4-10(終戦)
ヤリフナ城は湖の側にあり、水を引いて堀をめぐらせてある。そこから流れる川が、城下町を潤すのである。今は、か細く糸のような水しかないが、それでもあるだけマシだ。
ヤリフナの王都は美しい。煉瓦に囲まれた街は、蒸し暑いが華やかだ。変わった形の建造物や壁の絵など、見ていて飽きない。城は、角ばっていて要塞と呼ぶにふさわしい様相だが、中は派手だ。街中の城なのに要塞のようだというのは、ヤフリナ王の弱さを表わしているようでもある。
降伏と引き換えに守った、美しい街。
「イアナザール様」
「うむ」
側近に即されて、歩を上げる。イアナザールは景色から目を離して正面を向き、城壁の通路を進む。
散歩ではない。前に4人、後ろに10人の行列だ。ヤフリナの官職とネロウェンの衛兵に挟まれて、クラーヴァ旅団の代表一行は調印式が開かれる広間に向かっている。仰々しく、葬列のように静かに。
「いい天気だ」
軽口は独り言に終わった。爽やかな風が、いたわるように頬の傷を撫でた。ただでさえ暑いのに、正装だとさらに暑い。汗がにじみ、イアナザールは目を細めた。
ここまでの道中は、決して平坦ではなかった。だが、おおむね良好だったと言えるだろう。特に陸路は、ネロウェン軍を雇って警護させたのだ。何かあっては互いに困る。非武装で臨み、護衛の恩賞もたっぷりと献上した旅だった。
ここからが本番だ。
「クラーヴァ国王、イアナザール陛下!」
朗々たる声と共に開けられた扉をくぐる。王城内でも特に美しいと言われる広間が、別世界のように視界を埋めた。他に類を見ないほど絢爛な空間が、イアナザールらを圧倒する。壁際には氷の塊が設置され、それを下男たちが大きな団扇で扇いで広間を涼しくしている。すべてが贅沢だ。
かつてよりは質素になったと聞くが、室内に座する貴族連中も充分に豪華である。豊満な奥方の胸に光るブローチ一つで、何人が救えるだろう? だから敗戦したのかも知れない。
クラーヴァ国の正装は地味で実直で、だからこそ目立った。イアナザールの誠実さを表わしているかにも見える。
クラーヴァとて、敗戦国ではないが敗退した身だ。立ち回りには細心の注意が必要である。
イアナザールは、ヤフリナ国王ジルニユ7世に、平伏でなく敬礼をした。
「このたびは我が軍も力およばず、遺憾でございました。謹んで、お見舞い申し上げます」
「はるばる再度の来訪、痛み入ります」
ヤフリナ国王は言いながら王座を降りて、イアナザールと同じ目線で挨拶した。いぶかしみたくなるほどの、親愛の情である。老齢の王は、イアナザールの頬を見て顔を歪めた。
「こちらこそ、済まなかったことであるよ」
「……いえ」
半ば面食らいながらも、丁寧に笑みを返す。
まさか「済まない」と言われるとは、思っていなかった。
対してクラーヴァ王は、謝罪を口にしなかったというのに。
この差は大きい。
敗戦の際、この地で命を落としてくれた騎士がいた。いい立ち回りをしてくれたということだろう。クリフの功績も大きい。感謝をしながら、イアナザールはヤフリナ国王への挨拶を終えた。
「こちらへ」
大臣らしき男が、クラーヴァ国王を席へと促がす。見守っていた周囲に、安堵の空気が流れた。ヤフリナ国王もきびすを返して、王座に戻ろうとした――が、王の足が……止まった。
息を呑む音が響いたほどだった。
「?」
イアナザールも振り向いた。周囲の者らも気付いて、次々と王座を注視する。異変に気付いた者は、そこからさらに上を見た。天井付近を見て、誰もに緊張が走った。
一旦なごんだはずの空気が、再び凍りついた。
広間に溢れていた光すら、暗くなったかに感じられた。金縛りの解けた者が口々に恐れおののき、大きなざわめきを生んだ。
「人だっ」
「ネロウェンが」
「う、浮いてる」
王座の真上に、いつの間にか2人の男が出現していたのである。様々な言語が飛びかう中に、固有名詞が混じった。
「ディナティ陛下!」
続いて、別の言葉が上がった。
「ダナ様!」
誰が吐いたとしても、間違えようのない名である。一斉にネロウェン兵が、片膝をついて頭を垂れた。
それが合図だったかのように、2人はゆっくりと降りてきた。空気に乗った王のマントとダナの長衣が、ふわりと広がった。黒い衣は、死の鳥ケーディが広げる翼にも似ていた。
誰もが固唾を呑んで凝視した。
ヤフリナ王の青い顔は、ダナ神に向けられている。黒い男は、降り立ってから初めて王の顔を見て、微笑んだ。
「ヤフリナ国王、ジルニユ7世陛下。お久しゅうございます」
老王は、名を呼ばれても身動きできなかった。全身が総毛立ち、唇が震えている。魔力による恐怖は、体の芯にまで根付いている。
ジルニユは、自分の王座が取られる光景をも、立ち尽くして眺めるしかできなかった。
ダナは、王座のかたわらに寄り添って立った。
王座には、褐色の少年が落ちついた。
「ディナティ、2世……」
ヤフリナ語が聞こえた。その声に弾かれて、ジルニユが動いた。
「よく、お越し下さいました!」
老王の口上が終わらないうちに、イアナザールも敬礼をした。思わず、拍手したくなった。勝者の登場として、申し分ない演出だ。悪役らしからぬ少年という見た目も評価が高い。
