7章・安息のニユ-1(減殺)
これは罪なのだな、とラウリーは痛感していた。これが、罰なのだ。
引き裂かれた体が、周りを血の海にしている。見えにくいが、えぐりとられた腹の肉が、ほとんど残っていないようだ。まだ立っている自分が不思議なほどに。
幸せの絶頂から一気に絶望の底へと叩きつけられて、ようやく思い知った。その位しなければ効かぬと思われたのであろう。誰に思われたか、など。神に他ならない。
死の神、ダナ。
魔道士とて、しょせんは人だった。神の制御などと、人は思い上がったのだ。
幸せだった一夜は、はかなく消えた。
――昨夜。
まだ明けない薄闇の中で、ラウリーは目を覚ました。開けた目に映った現実の方が、先ほどまで見ていた夢よりも、よほど夢のようだった。夢路でラウリーは、砂漠をさまよっていたのだ。
ネロウェン国の砂漠は、日が出ている間は暑くて焼け死にそうなのに、そのくせ日が落ちると、寒くて凍え死にそうになる。黒いボロ雑巾を着こんで裸足で歩くラウリーは、歩くと言えるほど軽快な足取りでなく、引きずるように重い足を無理矢理に進めていた。
水が欲しかった。乾ききった喉の壁と壁がくっついてしまい、声も出せない。息は絶え絶えだ。ラウリーなら魔法で水が出せるはずなのに、握った手の中には汗しかない。したたり落ちもせず、どろっと濃い塩水が手を汚しているだけなのだ。
歩けるところまで歩いたら、あとは眠ってもいいよね、と考えていた。持てる力はすべて出した。進める限り進んだ。歯を食いしばって、熱にも冷気にも風にも、すべてと戦った。周りには何も見えず、ただ闇雲に足を出していた。
もう、いいよ。と、聞こえたのは、誰の声だったか。ふと気付くと目前に人影があった。かすむ目に映した影に懐かしさを感じ、ようやくラウリーは体が軽くなるのを感じた。感じ、影に向けて踏み出した時、夢から醒めたのだ。
近付こうとした影が目前にあるのだ、夢かと疑いたくもなる。まるで家にいて、暖炉のそばで毛布に包まれている感覚さえある。クリフの腕に包まれて、胸の中にあって、マントにくるまれているだけだというのに。
枯れ草のベッドは決して柔らかくないし、夜露を凌ぐ屋根もないし、風を遮る壁もない。冬も近い森で野宿など、凍死してもおかしくない。だがラウリーは今、安らぎを得ている。
精神的な安息が、体までを快適にしているわけではない。
ラウリーは悟っていた。
「ケディ」
クリフを起こさぬよう、小声で呼ぶ。声はクリフの胸に当たって消えた。ラウリーは寝返りを打とうとしたが、がっちり抱えられていて身動きできなかった。力いっぱい抱いていながら熟睡しているのだから、笑ってしまう。むろん理由は、ケディが彼を眠らせているからだが。
暖かさを噛み締めながらも、ラウリーはよいしょと体をねじった。少しぐらい無茶をしても、クリフは起きないに違いないのだ。クリフに背を向けると、肘をついて体を起こそうとした。が。
「ん」
甘いうなりに掴まれて、起きるには至れなかった。反転はできたものの背中から抱きしめられて、余計に動けない。以前の彼女なら、どこ掴んでんのよ馬鹿と怒鳴って張り飛ばして脱出するところだが、様々な事情を加味するだに、今の彼女には決行できない。むしろ背中の熱を放したくない気持ちでいっぱいである。うなじをくすぐる吐息が愛しい。昨夜の言葉を思い出すだけで、涙が出てくる。
そういえばクリフって、意外と抱き癖があったっけ、などと目尻をぬぐって笑みを漏らす。クラーヴァ城で会うと、彼は必ずといっていいほど抱きしめてくれたものだった。包み込んで安堵してから、会話が始まるのだ。
昔にはなかった癖だと首を傾げたが、相手がないから発動されていなかっただけらしい。早くに母親を亡くしている影響かも知れない。クリフは、コマーラ家の母を母さんと呼ぶのにも時間がかかった男だ。
