3章・白銀の鏡-1(暗澹)
夜のとばりが深く、部屋の中までもを包み込んでいるようだった。
眠るラウリーのためにランプの灯りを暗くしたので、室内の空気は一層重くしっとりとしている。その中で静かにコップを傾けていた黒い男の手が、ふと止まった。もう誰も起きていないような深夜であった。
鳥、ではない。
エノアは目を動かさず、外の気配を探った。
何かが闇に紛れて這い寄ってくるかのような、嫌な感覚がした。エノアだからこそ感じる程度の微かな“気”だったが、それはエノアと同質のものだった。
滑らかな動きで、音を立てずにコップを置き、エノアは立ち上がった。マントを羽織るが、空気を揺らさない。眠っているラウリーがそれに気付くことはなかった。たとえ部屋を出て行っても。
宿を出ても一緒かも知れない、とは思った。しかし部屋の中にいたまま、その“気”の持ち主と対峙するよりは少しはマシだろうと考えて、エノアは外に出た。
裏口から出て、人2人ぐらいが通れるほどの狭い通路を抜ける。
エノアは自分の気を放出した。相手は間違いなく、自分に気付いている。とすれば、気を隠すことには何の意味もない。
相手はエノアの後を付いてきた。
姿は見えない。
人そのものが追ってきているというよりは、エノアに対して探りを入れてきている“気”だけがエノアに付きまとっているようである。それは彼を追っているのか、呼んでいるのか。どちらもだろう。
エノアもまた、自分で相手の居場所を探りつつ、そして相手の“気”に誘われるようにして歩いており、郊外に出た。
──この暗さはどうだ。
人家が途切れ、辺りに草原が広がった時、エノアは思わず呟きそうになった。
まだ日の出る時間ではないし、民家に光はない。闇の世界なのは当然にしても、星明かりすら届かない漆黒の闇が、そこにはあった。
その闇の中心に、誰かがいる。
エノアはその時になって初めて、相手を見た。澄んだ翠の瞳に力がこもる。しかし射すくめられた相手は、それを物ともしていなかった。
黒いフードの奥から、不敵な笑みが浮かんでいた。口元には深い皺が幾筋も刻まれている。姿は明確だったが、その力のほどは不明である。その外見もその“気”も魔道士のそれであったが、エノアが知っている者ではないからだ。
魔道士は、魔道士の村にしか存在しない。
エノアはその魔道士の村から来たのだ。
とすれば、今この目前に立っている者──おそらく老人──が、魔道士であるはずがない。
「用件は」
「当ててごらん?」
初めて口を開いたエノアの問いに対して、悪びれもなく老婆は即答した。そう、しゃがれた甲高い声は、すぐに老婆と分かる声だった。しかもエノアの声とは違う意味で、人世のものとは思えない声色をしている。老婆は、普通は初めて耳にすればその不思議さと美しさに息を飲むはずのエノアの声に対して、まったくひるんでいなかった。
ひるまず、それどころか言ったと同時に凄まじいほどの殺意が老婆から立ち上った。もう用件内容を問うまでもないほどに。
強い殺意が風となり、周りの草をゴッと一気に揺らした。嵐のようになり、エノアのマントが羽ばたいた。2人のフードが取れ、お互いの顔が露わになる。
対極だった。
老婆はこれ以上ないほどに顔中に皺を蓄えており、目鼻口の判断すら難しいのではないかと思われる、醜悪な顔をしていた。顔の中央の、イボのついた突起がおそらく鼻であろうという感じである。皺の間から、2つの漆黒の光がちらりとエノアを捕らえた。彼女を取り巻く空気にふさわしい、漆黒の闇がそこにはあった。エノアは飄々とその眼光を受け流し、守護神はクーナかなどと思っただけだったが。
対してエノアには若さがあり、美がある。エノアがまとう気もまた闇だが、老婆のそれとはまったく異質だ。2人の印象はコインの表裏であるかのようによく似ており、正反対だった。
「元魔道士の、ラハウか」
「元は余計だよ」
