに、ハイアナ5世は来ていない。
サプサの責任者としてセタクとルイサ、それにクリフの姿がある程度である。王都の大臣やら貴族やらも並んではいるが、早く終われと言わんばかりの顔をしている者もいる。放り出してやりたい気分に陥るが、伯爵たる格好をさせられていては、それも出来ない。短くなった赤毛から見え隠れする首筋がスースーするのか、クリフは何度も首に触れている。照れくさいのも、あるのかも知れない。先ほどマシャにからかわれたばかりだ。マシャは警備兵に紛れて立っている。助勢軍や“ピニッツ”の面々も控えているが、皆、公式な表には出ない顔ばかりである。
「称号受理の式はまだか? こちらにいる間に観たかったものだったな」
ディナティはネロウェン語で、クリフに訊いた。クリフは首を竦めて見せて、これを返答としたのだが、隣りに立つルイサにつねられた。
「てっ」
「明確にお答えなされませ、ノーマ伯爵。ネロウェン国王様に対し、無礼が過ぎます」
小声で、だが凛とした声で咎められ、クリフは周囲を見回したのだった。セタクや貴族連中の視線が、クリフに向いている。爵位はあれど土地を持っていない田舎の伯爵を、もの珍しげに見ているのだ。
簡素な港と自然いっぱいの砂浜が、どうしても緊張感を削いでしまう。
クリフは背筋を伸ばすと、一歩踏み出して褐色の王に敬礼をした。踏み出した足の下で、砂が乾いた音を立てた。晴れ渡った空と同じ顔をして、クリフは笑う。
「本当を言えば、貴族なんざクソ喰らえ、なのでございますが」
クリフもネロウェン語で返した。
2人して、ぶっと顔を合わせる。セタクやお貴族様連中は、ネロウェン語にまでは精通していない。ルイサだけは背後で苦い表情を殺していることだろうが、セタクがルイサに耳打ちしている「彼は何と言ったのだ?」という問いは、聞こえなかったことにした。ルイサが「自分には過ぎた式である、と」と言葉を換えて説明してくれている。
とはいえクリフも、まだまだカタコトである。相手が早口だったり長文だったりすると、もう理解できない。
もちろん、ソラムレア語も同様なのだ。
「ディ、早く行きましょうよ、いつまでダラダラとくだらない世間話をしているつもり? 昨夜あれだけ話をしたのだから、もういいでしょう?」
早口の上に長文と二重攻撃で攻められては、まったく分からない。分かる努力もしないが。
不機嫌そうな女王様の口から繰り出される弾丸なら、内容を理解できずとも心理のほどは筒抜けである。もっとも、化粧の薄くなった少女が頬を膨らませる様子は、昔とは違って微笑ましい。
クリフの中に、彼女が椅子に座ったまま立ち上がれないでいることへの、同情があるのかも知れないが。
車椅子である。
ビスチェムに背負われていたユノライニの足は、完全に筋が切れているという話だった。診察された彼女は憤り、暴れたものだった。こんな田舎国だから、そんな診断しか出来ないのよとわめいて周囲を困らせたものだった。
あの時、ほとんど面識がなかったはずのマシャに対して突然「王をお願い」と言ったのも、足の不調を察しての言葉だったのだ。
ひどい侮辱だが事実だった。ロマラールの医療は遅れている。それに瀕死の者らが息を吹き返して行った中で、なぜ自分の足ごときが駄目なのだという理不尽が、納得できなかったのだ。それに対してクリフが同情してしまった。同情を嫌悪する女王様に、すっかり嫌われたという経緯である。と、クリフは思っている。
最初から好かれていなかったが……などと思いつつ、クリフはユノライニを見やる。
少女はクリフの視線に気付いて、
「何よ」
ロマラール語で返して、口を尖らせた。
「頭が高いわ。私を見ること、許しません」
皆が立っている中で、一人、車椅子を押してもらっているユノライニは、居心地が悪そうだ。渡してある板の上を通っているとはいえ、椅子が思うように進まないのも足の自由が効かないことにも腹が立つのだろう。
クリフはユノライニに向いて近寄り、片膝を突いた。波が迫っている砂は湿気ていて、足下を濡らしている。だが田舎の伯爵は膝やマントが汚れることになど、何の頓着もない。
