6-8(追想)
津波に襲われても無事だったネロウェンの戦艦は、まだサプサの港に停泊している。町は、戦争が始まった当初から生活の匂いなどなかったが、今や完全に廃墟となった。港も建物も崩れて瓦礫が山積みで、地盤も緩く海水でぬかるんでいる。通りは穴だらけで、上からは煉瓦が崩れ落ちてくる。停戦条約なり降伏勧告なりが出てくるかと待ち構えるロマラールに対して、戦艦は沈黙を保っている。
静かにたたずむネロウェン軍が、不気味である。
こうなっても戦う気なのかと。もしくは戦艦に巣食うネロウェン人が皆、狂人となっていたらどうする、と。ロマラール軍は、おののいている。もし正気に戻っているならば、それも怖い。兵の数だけで言えば、ほぼ同数となった。向こうが援軍待ちなら、もう一度仕掛けるべきだ。サプサ北の森から偵察した部隊によれば、彼らは正気のようだと報告されている。だが罠ならどうする、と誰かが言う。そんなことを言っている場合ではないと反論が出る。いや、だが、しかし。
こうした調子でラフタ山の麓では、連日軍議が重ねられている。
ネロウェン側からも偵察の部隊が出ていて、そうしたロマラール人のやり取りは、ディナティ2世の耳に入っている。こちらもこちらで会議の連続だ。帰るべきだ、攻めるべきだ、と。
実際には、ネロウェン軍に増援の知らせはないし備蓄も尽きようとしているので、撤退すべきところだ。ヤフリナの陣地に戻り、再戦を計りたい。援軍の届かない原因も追究し解決せねばならない。前線にとどまることで、祖国の様子も把握できないでいる。左大将アナカディア・トゥブーセスに任せているが、気になるところだ。だが動かないのでなく、動けないのである。船底を陣取る黒い集団のせいで。
ロマラールに対して沈黙しているのは、こちらが動けないことを悟られないようにでもあるが、船底に静寂を与えるためでもある。ディナティは彼らが何をしているのか知っているのだ。
ネロウェン軍および戦艦は、魔道士たちに借りがある。彼らが描いた円陣と、中央に座る娘が船と兵を守っていたのだ。無下にできないし傷つけられるような存在でもないし、何よりディナティ自身が彼らを守りたいのだから、いくら戦略会議をしたとて結論は出ているのである。
しかもソラムレア国王女まで乗っているとなれば、なおのこと動けない。
「起きたか?」
声が耳に入り、少女の意識が浮上する。
目を開けるより先に意識が覚醒し、ユノライニは息をついた。自分がどこに眠っているのか、知っている。ネロウェン戦艦内に設けられている、彼女の自室だ。もう3日はたったのかしらと額に手を当てたまま、彼女はかたわらにいるのだろう者に問うた。
「何日目?」
「5日目がたっているところだ」
「そんなに」
思わず瞬きをして天井を見る。視界には、褐色の少年がいる。もう青少年と呼ぶべきか。青年でもいい。もうすぐ20歳を迎える国王の面持ちは、立派なものになっている。ユノライニは一度ぐっと目を閉じると、体を起こしにかかった。伸ばされた手を掴む。ゆっくりと引き上げられる。船内のベッドは硬くて体を痛くするので、すぐに起き上がれない。まして体調を崩して横になっていたのだから、なおさらだ。
寝間着になるほど簡素な長衣は柔らかく暖かいが、さすがに疲労を払いきれない。おろした生成り色の髪と化粧気のない素顔の彼女は、まるで無防備な少女となっている。ユノライニは、ディナティの手がいつも以上に優しいことを感じていた。
無理もない。ユノライニは5日前まで船底にいたし、ディナティは戦場にいたのだ。本来ならば再会を喜ぶべき瞬間である。が、それ以上に寝込んでいた自分自身がふがいなくて、喜びなどできない。
ユノライニは船底で、ラウリーを補佐していたのだ。円陣の外側に座して魔法を唱えることが、この戦争についてきた彼女の役目である。と言っても、自分でついて来たのである。ディナティには、ネロウェン王宮にいてくれと言われたものだったし、オルセイに至っては声をかけてくることすらなかった。腹が立ち、私は何をしたらいいのだと怒鳴り込みに行ったら、好きにしろとあしらわれた。
『そう。じゃあ好きにするわ。エノアまで戦いに出すなら、ラウリーを補佐する魔力が減るものね』
そうして許可を得て、船に乗り込んだのであった。我ながら思い切ったものだと、今さらながらに感嘆する。ダナにケンカを売るなどと。ラウリーの名を出したのは一種の賭けだったが、いい方に働いて良かったと思ったものだった。
