5-4(快挙)
黒船が、自分の倍はある戦艦に突進して行く。迎撃を受けて満身創痍なのに、船は嬉しそうにさえ見えた。速度は衰えない。むしろ上がっていく。外海を走るような勢いに、敵船の方がたじろいだ。
“ピニッツ”は敵の側壁へ滑り込み、破壊音を響かせた。甲板が跳ねて皆が倒れふし、木箱の下敷きになったり、ぶつかったり落ちたりで混乱した。が、おおむね無事である。船は、敵と一体化せんばかりに食い込んで、止まったのである。生きている者たちから、木々や鉄のきしむ音に混じって、歓声が上がった。
「ギムすごい!」
手すりに抱きついて衝撃をまぬがれたマシャが、飛び跳ねて宙に舞った。船尾から飛び降りて、切り倒されたメインマストへと走る。敵の側壁に倒したマストをつたって皆が登り、敵船へ突入し始めた。
「給料、上げろよ」
副船長の背中に向かってギムが声を上げたが、聞こえていたかどうか。そもそも声が出ていたかどうか。ギムはマシャに気付かれなくて良かったと思った。
操柁が折れて自分に刺さってしまったなど、ずいぶん間抜けな最期じゃないか。
「よくやった。小舟を下ろす、ゆっくり休めよ」
「船長」
ナザリがギムを支えて座らせてやりながら、別の者に救命舟を指示しかけたが、その手をギムが掴んで止めた。掴んだ腕にしがみつきながら、ギムは舵の幹にもたれた。座ることもままならない致命傷だったのだ。腰に刺さったままの木切れが邪魔をして、寝ることもできない。出血するのが分かっている以上、抜くこともできない。
「すぐ死体になる。舟なんざ、もったいねぇ。あんたも早く行け。黒船は落ちる」
途切れ途切れの声には、もはや力がない。急に音も視界も暗く、小さくなっていくのをギムは感じた。
「これを」
重い腕を上げて、首のペンダントを引きちぎり、ナザリの手に押し込む。
「スーディアに」
ギムの妻だ。
「必ず渡す」
受け取ったペンダントを握り締めて、ナザリはギムからそっと腕を外した。柁軸だけが支えとなったギムの体から、ことんと力が抜けたように見えてナザリの顔色が変わった。まだ大丈夫だと言うように、ギムは口の端を上げた。
暗くなる中、少女の振り向く顔が見えた。瞳が大きく見開かれ、口が動いた。多分「ギム」と言ったのだ。ばれた。彼女の足が、向きを変えた。
「来るな、マシャ!」
引き返してくる少女に、2人が同時に叫んだ。ナザリはギムの肩に手を置いた後、彼を置いて船尾から飛び降りた。
飛び降りた衝撃でか同じタイミングだっただけか、船が大きく揺れた。敵船も一緒に揺れて、マストを渡っていた船員が一人、海に投げ出された。絶叫が響く。
黒船が、はがれた。
燃え盛りながら落下を始めたのだ。
「ギム! ギム!!」
わめくマシャを捕らえて、ナザリが走る。無我夢中で網にしがみつくと、幸いなことに、網は落下をまぬがれた。ネロウェン船の縁に引っかかって、黒船から離れてくれている。揺れて側壁に叩きつけられるのを堪え、ナザリはマシャに網を掴ませた。一命をとりとめて下を見ると、黒船の最期があった。
沢山のガレキと一緒に落ちていくギムが、はっきりと見えた。
満足げな笑みを浮かべている。
見せかけでなく、彼は本当に満足していた。
先代から“ピニッツ”に仕えているギムもまた、黒船を愛していた。同時に船長を、副船長を愛している。黒船に乗ったまま2人に看取られながら死ねるなんて、最高じゃないか……と彼は、心中で2人に呼びかける。
ナザリに捧げると決めた一生を、決意通りにまっとうできたのだ。
自分の娘とも言えるマシャを、守れたのだ。
惜しむらくは娘たちの花嫁姿が見られなかったことと、花婿を殴れなかったことだが、これは仕方がないだろう。どこまで生きても、そんな日は来ないのかも知れないのだし。
「と、マシャに言ってやりたかった」
ギムの呟きは、海に呑まれた。彼を覆い隠すように黒い木ぎれが次々に落ちて、海上に飛沫を作った。さらに水面を油と炎が覆う。ギムの姿が消えた。
「ギムーっ!!」