彼の、母性を求める部分を埋めてやれなかった自分を、ふがいなく思う。もしくは、クリフの見せる無意識の寂しさは、母親の喪失でなく親友との決裂が尾を引いているのかも知れない。
「……」
声のないうめきが、背中を撫でる。もう3年になるが、まだ3年だ。穏やかに見えつつも時々しわが寄る眉間に、見るたび切なさを覚える。薄れは、しただろう。だが消えることはない。変化も、したことだろう。悲しみや寂しさから、怒りや憎しみへと。だが、どちらにしろ暗い感情だ。
クリフの告白を受けて揺れた心を抱え、抱かれて、愛され、愛し、これでいいのかと自問自答を繰り返した。気が遠くなり頭が真っ白になって、このまま死ねればいいのにと意識を手放したが、おめおめと生きている。どんなに考え直したところで、何も浮かばなかった。3年考えても他に道がなかったのだ、たった一晩じゃ決着などつかない。頭が固いのだろう。
自嘲の笑みに口元を歪めつつ、ラウリーは目前に降り立った醜悪な鳥を見た。呼んでもなかなか降りて来なかったケディの心境は、分からないでもない。出会ってから今まで、下手をすれば誰よりも濃く長く、一緒に暮らしてきた仲だ。役目なんざ放り出してしまえよと言わんばかりに見える。
黒茶の鳥は、くいと頭をひねって、ラウリーから目をそらしている。何しろ人語を解する鳥だ、羞恥心もあると見える。ラウリーは巻きつけているマントを胸まで引き上げてから、ケディに「ありがとう」と微笑んだ。
「何がだよ」
鳥は、語尾でケッと喉を鳴らして、ふてくされている。
「こうしていられるのは全部、ケディのおかげだから」
俺は別にとか何とか口中でゴニョゴニョと呟いたものの、それらは言葉にならない。ケディもラウリーが気付いていることに、気付いているのに違いない。
「私を連れて行って」
言いながら、ラウリーは手をついて体を起こした。胴に巻きついているクリフの腕とマントを、ぐいと引っ張る形になった。だが彼は起きない。眠らされたままのクリフの頬に触れて、まぶたへ軽く唇を落とし、ラウリーは立ち上がった。
かたわらに脱ぎ捨てた黒の長衣を手に取り、着込もうと試みる。擦り切れて穴も空いていて、腕を通す場所じゃない位置から手が出ている。周りが暗くて見えにくいせいもある。
最後の月光が輝きを失くし、反対側の空が白みだそうとしている時。
「待てよ」
愛しい声が、ラウリーをこわばらせた。驚きすぎて硬直したことは、かえって都合が良かった。振り向いてしまっては、表情を見られたら、心が隠しきれなかったに違いない。足下では、ケディが目をそらしていた。ケディがわざと起こしたんか、魔法が弱かったのかは、分からない。
ラウリーはクリフから見えないように静かに、深く呼吸をした。目を閉じて息を吸い、ゆっくり吐きながら、まぶたを押し上げる。振り向き、笑みを作る。
「起こしちゃった? ごめんね」
ローブをまとっていない娘の肢体は、直視しがたい姿である。が、クリフは負けじとばかりにラウリーを凝視している。顔だけを。その誠実さに、胸が熱を帯びる。
さて、どうごまかしたものかと思案したラウリーは、ふと思い立ち、
「マントをくれる?」
と、クリフの下を指差した。敷いていたマントはしわくちゃになっていたが、穴だらけのボロ布よりは綺麗だ。何より黒を避けたい心持ちが、ラウリーに生まれている。力を下さいと祈るように、ラウリーはクリフから赤いマントを受け取った。
一片の端と端を持って、背中から胸へと、胴をくるむ。胸の前で交差させた端同士を、首の後ろで結ぶ。背中や肩は露出しているが、体に沿うように巻かれたマントは、ドレスさながらになった。布地が厚いので多少ごわついているが、膝丈の赤いドレスは紫髪によく映えていた。
