7-3(執着)
魔道士が2人を囲んで、詠唱をする。一度は倒れた水色の男も立ち上がって、指輪のある手を掲げている。老婦人は娘の頭を膝に乗せて座したままだが、7人は均等に広がって輪になっている。その中にクリフとオルセイを閉じ込めている。
『魔の気』で包んだ空間には、誰も入ることが出来ない。壁になっているわけではない。無意識に避けてしまうようになっているのだ。
避けられる者として、魔道士も含まれている。“忘却”の術と同じ要領である。見えているし触れることも可能なはずだが、頭が存在を認識していないのだ。おかげで彼らは、邪魔をされずに戦える。同時に魔道士の空気には、内側の魔力を閉じ込める、両方の意味がある。
ラウリーも、輪の内側である。喧騒に巻き込まれれば踏み潰されかねない。真っ赤な身体には、ケディが翼を広げて、すがり付いていた。
「ラウリー……起きねぇか、こら」
どんなに呼んでも、紫の瞳が現われない。白くなった顔が向く先には、2人の戦う姿がある。心なしか、彼女の目尻に光るものが浮かんだように、ケディには見えた。
が、肝心の2人には、まったく見えていない。
「よくも! よくも、ラウリーを」
「お前に言われる筋合いはないな。俺の妹だ」
「貴様あっ!」
時々交わす言葉は、互いを挑発するものでしかない。怒りを新たにし、剣先を激しくして命をやり取りする。
クリフは持てる力のすべてをぶつけ、オルセイは嬉しそうに避ける。剣を受け流され弾かれ反撃されるのを、返した剣で受け止める。オルセイの剣が重い。速さもある。おそらくは互角だ。
魔道士がダナの『力』を封じているので、イアナの剣を持たないクリフと釣り合いが取れているのだ。ということは逆に言えば、あの剣を手にすれば有利になるということだ。
俺の妹だ、などと、クリフの怒りを煽るのは、なぜか。と、クリフは気付いていない。念頭にあるのはオルセイを殺すことと、イアナの剣だけだ。
赤い心が、イアナを欲している。
無言の呼びかけが、剣を持つ魔道士に向けられている。オーラを染め抜かんほどに燃える怒りが『力』を――イアナの剣を呼んでいることに、赤い魔道士が気付かないわけがない。呼応して魔力を暴走させかねない剣を御すだけでも、命がけとなっているのだ。
「ノーヴァ」
声をかけられて、イアナの魔道士は苦悶の表情をエノアに向けた。ニユの魔道士だけは変わらず飄々と、ランプを掲げている。
7人で囲んでいても、結局は彼に頼るところが大きい。いかに集中しようとも、心の隙間に入り込んでくる懸念が多すぎるのだ。クリフやラウリーのことも気になるが、ケイヤが座ったままなのは立てないからに他ならないし、クスマスの気配も危険である。他の皆も憔悴している。
完全に“安定”して御したはずのダナを“浄化”できなかった現状に、どうカタを付けるつもりなのかの、エノアの腹づもりも読めない。
するとノーヴァの疑問に答えるかのように、エノアが言った。
「彼に剣を」
「何」
思わず集中が途切れた。途端に視界が揺れて、空気がひずむ。戦う男らの手元も狂い、ガキンと大きな音が響いた。
体勢を崩したクリフが、オルセイの上段からの剣を受け止めていた。今までの音とは響きが違った。元鍛冶屋のノーヴァには、剣に亀裂が入った音だと分かった。
クリフの剣は保たない。
ノーヴァは気を取り直してイアナの剣を律し、エノアに目を向けた。
「いいのか?」
応えはない。応えるまでもない問いだったらしい。
「今の彼に剣を手渡せば、どうなるか分からんぞ」
やはりエノアは応じない。それも承知の上だと横顔が物語っている。ランプをかざす手にも、わずかの迷いも見られない。
感情を爆発させているクリフは、自らが『魔の気』を放出していることに気付いていない。魔法を操る術を知らないだけの男の、潜在的な力ほど恐ろしいものはない。怒り狂っている心が引き起こす魔力の暴走は、ダナをも凌駕しかねない。町が沈むどころの騒ぎでなくなる恐れがある。ダナを滅しても、新たな破壊神が降臨したに過ぎなくなるのだ。
いざとなれば2人共を葬るしかないと理性では考えられても、ダナの“浄化”にこれだけ手こずっておきながら、暴走したイアナを止められるのかどうか。今やイアナの器として在る青少年だが、媒体が御せるのか甚だ疑問だ。
