5-7(出立)
クリフが帰国にあたって最初に懸念した問題は、『誰として』ロマラールへ参戦するか、だった。
クリフはクラーヴァの防衛戦もヤフリナ国への援軍も、クラーヴァ国王の替え玉として訪れている。替え玉の前は、赤毛を黒く染めての“無名の剣士”だ。とはいえ本当に無名だったわけではない。城内で剣の指導を務めていた彼は、本名クリフォード・ノーマで給金を貰っていた。
この実績を正当に利用し、イアナザールはクリフを『ロマラール国の伯爵クリフォード・ノーマ』として帰国させる手続きを取ってしまったのだった。クリフとしては正直なところ、また王様の替え玉だろうなぁと諦めていたので、この措置に驚いた。
「だって面が割れてますよ、俺。ヤフリナ国では王様やってたのに」
クリフが慌てると、イアナザールは鷹揚に笑ったものだった。城内の執務室なので、他には側近の若者が控えているだけという場面だった。誰に聞きとがめられることもない。ただ側近がクリフへ向ける視線は、何やら複雑そうだったが。イアナザールは気付いているのだろうが、意に介さず、執務机に片肘をついたままクリフとの会話を楽しんでいる。
「それを言うなら、クリフォードとしての方が面が割れているだろうよ。ロマラール北部は、自分の故郷であろう?」
「あ……まぁ、確かに」
言われて気付くのも間抜けな話だが、それだけ長く故郷を離れていたせいだとも言える。クリフの中では既に、山道を駆けた日々よりも戦場を駆けた日々に重きが置かれているのだ。一人の狩人である前に、様々な国を渡った戦士として、その兼ね合いを計っている。
考えてみれば国政に関わりでもしなければ、一介の平民が国王の顔を覚えていることなど、そうはない。イアナザールは婚礼で国民に顔を見せたが、ロマラール国王などクリフの記憶には、まったくない。カイン硬貨に王様らしき顔が描かれてたっけ? ぐらいのものだ。まして隣国の王など知っている者の方が稀だろう。
クリフは「似合わないこと考えるもんじゃないな」と苦笑する。
「そうでもないさ」
イアナザールはクリフの苦笑を否定して、ねぎらいの意を示してくれた。次いで彼は側近に目配せをし、側近は「初めまして、アンデとお呼び下さい」と簡単に挨拶してから、クリフに皮紙を見せた。手渡されはしない。されても読めないと、イアナザールもアンデも承知している。
クリフが口を開きかけたのを制するように、アンデが言った。
「あなたの部下です」
「……え?」
寝耳に水という言葉をクリフが知っていたなら、まさに今を指して言っただろう。皮紙の中に並ぶ文字の羅列が人の名前らしいというのは、確かに言われてみれば、そう見える。一言しか書いてない短い言葉は、姓を持たない孤児だ。独自に名字を作って名乗りもできるが、あえて親がないことを示す者もいる。
部下ですと言われても、どうしていいのか分からない。返す言葉を見つけられないでいるクリフに、アンデが続ける。
「これらの者を助勢軍と名づけ、クラーヴァ国からの援軍をノーマ伯に預ける、という形にします。よって装備や食料など必要最低限は国が補助します。ですが戦況が長引いたり終結した際に、助勢軍がノーマ伯との契約を希望し、また、あなたも希望に応え得るのであらば、クラーヴァ国は助勢軍をあなたに譲渡いたしま、」
「ま、待て待て待て、待ってくれよ」
クリフは慌てて、アンデことアンデノルクの口上を遮った。最初からちんぷんかんぷんだったのに、さらに何のことやら、さっぱりだ。
しかもイアナザールはクリフの狼狽っぷりが想像通りだったのか、最初から含み笑いをかみ殺している有様である。クリフはアンデから見えないようにイアナザールを睨みつけた。が、クラーヴァ国王はしれっと素知らぬ振りである。
