3-2(恋慕)
アルコールがラウリーの緊張感をほどいた翌朝、今度はそのアルコールは、彼女の頭を締め上げていた。
起きようとしたところ、頭の中をかき乱すとんでもない鈍痛にさいなまれたのだ。ラウリーは、今朝には宿を出るものだと思っていたので、痛みを押して起きあがろうとしたのだが、予想外にひどく、またベッドに逆戻りになった。歯をくいしばる。
エノアはすでに支度を整え、黒いフードの奥にその双眸を隠していた。
「寝ていなさい。私は外出する」
「え? エノアだけ、ですか?」
声を出すのも辛い。頭に響くし、喉もガラガラだった。
ラウリーはエノアの台詞を、聞き間違えたかと思った。エノアが人前に出ることはない、と頭にすり込みされていたから。以前の村でも、彼は出なかった。
しかし昨日の会話があったので、ラウリーはすぐそれを理解した。意味のある外出なのだ。エノアは昨夜、『この王都に用がある』と言った。それを実行するのだ。アルコールにうなされた頭でも、さすがにその程度のことは判断できた。
そしてその後、頭はようやく『エノアと離れる』ことに思い当たったのだった。
この旅が始まって以来、初めてエノアと離ればなれになる。子供ではあるまいしと思うし、ラウリーが自分一人で外出だってしているのに。体の不調も手伝って気弱になり、ラウリーは焦燥感を覚えた。
「いえ、大丈夫です。一緒に行きます」
「そうではない」
「え?」
再び体を起こそうとするラウリーを寝かしつけるかのように、エノアはベッドに近付き、毛布に触れた。
「不穏な空気を感じる。私一人の方が良い」
エノアは静かに言った。昨夜の件を告げるつもりはなかった。
それは決してラウリーを傷つける物言いではなかった。最初の頃よりずっと、エノアの言葉は暖かみを帯びている。
しかしラウリーにとっては、今のラウリーには、それはエノアが望んだ通りの意味には受け取れなかった。改めて、自分は邪魔なのだと示唆されたと同じだったのだ。
「どこに、何をしに行かれるのか、教えてもらえますか……?」
ラウリーは探るように、そっと言った。元々ラウリーには『自分が勝手についてきた』という負い目がある。そういう言葉に、必要以上に敏感になっている部分があった。それが、彼女の中で不安となっているのだ。
「行くのはクラーヴァ城だ。この旅を続けるために“イアナ神石”が必要になるので、それを取りに行く」
「しんせき?」
「神の石だ」
文字の意味が解って、ラウリーはああと言った。石。以前にも聞いたなと思って、動かない頭を回転させて記憶を掘り起こす。
何のことはない、記憶は昨日の会話であった。
「“ダナの心臓”と同じですか?」
呑みこみの良いラウリーの返事に、エノアはふっと表情をゆるめた。
「そうだ。この地に、イアナ神の石がある。それを得て力を蓄え、一気に“転移”を行う」
転移の術。
河一つ越えるだけでも大変で、疲れ切ってしまったあの技だ。しかしその『神の石』とやらが手に入れば力が強くなるらしい、とラウリーは理解した。
魔石、と呼ばれるものがある。
魔力が込められている石だ。七色あり、その色艶が良いほど力も強い。魔法を発動させる時にこれを持っていると、自分の力の倍増になると言われている。実際に発動などするのかどうか知らないが、ラウリーも数個、それらしいものを持っていた。エノアが言った神石とは、おそらくこの魔石の最高峰なのだろう。
一気に、というぐらいだ。街の2つや3つは軽く越えるつもりなのだろう。オルセイたちが今どこにいるのかは分からないが、エノアの説明を聞けば、確かに自分たちの方が先にダナ神の『心臓』へと辿り着けるだろうと納得できた。
しかしその石がある場所が、クラーヴァ城だとは。
昨日街をうろついた時見た城は、小さな山の上の、街を見下ろすかのような場所にあった。遠目ながらもロマラール城より立派だと分かる建物だった。そんな城に入っていくなど、エノアは大丈夫なのだろうか?
