7-2(決戦)
クリフはラウリーが消えた直後、すぐさま駆け戻っていた。明け切らない薄闇が、霧をクリフにまとわせる。体も、心も重かった。
こうなることを、どこかでは予想していたのだ。ラウリーがクリフを訪ねて来た意味は、分かっていた。分かっていて引き止められなかったのは、魔法には勝てないからという観念があったからだ。
「くそっ」
確かに予測通りだった。だがクリフが、もっと深く彼女を捕まえて放していなければ、彼女は行かなかったのではないかと後悔される。あのように涙を溜めた目で微笑まれては、手を放した自分を殴りたくなる。
陣地から港までは遠くない。襲撃に最適な地形を選んだのだ。一気に駆け下りられるよう、丘の影に潜んだ。河原から丘に上がれば、あとは落ちるように走り抜けられる。
だが、ここから陣地までが遠い。離れてしまった上に、上り坂だ。どれほど走ったのかは覚えていないし、そう長い追いかけっこでもなかったと思いたいが、“転移”で去った彼らが事を起こすまでに間に合うかどうかが怪しい。
ラウリーの“浄化”で、事が終わるのだとしたら。
だったら、なぜエノアは俺を呼んだのだ。
クリフは走りながら、歯がみする。
ジェナルムで最初の“浄化”を試みた時にクリフが必要だった理由は、イアナの剣をクリフが持っていたからだ。秘める魔力が強いと見込まれて、オルセイと戦うことになった。だが今のクリフにはイアナの剣がないし、魔力だって、もっと強い魔道士が集結している。
クリフの出番は、とうになくなっているのだ。
なのに「3日後に来い」とリニエスに伝言された、エノアの言葉。まだ、クリフにしかできない何かがあるのかと期待していた。それより早くに攻めることも考えたが、エノアなりの作戦があるなら乗ってやろう、と思っていたのだ。
まさかラウリーを人身御供にした、事が解決した後に見物に来いとでも言う気か。
走りながら憤ったが、あいつならやりかねんなと閉口もする。あのダナを相手にする以上、人間の一人や2人を利用する位は仕方がないのかという麻痺さえ引き起こされる。エノアは常に大局を見ている。彼は少数の犠牲を厭わない人種だ。
と、思えば思うほど、諦めたくなくなる。
「こん畜生ーっ!」
わめいて、坂を上る。昨夜の時には一気だった道のりが、今度は緩やかとはいえ上りである。さすが、自分で選んだ地形だ。逆走には骨が折れる。まだ暗い中、足も取られる。自嘲してしまう。
彼女を捕まえたかったがために、後先考えず追ってきた結果がこれだ。きっと自分が間抜けな帰還をしている間に日が昇って、すべてが終わり、この手に何も残らないのに違いない。
などと思い巡らすクリフの耳に複数の駆ける音が響いたのを、クリフは気のせいかと思った。焦る自分の心が作った幻聴かなどと感じたのだ。集団で地をうならせる足音は、戦場をゴーナで突撃した時に似ている。
段々と近づいて来る。
さすがに彼らの姿までが見えると、幻想とは思わなかった。見知った面々がゴーナを駆って、クリフに向かって走って来るのだ。助勢軍を先頭にして、後ろに“ピニッツ”が並んでいる。顔ぶれには、昨夜までいなかったはずのルイサや、リニエスまで見える。驚きに見開くクリフの横っ面をはたくように、“ピニッツ”の頭領が高い声を上げた。
「乗れ!」
体をずらし、手を差し伸べている。マシャのゴーナに飛び乗れ、ということか。助勢軍が口々に大将と叫んですれ違う中、否応もなく手を掴まれたので、クリフは慌てて鞍を掴んで飛び上がり、鐙に足を引っかけてマシャの後ろにまたがった。体勢がおぼつかず、すかさず手綱を掴む。引っ張られたゴーナが、前足を上げていなないた。
前足がドンと降りる。
足踏みに勢いがつく。
2人を乗せて、一層ゴーナが速度を上げる。
「その分だと逃げられたね」
「うるせえっ」
クリフは感情任せに、ゴーナの腹を蹴った。マシャは鐙と手綱を明け渡して、ゴーナの首にしがみついている。なぜ彼女らがクリフの居場所を知ったかは、問うまでもない。リニエスだ。昨夜の合流ということは、ラフタ山のお偉い面子を説得するのに骨を折っていたのか、騙して来たのか、黙って来たのか。ロマラール騎士団長はおろか、クラーヴァ国王の妹君を前線に出したとあっては国際問題もいいところで、責任追及どころか斬首にされかねない。クリフは先日会った麓部隊の団長セタクの顔を思い出し、心中をねぎらった。