「国が募ったわけじゃない。彼らが勝手に署名し嘆願してきたのだ。ノーマ候が戦う折りには我らも連れて行け、とな。ヤフリナで共に戦った者だけじゃない、ここでお前に指南された者たちまで、志願している。一年かけて精鋭に仕上がっているぞ」
「一年って……あ、そうか」
お前は一年近く眠っていたのだと魔道士ノーヴァに言われたのに、まだ実感がない。季節が巡って同じ気温になっているからだろう。あの暑さと熱さが、昨日のことのように胸に焼き付いている。かき抱いた彼女の温もりが残っている。頬に当てられた指の感触。元々滑らかな手ではなかった。だが剣を持つために、さらに堅くなっていた。生活も厳しいのだろう。ほんのり赤かったはずの顔は、荒れて土気色だった。
クリフは自分の右頬に触れた。
傷が、くっきりと残っている。
ふとイアナザールの顔を見る。
若き王の右頬に、うっすらと筋があった。
「これか?」
視線を受けて、イアナザールも右頬に触れ、
「去年クリフォードと同じくしたが、ずいぶん消えた」
と笑った。
王の傷は徐々に治り、クリフの傷は残っている。
2人の顔は似ていたが、今では傷の有無が2人を大きく隔てている。
「俺の傷は治らなかったんですか?」
これではクリフは、もう王の影武者ができない。クリフの言わんとすることろが分かったのだろうイアナザールが、苦笑を交えつつも優しい目になった。
「お前が目覚めたら、どうしたいか訊きたかった。だが私は、クリフォードなら残しておきたがるのではないかと思ってな」
「え、でも、」
「もう影武者は必要ないのだよ」
クリフの言葉を遮ったイアナザールに、何やら決意めいた強さが見えた。クリフには頼らないと決めた、というところだろうか。クリフは思わず膝を突き、頭を垂れた。クラーヴァ国の、王に対する礼である。
「俺のために……」
呟いたものの、言葉に詰まった。クリフのために王が傷を負ったことをか、ここまで尽力してくれたことをか、これが別れになると気付いてしまったからか。3年前なら気付かなかっただろう。
クリフはロマラールに帰り、クラーヴァ王と謁見する機会などなくなる。それに傷を残しても、2人の顔は似すぎている。それを悪用したり利用したりと企てる輩が出ないとも限らない。
助勢軍は、餞別なのだ。クラーヴァ国として正式に援軍を出すことができないイアナザールの、クリフを介した厚意でもある。ロマラール国はまだ、クラーヴァ国に助けを求めていないのだ。
「立ってくれ、クリフォード。私はお前を家来にしていない」
顔を上げると、友の笑みがあった。
「だが私が言うのでは、受けるしかないだろうな」
「そんな」
自虐的に言われては慌ててしまう。立ち上がったクリフを茶化すようにアンデが「そう言われても逆に、受けにくくなりましょう」と口を挟んでくれたので、安堵した。クリフはロマラール国流の敬礼に切り換えた。
左胸に右拳を当てる。
「この上もない喜びです。ありがたく、お受け致します」
「武運を祈る。剣士として我が国に尽くしてくれたこと、礼を申すぞ」
言いながら机から立ち上がったイアナザールはクリフの前に立ち、アンデノルクから受け取った剣をクリフに差し出した。
「本来なら正式に授与式を行うべきだろうが、ものがものであるし貴君はロマラール人。このような場所で、これを与えることを許して欲しい」
“与える”だ。借り受けるのではないのだ。恐れ多い話が続き、さすがのクリフも背筋が震えるのを抑えられなかった。うやうやしく受け取って掲げる、その中身は改める必要などない。
だが、鞘は初めて見る。作り直された剣に合わせて、こちらも魔道士ノーヴァが仕立てたということだった。柄の赤石以上に、鞘に多数の魔石が施されている。神石には劣るが魔力を有する、高価な石である。