魔道士が増えた以上、ユノライニはダナにとって用済みとなっていた。残った存在価値は、ソラムレアを属国にしておくための人質でしかない。それも、いつまで続くか分からない。唯一の民主主義を掲げたソラムレアが、いつまでも王族を敬っている必要などないのだ。そんな勢力が国を支配すれば、ユノライニは忘れ去られる。
王宮の隅で忘れられるより、何も見ずに済ますことより。
ここで命を落とすとしても、自分の目で見届けることは、無駄に生きるより有意義な死となるだろう。ユノライニはクリフを恨み、彼の苦しむ様子が見たくてロマラール戦についてきたのでもあった。
ラウリーの補佐についたユノライニは決意通りに、戦いを見届ける者となった。魔女の影響を受けて、図らずも“遠見”ができてしまったのだ。ラウリーが、そのように魔力を割いてくれたのが分かった。どちらが補佐しているのだか分かったものではない。
津波により船が揺れ動く中、激しい戦いを目にした。船を守り通した直後、雷のような衝撃と共に、ユノライニの意識は飛んだ。飛ぶ前、ユノライニは黒い者たちが“転移”して来たのを目にした。許容量を超える『魔の気』に身がさらされ、押し潰されたのだ。
まだ“遠見”の影響が残っていたのだろう。おかげで彼女は夢の中で、溜飲を下げるに足る、英雄の泣きじゃくる姿を見ることができた。意識を船に戻すと、魔女が悲痛を抱えている様も心に焼きついた。押し潰された瞬間のことは、目覚めた今でも思い出すと震える。こわばる。死の神に相対したと同じだけの緊張が、身を包む。
「まだ気分がすぐれぬか?」
「あいつらがいるもの。気が晴れるわけないわ」
支えてくれる手に身を任せて呼吸を静め、意識を研ぐ。黒い集団が船底にいると分かる。分かる、などという生やさしい気配ではないが。船全体を包み込んでいる。『魔の気』を感じる者なら、気分が悪くなって当然の圧迫感だ。ディナティの気分とて良くないだろうに、精神力ではねのけているようである。
だが彼らの様子がおかしい。来た時からそうだが、『気』が安定していないのだ。一国を狂気に陥れた死の神を浄化しようというのだから、揺らいでいてもおかしくはない。だが胸騒ぎがする。
ユノライニの背中に、ディナティが手を添える。室外に控えているのだろう者に水をと命じた若王に、少女はいらないと首を振った。
「ディ、血の臭いがするわ」
「着替えたんだが。すまない」
彼の胸が自分から離れようとするのを、服を掴んで引き寄せる。自然と彼の胸にもたれかかる体勢になったので、ディナティもベッドの端に座って彼女を支えた。大丈夫かと問われた声に、少女は一つだけ頷いた。
王の鎧を脱いで、普段着に戻っている青年。女王の化粧を施さず、長衣だけを着ている自分。
ユノライニは手を伸ばし、長くなった彼の黒髪を掴んで唇に寄せる。血の臭いは、ロマラール人のものだろう。だが、どこの国の血かなど臭いで分かるわけがない。それにディナティの体には、もっと前からすでに染み付いている。王弟マラナエバを含む多くの血がこびりついている。
ユノライニは彼の髪に口付けて、目を閉じる。
「明日」と、ディナティが言った。
「クリフォード・ノーマが試合を申し込んできた」
「はぁ?」
思ってもみなかった固有名詞に、素っ頓狂な声が出てしまった。動揺をあざけりに変えて、ユノライニは思い出された憎たらしい顔を笑い飛ばそうとした。
「相変わらず、あいつ馬鹿なのね。あれだけやられておいて試合って、何それ?」
吐き捨てようとする声が大きく上ずるので自分で驚いてしまい、後半は尻すぼみになった。気を取り直して、もう一度嘲笑を試みる。
「……何それ?」
上手く行かなかった。
夢で記憶した泣き顔が、どうにも脳裏から離れない。弱い者いじめをしている気分だ。だが一騎打ちなどと言ってきたからには、彼のことだ、立ち直っているのだろう。
「たかが一諸侯の分際で、一国の王に相手にされるわけないのに」
「彼のことになると雄弁だな」
「馬鹿、ひっぱたくわよ」
言うより先に手が出ている。が、ディナティも心得たもので、そんな少女の手を掴んで止めて、微笑んでいる。何がおかしいのよとボヤく少女の手に、青年は指を絡める。ユノライニは、こつんとディナティの胸に額を当てた。
「まさか受けてないでしょうね」
「申し込まれた相手は、俺じゃない。オルセイだ」
「え?」
見上げた先には、穏やかな笑みがある。