老婆が動いた。
風の塊が、エノアを通り抜ける。
本来は通り抜けるものでなく、エノアにダメージを与えようとした攻撃だった。しかしエノアもそれは察知しており、瞬時に“力”を使って受け流したわけである。老婆はかすかに舌打ちをした。
静かな闘いだった。
会話をしながら繰り広げられる攻撃は、常人には見えず、感じられないものである。しかし、もしもこの2人の様子が人目にさらされていたなら、彼らの間に異常に吹き荒れる風のせいで、誰も彼らに近づけないことだろう。魔力を攻撃の力に換えるその余波が、風を巻きおこしているのだ。風は街にも届きかねない勢いだった。
「私の名を知っているとは、上出来だね」
「お前の名を知らない魔道士はいない。クラーヴァ宰相よ」
「おやそうかい」
ラハウという名の老婆は皺を歪め、くっと笑った。表情は豊かそうだったが、その顔では喜怒哀楽が分かりにくい。声の色で判断するしかないでこぼこが、次々に皺の位置を変えていく。
「だが宰相の名の方は、“元”だよ」
最後に行き着いた彼女の感情は、怒りらしかった。低く冷たい声が出された。そう思ったら、すぐにまた甲高い、面白がっているような声を出して、彼女は言った。真意が読みとれないほどにころころと動く感情だ。
「お前さんの用件は何だい?」
「……」
エノアはこれには答えず、初めて手を挙げた。いつかダナに向かってしたのと同じで、手の平を老婆に向けてまっすぐ伸ばす。
ラハウがぎょっとして口をつぐんだ。
風がうなった。
気を集中して、エノアからの“力”をねじ曲げたのだ。一瞬空間が歪み、奇妙な音と耳鳴りがした。
「分かり切った問いをするなと言いたいかい。でなければあたしがお前を襲う理由がないからねぇ。でも残念だったね。お前がお探しの品は、ここにはないよ」
口が薄く開き、くっくっとくぐもった笑いが漏れた。嫌な笑みだった。
まるでエノアのことを、掌の上で転がしているかのような気持ちでいるのだろう。用件のみならず、旅の目的などもすべて彼女はお見通しらしい。だからこそ彼女は、エノアを殺しに来たのだろうが。
瞬間、急に周りの闇が重みを増した。
エノアの頬に、ピッと赤い線が走った。
若干、エノアが目を細める。
「ほうれ」
次いで。
風が荒れ、マントに一カ所、ズボンに一カ所、上着に一カ所。亀裂が入った。
エノアは声を上げない。顔を歪めもしなかった。だがこの傷は、空気がよじれて彼を包んだがために服が裂けてできた傷だ、肉体にかかる負担は相当なもののはずだった。ラウリーがこれを見ていたならば、悲鳴どころでは済まなかったに違いない。
ラハウという魔道士の方が、格が上だった。
年齢だけで言えば、エノアの数倍は生きているのだ、体力の衰えは魔力の衰えにもつながる。しかしこの老婆には、魔力だけでない何かが備わっているように思えた。
ラハウはエノアの名前こそ知らなさそうだが、その行動や目的をすべて見通している。
逆にエノアは、ラハウという名前とその過去は知っていたが、今の彼女のことは何も知らない。
元々は魔道士の村にいた者だ、としか。
魔道士は、村を降りて俗世に入れば、ただの魔法使いとなり、魔道士でなくなる。現にラハウと入れ替わりに、クーナ神を担う魔道士は村にちゃんといるのだ。なのに彼女は、自分は「元」ではないという。
エノアは心が乱れ、体勢を崩した。
老婆の“力”が塊となってのしかかり、内蔵を締め上げた。精神的な攻撃でなく、直接体をいたぶってくるものだ。
「ダナの件から手を引けと言うたところで聞かんじゃろう、お前ら魔道士は。まさか首を突っ込んでくる奴がおると思わなんだで、ちいと驚いたがな」
言いながらラハウは、手を挙げた。先ほどエノアがしたと同じ動きである。風が一層吹き荒れ、エノアの翠の髪が踊った。
「思わぬ拾いもんじゃったよ、お前さんを見つけたのは。今のうちに死んでおけ」
ラハウの力が増した。