マシャの叫びも、破壊の轟音にかき消された。届かない幸運の声が、今度ばかりは奇跡を起こさなかった。いや今までが奇跡だったのだ。ギムの、神がかりにも似た舵さばきが、“ピニッツ”を救った。
うつむいたままの顔から、幾筋も涙が落ちた。ギムが、ギムがと、うなるような嗚咽を涙と一緒に漏らし続ける。だが彼女の両手は、しっかりと網を掴んでいる。水面に手を伸ばしたりはしなかった。
「マシャ」
即されて、ナザリに支えられて登り始める。マシャは歯を食いしばって顔を上げ、空を見た。
日の昇りきった雲間から、光の筋が降りていた。チカッと、太陽が垣間見えた。ギムの体が海中から救い上げられ、天に登っていく錯覚に囚われた。せっかく止めた涙がまた溢れてくるのを、マシャは顔をしかめて堪えた。
一歩一歩、一つ一つ確実に掴んで登る。
マシャらが登ると同時に網の方も、上から引っぱり上げられている。すでに甲板では接近戦が始まっているだろうに、船員が守ってくれているのだ。懸命に登るマシャを、“ピニッツ”の一人が掴んで引き上げてくれた。続いてナザリも手すりまで登りきり、ひらりと飛び越えて降り立った。
「あ、畜生。一人だけ格好いい」
マシャが涙まみれの顔に笑みを浮かべて、軽口を叩いた。ナザリも応えて、ニヤリと笑う。
「行くぞ皆。救命舟を奪取するんだ」
「え?」
先陣に続こうと勢い込んでいた船員たちが、出鼻をくじかれて呆けた。
「小舟を?」
皆ここで死ぬつもりだったのだ。
“ピニッツ”は総勢100人に満たない。やられた者をさっぴいて6~70人だ。通常は30人でも狭い船内を改造して、詰めに詰め込んだ。それでも敵船の軍勢には、ほど遠い。ネロウェンの戦艦には、下手をすれば1000人は乗れる。ネロウェン船は走力を上げるため、帆だけでなく漕ぎ手も使っている。船底に敷き詰められている漕ぎ手が戦い出したら、ひとたまりもない。
ナザリの余裕が何なのか、マシャにすら理解できなかった。
「ナザリ、ここを潰すんだろ! 何のためにギ……っむが」
口を押さえ込まれる。
「ここは潰れる」
ナザリの笑みは近くで見ると、圧巻だった。戦闘意欲に満ちている。ただの脱出じゃない。しっかりと、この船を沈める気だ。
マシャから手を放して、ナザリが叫ぶ。
「来るぞ! 衝撃に備えろ、舟を奪え!」
何が来るというのか。さらに訳が分からず、皆うろたえた。が、船長の言葉は絶対であり、真剣だ。動きは早かった。
ロマラール語が理解できずとも、雰囲気は察したのだろう。ネロウェン兵も戸惑いを見せた。
長い時間ではなかった。
「!?」
甲板が破裂した。
爆音が耳をつんざき、辺りを粉々に吹き飛ばした。伏せた体の上に、木ぎれが落ちてくるのが分かった。すぐに立ち上がって目を開こうとしたが、身体中が痛い上に煙が目に入って、開けられない。なんとか開けても、視界は煙で真っ白だった。ナザリの声がした。
「こっちだ」
手を掴まれて、走る。ようやく目が慣れると、走り抜ける自分の真横に、大きな穴があった。先ほどまで見なかった穴だ。見落としてのではないだろう。甲板を真っ二つにせんばかりの、巨大な穴だ。2層目まで空いていて、船底がちらりと見えた。浸水が見えた。
2層目の漕ぎ手たちも皆、死んだように動かない。
ぎょっとしてマシャが周囲の海を見たら、予測していた光景とはまったく違うものが見えた。てっきり、どこの船から弾が投げられたのかと思ったのに、見えたのは逆だったのだ。ちょうど、この船から投げられた弾が、ぽぉんと別のネロウェン船に向かっていたのである。
「……え?」
ネロウェンの船だ。ロマラールじゃない。
どぉんと鼓膜を破らんとするかの音が響き、ネロウェンの船が揺れる。幸か不幸か当たっていなかったが、威嚇とは思えなかった。この船から誰かが本気で、ネロウェン船を狙ったのだ。
誰かと言っても“ピニッツ”しかいないだろうが。
投石機を奪った船員が。
今この船に大穴が空いたのも、自らに弾を投げ入れたからだったのだ。
息を呑み投石機を探したが、甲板の縁に設置されていたものは、すでに壊されたり海に落ちたりで、何もない。残っている機器は……船尾にあった。