そんな不安がラウリーの心を埋め、ラウリーは、頭痛のためにしかめ面になっているのが都合が良かったなと思いながら、心中の曇りを隠した。
「すぐ……」
自分の出した声が、あまりにもか細い。ラウリーは一旦言葉を引っ込めて深呼吸し、息を呑んでから、
「今日、戻ってみえますか?」
と聞き直した。
「分からん」
エノアはラウリーの胸中を察しながらも、正直に言った。
「行ってみなければ、どうにも結論が出ない。しかし、今日中に戻るつもりだ」
ラウリーはゆっくりとエノアの言葉を反芻し、そして不思議な思いを味わった。
彼女の中では、『魔道士』は完璧な存在なのだ。すべてを見通しており先見の目もあり、逃がしている情報などない。物事は思い通りに動き、行動のすべてが予定通りに進んでいる──。そんなイメージがラウリーの中に定着していて、エノアの口から出た「分からない」の言葉が疑わしく思えたのだ。
しかし実際、エノアの言動は絶対ではない。それはオルセイを元に戻し損なったことですでに立証済みなのだ。だが勘ぐろうと思えば、この件もまた『計算』だったのではないかと思えるのだ。
ラウリーはその『計算』の中に、自分がどれほど組み込んでもらっているのだろうかとボンヤリ考えた。
そんなラウリーの顔は、二日酔いに加えて熱も出てきたようで、焦点が定まっていなかった。潤んだ目が、捨てられた子犬のような寂しさをたたえている。エノアは、退室するきっかけを失った。
「戻る。だから待っていなさい」
ラウリーはエノアが言い直した言葉に気付いて、頷いた。
あまり大きく頭を振ると痛いし、目眩がする。ラウリーは力を抜いて、枕に頭をうずめた。
「はい……行ってらっしゃい」
行ってらっしゃいというのはおかしい気がしたが、他に何と言えば良いか分からない。エノアはラウリーの言葉を聞き終わってからきびすを返し、ドアの向こうに消えた。
ラウリーは「あ」と思ったが、声はかけなかった。
そうして振り向いたエノアが、やはりいつもの仏頂面であってもつまらないからだ。せっかくエノアが笑ったように見えたのだから、良い思い出として記憶に止めておいた方が良い。わざわざ呼び止めて、もう一度顔を拝んでおかなければならないほど、永の別れというわけでもないのだ。
ラウリーは扉を眺めながら、大きく息をついた。
久しぶりに言ったな、と思った。
『行ってらっしゃい』という言葉。
家にいた頃は、当たり前に使っていた言葉だ。
ラウリーは家にじっとしていない娘だったので、主に言っていたのは母親だった。ラウリーは『ただいま』の方だ。行ってらっしゃいも時々使った。父親や兄、クリフに。
行ってらっしゃいもただいまもないと、『家』を離れたのだなとしみじみ感じる。別れた家族がふと恋しくなるのは、熱と頭痛によって気が弱くなっているためだろうか。
ラウリーが寝込んでいるようなこういう時、兄は予定を変えて家にいる人だったなぁとラウリーは思い出した。オルセイはいつも、さりげなく側にいてくれた。
逆にクリフは、必ず家にいなかった。昔はそれが、当てこすりか何かのつもりだろうかと思えて、苛立ったものだった。今になって考えてみれば、それがクリフなりの気の使い方だったのかなと思う。自分が家にいては邪魔だろうから、と。クリフもクリフで、コマーラ家に厄介になっているという負い目があったことを、ラウリーは知っている。
そうして戻ってきたクリフは、手土産を持ってラウリーの元を訪れたものだった。これも、昔は寝込んでいる私をからかいに来たのかと思って腹が立ったものだったが、それもクリフなりの気遣いだったのかも知れない。ひょっとすると、ラウリーに『おかえり』を言って欲しかったのかも知れない……。
「まさか」
ラウリーは自分の考えに、思わず吹き出した。
そこまではクリフに対して好意的に考えすぎだ。彼がそこまで考えていたとは思いがたい。これは自分自身の希望でしかない。もしそんなにもラウリーに気を遣ってくれていたなら、手土産はもっと良いものだったろうから。一応はラウリーも女の子である。いくら珍しくても、トカゲだとかヒトデなどを貰っても嬉しくない。どうせなら鳥の羽や貝殻の方が綺麗であり、女の子も喜ぶものだというのは、少し考えれば分かりそうなものなのに。
そう思うとやはり、クリフはただの嫌味で土産を持ってきたのかなぁ、とも思う。
「会いたいな」
ラウリーはボソリと呟いてみた。