もしや、と、ふと思い当たった。
昨夜、マシャの勘がやけに鋭かった理由は、もしや既にリニエスが到着していて、ラウリーが来ているらしいと聞いていたのではないか? と。
だがクリフに見つかれば、クリフはついて来るなと、どやしたことだろう。だから隠れていた。そして折りよくクリフが不在になったので出陣の準備を整え、“遠見”してクリフを――というかケディの魔力を、だろう――見つけ、そのまま進軍となった、と。
つじつまが合う。
合った瞬間、思わずクリフは「お前らなぁ」と呟いた。
「え? 何か言った!?」
山を駆け下りるゴーナの上では、まともな会話などできない。クリフは「いや」とマシャに首を振って、走ることに専念した。自分の体勢はまだしも、マシャを振り落としかねない。少しだけ落としてやろうかと頭をよぎったが、今はクリフが助けられた身だ。リニエスの参戦を言及している暇もない。
森が切れる。
港町が見える。
港までは、ちょっとした坂になっている。一気に駆け下りれば、すぐに埠頭だ。普通なら通れる道ではないので、だから昔“ピニッツ”のアジトも、この北の崖を利用して建設されていた。とはいえ本当に完全に通れない道ではないと“ピニッツ”が言ったため、この道が選ばれた。野性のゴーナなら、この崖を容易く渡るのだ。
クリフらが乗るゴーナは野性ではないが、性質からすれば挑戦の価値がある。
辿り着いた助勢軍が足踏みをして、大将を待っている。皆の間を抜けて、クリフとマシャを乗せたゴーナが先頭に躍り出て、皆に振り向いた。
「まず礼を言う。ふがいない大将で済まない」
「士気を落とすんじゃねぇよ、阿呆うっ」
野次が飛び、皆が笑い、クリフも苦笑する。ゴーナまでがブルルと勇んでいる。駆けて来た足を止めさせられて、力を持て余しているのだ。
「じゃあ行くぞ。脱落者は見捨てる。迂回組に合流しろ」
助勢軍が強行組、“ピニッツ”の半分と父ジザリーや他の兵は、迂回組である。崖を避けて町に下りて、回り込む。港を挟み撃ちにするというより、事故を避ける意味合いが強い。崖下りは危険だし港も崩壊しているので、なかなか埠頭に辿り着けないだろう。むろん強行突破した後ろに残すネロウェン兵を迂回組に任せるのだから、楽な仕事ではない。怪我を負った者までが迂回組に参加している有様なのだ。なるだけ負担は減らしてやりたい。
ええと……と皆を見渡して人垣の向こうにいるルイサに目を留めると、彼女は分かってるわよと言いたげに首を竦めた。側にリニエスもいる。声が届く距離ではない。迂回組に入っている。心強い。ルイサが指揮を執るなら、無茶なことにはならないだろう。
「あたしも迂回する。この崖は2人乗りじゃ無理だからね」
ひょいとマシャが飛び降りて、急にゴーナが軽くなった。ように感じられた。
「あ……」
「礼なら明日、たんまり言ってよ」
つまり今日を生き延びられたら、ということだ。クリフは頷き、手綱を引いた。マシャが後方へ下がるのを見てからゴーナの前足を崖に向けて、港を見下ろす。美しかったサプサの片鱗は、どこにも残っていない。土気色に染まった海と埠頭の境目が分からぬほどにまで崩れている。だが、ここまでの崩壊を他に漏らさずサプサだけに止められたことは奇跡に近い。
クリフは剣を抜いた。天に掲げる。まだ朝日はなく、剣にも反射しない。それでも剣は、どこかしら魔力を帯びているかのように白い光を放ったように、皆には見えた。
瞬間。
港から、爆音が響いてきた。船の辺りだ。声などまでは聞こえないが、中央の船が破壊されたらしい様が遠目でも伺い知れた。何かが起きている。
一刻も早くと気が急くのを、クリフは深呼吸して落ち着かせた。何かが起きているのなら、ちょうどいいではないか。まだ間に合う、ということだ。
すぅっと息を吸う。
空気が張り詰める。
緊張の沈黙が皆を高ぶらせ――剣が、振り下ろされた。
「突撃!」
おおおっ!