「どうか、お元気で」
固まったユノライニとの間に沈黙が流れたが、顔を下げたままなので、彼女の表情が見えない。だが目前にぬっと手を差し出されたので、クリフはその手を取って、甲に唇を当てた。
「顔を上げていいわ」
見上げたが、そっぽを向いたユノライニの顔は、やはり見ることが出来なかった。だが赤い耳たぶを見せられては、いくら鈍いクリフでも少しは気付く。もしや嫌われてはいないのかも知れない、という程度の気付き方だったが。
「大丈夫だ、今度ロマラールに来た時には、全力疾走できてるさ」
口を挟んだのは、彼女の車椅子を押す者だった。従者の格好をしているし、ユノライニにも余計な口を出すなと睨まれているような男だったが、口調は少しも悪びれていない。印象は薄いが、見れば誰でも驚くほど派手な水色の髪をしている。
「身体の作りも色々だからな。砕けた骨や切れた筋がくっつくには、時間がかかるのよ」
かくいうクスマスは、すっかり治った風である。昨夜まで姿を見せなかった魔道士たちだったのに、今朝になってクスマスだけが、ひょいと顔を出したのだ。しかも黒いマントを脱いで。
『俺もう魔道士じゃないから。ディナティ王様について行くわ』
まるで物見遊山にでも出かける口調で、ユノライニのお付き役に納まってしまったのである。
クスマスが、小舟にユノライニを乗せるため抱き上げようとしたが、ディナティが制して手を出した。
「俺が」
短く言って、少女を横抱きにする。少女は大人しく抱かれ、大人しく舟に乗る。彼女のために敷き詰めてあるクッションの山へと、彼女はちょこんと納まった。
微笑ましい光景に笑みが洩れかけて、クリフは口を引き結んだ。ふと護衛兵らと共に立っているマシャが気になった。見ると、海兵団隊長としていっぱしの格好をしているマシャも明るく、心からの笑みをたたえている。
ディナティもマシャを見た。彼の、潮風に吹かれて流れる黒髪が、年月の長さを物語っている。どこか懐かしげな視線を2人が絡め合わせているのを見て、クリフは目を細めた。
「では」
立ち上がり、後ろ足で下がってルイサに並び、ディナティの小舟を見送る。ロマラール兵らが舟を押して沖へ出たら、ディナティらは沖に待っている船へと乗って出航する。そうしたら2度と、ロマラール国の土を踏まないことだろう。
退く一歩一歩に、思い出がよみがえる。おそらくはクリフも、ネロウェン国へ行くことはない。得がたい貴重な体験すぎて、今となっては夢のようだ。ロマラールの砂浜を踏んでいると、あの熱砂が記憶から消え行くのを感じる。
その時だった。
「あっ、おい、こら!」
護衛兵がざわめき、叱咤が飛びかった。
クリフの感傷を吹き飛ばす物体が現われたのである。
クリフは思わず抜刀しかけた。
「グール!?」
茂みから、突如グールが飛び出したのである。成獣である。冬の初めなのに単体で、しかも人の多くいる中に走ってくるグールなど、ありえない。体に脂肪を蓄えて、森の奥深くで冬眠の準備をしているものだ。
なのに、黒いグールはあまり太っていない。グールにしては多少弱々しい動きだが、生き物たる人間に見向きしない辺りも珍しい。明らかに目的を持って駆けているのだ。
先に気付いたのは、ディナティだった。
「待て、クリフ。……“オルセイ”だ」
「“オルセイ”」
マシャも気付いて、声を上げた。ロマラール兵を背にして走る“オルセイ”がピクリと反応したが、もう一つの声の方が彼には強かった。
「“オルセイ”来い!」
小舟は動き始めていたが、ディナティは立ったまま黒いグール“オルセイ”に向けて手を伸ばす。慌てるロマラール兵が獣を追おうとしていたのだが、そこはルイサの挙手によって鎮まった。獣の足は止まることなく、ネロウェンの小舟にまで辿り着いた。
波を蹴って跳躍し、飼い主の胸へと飛び込む。
がふーんという、あまり耳にしない珍しい鳴き声が浜辺に響き渡った。
「うわっ!?」
当然だが支えきれず、ディナティは獣と共に倒れた。