「オルセイを引き渡せと言われた。どんな状態にあろうと構わないから会わせろ、と。決着をつけたいのだろう」
絶句するユノライニの手を握ったまま、ディナティは続ける。
「ここからはクリフでなく誰かが入れ知恵したのだろうが、なかなか狡猾な言い分でな。オルセイを出さねばロマラール軍は総攻撃をかける。ひいては、船内の魔道士たちが戦艦を滅ぼすだろうと言うわけだ」
無茶苦茶な理論に聞こえるが、あながち間違いとも言えない。魔道士だけに。
「船底に潜んでいる魔道士の半分は、ロマラールについてネロウェン軍を退けていた者だちだろう? ダナを浄化させんと集結しているに過ぎない。ならば、その役割を超える事態が発生すれば、また互いを2分する惨状が繰り広げられるぞと脅してきたわけだ」
「実際に、そうなるかどうか分からないのに」
「だが実際に、そうなるかも分からない」
確かに。
ユノライニは口を滑らさぬよう、黙った。ディナティに彼らがダナを浄化する者だちだということを教えたのは、ユノライニだ。ラウリーから聞いて、まだネロウェン国を出航する前に、ディナティに伝えた。
操られた振りをするエノアが、ダナに過剰な魔力を注ぎこんで狂わせ、魔法陣に連れ戻して“浄化”する、と。ダナが仮死状態になったことや、魔道士の全員が集まったことは、嬉しい誤算だったに違いない。と思いたい。そこまで計算していたのなら、エノアこそが神ではないのかという気分になってくる。
今この身に感じている妙な胸騒ぎも彼の計算なのかどうか。
なぜなら、彼の計画する“浄化”は……。
「……私、船底の様子を見てくるわ」
「大丈夫なのか?」
「平気よ。もう治ったわ」
「無茶はするな」
ディナティの気遣いをも、ユノライニをふがいなくさせる。今の船底に降りられるほど強い魔法使いは、ネロウェン軍の魔法使いとしては、ユノライニしかいない。あまりの圧迫感に、多くの兵はこの戦艦から退避しているほどだ。だが耐え得るというだけで、魔道士に敵うわけではない。
中途半端に強くても、ゼロか100かと問われれば、ユノライニはゼロなのだ。それを自分で思い知っているから、気遣われると情けなさをごまかして眉を吊り上げる。
黙ったまま立ち上がる彼女に合わせてディナティも立ち、手を放す。応援のつもりでか、ディナティが言った。
「成功を祈る。クリフはラウリーの名を出さなかったが、彼女も共にロマラールへ帰してやりたい」
踏み出しかけた足が、止まった。
そうか、とだけ口中で呟いた。クリフは、ラウリーの名を出さなかったのか。ユノライニの心中が、さらに苛立ちを生んだ。だが同時に納得もしていた。あの男は、人前で愛する者の名を呼ばないのだ。
「似た者同士だわね」
「何?」
「何でもないわ」
ユノライニの小声を聞き損ねたディナティの胸へ、再び額を当てる。今度は彼女は、青年の背中へと手を回して抱きしめた。突然の所業に驚いている彼の戸惑いが、伝わってくる。
「ちょっとだけ、こうしてて」
すると、ふんわりと壊れ物を扱うように抱きしめられた。ユノライニは「ありがとう」と息をついて、体を放した。
「行ってくるわ」
と、ネロウェン王を自室に残して。
ディナティに本当のことが言えなかった、これがユノライニにできる精一杯の誠意だった。誠意。いや違う。己の感情を鎮めるために、ディナティの優しさを利用したのだ。
ラウリーが死ぬのだとは。
それがダナ神の浄化なのだとは言えなかった。
兄に巣食うダナ神を自分に移して安定させ、この身と共に天に帰す、と。かつてラウリーが死のうとした過去が、記憶によみがえる。
『我、汝を救わん』
つむがれる古代語。
初めから、ずっとラウリーには兄を救うことしか頭になかったのだ。それが、ひいてはクリフも救うことになるのだと彼女は言う。
ユノライニはラウリーに長く反発していたが、あのクリフを見てしまっては、納得せざるを得なかった。クリフが何を思ってオルセイを刺したのかは分からない。だがユノライニは、望んでいた光景を見て初めて、それを自分が望んでいなかったことに気付いた。
「みんな馬鹿だわ」
船底に続く扉の前に立ったユノライニは、ボソリと小さく呟いてから戸を開けた。暗闇へ伸びる階段だけがある。
「私もね」
扉付近に人影はない。普通の者なら、立っているのも辛いほどの『気』だ。階段を降りていくと、さらに乱れているのが感じられた。ユノライニはすぐに自分の『気』を高め、詠唱を始めた。床に足をつけると、一歩ずつ慎重に奥へと足を進める。