数十人からなる怒声がクリフの後に続く。薄闇を吹き飛ばすようにして、ゴーナの群れが森を割って飛び出す。赤毛の軍神が、まっさきに崖を駆け下りる。背後で滑落したらしき悲鳴なども上がっていたが、クリフは振り向かない。剣を薙ぎ、障害物すべてを踏み潰す勢いで港へと降り立った。
本来なら予想される港の様子は、まだ静かなはずだった。天幕も船もネロウェン兵が眠り込んでいるところへの奇襲となるはずだったのだ。明けて行く白んだ霧の中、夜営に疲れきった兵がおもむろにクリフらを見つけ、その勢いと凄絶さに飛び上がって、皆に敵襲だと叫んで回る……。
ロマラール側が思い描いたネロウェン兵の様子は、まったく違っていた。
「これは、」
二の句が告げなかった。
眠ってなど、いなかった。
ネロウェンの全軍ではないかと思われる集団が埠頭を埋め尽くして、クリフらに向かって歩いて来ていたのだ。声なく、淡々と。例え歩けなくなった同胞がいても、足を止めたり倒れたりする者は後ろから来る者に押しのけられ、踏みつけられる。先ほどの爆発が原因か、その前からかは分からない。だが傷ついている者は爆発に巻き込まれたのであろうと思われる。
クリフもまた、この現象が意味するところを熟知している。
「ひるむな、進め! 構うな!」
親玉さえ止めれば、狂気の集団も止まる。迂回組が到着する前にオルセイを探し出したかった。ネロウェン兵が自失しているということは、ダナの呪縛が解けていないからに他ならない。つまり、エノアが企んだ“浄化”は、やはり終わっていないのだ。ということは、ラウリーが生きている可能性も高い。
狂気の現象を起こせる人物は、オルセイだけでなくラウリーも該当する。だが、彼女ではない気がする。去年、暴走した『魔力』を外へ漏らすまいと、必死に抑えていた彼女が思い出される。
クリフはゴーナを操り、岩場を飛ぶようにして進んだ。海に落ちている者や、埠頭の縄止めに串刺しになっている者もいる。ガレキも積み上がっていて、あまり海側に寄ると崩れて海に落ちる。ところどころに海水も溜まっている。だが町側にまで入りすぎると、両側から挟みこまれる。海を左に据えて、右の剣で敵をいなしながら、クリフは駆ける。
叫声のなかった戦場に、ロマラール人のときの声が響く。同時に、再び爆風が吹いてきた。木霊のようにして聞こえてきたのは、別の場所からなる別の声だった。言葉の意味までは聞き取れなかったが、ロマラール語であるとは判別できた。
ネロウェンの戦艦近くから聞こえて来る、ロマラール語で、しかも男性の声が。
「――オルセイっ!」
叫んだクリフの胸に、火が灯ったような気がした。熱い怒りの炎だが、それはなぜか、どこか安堵を感じる暖かい光でもあった。そう感じたクリフ自身が戸惑うほどに。
わずかに、ゴーナの足が鈍った。
「うわ」
ネロウェン兵の半月刀がクリフを襲う。右から水平に滑ってきた刃先を、剣で受ける。まともに当たりすぎてクリフの剣は刃こぼれを起こし、相手の刀は、見事に折れた。折れた先が跳ね返って飛んで、持ち主の首を撫でて行く。周りにいる兵らの腕や顔なども切って行ったが、誰も頓着していない。
首を切った兵は無表情のまま、自らが噴出する血の海に沈んだ。踏みつけて歩く者らが次々と血の噴水を浴びる。潮の匂いとあいまって、吐きそうな異臭となっている。
クリフは急いでゴーナの手綱を引いた。立ち止まっては、斬られる。
だが足が鈍ったことで、クリフはそれを見つけることができた。
「ケディ!」
ガレキの窪みで沈むように丸まっている、黒茶の生き物へ声をかける。辺りに散らばっている羽根の形から、これが鳥だと分かる。だが、そうでなくば荷物の一つかガレキの一片かと見られて、素通りされるところである。多少は『魔力』に触れているクリフだからこそ、見つけ得たのだろう。つまり、鳥は生きている。