ユノライニは動かない足を手で引いて、なるだけ避けつつ、目を丸くしている。舟に乗っている他のネロウェン兵らも、おろおろしている。ディナティは尻餅をつき、覆いかぶさって来るグールを撫でてやっている。じゃれつくというよりは、はたから見れば襲われているも同然である。
ユノライニの後ろに立っているクスマスがこれを見て、ふむと顎に手を当てた。
「腹が減ってるみたいだな」
言われ、そうかとネロウェン兵に干し肉を出させる。ディナティが差し出すと、グール“オルセイ”はそっとかじり付いて受け取ってから、がふがふとむしゃぶりついた。獣の様子を見ながら備え付けの椅子に腰を落ち着け、ディナティは申し訳なさを感じた。
「俺のせいだ」
ディナティが言うのを聞きつけて、クリフが「いえ」と声をかける。
「俺の、いや私のせいです。私が連れて来たグールだ」
生まれたばかりだった子グールを母親から引き離し、ネロウェン行きの船“ピニッツ”に乗せてしまった。多少は自力でも何かを食べていたようだが、人の手で、しかも成獣になるまで3年も育てられたグールは、いきなり野性には帰れなかったのだ。
するとユノライニが2人を見比べ、座りなおして「いいんじゃないの?」と手を振った。
「責任もって最後まで面倒みなさい。黒のグール王」
にこりと見上げられて、ディナティが詰まる。すぐに心は決まったようで、彼は再び立ち上がり、ロマラールの面々に向き合ったのだった。黒に金の縁取りが入った服と黒のマントが、彼の定番である。停戦後も彼は格好を変えず、雄々しく立っている。
ロマラール側の全員が敬礼をして、今度こそネロウェン国王ディナティ2世は、帰路に着いたのだった。
◇
内海の波は穏やかで、まだ立っていても支障がない。ディナティはロマラール人の顔が見えなくなるまで眺めていた。やっと座ったのは、波が高くなって来たためと、足元にグールがじゃれついて来たためだった。干し肉を堪能し終えたようだ。
ディナティは干し肉を出してくれた兵に、まず礼を述べた。これから自分たちが渡航するために必要な、人間用の食い扶持を一匹分に割いてしまうのだ。10人は乗っている兵たちの表情に、ディナティは救われている。彼らとて、この黒いグールの存在価値がディナティにとってどれほどのものであるかを、知らないわけがないのだ。
「“オルセイ”」
腰を下ろし、獣の顎を撫でてやる。グールは喉の奥を、気持ちよさげに鳴らす。ユノライニはディナティの向かいにあって、そんな青年の心境を察してか目を伏せていた。かたわらに座って片膝を立てているクスマスも、何も言わない。
青年が呼んだ名に、別の意味が含まれていることを聞き流している。
他の魔道士とは違い、オルセイはラウリーの側についている。らしい。
やはりラウリーも単独で起き上がるには至らず、仮設置の保養所で療養する日々を過ごしている。オルセイも、あれから一週間ほど寝込んだという話だった。ディナティは、一度は見舞いに行こうとしたが、自分の心境や周囲の目なども複雑で落ち着かず、結局会うのをやめたのだった。
息災で、と伝言は渡した。
もったいなきお言葉を、と、形式通りの返礼も受け取っている。
表面的な挨拶しか出来ない心境が情けなく、もどかしい。オルセイはどうなのだろうかとディナティは逡巡する。彼も苦しみ、会いたいが会えない葛藤を抱えていようものなら、少しは気が晴れるものを。
などと考えていたためか。
ディナティは目前に現われた人物を、すぐに本物と認識できず、きょとんとしてしまった。小舟のヘリに背をつけて、ディナティを右に、ユノライニを左にして、オルセイが横顔を見せている。村の青年といった風情だ。すっかり伸びた髪を束ねているところも初めて見た。髪を縛っている青い紐には、見覚えがあるようなないような、おぼろげな印象しかない。
だから、彼が幻でないのだと確信できる。
あぐらを組んで座るオルセイは、合わせていた手をほどくと、顔をディナティに向けた。ダナではない。ただの異国人だった頃のオルセイである。初めて出会った時と同じ目が、ディナティの胸を詰まらせた。一番会いたかった者が目前にいるという感動が信じられず、涙の出そうな自分が恥ずかしく、ディナティは眉を寄せて黒い男を睨む。
