5-6(覚醒)
クリフは、夢を見ていると自覚していた。心のどこかで誰かが――いや、もう一人の自分だ。目を覚ませと胸を叩いているのを感じていた。感じていながら、従わず悪いと詫びて、眠り続けている。すまん、眠いんだ。
惰眠を貪るなど、いつ以来だろうか。
コマーラ家にいた頃でも、数えるほどしかない。雨だと聞かされても、ふて寝した朝など記憶にない。狩りに出られない代わりに、剣や鍬、鎌などを研いだり、道具を修繕したものだった。女手でできない掃除や、塩漬けの仕込を手伝ったり。家畜に、2頭のゴーナもいる。すべきことは山ほどあり、することが楽しかった。
その日の雨、クリフは鍋を磨いていた。ラウリーが焦がしたものだ。
「自分で磨けよ、こんな焦げ。取れるだろ、自分で」
クリフは17歳を数えて、グール狩人として一人前になろうかという段階にいた。挑んでくる少女を容赦なく倒してグール狩人への夢を諦めさせた、その負い目も感じている頃だった。
ラウリーが、恋愛中のクリフを咎めるかの言動をするので腹が立って打ちのめしてしまい、申し訳なく思っていたのだ。が……ラウリーはめげずに、次の道を見つけて張り切っている。そしてクリフが失恋しようがお構いなしに、変わらない毒舌を披露してくれて、なぜだか気が付いたら立ち直らされていたりなどする。
床に座り込んで鍋に取りくむクリフを見おろすラウリーは、椅子に座って机に向かって、彫刻に勤しんでいる。魔石だ修行だなどと言っているが、実に楽しそうである。髪を伸ばしかけていたが、まだ少年のように短い。妹というより、弟がいる気分だ。
「できないから頼んでるんでしょ」
ものを頼む態度ではない。
「偉そうだなぁ、お前がやらかしたくせに」
「いいから、さっさと磨いてよ。母さんが使えないじゃない」
「いいか、人にお願いをする時はだなぁ、」
「だから明日、晴れたらケーディ狩りに同行するってば。鍋磨きの交換条件にしちゃ差があるけど」
頭上から注がれる声にはトゲがあるが、あまり不快ではない。クリフはうつむいたまま顔を見られていないことに、少し安堵している。なぜか緩んでいる自分のにやけ顔など見られては、きっとラウリーはもっと怒るだろう。声に笑みが含まれないよう堅く話すので、2人の会話はケンカをしているようである。
「いい条件だと思うぞ? お前は補佐だけ。俺が狩る役」
「それが屈辱だってのよ。私だけでペーネとか狩れるもん、わざわざケーディを狙いに行くなんて」
「は? くつじょく?」
狩りの達人になりつつあるが、屈辱なる言葉も知らない少年だった。
「悔しいって意味!」
説明されて、手を動かしながら脳裏で意味をかみ砕く。
「そうか。だったら俺は、オルセイが先にグール狩りを許されて屈辱だ、ってことだな」
「え? あ、いや、うーん……ちょっと違う気がする」
「違うのか?」
ひょいと顔を上げると、ラウリーが驚いていた。目が合ったということは、ラウリーはクリフを見ていたのだ。どんな表情で見ていたのか分からなかったが、何やら嬉しくなった。決闘を経て、わだかまりがなくなり、本当の妹、本当の兄になれたのかなとクリフは思ったものだった。
途端、ラウリーの姿が揺らいだ。
消えたのではない、縮んだのだ。もっと幼かった頃へ。
景色も、室内から屋外に移り変わっている。
背が縮んだ代わりに、紫髪が伸びた。初めて会った時、少女の髪は腰に届きそうなほど長く、一つに束ねられていても軽やかで、風になびいていた。
綺麗だ、と思った。
ジザリー・コマーラに手を引かれて訪れた家が近づいてくると共に、側で遊んでいた少女が見えたのだ。草がおいしげる原っぱの中、荘厳な山々を背にして立つ小さな家に、小さな少女はとても馴染んでいた。紫色の髪をクリフは初めて見たが、それを奇妙だとか恐ろしいとは思わなかった。新緑の中になびく鮮やかな紫が、幻想を見ているように印象的だった。
外見は良かったのだが、中身が良くなかった。