ゴーナに乗ったまま鳥の側まで近づいたクリフは、彼が起きるなら手を差し伸べよう、と決めていた。だが動けない様子なら置いて行く。ゴーナからは降りない。ディナティが乗っているはずの、爆発音がした船までは、まだ遠い。ケーディに近付くクリフの背後を、助勢軍の数人がかばって立ちはだかる。
「大将」
「すぐ行く。ケディ。おい、こら、クソ鳥!」
「手前ぇ、いつか頭のてっぺん突いて禿げさせてやる」
「やれるもんなら、やってみろ」
塊の中から出てきた悪態に、笑みが洩れた。塊がほどけて、胴の横からバサリと翼が広がった。見た限りでは怪我や血は見えない。軽く気絶していただけのようだ。罵倒で復活する辺りが彼らしい。
来いとも言わないうちからケディは飛び上がり、ゴーナの頭に降り立った。クリフの視界が遮られている。
「どけ、邪魔だ」
「気にするな」
「そういう問題じゃない!」
などと漫才をしている場合でもないのに、この鳥には調子を狂わされる。クリフの肩から力が抜けた。それを見て、ケディが前を向いたまま、ボソリと言った。
「驚くなよ。多分、ラウリーがやばいぞ」
「何?」
走るゴーナ上で会話が成立しないのは、先ほどと同じだ。ほとんど聞きそびれたが、固有名詞には反応できた。
「ラウリーが、何だって?」
鳥の後ろ頭に呼びかけたが、彼は振り返りもしない。あまりケディにも構っていられない。足場が悪い。ゴーナも疲れて来ている。当然だ。夜明け前から早駆けて、2人乗りはされるわ崖は駆け下りるわ、堪ったものではないだろう。
などと逡巡したクリフの胸のうちを推し量ったように、ゴーナが急にいなないた。
「うわ!?」
いなないただけではない。足踏みして体を揺らし、どうっと倒れてしまったのだ。投げ出される前に飛び降りることができたので、怪我はない。ケディも羽ばたいたので無事だったが、ゴーナは足首を切られていた。
目前に、ネロウェン人が迫っている。
ネロウェン語を叫んで。
「!?」
クリフは身を伏せて半月刀をかわし、相手の懐に飛び込んだ。首を押さえ、みぞおちを殴る。脱力したネロウェン兵の胸倉を掴んで盾にして、群衆へと突進する。周囲を助勢軍が守る。こちらの何人かも既にゴーナを失っていた。ゴーナだけでなく、本人らが脱落もしている。相手が急に変化したのだ、戸惑いもする。
本来の戦闘集団が戻ってきたのだ。
なぜ急にと誰に問う間もなく、次々に兵らが襲って来る。一人倒しても次が来る。人海戦術で来られるのも厄介だったが、統率された戦術の方がもっと困難なのは言うまでもない。押しのけて走り去れれば楽だが、阻まれて進めない。
「クリフ、どけ!」
甲高い声を背中に聞き、クリフは半回転して身をずらした。計ったように、風の塊がクリフの脇すれすれを飛んで、前方のネロウェン兵をなぎ倒した。背後を見やると、黒茶の鳥が足をふんばって鼻息を荒くしている。なるほど、ずっと術を練っていたなら、クリフの呼びかけに応じなかったのも頷ける。だが、もし自分が避けられていなくても、今の魔法は放たれていた気がする……などと思ったが、真相は永久に闇の中だろう。
せっかくケディが空けた道に立ちはだかられないよう、クリフは駆けた。
だが、すぐに邪魔が入った。
船までは、まだ遠い。50。いや、100イークはあろうか。かつて栄華を極めたサプサの港だ、南北に渡る埠頭の距離は、ロマラール最長である。吹き飛んだ船の周りで何が起こったかも見えないほど、遠かったのだ。
いるだろう確信はあった。
まさか、ディナティの戦艦に辿り着く前に顔を合わせることになるとは、思わなかったが。
目前に立った黒い男に対して、すぐには言葉が出て来ない。緊張が伝染したのか彼の登場が合図なのかは分からないが、周囲のネロウェン兵も束の間、言葉を失くして立っていた。それは黒の男が持つものに目を奪われたためも、あったかも知れない。
かつては彼らを率いる将として、魔の力を振るっていた――魔女。