闇に近い暗さの船底には、ロウソク一本ない。時折、足先に木箱や袋らしきものが感じられるのを避けながら、詠唱を続ける。合わせた両手の指先に、『気』を集中させる。すり足で、板から荷物、柱、梁へと意識を伸ばす。
意識が、一番奥へと到達する。沈黙に感じられるほど静謐な詠唱に、自分の詠唱を重ねる。見えているような見えていないような、奇妙な浮遊感がユノライニの意識を吹き飛ばそうとする。
ユノライニはあらがうでもなく、かと言って意識を手放しもせずに受け流し、漂い、詠唱の輪に混じって行く。足はすでに、おぼろげに光る魔法陣の側まで来ていた。ユノライニは、自然とそこへ座した。
魔法陣の光が不安定に揺れている。ダナが安定していないせいだとも言える。今、ラウリーは輪の中心から退いている。中央に眠る人物は、オルセイだ。ラウリーも共に円の中にいるが、安定させるべきはオルセイとなっている。
詠唱が、わずかに乱れる。ユノライニは目を閉じて、指先の熱から体の芯を通り足下へと『気』を這わせて、皆と同化を図る。同化しきれない理由は、彼女ではなかった。『気』が尽きんとしている者がいるのだ。
よくよく感じるだに、乱れているのは一人ではない。2人。いや3人か。この際、自分も含めるべきだろう。ユノライニは自嘲しかけた。こんな集団に混じろうとする方が、どうかしていたのだ。
だが始めたからには止められない。神経が研ぎ澄まされている。ゼロか100ならゼロでしかないが、途中も数えて良いならゼロではないのだ。魔道士とて、いつも100とは限らないだろう。欠けた分が一でも2でもあるとするなら、それだけで今ここに在る価値がある。自分のやりたいことがある。
『我、汝を救わん』
と。
心から、ユノライニも想う。
唱えつつ、ユノライニはあることを感じていた。他の魔道士が誰も何も言わないので、詠唱に集中していたが――感づいてしまったことは、どんどんと気をもたげて行って『気』を霧散させてしまう。これでは補佐にならない。
ユノライニは、詠唱を止めた。
辺りは未だ闇の中で、ダナも魔道士も変わらずに、そこにある。ラウリーも変わらない。おそらくは本人も、全員もが気付いているだろうが、まだ続けている。オルセイがまだだから。
だが、ラウリーは。
ラウリーの『魔の気』は、安定しているのだ。
ほぼ彼女の中にダナ神が“移った”と見て、間違いないのだろう。となると後はオルセイが安定すれば、ラウリーを“浄化”して終了だ。
「ラウリー」
ユノライニは『気』を乱さないよう、そっと話しかけた。ユノライニの声にも、皆の『気』は乱れなかった。ユノライニの魔力も少しは役立っているようだ。場が安定している。
「今なら、一晩くらいは外に出られるわよ」
え、という小さな声が聞こえた気がした。空気が乱れる。バサリと、翼の音がラウリーに近寄ったのが聞こえた。あの醜悪な鳥なのだろう。
「このまま“浄化”されて終わりで、いいの? 行くべきじゃないの? ……最後に」
迷ったが、あえて最後と強調した。この頑固者を動かすには、手厳しい言葉が必要だ。なぜ会って欲しいなどと思うのか、自分で自分が不思議である。だが、あの泣き顔をだけ胸に抱いて逝くには、ちょっと寂しかったのだ。
クリフは立ち直っているはずだ。オルセイに会わせろと息巻いたのであろうクリフの強い表情が、ユノライニの中に浮かぶ。初めて怒鳴られた時の記憶がよみがえる。
「顔、見て来なさいよ」
「行きなさい」
ユノライニの言葉に重なったのが、人の声だとは思えなかった。だが確かにロマラール語をつむいだ、生の声だ。天から降ってきたのではない。ラウリーが、エノアと呟いた。続いて、別の声も「行って来なさい」と、うながすではないか。
ユノライニが一晩と限定したのは、もちろん明日クリフが来るからだ。その前に、オルセイを引き渡す前に、ダナを“浄化”せねばならない。ということは、ラウリーの命は尽きている。今この時しか機会はないのだ。
分かってんの? と説得するユノライニの声に応じたのは、翼の音だった。
しゃがれた声が「行こう」と言った。
その瞬間、気配が揺れた。揺れて、すぐに治まった。そして詠唱が再開されている。皆、何事もなかったかのように、魔法陣のオルセイをだけ囲んでいる。ユノライニも手を合わせなおして、血脈の感覚を拾い、詠唱を始めた。今度は邪魔される者がない。一晩なら、彼女にだって保てるだろう。
“転移”で消えた魔女の行方をなど、考えるまでもない。