が、弾を仕込んで投げている男たちを見て、マシャは首を傾げた。“ピニッツ”の者が2人いるのは分かったが、手を取り合っている男がネロウェン兵なのだ。
それに問題が一つある。
船底の浸水と漕ぎ手たちの死は、おそらく今の爆発で起こったものじゃない。船底まで大破されたものだったら、この船は、もう沈む。
浸水している以上、時間の問題だが。
黒船がぶつかり半分が大破した時点で、この船は死んだのだ。
投石機に設置された弾が、また外に向けて放り投げられた。やはりネロウェン船だ。相手の船が慌てて旋回しているのが見てとれた。逃れたようだが、海にあがった水柱が船を揺らしていた。助けようと近づいた味方の船から攻撃されるなど、たまったものではないだろう。
ネロウェンの船が急速に離れていく。離れながらの船から、反撃の弾が飛んできた。敵味方が入り乱れて逃げまどい、ネロウェン兵は何かを叫んでいた。見限られたことへの疑問と怒りを口にしているのだろう、と察せられた。
ネロウェン語も、あまりに早口だと理解不明だ。まして混乱の中、憎き敵の言葉となったら、もう貸す耳などない。
マシャは目まいを覚えた。
「早く、今のうちだ」
立ち止まったマシャを、ナザリが即した。左手でマシャを引っぱり、右手で敵に立ち向かう。マシャはナザリの手を振り払い、隣に並んで剣を抜いた。
だが2人を囲む“ピニッツ”に守られて、一行は難なく数台の舟を奪えた。敵が少ないのだ。
「1000人って聞いてたのに」
半数以上が船底で死んでいたのだ。
夢見心地で半分崩れた甲板を見渡し、マシャは眉をひそめた。
ナザリが脱出を指示しながら、投石機を操るネロウェン兵を指さした。
「あいつのおかげさ」
「あいつ……?」
ネロウェン兵はカブトをかぶっている。おかげで顔が見えない。カブトの下に洩れている黄土色の髪と体つき、雰囲気。
「……!」
やっと分かったものの叫びぞこなって、マシャは口をパクパクさせた。
道理で“ピニッツ”と共にいるはずだ。
「舟を落とすぞ。皆、海に飛び込んで乗りこむんだ」
誰かが言い、小舟をつないでいた縄がどんどんと切られる。その間にも、投石機からの弾が甲板へと投げこまれて、立つことも危うくなっていた。もう限界だ。ネロウェン兵も船を見限って、海へ身を投げ始めた。投石機を奪い返さんと近づけば、容赦なく投げつけられるのだ。肉片となって散るのは、御免こうむりたい。
無茶の連続で、さすがに投石機の周りすらも火の海となり、崩れだした。これまでと観念した“ピニッツ”の船員が、機具を離れて退散する。元々少ない悪魔の弾は、投げつくされていた。
「早く!」
船員が、一緒に投げていたネロウェン兵を即す。彼は最後の弾を投げんとしていた。
マシャも手すりに登りつつ振り返って、ネロウェン兵を呼んだ。
「カヴァク!」
声と共に、最後の弾が空を飛んだ。軌道から目を離し、ネロウェン兵がマシャを見る。カブトを脱ぐと、笑みを見せるカヴァクが現われた。前線作戦に志願して夜の海へと乗り出していたカヴァクーダ・ノウツァには、さらに“ピニッツ”ナザリからの密命があったのだ。
ネロウェン船に忍び込んで兵になりすまし、中から破壊したのである。
カヴァクだから、できたことだった。
同胞に撃ちかけるのは心が痛んだだろうに、この時カヴァクがマシャに向けた笑顔は、今までに見たことがないほど慈愛に満ちた、穏やかなものだった。先ほど死んだギムが見せた顔と重なって、マシャは背中を震わせた。
思わず手すりに立っていた。
「カヴァク! お願い、早く! 来い!」
「マシャっ」
敵と切り結ぶナザリは、手を伸ばしそびれた。左手に、手放してはいけないものを握り締めている。ペンダントを握ったままマシャの手を取るには、余裕がなさすぎた。船は不安定だ。もうボロボロで炎に巻かれていて、いつ死んでもおかしくない状況なのである。
当然マシャは、縁から足を滑らせた。
「きゃ……っ!」
が。
落ちはしなかった。
一瞬の後、マシャは宙を舞っていたのである。
カヴァクと共に。
彼は片手に縄を、片手にマシャをかき抱いていた。