イアナの剣が震えている。
赤い石も今は、山から下りて来た魔道士よりも、地上で汗する青年に呼応している。激しい感情に同調している。2人の熱気と汗が激しい。『魔力』が使えず、体力だけが削られていくからだ。感情の大きさに身体がついて行けず倒れるのでは、とさえ見える。だが彼らは意志の力で奮い立ち、少しも勢いを緩めない。どちらかが動かなくなるまでは絶対に止まらないのだ。
なおも迷うノーヴァの心に、ふわりとエノアが『気』をかぶせた。
「賭けている」
エノアらしからぬ言葉と気遣いに、ノーヴァは別の意味で戸惑った。賭け、などと。今まで何もかもを計算ずくで進めて来たかに思われた男が、最後の最後になって、はかることを放棄したのだ。
放棄。違う。
本当に読めないのだ。
計りも量りも、むろん謀りもできず。
“安定”したダナを、なぜ“浄化”できないのか。ダナに媒体はない。だが神の石はある。石はオルセイの体内にある。人間そのものを媒体にしていると言っても過言ではない。その人間に阻まれた。
オルセイの意志がダナに打ち勝ったのかは把握しかねるが、昨日までの彼とは明らかに違う。己の定めを見据えるかの、真っすぐな目になっている。
赤毛の青年が自慢して止まなかった親友の顔が、そこにはある。
その上で彼はダナの表情を作り、クリフと対峙しているのだ。いや。それとも作っているのではなく、これが本来の、生粋のダナなのか。その中にオルセイの片鱗が残されているだけなのだとしたら、あまりにも……。
「イアナ」
紫の男が、歌うように口にする。まるで愛おしい相手であるかのように呼ばれ、赤毛の青年が動揺する。クリフは自分を見失いかけ、歯がみした。
「貴様、誰だ」
もしくは、どちらだと問うべきか。ダナか、オルセイか。自分とて、自分がクリフなのかが怪しい。
煮えたぎった心が燃えて、燃え尽きて、イアナの残した感情をだけ宿しているのなら、この殺意にも理由がつく。紫の男がどちらであっても構わない。
「妹を殺せる男も、娘を殺した男も」
自分が何者であるかも問題ではない。今この場で重要なことは、目前の者がまだ生きている、という事実だけだった。
赤い瞳がぎらつき、男を捕らえて放さない。他の何も、誰も見えない。ただ、ひたすらに憎い。自分の身がどうなろうと構わない。この男の息の根さえ止められれば。
吼えて一歩を踏み出し、剣を突き出す。体の中心を狙った剣を、黒い男はひらりとかわす。汗が飛んだ。雫がクリフの剣に弾かれて跳ねる。そこへ男は、クリフの手首を狙って剣を振り下ろす。クリフは寸前で剣をねじ曲げて避けた。体勢が崩れる。剣を引き戻す。戻した剣に、男の剣が重なる。
また一つ、嫌な音が鈍く響いた。
重なる剣の向こうに、姿勢を低くして笑う男が見える。クリフは顎を上げてしまっていた。懐が空いている。
「!」
喉笛を攻撃される前に、すかさず蹴りを繰り出して威嚇し、これを回避した。ざざっと足を滑らせて間合いを取ると、クリフは大きく一つ呼吸した。
「何がおかしい!」
再び地を蹴り、剣を重ねる。だが押し合いは、笑う男が強かった。ダナの『魔の気』も、完全に封じられてはいないらしい。磁石の反発に似た抵抗が、2人の間に起こっている。だが離れれば引き付けられるかの力に、体が揺らされる。妙な感覚を弾き飛ばしてクリフは走る。考えるより先に黒い男を斬りつける。
浅い剣が黒い袖を引き裂く。
同時にクリフの太股にも、剣先がかすめられた。
互いの血が、かすかに流れた。
袖を引き破り、紫が言う。
「持てよ、イアナの――お前の、剣を」
彼の視線がクリフの右横に向いている。ノーヴァが剣を掲げて立っていることは、見なくとも分かっていた。剣の魔力も大きさも、その存在はずっと感じていたのだ。目をつむっていても手に取れる。クリフが欲する気持ちもあったが、剣もクリフを呼んでいた。赤い石が主へと帰りたがっている。“怒り”の源へと。
神の媒体は、ケイヤ以外の魔道士全員が手にしている。掲げて、呪文を媒体に注ぎ込んで魔力を増幅させている。イアナの剣も掲げられている。だが視界の隅に入れたノーヴァは、少し変わった剣の持ち方をしていた。
