6-6(過信)
一度目はオルセイの豹変が信じられず、「目を覚ませ」と叫んだものだった。
2度目では、俺を殺したいのだなと問うた。彼の気持ちを確かめたかった。
3度目に敵となった。脅かされるだけでなく、奪われて立ち上がった。
目前のこれは、グールだ。
オルセイを凝視しながら、クリフは自分に言い聞かせる。生きることに貪欲で、貪欲なまでに自分に素直な、息をすることと同じに排除も利用も慈しみさえもする、野性の生き物だ。
「エノアに何しやがった」
一挙一投足まで見落としはしない。少し下げられたオルセイの、剣の向き。すり足でわずかに引かれた、効き足。踏み込みは、2歩で来る。ならば間合いは、この距離。クリフは計りながら、足をずらして間合いを保った。踏み出しても危険だが遠のいても攻撃される、際どい距離で互いを睨む。
2人ともが片手持ちの剣だ。ロマラール製である。だが盾は持っていない。オルセイも、かつては両手持ちの長剣しか扱ったことのないグール狩人だった。どういう経緯で換えたのか不明だが、クリフは自分が今の剣になってみて気が付いた。オルセイはいつからか、片手持ちの剣を握っていた。今になって条件が同じになっただけなのだ。
ただクリフはイアナの剣であることと、オルセイには魔法があることが、相違点なだけである。だけと言えないほど大きな違いではあるが。クリフに根付いたダナへの恐怖は、今でも思い出しては背筋を凍らせる。イアナの剣を握っていても拭えないほど強い力だ。大型の肉食獣。グールへの恐怖が恒常的なものであることにも似ている。
恐怖は、消せも忘れもできない。向き合い、認めるしかないのだ。震えていれば助かるのなら、クリフだってそうしたい。
本当に怖いことは、敵の力を見誤ることだ。
「目を覚ませなんて言うなよ。奴は、もう目覚めない」
「……?」
目を覚ませとオルセイに叫んだ、あの頃。操られているかのようだった彼に、今のエノアは似ている。師であるらしい老人を追いつめ、阻もうとするロマラール兵を容赦なく蹴散らしている。
次に会ったオルセイも別人だったが、老婆ラハウの側で彼は正気になったかに見えた。狂気を内に秘めた正論はクリフを責め、憎悪をむき出しにして来た。
老婆ラハウ。彼女に出会ったのは、ソラムレア城の牢だった。イアナザールに似ているという理由で捕らえられたクリフを、ラハウは殺そうとしたものだった。彼女は死でなく、仮死にするのだと言った。
仮死状態にして心に侵入し、意のままに操るのだという。
ジェナルムの兵は、集団で狂っていた。侵入は、仮死でなくとも可能なのだ。
ネロウェン兵も乗っ取られかけた。
老婆に連れ去られたオルセイ。
師に刃を向けないはずのエノア。
「まさか」
「馬鹿な男だ」
クリフの呟きにかぶって、オルセイがせせら笑う。
「楯突かねば勝機が来ると思ったか」
目の端には、魔力で押し合いをしているらしき青年が映る。秀麗な横顔をピクリとも動かさずに、レウザにナイフを投げている。ナイフが魔力を取り巻き、速度を上げて老人にと向かう。
危ないと叫ぶ暇もなかった。
だが幸い、レウザの魔力も強く、これを遮った。見えない壁に当たって弾かれ、ナイフが空を舞う。とはいえエノアは次の魔法を詠唱している。両の手をかざす。
かざされた左手を見て、クリフはまずいと口走った。
「余所見とは、ふざけた奴だ」
言われたが、目は放していない。2歩だ。クリフは剣を脇腹に立てた。予想通りに剣が重なる。金属音が鈍く響き、オルセイがほうと片眉を上げた。
「やはり、お前との手合わせが一番楽しい」
「ふざけてんのはどっちだ」