オルセイはそんなディナティを見て、「申し訳ありません」と表情を曇らせた。
「あさましく別れを述べに伺いました非礼、伏してお詫び申し上げます。即座に引き上げますゆえ」
言葉通り即座に、何がしかを呟きだしたのだ。ディナティは慌てて「待て!」とオルセイの手首を掴んだ。思ったよりも暖かく、そして骨ばっている手首だった。
慌てるというよりは、驚いたと言ってもいい。心の奥底を見透かすかの笑みで人を操っていた男が、まったくディナティの感情を理解していないのだ。口に出さずとも通じ合っていたかの濃厚さと不気味さがない。代わりに得られた感情は、少しばかりの寂しさと清々しさだった。
ディナティは引き止めたい心境を、乱暴な言葉に乗せる。
「ネロウェン国をいいように荒らしておいて、別れて終わりのつもりか、痴れ者が」
オルセイがダナたる空気をまとっていたなら言えない言葉だ。今でも凡人というには取り巻いている空気が違う。クスマスやシュテルナフのそれに近い。どこか俗世から浮いていて、存在感が薄い。それでいて放つ『魔の気』が強大であろうことは感じられ――オルセイは、それを出さないように抑えている。
オルセイは悲痛な面持ちで、ディナティに一礼した。
「お詫びのしようもありません」
「当たり前だ、詫びなどいらぬ」
ディナティは掴んだままでいるオルセイの手首に目を落とす。思いのほか愚鈍に見えて拍子抜けするが、これが本来の彼だということを、ディナティも忘れていたのだ。人を気遣い、気遣いすぎて相手の意に沿わぬ言動を起こしてしまうような、実直な男だ。かつてジェナルムの遠征で、マシャを置き去りにした時と同じである。
ダナという怨念に躍らされていたのは、オルセイだけではない。
ディナティも感銘を受け、国を救うには他国を奪うしかないと思いつめていた。極めて理性的に。
手首を掴む手を滑らせて、これを握手に変える。
「責任を取れ」
国を荒らした責任を。
人を殺した責任を。
あの握手は嘘だったのか、と。
ディナティは手に力を込める。
「待っている」
まだ笑えはしない。だが目を背けることはない。互いの視線が通じ合い、ディナティはやっと、握り返してくるオルセイの熱を感じたのだった。今度は他国を滅する方法でなく、自国を生かす方法を語り合いたい。前回以上に堅い握手が交わせて、ディナティは心が落ち着くのを実感した。
「絶大な信頼だこと」
と、後ろから水色の男が茶化す。
「ぬかせ」
初めてオルセイが軽口を叩いた。ネロウェン王宮では接触の少なかった2人だが、どうやら変化が起きたらしい。そうなると姿を見せないシュテルナフが気になる。彼は戦争の一番最初に加担してくれた、クラーヴァ攻めを担ってくれた男だ。
ディナティはオルセイに、
「シュテルにも宜しく伝えてくれ」
とだけ言って済ませた。人それぞれだ。オルセイが抱える苦悩と同じく、彼も苦しんでいるのに違いないのだ。クスマスとて、楽天的にしながらも内心では、どれほどの苦痛を潜ませているものだか想像がつかない。誰しもが、何かしらの苦しみを持っている。
ディナティは手を放した。いつかオルセイは、ネロウェン復興に駆けつけてくれる。期待というより確信に近かった。が、もし2度と会わないとしても、それでも構わなかった。ダナに狂わされていたのかも知れないが、この男だけはいつもディナティの側にいて、裏切ることがなかったのだ。
放した手を、思わず彼の背に回していた。
両手で強く抱きしめ、彼の肩に顔を埋める。涙は堪えたものの、オルセイの背後に座っているユノライニには見せられない顔だ。後々にからかわれるかも知れないなと思いついたら、微かに苦笑が洩れた。
「必ず」
オルセイが言い、ディナティの背を抱きとめた。ポンと頭を撫でられ、ようやく少年は顔を上げた。王の顔に戻り、力強い目を披露する。
「息災で」
「もったいなきお言葉」
型通りに挨拶したら、少しだけ口の端が緩んだ。不可思議な言葉を発したオルセイが次の瞬間に消えても、ディナティはしばらく残像を眺め、彼を見送ったのだった。