鞘で制御されている剣の魔力に感じ入るだに、クリフが眠っていた一年という歳月が、長いように見えて実は短かったのだと感じられる。まだ消えていないイアナザールの傷や、貧困の爪痕が残る街などを見ると、壊れたものが治るには時間がかかるのだと思い知る。
クリフは剣を腰に収め、そうですねと呟いた。
「?」
「傷です」
笑みに動いた右頬に、一年を感じさせない亀裂が濃く刻まれている。
「一生、消しません」
「で、あろうな」
互いに笑いあうと、隙を突いてイアナザールがクリフの右手を握りしめた。握手という習いは知っている。だからこそクリフもだが、アンデが驚きで声を上げかけたほどだった。同じ目線で、握手などと。気にしてないのは本人だけだ。
いや、気には、しているのかも知れない。気にしないように努めているのだ。立場を把握しているがゆえに、クリフには、そう接したくなくて。
「息災でな」
はっきりと告げられ、クリフの胸が詰まった。
クリフはあえて「国王様も」と返した。握力が増した。
イアナザールを王と呼んだら、初めて会った時のことが思い出された。どこだか誰だかも分からない地下で顔を合わせた、瓜二つの男。嵐のような出会いが過ぎて後に、またも再会するとは思いもよらなかった。まして、その再会がこうして付き合いを続けることになろうとは。
「そうだ、手紙を書け。私のいい息抜きになりそうだ」
明るく手を振る王様に、クリフは苦笑せざるを得ない。
「字なんて書けませんよ、例えロマラール語でも」
「書ける者に書いてもらえ」
苦笑が深まる。どこまでも意地の悪い王様だ。
ダナに狂わされた人生は、悪いことばかりでもなかった。別れはするものの、縁は生き続ける。手紙を送れといわれるほどだし助勢軍の采配も要るだろうから、また、ひょっこり関わらないとも限らない。
二度と機会が来なくても、そんな楽しみを持って生きるのも、悪くない。
“狂わされた”などと言うのも、おごりかも知れない。起こるべくして起こったのだ。
「行きます」
「うむ」
クリフは再度ロマラールの敬礼をして、執務室を後にした。出口で待っていた衛兵に連れられて王妃リュセスとリニエスに謁見し、クラーヴァ城を去る運びとなった。
リュセスとの謁見では、見違えて王の妹らしくなったリニエスが印象的だった。壇上には上がっていない。王妃のサロンで雑談ていどに挨拶を済ませる、という形式だ。立ったまま挨拶をのべるクリフに、リュセスは椅子を勧めずに自らが立ち、リニエスも姉に習って立って礼をした。少女の服は召使から長衣、ドレスへと移っていった。立つ時、彼女はドレスの裾を気にして周囲を微笑ませた。だが礼では逆に、皆を威圧した。背筋を伸ばしただけで、周りの者が少し腰をかがめたのである。
リュセスの肩ほどまでしか背のなかった少女が、今や肩を並べんとしている。リュセスがそれほど高くないためもあるが、成長期とはいえ、目覚ましい育ちようである。元々年にそぐわない憂いを持った娘だ。師匠ラハウの死を看取り、この飢餓と戦乱を越えて、大きく成長したと見える。ラウリーが見たら喜んだだろうなと、やはり思ってしまうクリフだった。
「ご武運を、お祈り致します」
「勿体ないお言葉」
型どおりの挨拶を終えたところで、侍女の抱く王太子がふぎゃあと泣いて、場を和ませた。リニエスは何かを言いたそうな表情を浮かべていたが、言葉はない。逆にリュセスは、さすが王妃というべきか、たおやかに談笑しつつも真意がまったく掴めない。
激励に間違いないことだけは分かる、今はそれで充分だ。
クラーヴァ国を後にするクリフの心中に、迷いはなかった。
迷っている暇などない。間に合っただけ奇蹟とも言える。
助勢軍と共にロマラール入りしたクリフが「軍神」と噂されるまでになるのに、長い時間はかからなかった。