クリフは言葉を見つけられず、わずかに会釈する。対して紫髪の少女は、ニコリともせず背を向けて小走りに、家へ入ってしまったのだ。
「ラウリー!」
ジザリーの怒鳴り声で、クリフは少女の名前を知った。
「この頃ますます生意気になりおった。挨拶もせんとは……」
ぶつぶつ呟く父親のぼやきは、すぐに矛先をクリフに替えた。
「あなたも、あなただ。クリフォード様。人に会ったら自分から声を出しなさい。あ、と声を出せば、こんにちはと言える」
そうなのかなと疑問を抱きつつも頷く。すると「ほら、それだ」と諌められた。
「まず、声を出す。頷くだけじゃ駄目だ、はいと言いなさい」
「……はい」
「もっと大きく」
「はい」
「いい子だ」
頭を撫でられる。返事一つで大袈裟なと思ったが、大きな手の感触は心地よかった。父親からの手を最後に、久しく味わっていなかったものだ。父親が亡くなり家が奪われ、居場所のなくなったクリフは、どの親戚に預けられても厄介者扱いされた。“あの男の息子”という呼ばれ方を聞くたび、立派だったはずの父親像がくすんで行った。
クリフの心を知ってか知らずか、ジザリーが言う。
「萎縮してはいけない。俺はノーマ家の一人息子なのだと誇りなさい」
ノーマ家の称号は、クリフが生きている以上まだ剥奪されない。成人となり土地を取り戻して王都に申請すれば、また復活するのである。
「わしの子として育てても、お前はクリフォード・ノーマのままだ。だが一緒に暮らす以上は、わしを父と呼び、わしに従ってもらう。いいな?」
ジザリーが言葉遣いを変えたので、まだ10歳であるクリフにも容易に理解できた。
「はい、父さん」
再び頭を撫でられて、クリフは心が落ち着くのを感じた。
「だが、わしの言うことが間違いだと感じたら、歯向かってきなさい」
思わず吹いた。
「歯向かっていいんだ?」
「間違ってると思うならな」
手を握られて、再び家を目指す。先ほどまでの感覚と違い、一歩一歩が“帰る”思いで満ちた。素直に「ただいま」と言えそうである。
歩きながら、ジザリーがさらに語ってくれた。
「お前の父は誇るべき方であったよ。お前を迎えることになるとは思いもよらなかったが、これが少しでも恩返しになるなら、わしにとっても嬉しいことなのだ。いや……これも彼からの贈り物だな。恩返しは、おこがましい。分かるか?」
「何となく」
ジザリーが笑う。
「彼が呼んでいたように、わしもお前のことを略して呼ばせてもらう。いいか?」
「いいよ。じゃない、はい」
「いいよでいいよ。クリフ」
第二の父が生まれていた。
家に着き、クリフが扉を開けた。
だが声は出たものの、挨拶にいたらなかった。
「あ……」
玄関先で、少女が仁王立ちになっていたのだ。
「あんた誰よ? 勝手に入ってこないでよ、ここはコマーラの家よ」
頭ごなしに責められて面食らいながらも、お前こそ誰だよと言い返したが、馬鹿じゃないのと一蹴された。少女は奥へ引っ込む。
「さっき私の名前を聞いたでしょ。ラウリー・コマーラに決まってるじゃないの」
クリフは眉が吊りあがるのを感じながら、彼女がクリフを知っていたと悟った。一緒に住む少年だと知っているから挨拶しなかったのだ。拒絶して。
「追うんだ。クリフ」
背中を押された。強くはないが弱くもない不思議な力加減に、自然と一足が出た。
「何で俺が! あんなやつ」
「どんなやつだ?」
「どんなって」
ジザリーの顔を見れないまま、クリフはうつむいて言いよどんだ。クリフは知っている。彼女が生意気な口しかきかなくて負けず嫌いなくせに、本当はとても人を気遣っている臆病な子だと。
ラウリーとのケンカは10年を数える。彼女が紫髪を理由に苛められているのを耐えている少女なのだと知ったのは、ずいぶん早い段階だった。クリフなる新人も自分を苛める子なのではないかと、彼女は警戒していたのだ。オルセイが、そう教えてくれた。
多分、無意識の警戒が今でも続いている。ラウリーが真に心を開いているのは、同じダナの生まれで血がつながっている兄、オルセイだけなのではないかと思う。