「どう?」
「うん」
「うん、って」
手を広げて見せるラウリーに、クリフもはにかんでいる。切羽詰らないと綺麗だよの一言も出てこないのがクリフである。よく分かっている。ラウリーは肩を竦めて笑い、一歩退いた。
「こら」
過敏に反応したクリフに、手首を掴まれる。ごまかしきれなかった。さすがに、こう何度も逃げ回っていては、簡単には放されないらしい。放されないことが、嬉しい。
嬉しいからこそ、これで終演だ。
ふうと息をついて、肩をストンと落とす。
「ラウリー……お前、」
いつもの笑みを納めた彼女は、違う笑みを披露した。悠然と、妖艶に。すなわち、ダナの魔女として。
驚きを隠せないでいるクリフは、ラウリーを見つめたまま固まっている。驚きのためでなく、魔法のせいだ。ラウリーはするりと手首を引いて、身を躍らせてクリフから離れた。クリフは一歩も動けないまま、ラウリーの変貌を見つめるしかできない。
ラウリーは、トンと上がった切り株の上から、優雅に礼をする。まるで喜劇を終えた役者のように。掲げた手の先にケーディが降り立ち、ちょんちょんと腕を辿って、肩に収まった。
ケディから魔力を感じる。
浮遊感が身を包んでいる。
ラウリーも同調して、魔法を胸に刻んだ。
おどけるように皮肉気に、せせら笑いながら本音を忍ばせる。
「素敵な夜を、ありがとう」
一度ならず2度までも裏切って申し訳ないと詫びつつも、魔女の笑みは崩さず。いや、2度どころではないだろう。離れていた毎日がすべて、何十回、何百回という裏切りの連続だった。
「一人で行くな、俺も連れてけ!」
頭だけが動く状態の、どれほど、もどかしいことだろう。ラウリーは、赤い顔をして体を動かそうとするクリフの必死さに、胸を詰まらせる。魔女の仮面がはがれ落ちる。封印を解いた名は、解放されてしまった想いは、もう胸の奥深くにしまい直せない。溢れる涙をこらえながら、ラウリーは微笑んだ。
「ご機嫌よう」
と、最後まで言えたかどうか。
言うと同時にラウリーは引っ張られ、“転移”で別の場所へと飛んでいた。“転移”は実に呆気ない。余韻もなく、クリフに礼をした姿勢のままで新たな地へと降り立っている。半ば、夢うつつである。
ラウリーたちは、森を抜けた辺りに立って、港を見下ろしていた。昨夜の“転移”よりは、もう少し遠くまで飛べている。だが魔法陣のある船底にまでは、やはり行き着かなかったのだ。
本来の“転移”は、そこらの魔法使いでは全くこなせない技である。魔道士でさえ、何イークしか進めない。ラウリーがエノアと旅を始めた時に見た最初の“転移”では、エノアは川を越えるだけでひどく疲れていた。今では神の媒体もあり、何日もかけて呪文を唱えているので、いとも簡単に飛んでいるかに見える。だが魔法は基本的に難しいものなのだ。
今のラウリーが、まったくと言っていいほど魔法が使えないように。
本人もさることながら、ケディとて気付いていた。だから夜中、魔法でラウリーたちを包んで守ってくれたのだ。夜風にも獣にも襲われることなく眠れた理由は、ケディの魔法に他ならない。だからケディが少しぐらい、わざとクリフを起こしたのだとしても、腹は立たない。むしろ言葉が交わせて、決別ができて良かったぐらいだ。
ラウリーは涙を拭い、肩にとまっている鳥の体を撫でてから「行こう」と自分を奮い立たせ、歩きだした。“安定”だというこの状態が、どうにも怪しい。嫌な予感がする。
港は不気味なほど静まり返っていた。霧が辺りを包んでいて、しっとりと空気が重い。東の町なので水平線から朝日が昇るなずなのだが、全体的に曇っているためか光が見えない。空全体が薄く光を含んでいるかに見えるが、夜明けはまだのようだ。だが闇ではない。