メインマストから伸びた縄が大きく一振りして、また甲板へと戻る。ここぞという一点を見計らって、カヴァクが縄を手放す。大した落下ではなく、2人は甲板の無事な位置に降り立った。
またもマシャは、口を開けさせられてしまった。
この周到なネロウェン人は投石の特攻をかけながらも、ちゃっかり脱出用に縄を確保していたのだ。さすが、炎前線をこなし、内部攻撃まで見事にやらかしてくれた腕前だと、言わざるを得ない。あざやかに華麗に副船長を救った手腕が、カヴァクを輝かせた。
一連の出来事に目をむいたナザリは、声を上げて笑った。
「逃げるぞ!」
“ピニッツ”の面々が、崩れる船内を巧みにすり抜け、次々に海へ飛びこむ。確保した小舟には、すでに相当数の船員が乗りこんでいる。恐れたのは海中での戦闘だったが、その心配はなかった。見ると、小舟に面白い事態が起こっていたのだ。
“ピニッツ”が、ネロウェンの兵士を引き上げている。
船員はトートだ。ギムと一緒によくいた。同じ船に、入団したばかりの若者、ソンバの姿もあり、彼もネロウェン兵に手を差し伸べているところだった。
おそらく視線を感じたのだろう。
ソンバとマシャの、目が合った。
船の上と下に遠く離れていて炎も喧騒もひどいのに、なぜかソンバが顔を上げて、自分を見ているマシャに気付いたのだ。
「あ……」
ソンバのひるみが見えた。マシャに咎められると思ったのだろう。手が引っ込みかかっている。
だからマシャは、ぐっと笑みを作ってソンバを指さした。心底、嬉しかった。早く助け上げてやれ、という素振りを彼は分かってくれたのだろう。すぐ救助にあたりだした。
甲板上に目を戻すと、ナザリが側にいた。戦っていない。今まさに、海へ飛びこまんとしている。甲板には戦意を喪失して逃げまどうネロウェン兵しかいない。今さらロマラール人の首一つ獲ったところで、自分が生き延びられるわけもないと悟っている。
そんな彼らに向かって、マシャも、手を差し伸べた。
「お前たちも、来い!」
叫ばれた高いネロウェン語に、全員が振り向いた。
――後々、これがロマラール国最後の大勝利だったと言われるようになる、サプサ海戦である。
小舟で脱出した“ピニッツ”らをロマラール海軍が収容し、ネロウェン兵のことも助けて捕虜として、サプサでの攻防は一時、収束した。ネロウェン捕虜の数は1000人近くいた。船底で死んだと思われていた漕ぎ手のほとんどを救出できたからだった。彼らは死んでいなかったのだ。
『ナザリの作った眠り粉が、よく効いた』
カヴァクの告白に、マシャは肩を落としたものだった。兄の試作品は時々怪しげである。効いて良かったと言うべきだろう。もっとも花火とて実用化されているのだから完成度は悪くないのだが、完成の裏にひそむ失敗作の多さは考えたくないものだ。
多大な功績を生んだサプサに、恩賞が下った。
自分たちの船を失ってまで突撃した“ピニッツ”は称えられた。暗躍が得意だった、後ろ暗い過去を持つ“ピニッツ”だけに、ほとんどの者は叙勲式に出席しなかったが。そこへ行くと船長はさすがだ、ふてぶてしいと皆が褒めたたえたとか何とか。
ナザリが騎士の称号を得ても、別段、何も変わらない。土地もなく、今は船もない、野党同然に一団だ。港町サプサの一角を借りて住み、次の戦いに備えるのみである。褒美は皆で分けられ、多くはギムたち戦死者の家族へ分担された。
特別叙勲を断ったネロウェン人カヴァクが、ギムの跡を継いでマシャの用心棒となった。誰かが叙勲にしておきゃ良かったのにと笑ってマシャに殴られたものだったが、皆が皆、まんざらでもなく思っている。
新人だった少年ソンバも戦いを経て顔つきを変え、マシャのことを副船長と呼ぶようになった。
船乗りは墓を持たない。海に白い花が咲き乱れるのみである。あの波間に落ちた雲間の光を、再現しているかのように。光の粒のように、花びらが輝く。
激しかった新春が過ぎて、じわじわと暑くなっていた。
そんな折。
クラーヴァ国境付近にネロウェン軍が上陸したという報が届けられ――同時にサプサに、第3の開戦が突きつけられた。