普通は柄を持つだろうに、彼は鞘を持って、柄を上にして前へと突き出していたのだ。まるで相手に渡すように。クリフが、抜きやすいように。
なぜかとは感じたが、躊躇はしなかった。
「望み通りに」
うなり、黒い男から目を放さないまま、少しずつイアナの剣に近付く。男は剣を降ろしている。クリフが剣を手にするまでは斬りつけないと意思表示をしているように見えるが、信じきれない。
クリフは、ゆっくりと手を伸ばす。手には、まだ今の剣が握られている。刃こぼれしておりヒビも見える、血に汚れた剣は、クリフの心境を表しているかのようである。その剣の柄から、一本ずつ指を開いて行く。
人差し指と中指が伸びて、イアナの剣に近付く。
柄尻の赤い石が光る。
わずかに触れただけで。
光が、溢れた。
「!!」
ドン、と、大地が震えた。
白い光がほとばしる。オーラが内側のみならず外側にも放出して、すべての者の目を潰した。戦場は急激な光に、どよめくことすら忘れた。覆う雲までもを吹き飛ばすかのように、すべてが光に満ちた。
「イアナあっ!」
光の中から、歓喜と憎悪の叫びが湧き上がる。飛び出してきた男の切っ先が、クリフの眉間に迫る。
クリフの開いた手から剣が落ち、それと同時にイアナの剣が握られていた。石を包むようにして柄を持ち、剣身を鞘から抜いて中段へと繰り出す。古い剣が地に落ちる音を立てたのは、その後だった。
イアナの切っ先が、男の剣先を弾き飛ばしていた。
今度は脳天を揺るがすような、澄んだ金属音だった。
衝撃で、クリフの髪から青い紐が滑り落ちた。すでに落ちそうだったことに気付かなかったのだ。
クリフが願掛けをして伸ばす髪を縛っていた、ラウリーの“念”がこめられている紐である。落ちたのは青いマラナか、ラウリーの心か。
風が荒れて、赤い髪を広がらせた。
イアナ神のように。
赤い男の脳裏に、23年間の間には持ち得ないはずの記憶がよみがえった。懐かしく、楽しかった日々だ。よく食べ、よく笑った。すべてが美しく、希望に満ちていた。豊かな心で人を慈しみ、正しく過ごした。豊か過ぎて、楽し過ぎて、そんな日々をむさぼり過ぎて生きる意味に行き詰まった、不器用な弟がいた。
ダナ。
己の道に持つ疑問も迷いも苛立ちもを、彼はすべてを閉じた瞳の奥に隠していた。悩んでいた。悲しんでいたのだ。なぜ自分はこうなのだ。皆のようになれないのだ。己だけが異端である、と。
誰もが持つ心のほころびに、ダナは棲んでいる。
「小さな嫉妬でしかなかったのにな」
重ねた剣を押して微笑む紫の瞳に、苦悩が見えた。
「お前に優越感を抱いていた。なのに俺の矜持を、お前は向上心で追いつき、追い抜いて行ったんだ」
男の笑みが歪む。剣を押す手に、力がこもる。
「俺は俺だ」
「その傲慢が!」
途端に剣を引かれて、よろめく。一歩踏み出すとクリフは、退く男にイアナの剣を振った。驚くほど軽やかに剣先が舞い、黒い長衣を引き裂いた。肉の手ごたえは少なかった。
「憧れと妬みが混在して育ち、膨れ上がって、イアナ、どうしようもなく御し得ない憎しみが! 分かるか、お前に! クリフ!」
汗と血が混じって舞い散る。再び交わった金属音が、高らかな音を立てた。まるで何かを告げる鐘にも似ていた。剣の木霊に、狂ったような笑い声が重なる。
「俺は憶えている。俺が何をしたか、何を考えていたか全部、自分で! 分かっていて! 憶えているんだ!」
高らかに嘲笑しながら、言葉が狂って行く。つむぐ言葉を頭で形成するより先に、勝手に口が感情を吐き出している。剣が速さを増す。次々に繰り出される剣を、クリフがいなす。
「消えろ、この世は不要なものだらけだ! 消してくれるわ、お前なぞ」
必要としながら、必要とされることを望みながら、すべてを拒絶して、ダナは世界を愛する。
イアナは必要とされる世界を作り上げて、ただ一人のマラナを愛し、娘を作った。ダナという娘を。名を愛するため、名に贖罪するため、名を己の下に置くために。いや。
最愛たる、愚かな弟に捧げるため。
「消えるのは、お前だ。――ダナ!」