埠頭まで出ても、動く影が一つもない。出かけた時には徘徊していたネロウェン兵が、一人も見えない。一夜にして死に絶えてしまったかのような寂寥を感じる。ラウリーは身を縮こまらせた。寒気は、空気の冷たさばかりではない。
焦燥感に駆られて走りかけたラウリーの肩に、鳥の足がぐっと食い込んだ。
「痛っ」
思いがけなかったので、つい声が出てしまった。見上げると、ケディの横顔がこれ以上ないほど真剣である。鳥の表情だけに変わりがなさそうに見えるのだが、雰囲気が伝わってくる。
“転移”してから黙っていたケディが、初めて口を開いた。
「ゆっくり歩け。合図したら走れ。振り向くなよ」
「え?」
聞き返したら、また肩に爪が刺さった。予断が許されないらしい。そういえば“転移”後も、ケディから『魔の気』が鎮まっていない。ずっと呪文を練っていたようだ。ラウリーはガレキの埠頭を海に沿って、ゆっくりと進んだ。裸足なので足音はない。眠る港に響くのは、穏やかな波の音だけだ。死臭もない。染み付いた血の臭いは漂っているが、潮の香りの方が強い。港に立つ天幕にも人がいないのか、皆、眠っているのか。
一体何がと想像するも、危険な事態など想像できない。呪文を終えただろう魔法陣に戻り、“浄化”を受けてダナと共に天に帰す、それ以外には何もない。はずだ。
まさか、とは考えたくない。
まさかエノアが、何かしらの失敗をしたとは。
ラウリーは歩きながら、足先に力を込めて震えを止めようとした。背中がうずく。体が緊張している。感じるものは『魔の気』でなく、狩人としての野性に敵意だ。誰もいないように見えるが、霧の中に人が潜んでいる。
だが、分からないことがある。
エノアは確かに“移動”を終えたと言った。ラウリーは“安定”した、と。ならば、オルセイにはダナたる『力』は残っておらず、ただの人に戻ったはずだ。ラウリーより魔法に長けていなかった兄の方が“安定”に時間がかかるなど、おかしな話ではないか?
昨夜には見えていなかった疑問が、今さら浮かび上がってきた。
そういうものだと言われれば反論の術がない、曖昧な疑問だ。元々魔法の何たるかも分かっていない。こうすればこうなるはず、という法則も見えていない。だからこそ逆に言えば、ただ、エノアの言葉をだけ信じてきた。
ラウリーは息を呑んだ。
ケディが叫ぶのと同時だった。
「走れ!」
翼の音が頭上いっぱいに広がる。肩が軽くなる。即されるように、肩を前へ蹴りだされた。
「ケディ!?」
たたらを踏みながら見上げると、ケディが上空からラウリーを見下ろして笑っていた。おそらく笑っている。ケディの声が優しい。
「お前はもう、俺なしで大丈夫になってるんだ。行ってこい。見届けろ。ここは、俺が抑えておいてやる」
「え?」
ケディの言葉に次々と疑問が沸いたが、最後の言葉が前方を見ながら吐かれたものだったので、ラウリーも前方に目を向けた。すると、先ほどまではいなかったネロウェン兵らが、目前にずらりと並んでいたのだ。声はないが、じりじりと歩く靴音だけが不気味に響いている。まるで死人の行列である。
「何で……」
同じ現象は、つい先日もこの港で見た。緩慢に、恐ろしい殺意が辺りを侵している。彼らの目標は、港でただ一人の異端として立っているラウリーに向けられている。憎悪は、野性が放つ食欲にも似ている。捕まれば切り刻まれ、食われかねない。
ジェナルム国で初めて、ダナになったオルセイに対峙した、あの時も同じ『気』を感じた。命の尽きる瞬間まで歩き続けていた、ジェナルムの平民。女子供まで容赦なく人形と化していた、辛い戦いだった。ダナは群衆の中心にいて、人々を憎しみの塊にだけ変化させた。すべての生に等しく死を与えて、神は薄く微笑む。
この向こうに、ダナがいる。