ギリギリと押してくる剣に耐えながら、オルセイの目を見据える。狂気を含んで輝きながらも、確かに正気な、昔から見てきたオルセイの顔がある。口で言う“楽しい”が真剣と同義語なのを、クリフは知っている。
オルセイは全戦力を投入している。魔道士らに加えてエノアまで出てきたのだ、本気のほどがうかがえるというものである。まして、エノアの手にニユのランプまで握られているとあっては。
ニユの魔道士に、ニユのランプを持たせる、など。
最強の組み合わせではないか。
「他の奴らもか?」
「何がだ?」
からかうような、見透かすようなオルセイの笑みが心底から楽しげで、クリフを逆上させる。
「他の奴らも媒体を持ってんのかって聞いてんだよ!」
叫びながら力を入れて、剣を押す。横で受けていた剣を、剣に絡めて中段に持ってくる。つばで交差した剣は、もう一度押して放すしか振れない。もしくは、このまま押し切れば相手の額を縦に斬る。
もしやという懸念は、おそらく当たりだ。
ライニの水。ナティの指輪。唯一、鏡を持たないシュテルナフだけが救いか。だがロマラール側の魔道士は媒体を一つも持っておらず、しかも敵の魔道士一人とはリニエスら魔法使いが相手をしなければならない状況だ。魔力も兵力も相手が上だという中で、気力だけで張り合っているに過ぎない。
クリフとオルセイの力量差とて、魔力という計り知れない深い溝が2人を隔てている。ダナたる魔力を浄化させられなければ、戦いの意味がないのだ。
例え、腕力では勝っていても。
「弱くなったな、オルセイ」
「何だと?」
オルセイの頬が痙攣した。
こうして純粋な力比べをすると、分かってしまうのだ。オルセイの筋肉は、ずいぶん衰えている。剣を片手持ちに換えたのも、そのためなのだ。両手持ちを振り回すだけの力がないのだ。オルセイは、片手持ちの剣をも時々、両手で構える。昔の癖だからだけではない。
体の踏ん張りも効かないらしく、すぐ魔法で逃げられる。泣きたくなるほどに。
オルセイが発した風の刃が、クリフの肌を切っていく。クリフは逃げず、剣を押して頭を突き出した。
「うらあっ!」
激突の音が響いた。
頭蓋骨の衝突なので、ガツンと派手な音は脳内に木霊した。骨が砕けたかと思うほどの痛みだったが、多分こぶ位のものだろう。目前ではオルセイが頭を押さえ、体を折り曲げている。クリフは上段から剣を振り下ろした。
だが止められた。クリフがよく知る太刀筋である。魔力で支えてはいるが、クリフの知る狩人の片鱗も確かに残っている。クリフは目をすがめた。
「相変わらず、無茶苦茶な奴だ」
オルセイは頭上の剣に手を添えて、クリフの押す力に耐える。クリフは、すぐに放して飛びのいた。魔法だ。クリフの立っていた場が、大きな炎に包まれた。が、クリフはその炎に飛び込む。
「!?」
逆に炎を目隠しとして、大上段から斬り込んだのだ。イアナの剣が、黒い肩に叩き込まれた。だが砕くには至らない。魔法で防がれ、弾かれた。当たったのは、若干でしかない。
だが、若干は当たったのだ。長衣の袖が避け、血が垂れているのも見える。彼の顔色を変えさせるには至らなかったが、五分になれる可能性は見えた。魔道士がいてもオルセイが強大でも、イアナの剣を持てば対抗し得るのだ。
と、クリフは錯覚してしまった。
オルセイが、ゆるりと笑った。
「では、本番と行こうか」
悪魔の顔をして、左手の指先にまでつたった血を舐める。紅い舌先が妖艶で、クリフの心を凍らせる。よもや人の肉を食ったことがあるのかと、戦慄するほどだ。
「エノア」