荷物のように小脇に抱えられている赤いドレスの女が、やけに目につく。男が放っている『魔力』のせいだろう。生きるものなら震撼して硬直する膨大な『魔力』が、惜しげもなく辺りにばらまかれているのだ。だが人々の気を飲み込んで狂わせていた、先ほどまでの暴走した『力』とは違う、制御されている、落ち着いた『魔の気』だ。
オルセイがダナとしてクリフの前に姿を現した、初めて出会った時の印象に似ている。オルセイはクリフの感覚を肯定するように薄く微笑み、そしてダナらしい行動を取った。
「俺には不要となった。返すぞ」
小脇のラウリーを、投げてよこしたのだ。
「!?」
2人の間には、相当の距離があった。少なくとも人を一人投げて届くような近さではなかった。だがオルセイの『魔力』に乗ったのだろうラウリーの体は、まるで重さがないかのように弧を描き、クリフの胸元にまで到達した。クリフが慌てて両手で横抱きにしたところを見越して、ダナが言う。
「もはや使えんがな」
目を見開き、腕の中を覗き込む。クリフの指先に、先ほどまではなかった血が、べっとりと付着している。赤いマントが擦り切れ、引き裂かれている。裂けている箇所は彼女の腹部だが、肌が見えていない。血に染まっていて、内臓が露出しているのかも判別できないのだ。そんなことはないと思いたいのだが、見えない。クリフの視界が揺れているせいもある。
今朝まで微笑んでいた彼女の頬が青白く冷たくなっており、呼吸を感じない。自分の唇が震えて、言葉が出せない。ラウリーと形作るが、声が出ない。細くて壊れそうな肢体なのに、やけに重い。クリフはがくりと片膝をついて、それでも彼女を落とさないよう、胸にかき抱いた。頬を寄せると、彼女の冷たさが余計に感じられた。
彼女の背を支え、膝に乗せて、下半身から手を放す。空いた右手で彼女の腕を抱き寄せたが、起きる気配はない。その腕をさすっても、熱が戻らない。秋空に肩なんか出すからだ、とクリフは明後日なことを考えた。足首を出すことすら恥ずかしがるロマラール人の気質からすれば、今の彼女はとんでもない格好をしているのだから。
「ラウリー」
ようやく声が出た。
が、呼んでも応えはない。
何度も何度も呼んで、揺り動かしたい衝動に駆られる。が、クリフが取り乱す前に横槍が入った。
「いい表情だ」
すぐ近くにオルセイが立っていたのだ。気付いたのは、足が見えたからだった。クリフは俯いたまま、オルセイを――ダナを見上げなかった。動きはせず、少しずつ体重を足先へ集中させた。ゆっくりと、ラウリーを地面に降ろす。降ろし終えたクリフの胸や膝、手も、ラウリーのものであろう血に染まった。
クリフは指先で頬の傷をなぞった。
つい今しがた切ったかのように、傷に真っ赤な線が走った。
と同時に、飛び退く。
オルセイの足が、空を切った。
2度は蹴られない。
「貴様……」
クリフは初めての呼び名で、ダナに殺意を示した。身体中を染め上げる、湧き上がる炎は、今度こそ確かな“怒り”だ。やもすれば黒く暗くクリフを変貌させんとする“憎悪”となる。ダナが、いい顔だと再び呟き、喜びを示すほど。
次の瞬間には、クリフはダナの懐に入っていた。完全に心臓を捕らえていた。だが、これはダナも読んでいた。いや、ダナが今や完全に『魔力』を御しているオルセイだからこそ、防いだのだろう。先日の暴走するダナとは、訳が違う。魔力も格段に上がっていると感じられる。体の切れが違う。魔法をまとった手でクリフの剣身を掴んだオルセイは、引き抜こうとするクリフを制して、顔を寄せる。
「さあ、やろうぜ」
途端、投げ出された。手を放されたクリフがたたらを踏んでいる間に、オルセイは倒れている助勢軍から剣を取り上げて構える。構えるのと、体勢を立て直したクリフが剣を降るのとは、ほぼ同時だった。金属音が、開戦の合図のように鳴り響いた。
言葉にならない声が埠頭のガレキに木霊する。
血を吐くように、クリフが吼える。
2人の戦いが封切りとなって周囲のネロウェン兵が動き、またロマラール軍を攻め始めた。