「行け! 立ち止まるな!」
ケディの叱咤を受けて、ラウリーは走った。目前にひしめく傀儡は、ラウリーがぶつかる前に弾かれ、吹き飛んで行く。ケディがラウリーの前方を飛び、体にまとった空気の膜で、兵らを跳ね飛ばしているのだ。大きい魔法である。過剰な魔力は、ケディの体に負担がかかる。まして彼は魔道士でなく媒体も持たず、魔法陣の中にいるわけでもない。
「ケディ、無茶しないで!」
「うるせぇ、走れっ」
どこまでも口が悪い。ケディの方が、ラウリーより明確に事態を把握しているのだろう。進み方に迷いがない。ほどなく人の波から抜けて、ディナティの船が現われた。船の内部も静かなようだ。叫び声の一つも聞こえず、ひっそりと停泊している姿が不気味ですらある。ラウリーの背後には、敵意をむき出しにした群衆が、こちらも声なくむらがっている。
人々と船の間に立つ、紫髪の娘。ひるがえる赤いドレス。開けて行く日は、柔らかく廃墟と人々を照らす。奇妙極まりない光景の中、一羽の鳥だけが声を張り上げている。彼は埠頭の縄止めとして立っている棒の上に降りて、ネロウェン兵を威嚇する。
「いい加減にしやがれ、手前ぇら!」
甲高い怒号に、群衆が固まった。微動だにしないオブジェが、港を埋めつくす。先ほどクリフに使ったのと同じ魔法だ。ラウリーはすれ違いざま立ち止まって、ケディの首を抱いた。
「生きててね」
「当たり前だっ」
罵倒に勇気づけられる。ラウリーは手を放して、船へ走った。が、急激に寒気がラウリーを襲った。登らんとした渡し橋の向こう――つまり船底が、異常な『魔の気』を放ったのだ。袋を、割れる寸前まで膨らませたような印象が伝わってきた。ギチッと船底の板が鳴った。
ラウリーは渡し橋から飛び退いて、身を伏せた。
「!!」
耳をつんざく轟音と、爆風。
立っていたら、体が持って行かれただろう。船底が爆発したのだ。ソラムレアの兵器ではない。魔力である。
ラウリーは頭をかばい目をつむって、縄止めにしがみついた。腕や背中に、何かが当たって肉を切って行く。木の破片だろう。
海にもボチャボチャと落ちる音がする。見ると、破片ばかりでなく人が降っているではないか。船底部分だけでなく、甲板が吹き飛んだらしい。鉄の骨組みを持つ側面は残っているが、きしむ音が重苦しく響いている以上、沈没は時間の問題だろう。
「ケディ!」
何本か向こうの棒に止まっていたはずの鳥を目で探したが、姿がない。風に吹き飛ばされたか、破片に当たったのか。その向こうで固まっていたはずの群衆が自由を取り戻し、傷ついているにも関わらずガレキを越えて迫って来る。
「くっ」
立とうとしたら、足に激痛が走った。木の破片がふくらはぎに刺さっている。相当大きい破片だったが、ラウリーは躊躇なくそれを引き抜いた。が、
「あああぁ!」
悲鳴はこらえきれなかった。
その時、船から落ちる者の他に、ラウリーは船底から飛び出した者たちを、確かに見た。
「エノア?」
立つのも辛い痛みで、すぐ目の前にある船が、やけに遠く見えた。不安定な足場には慣れていたが、足が傷ついてはそうも行かない。山で狩りに勤しんでいた頃は、岩場や道なき道を走ったものだったというのに。船内にいるだろうディナティ王や、ユノライニが気にかかる。特にユノライニは船底にいて、この事態に巻き込まれているはずだ。
船底に向けて名前を呼ぼうとした時、ラウリーはふらついた。
壊れた埠頭のせいでも、傷ついた足のせいでもなかった。
「俺を甘く見るなーっ!!」
懐かしい声が、絶叫と共に。
再びの衝撃が、ラウリーを貫いて行ったのだ。
「……え?」
「ラウリー!」
目前に見えている数人の影から、自分の名が上がった。荒廃する港の様子すら光で包みこむ、神々しい声が響き渡る。自分に向けられている、涼やかな翠の目がある。