10歳のクリフは玄関に一歩入ると、11歳になった。険悪な同居生活に家出しかけたこともあったが、父母の愛が、オルセイの友情がクリフを支えた一年だった。
歩いて13歳になった時、紫髪の少女の苦悩を知った。生まれ月を忌むどころか気にしたこともなかったクリフにとって、苛めの理由は衝撃であり、ゆえにクリフは魔力を嫌いになった。
歩き進むたびに成長したが、何歳になっても変わらない目標は『狩人になること』だ。自分たち3人の他に狩人仲間も大勢いたが、何よりも3人一緒にいることが一番好きだった。少し前を歩くオルセイを、ラウリーと2人で追って競争するのが、楽しかった。
だが今、少女ラウリーが消えた奥の部屋へと進むクリフの前に、オルセイはいない。
「父さん、オルセイは?」
ラウリーの部屋に手をかける前に、20歳のクリフが玄関を振り向く。父の姿が揺れて、クリフは目をこすった。逆光でよく見えない。
幼かったクリフの記憶には、父親の顔がおぼろげにしか浮かばない。思い出の父はどこまでも優しくて、これが父かと反発したくなるほどだった。亡くなった母の代わりに添い寝してくれるのを拒むようになったのは、いつの頃からか。勉強が嫌いで剣技が好きで、机にかじりつく父をなじったこともあった。
反抗するクリフに対して父は、いつでも暖かく微笑んでいた。
「父さ……ん?」
ジザリーではないようだ。
足が動かなかった。戻って、逆光の父を確かめるのが怖かった。どんな顔をすればいいのか分からない。きっとクリフの表情はとても情けなかったのだろう。光の中にいる者が、くすりと笑ったようだった。
クリフがノヴから手を放しかけると、叱咤された。
「戻るな。行くんだ」
深く、柔らかい声がクリフを包みこむ。泣きたくなるほど、胸にしみいる。
「父さん……俺」
夢で構わない。自らが作りだした偶像にしても、こんな身近に父を見ることなど今までなかったのだ。もう会えないと分かっていて、会いたい気持ちを押し殺してきたのだ。
だが謝罪も感謝も、口にできなかった。
「そうだ。お前はもう、父に会えない」
玄関口に立つ男が言う。ジザリーでも父でもない、見たこともない男が光の中に立っている。どんなに記憶をまさぐっても思い出せない男の顔に、しかし、嫌悪感は持たなかった。
「生きている者は、生きている者にしか会えない。亡くなった者には、例え死んでも会えない。悔やむ思いを力に換えて、己の命を生かして進め。私の子には、そう伝えるだろう」
炎のような髪が逆光に映えるので、ふとクリフは、彼がイアナ神ではと感じた。自分が抱いて眠る半身の剣は、イアナの剣だ。宿る神が夢に出ても、不思議ない気がする。
父であったイアナ。生まれた娘はダナといい、紫の髪をしていたという。
「私は愚かだった。守るべきもの、戦うべき相手が見えていなかったのだ」
自嘲気味な言葉を聞きながら、クリフはノヴを持つ手に目を落とした。まだ扉を開けないでいるのは、邪魔が入ったからばかりじゃない。自分が躊躇していたせいだ。ぐっと顔を上げる。
生きている者にしか会えない。生きている間にしかできない。
ノヴをひねった瞬間、自分の年齢が“今”になったと感じられた。激動の日々が頭を埋めつくす。すでに23歳を数える自分。目覚めて何十年もたっていたらどうしようと思ったが、なぜかそれはない確信があった。
クリフの背に「元気でな」という声が聞こえた気がしたが、開けた扉からの光に驚き、振り返りそびれた。ラウリーの部屋があるのかないのか、空間が白く輝く中に少女が立っているばかりである。紫の少女が口を動かしても何も聞こえなかった。だが「いいよ」と言ったように感じられた。
「分かんねぇよ」
――それがクリフの起床、開口一番のセリフとなった。
何が「いいよ」なのか、さっぱりだ。
クリフは目覚めと共に消えていく少女の残像を、何となくラウリーでなくダナなのかも知れないと思った。イアナが出てくるぐらいなら、娘とて登場してもおかしくない。おかしくないが、だが、おかしいことがある。