その風はエノアから呼吸を奪い、体力を奪い、とうとう膝を折れさせてしまった。熱いものが喉からこみ上げ、エノアは血を吐いた。口から顎にかけて血が流れ、草むらに血だまりを作った。それでもエノアはまだ顔を上げて、ラハウを見つめていた。
呪縛の力をはねのけようとして、歯がみする。そのエノアの顔に、ラハウは満足していた。
「この世は融通の利かないことだらけさ。一度ぶっこわしちまった方が良いんだよ。それに……ひっ?!」
ラハウは気持ちよく喋っていたが、最後までは言えなかった。3本のナイフが顔をかすめ、マントを引き裂いたからである。
そのうち一本は抜けていかずに、老婆の肩に食い込んだ。黒いマントの中に、どす黒く染みが滲んだ。まさか魔法戦から実戦に切り替わると思っていなかったラハウは、思わぬ攻撃に気を散らしてしまった。
老婆の顔がぐしゃりと歪んだ。呪縛の解けたエノアが立ち上がり、口元の血をぬぐった。もう片方の手はマントの影で、キラリとナイフを光らせていた。
「やるね、坊や」
「エノアだ」
「覚えておくよ」
「忘れて構わん。次はない」
「おや、人間らしいことを言う」
ラハウの声が、少し柔らかくなった気がした。
と同時に、濃く深い闇だった辺りの空気が、軽くなってきた。去るらしい。エノアは再びナイフを放ったが、それは残像を切り裂いただけでむなしく地面に刺さったのだった。
「次がないのは、どちらかね」
そんな言葉がした後に、すっと冷たい風が通った。普通の風だ。
草がさわさわと音を立てる。
空には、満点の星が輝いていた。
エノアは、ラハウの消えた後を追おうとしたが、そこには気のカケラもなかった。この地上のどこかにはいるだろうが、東西南北のどこへ行ってしまったかも分からない。しかし「ダナの件」と言ったことと、ダナを追うエノアを狙ったことを考えれば、あの老婆がダナ神降臨と無関係であるはずがない。おそらく東だ。このまま行けば、嫌でもまた遭うだろう。
今、エノアも無理に“転移”を行えば命に関わるだろうほどには消耗していたが、老婆とて無傷ではない。逃げ帰ったということは、太刀打ちできたということなのだ。エノアが負わせた傷は、ただのナイフ傷ではない。“力”を乗せて放ったのだ、血は止まらず体力を奪い、傷口を腐らせる──はずである、普通に効けば。
効いていると祈りたい。
エノアは乱れたマントを一振りして体を包み、フードを深くかぶった。エノアの求めていたもの──『イアナの剣』がないとしても、追う術はまだある。
しかし、取りあえずはあの妖婆が言ったように、もう剣がないのかどうかを確認する方が先だ。この先の予定に変わりはない。どこでいつ邪魔が入ろうとも。
地平線はまだ暗く、朝の気配を感じさせない。そう長い時間、対峙していたわけではなかった。しかし何時間も死闘を繰り広げたかのような、恐ろしい疲労と激痛がエノアを襲っていた。
エノアは何ごともなかったかのように、宿へ戻った。
出た時と同じく、音もなく扉を閉め、空気を乱さず歩き、マントを脱ぐ。
避けた服の隙間から微かに見える透明な肌に、どす黒い痣ができていた。他にも何カ所かあるはずだったが、数える気にもならない。体中が痛すぎて、どこという限定もできないからだ。
だが相変わらず無表情のまま、エノアはベッドに座ると靴をぬぎながらラウリーを見た。
「うー……」
ラウリーはうなりながら、寝返りを打った。目覚めたわけではなさそうだ。深く寝入っており、何やら幸せそうな顔にすら見えた。
エノアも横になると、心おきなく気絶した。
今まで一節ごとの文字数が2500前後になるよう調節していましたが、分割が面倒&表紙に並んだタイトルがすごいことになっていたことに気づいて、やめました……。長いと、読みにくい物語が余計に読みにくいかも知れませんが、付き合って下さってる酔狂な読者様もいらっしゃるかも! と夢見ておきます。