「エノ……ア」
そのうちの何人かが動きを止めている。崩れる埠頭に、黒マントが引っかかっている。霧が晴れて行く。紫髪の老婦人と、それに水色の男が。2人とも、戦うエノアらとラウリーの間に倒れている。
ラウリーに向けて手を差し伸べたままの男が、驚愕に目を見開いていた。どうやら、彼が魔道士に向けた魔法が、その先にいたラウリーをも襲ってしまった……というところらしい。
ラウリーの腹部に。
「兄さん」
明けて行く日を背に立つ彼に、ラウリーは嫌な予感が当たったのだなと悟った。彼の胸に大きく血の跡があり、痛々しい。全快には見えないが『魔の気』が大きすぎて、彼の不調を感じさせないでいる。
これまで見てきた、薄笑いを浮かべて人に死を与えてきた、ダナの顔ではない。昔の、正義感に溢れていた頃の、優しかった兄だ。だが兄が振るっている腕の先には剣などなく、周りを取り巻いている強大な『魔力』が兄の武器なのだと分かる。
おそらくは“安定”したのだ。
ラウリーの中にあったダナたる『魔力』を、すべて兄に返して。
視界に、エノアの姿が大きく映った。自分に向かって飛んで来ている。が、彼の背後に兄がいる。
「ラウリーに近付くな!」
ドンと破裂音がして、埠頭が吹き飛ぶ。ケイヤやクスマスを、他の魔道士が抱えて飛んだ。ラウリーは崩れる縁にいて、なぜか奇妙な安堵を覚えていた。今のラウリーには大した魔力がなく、飛ぶことも防ぐこともできない。
兄と戦うエノアから「すまない」と聞こえてきた。
「しくじった」
相変わらず言葉少なである。だが言葉の真意は、ラウリーが推測した通りで間違いないようだ。“移動”で『魔力』のなくなったラウリー。いつまでも“安定”しなかった兄。膨れ上がっている『魔の気』。
昨夜クリフに会えと即された理由は、最後の逢瀬でなく、ラウリーがいない間に“浄化”をしてしまおうという魂胆だった……。
「そんな……」
既にラウリーは、役目を終えていたのだ。正確には用済みである。
オルセイの中では“浄化”が不可能なのだと聞かされてきたのに、いつしか、それが可能になっていたのだ。いつからかは分からない。だが漠然とだが、去年からではないかと思われた。エノアがネロウェン国に来て、ダナとラウリーの補佐をすると言い出した、あの日から。
ずっとエノアは、時を待っていた。
彼はラウリーを、ダナよりもっと前から、優しい嘘で騙していたのだ。
「あなたがエノアを変えたのよ」
かたわらから声をかけられて見おろすと、赤髪の男に支えられる老婦人が横たわっていた。差し伸べられる手に躊躇したが、一歩、近付こうとした。が、限界だった。
「ぐふっ」
「しっかりして!」
口元から血が溢れて、喉に詰まった。呼吸すら苦しい。体に力が入らず、がくがくと足が震える。赤いマントに身を包んだのは正解だったかもなと自身を見おろして、自嘲した。どれほど血が流れているのか、見えない方が驚かずに済む。押さえようとした腹に、手が触れない。半分ほど肉がないようだ。
笑ってしまう。
ここまで来て、最後の最後にまったく役に立たず、惨めに死んで行くなどと。
たまたま当たってしまった、などと。
「許して。エノアは、あなたを助けたかったのに」
涙にくれるケイヤの手に、触れる気になれない。ラウリーが欲しかった救いを、魔道士は理解していなかった。
ノーヴァがケイヤを寝かせてラウリーへ手を伸ばしたが、魔法に吹き飛ばされた。ケイヤとラウリーの間にだけ強風が吹き、ノーヴァをさらったのだ。風を起こした男が自分の名を呼んでいる。ラウリーは朝日を見上げた。
朝日の中に、兄がいる。
「ラウリー!」
例えダナたる『力』を内包したままだとしても、兄が兄の顔になっていることに、ラウリーは解き放たれた心持ちを味わった。