クリフがそんな神話を知らないことだ。
「おはよう」
まだ天井を天井と認識しはじめたばかりなのに声がかけられ、クリフは戸惑う。消えていく夢を手応えを忘れたくなくて、記憶の断片を口にする。
「いいよって言われた」
「じゃあ、いいんだろう」
朝の挨拶をしてくれた低い声が、また応えてくれる。低くて落ち着いた、初耳の男だ。頭が冴えていくと同時に、夢にも過去にも霞がかかっていく。
クリフは上体を起こし、そこが床なのを確認した。尻の下に描いてある円い模様には見覚えがある。室内も、クラーヴァ城の一室だと理解できた。
とても長い夢だったように思うが一瞬だった気もする、すっきりとした目覚めだった。自分の身体をいぶかしむほど、力がみなぎっているのが分かる。斬られて、剣を折って、発狂しかけた彼女を抱きしめ、だが自分も我を忘れかけて……気を失った。昨日のことのように思い出せるが、やはり遠い昔のような気にもなる。
クリフはじっと手を見たあと頬や首筋を撫でて、怪我がないことや自分の年齢などを確かめた。傷にも痛みや血はなく、清潔な服を着せられている。まだ老体でもない。
唯一と思われる激しい傷跡は、頬だけだ。
眺めて、やっとイアナの剣がないことに気付いた。
「剣は」
もう一度、体の周囲や部屋の細部まで見渡す。
男と目が合う。
室内にはクリフと、この男しかいない。黒マントで顔を隠しているが、エノアでないことは分かっている。とはいえ、エノアと無関係ではないだろうとも、分かっている。
クリフが口を開く前に、男の方がイアナの剣を差し出した。
新しい剣を。
「これは……」
クリフは言葉をなくして見入る。持ち手も剣の形も、大きさも変わった。なのに、すぐイアナの剣だと悟った。柄尻の赤い石は見まごうことのない目印だが、剣自体から滲み出る『魔の気』がイアナの剣だとはっきり知らしめているのである。クリフが触れると、石から光がほとばしった。
「!」
ひるんだが、目は閉じなかった。手が触れる直前に予期したので、光を見つめて味わうことさえできた。剣の力が完全に戻っていると、光からも感じられた。男が低く何か呟くと、光が消えた。だが力はみなぎっている。クリフが柄を握ると、吸い込まれそうに手が馴染み、腕を振っているだけのように軽かった。剣が少々短くなったからばかりではあるまい。
クリフは立ち上がり、円陣から足を出してみた。変化はない。両足も身体もすべて、円から出した。大丈夫だ。剣だけでなくクリフの身体も回復している。
「お前のことだ、目が覚めた途端に走りたがるだろうと思ってな。ぎりぎりまで起こさなかった」
あぐらを掻いた黒マントからは、思いのほか人懐こい口調が飛び出した。砕けた物言いに釣られて、ついクリフも「あんたは?」と訊いてしまった。
男は、すいとフードを外して笑った。
「ノーヴァ」
「イアナの魔道士か」
「無粋な呼び名だ」
それには返さず、クリフはノーヴァなる男とイアナの剣を見比べた。クリフの視線に応えるように、ノーヴァが剣を示して言う。
「新しく打ち直した剣は、片手持ちだ。左手に盾を構える」
「盾なんて」
片手持ちの剣技など、学んでいない。グール相手の長剣は両手持ちだ。意義を唱えかけてから、クリフは言葉の意味に気付いてノーヴァを凝視した。男の半面が、不敵な笑みを作った。
文字通りに走りたがる足を床に踏みつけて、クリフは男の目前に腰を下ろした。ここに来てクリフは、エノアが自分を城内に連れてきたのだろうに、そのエノアも姿を見せていないことに気付いたのだ。
「……戦況は?」
「いい勘だ」
誉められることではない。クリフが走りたがるような事態であること、剣が必要な事態なのだということを彼がほのめかすから気付いただけのことだ。それにイアナの剣それ自体が血気にはやっている。気付かない方がおかしい。
クリフは近況を聞きつつも、脳裏で、断片的に夢の言葉を浮かべては消していた。