呼ばれた翠の魔道士が、声も音もなくオルセイの傍らに立つ。左後ろに立ったエノアはオルセイより少し低くて、表情が見えにくい。オルセイの肩に手を置くと、黒い袖口からの血が止まったようだった。
しわがれた声でエノアと呼んでいるのが、耳に入った。道端に転がる老人が、切り刻まれてボロ布の塊となっている。なぶり殺しとは、いかにもエノアらしくない。
「良いものを貰ったよ」
側に立つエノアを顎で指し、見下した目で笑う。
「これ一人で、俺の魔力が安定する。他の奴らは存分に戦えるのだ」
呼応するように港から爆発音が届いてくる。魔法か、魔の球か。なるほど彼ら3人はオルセイに力を分け与えることなく、単独で動いているらしい。その気配は、ライニの言葉からもうかがい知れる。ダナに従ったのではなく、自らの意思でネロウェンに加担しているのだと言った、豊穣の魔道士。足掻く者にだけ差し伸べられる恩恵だというのか。
エノアさえいれば、他は不要。そう聞けば、嫌でも彼女が脳裏に浮かぶ。考えないようにして戦いに臨んだのに、オルセイは容易く名前を口にする。
「むろん、ラウリーも要らん」
クリフを激昂させんと仕向けているのだ。クリフは歯がみして、剣を握りしめる。
興味深げな顔を殴りたくなるが、そんな拳では避けられてしまうと分かっている。クリフは腹で息をした。
「あれは、お前に負けて以来、すっかり使い物にならなくてな」
だから捨てたのだと幻聴が聞こえた気がした。耳を疑った。言っていない。オルセイは、捨てたとなど言っていない。だが、ずいぶんとラウリーから心が離れたらしく見える。もしくは逆かも知れないが。見せたくないほどに、捨てたいほどに焦がれてしまっているのだとしたら。
ネロウェン国に閉じ込められているのか、船底にでもつながれているのか。ラウリーの魔力が不要になったのなら、連れて来る必要もない。だが国に置いてきたとするより、すぐ近くにいると考える方がすっきりと納得できる。目の届く範囲に置いているのではという気がしてならない。
とはいえ、どこだなどとは聞けず、オルセイも、言葉を続けない。
オルセイが踏み込んできた。
「なっ……!」
会話を打ち切るように迫ってきたオルセイを、クリフは避けるも受けるもできなかった。体が動かなかったのだ。オルセイが速かったのもあるし、魔法で抑えられているのも感じられた。だが何より、足がすくんでいた。
オルセイの輪郭が歪み、獣に姿を変えるのではとさえ思われた。
剣を持つ手の手首と、首を掴まれて押され、2人で壁にまで飛んだ。レンガの壁に背を打ち付けられ、硬い衝撃が四方に鳴り響く。壁が崩れ、ヒビが入り、クリフが壁にめり込んだ。背骨や肋骨、腕の骨に至るまで、全身が砕け散ったかと思うほどの痛みである。むしろ首の骨が折れなかったのが不思議なほどの勢いだった。
自分を分析してから目を開けて、オルセイと目が合う中でクリフは気付いた。
目の端に入る、黒い影。
レウザが、クリフに手をかざしている。
「苦しみが長引くだけだ」
笑みを歪め、オルセイが顎を引く。クリフの首と右手首が、締め上げられて行く。前にも同じことをされた覚えがある。逃げられない自分に、内心で自嘲する。持ち上げられ、浮いている足を動かすも当たりもせず、むなしく空を切っている。オルセイに背後には、通路の中央に立ちっぱなしのエノアが見える。斬りかかって来る兵らを、無造作に蹴散らしている。
おかしい。
クリフは締めて来るオルセイの手を掴んだまま、彼の背後を観察する。兵が増えている。港から撤退しているのだ。それ事態は、おかしいことではない。クリフもマシャに、退けと告げたのだから。問題は兵らの様子と、周りの空気だ。