子供の頃から、いつもいつでも一緒にいた。時折ケンカしたり、顔も見たくないと思った時もあったが、兄と3人で育ってきた。もう、兄弟だった。クリフの方がオルセイと同い年で、ラウリーより年上なのだが、ラウリーの中では、兄と弟との3人兄弟のような気分だった。負けず嫌いで活発で、そんなクリフに年々力も技も及ばなくなっていくのが悔しくて、ラウリーはいつもムキになって働いた。
不思議。
兄には負けても、悔しくないのに。
ラウリーはそう思いながら、額に手を当てた。少し熱いな、と思って目を閉じる。昔を思い出しているうちに、トロトロとまどろんできた。それが夢なのか自分の想像なのか分からなかったが、閉じたまぶたの裏には、ぼんやりと15歳のラウリーが浮かび上がっていた――。
「勝負よ」
晴れた空の下、少年のような髪をしたラウリーが指さす相手は、クリフだった。17歳の時のクリフの姿も、ラウリーははっきりと覚えている。今よりはまだ背は低いが、もうラウリーよりは高くなっていて、見下ろされるのが不愉快だった。髪を切るのが嫌いで面倒で、ぼうぼうに伸びているのを後ろで束ねていた。無邪気な目だったが、この時の彼は男の顔をしていた。
女性と付き合っていたからだ。
それも、ラウリーの気に入らない事柄だった。だから勝負を申し込んだとも言える。
「もう傷は治ったんでしょ。昨日グール狩りに行ったの、知ってるのよ」
「肩慣らしさ。昨日は逃した」
「でも治ったんでしょ」
問いつめるラウリーの厳しい言い方に、クリフは諦めたように「ああ」と言った。
この頃にはもう、クリフは半人前ながらもグール狩人として働いていた。気がはやってしまい、グールに怪我をさせられたのを、何週間かかけて治していたのである。
クリフが怪我をさせられたという報は、ラウリーの心臓を止めそうになった。自分でも、そこまで驚かなくてもと思うのに、心が高ぶってしまい、気が動転し、帰ってきた半死半生のクリフを見た時には気絶しそうになったほどだ。
なのに。
その彼の看病に当たったのは、ラウリーではなかった。
母でもなかった。
ラウリーはもう、看病をしていたその娘の名を、忘れてしまった。元々、聞いてもいなかったためかも知れない。口をきく機会はなかったし、お互いに話しかけることもなかったから。
一つ覚えているのは、その娘が村の者ではなかったということだ。王都に旅してきた商人の娘だったように思う。お洒落が上手く良い身なりで、ふわふわの小麦色の髪が可愛らしい娘だった。自分の「女らしさ」の使い方をよく分かっている娘だった。と、ラウリーは思っている。
クリフが怪我をしたのは、その娘をかばったためだとかいうことで、娘は、毎日コマーラ家に訪れた。そんな彼女とクリフが好きあう仲になっていったのは、当然といえば当然なのだろう。彼女をかばって怪我をしたという辺りがすでに、クリフが彼女に気のあった証拠である。
そんな風にしてラウリーの不愉快が日々募ってしまい、彼の全快後、勝負という形で爆発したのだった。
「手加減なしよ」
ラウリーはそう言うと、動物から切り取った長い角をクリフに放り投げ、彼がそれを受け取るのを見てから、襲いかかった。問答無用の速さである。クリフは受け損なって、腕に傷を負った。
「ちょっと待てよ、俺たちが勝負する理由なんて、」
「あるのよ!」
ラウリーは間髪を入れず、角をふりかざす。先のつぶれた、剣に見立てた練習用の武器だが、力加減とスピードによっては充分致命傷になり、死ぬこともありえる。だからクリフも力を出すしかなかった。
あなたにはなくても、私にはある。そう思いながらラウリーは一振り一振りに怒りを込めた。しかしどうして自分がこんなに苛立っているのか、怒りを感じているのか、よく分かっていなかった。ただ最近のクリフを見ていると、ふがいない様子に腹が立ったのだ。
私が性根を叩き直してやる!
そんな気持ちで戦ったのに。
「しょうがねぇなぁ」
ラウリーの気迫におされて、つい本気を出してしまったクリフに。
──ラウリーは、あっさり負けた。
男女の体格差や年齢差などを考えれば、当然の結果なのだが。ラウリーには、屈辱の日となった。一晩泣き続けるほどに、自分の中の何かが無性に打ちのめされた日だった。
ラウリーがグール狩人になることを諦め、魔道士を目指しだしたのは、この時からだ。
クリフに勝てないなら、同じ土俵に立てないなら、自分にしかできないことを身につけて、彼を見返したかったのだ。
クリフは、私の弟だから。
優越感を持っていたかった。
尊敬して欲しかった。
認めて欲しかった。
私を見て欲しかった。