オルセイの周囲どころか、空までが黒く染まり、重く厚い雲で覆われんとしている。心なしか叫び声が止んでいる。聞こえてくる言語が、ロマラールのものばかりだ。
そしてオルセイの様子も。
瞳に、一層の狂乱が宿っている。エノアの魔力を得て強さが増したのだから、当たり前とも言える。今なおエノアからオルセイに『力』が注がれているのは、いくら鈍感なクリフでも分かる。それほどに大きい流れだからだ。
「大将っ」
「……!」
クリフを見つけた助勢軍の兵が、オルセイへ斬りかからんとする。来るなと叫びたかったが、喉が詰まって声が出せない。頭の血が沸騰しそうなほど、脈が音を立てている。息ができず、気が遠くなる。掴まれている首が折れそうに痛い。
目に映った光景を、誰かに嘘だと言って欲しかった。
オルセイの魔法は、あまりに残酷だった。立ち向かった兵たちが数人一度に、潰されてしまったのだ。何か重く大きな鉄槌でも降ってきたかのように、彼らの体が瞬時に、べしゃりと地面に叩き伏せられたのである。骨も頭も、顔も。あらぬ方向へ歪み、きしんで破裂した。俺を殺せよと、クリフは内心でわめく。
押し寄せてくるネロウェン兵に、もはや言葉はない。
かつて戦ったジェナルムの国民と同じ目をして、ネロウェン兵は逃げるロマラール人を捕まえ、半月刀で切り刻んでいる。自分たちが斬られることには、鈍感になっている。倒れても倒れない敵にひるんで、ロマラール兵がきびすを返す。ネロウェン兵が追いかける。
追われる者の中に、キラリと光る金髪も見えた。まだ港に近い辺りだ。町側が坂で高くなっているので見えるが、すぐに会える距離ではない。なかなか動かないところを見ると、踏ん張っているようだ。彼女を守るようにして立つ一群に、赤紫の少女も見えた。遠くなる意識の中で、クリフは、まだ彼女は一人も殺していないのだろうかと思いを馳せた。
せめて、一太刀。
「……っ」
まだ掴んでいるかも怪しい感覚だが、右腕に力を入れて、持ち上げようとする。
すると、急に。
クリフの右拳が温かく、軽くなった。
はっとして目を落とすと、クリフの手を握る別の手があった。大きな手で包み、共にイアナの剣を支えてくれている。
「と……さ……」
オルセイも驚いたらしく、クリフの首がわずかに楽になった。こめかみの音が薄れた。
「お前は……っ!」
両手の主がうめき、クリフの剣をオルセイへと突き出す。避けられ、長衣しか裂かなかったが、効果は充分だった。ゆるんだ手を引き剥がし、クリフは地面へと落ちる。剣を手の主に託し、クリフは起き上がってオルセイに拳を繰り出した。
目まいを覚えながらの拳は、あっさり止められた。握りつぶされかけて、素早く退く。オルセイは「貴様なんぞに」と低く呪詛を吐く。
人でなく獣をも超えて、どこか神聖にすら感じられる輝きを放っている。今までにも何度も見てきた、ダナの目である。欲にぎらつく純粋な瞳が、クリフの芯を揺さぶる。
瞬き一つ分の時間もなかっただろう。
2人の間にイアナの剣が割り込み、それを振る者がオルセイを攻める。オルセイの『気』が揺れ、狼狽するのが感じられた。
「今のうちに逃げろ」
と言われても、そういう訳には行かない。
「父さん」
「わしが斬る」
イアナの剣を握りしめて、ジザリー・コマーラがオルセイを睨む。心は、痛いほど感じる。敵の大将格が自分の息子と知った彼の驚愕は、きっと想像を絶している。まして、息子同士が戦っているとなれば、一体どんな思いだ。
クリフは助かった喉に手をやりながらも、神の采配を呪いたくなった。
おかげで、と言うべきなのか、案の定と言うべきか。
「がああああぁぁぁっ!!」
オルセイの均衡が、崩れた。