幼さの残る顔立ちに、意志の強さを示すへの字口。瞳にも力強さが満ちていて、まっすぐ皆を射抜いてくる。イアナザールは、隠し事もできなさそうだ、と内心で苦笑した。
異国人たる褐色の肌も正装も、砂にさらされている長い黒髪すら興味深い。
「クラーヴァ国王、イアナザール陛下でございます」
側近がネロウェン語で紹介するのに合わせて、イアナザールは再び敬礼をする。目が合うと、少年王は意味ありげに、はにかんだ。隠し事ができないのは、ディナティの方らしい。
これで侵略者なのだから、残念なことだ。もしくは侵略に猛る勇者だからこそ、雄雄しいのかも知れないが……どちらにしろ残念だ。
「ゆるりと杯を交わしたいものですな」
イアナザールの口から直に、そう挨拶してみた。クラーヴァ語を解するのか、試してみたのもある。オルセイを従えているのだから、分かりそうではある。
するとディナティは、苦笑した。
しまった、と思った。
和解をほのめかした狡猾さを咎められたか、それとも求められてもない発言を、しかも異国語で向けたことに不愉快を示されたのか。イアナザール自身は、ネロウェン語が話せない。それも暗に含んだつもりだったのだが、どちらにしろ失敗だったらしい。
だがネロウェン王の苦笑は、意味合いが違った。彼は、足を組んで「残念だ」とロマラール語で返したのである。
肘を突いて頬を触る仕草が大人びていて、王者たる風格をかもし出している。その落ち着きは、ダナを従えているために生まれたものだ。おそらく彼は今、世界で最強の王である。となれば、武力国家になるのも無理はない。
イアナザールは、彼の“余裕”に好感を持ったことを自嘲しながら、徐々に体が締め付けられていくのを感じた。戦いをクリフ任せにしていたせいで、勘が鈍ってしまったと見える。室内には、すでに魔力が充満していた。ひそやかに、ひそやかに立ちのぼり、皆を包んでいた。
広間がかげったように見えたのは、気のせいじゃなかった。
「かはっ……!」
たまらず、イアナザールは体を曲げた。どんなに喉を押さえても掻きむしっても、少しも空気が入ってこない。息ができない。声が出せない。胸が苦しい。
イアナザールは力を振り絞って、目前の男を睨んだ。男の横で、ディナティが言った。
「私も交わしたかった」
杯を。
たどたどしいロマラール語で呟いたきり、少年は王の顔に戻って、異国語を発した。早口で長文だと、もう意味がまったく分からない。ヤフリナ国王も戸惑っていて、急に苦しみだしたイアナザールとディナティを見比べて、狼狽していた。
「な、何を……」
老王が言いよどむ。
「おのれ!」
クラーヴァ旅団の一群が決起し、イアナザールの前に出かかった。武器など持っていない。イアナザールは、膝を折って伏しながらも、腕を振り上げて臣下を制した。犬死にさせるわけには行かない。
ダナに歯向かえば、広間だけでなく王都中の人間を皆殺しにされないとも限らない。自分一人の命でダナの溜飲を下げられるなら、むしろ本望である。
久しぶりに見たオルセイは、イアナザールが知るよりも、もっとダナらしくなった。
髪が色鮮やかに、長くなったためだけではあるまい。オルセイの瞳は、狂気に囚われて輝いている。表向きは悠然たるものだが、今やオルセイなのかどうかも怪しいものである。イアナザールは本来のオルセイを知らないが、2年前と比べても、さらに強大かつ暗澹となっている。今の魔法のせいなのか、彼の『魔の気』が一層、歪んでいくのが分かる。
オルセイの歪んだ口が、何かを呟いた。
クリフと読めたのは、イアナザールの考えすぎかも知れない。
頭上に聞こえてくるクラーヴァ語は、ネロウェンの体裁を整えていた。
「クラーヴァ国は、ネロウェンの嘆願を退けた。ネロウェン国のソラムレアの軍も打ち破った。あまつさえヤフリナ国に助力して、ネロウェンにたてついた。大きい罪だ。のこのこと現れた愚王の首を獲るのは当然であり、処刑場所にここを選んだのは、見せしめのためである。クラーヴァ旅団はただちに帰国し、降伏を示せ」
異国人が話すクラーヴァ語は、冷淡かつ平坦だ。多少おかしな言葉が混じっているのも、ネロウェン人の口上だからだろう。
イアナザールの後ろでは、臣下が騒いでいるようだった。背中や肩に、手のぬくもりを感じる。いたわられているのは感じるが、どんなにさすってくれても空気は得られない。
頭に血が上って、破裂しそうだ。つばも飲み込めない。口の端から床へ、唾液が落ちた。伏したイアナザールは、このまま惨めな肉塊となる自分を想像して、笑みを歪めた。公衆の面前で処刑される王としては、もっとも無様ではなかろうか。
だが、それは免れた。
暗転には、いたらなかった。
ふいに呪縛が解けたのである。
「……っ!」
ドンと派手な音を立てて、力の抜けたイアナザールは肩から落ちた。咳をして、体をさする。手を突いて上体を起こしたものの、息が上がっているし身体中の血も激しく脈打っていて目が回り、とても立てない。「ご無事で!?」と取り囲んでくる臣下を見回して、声にならない声で「大事ない」と応えるのが精一杯だった。
見渡して、臣下でない者がすぐ隣りに立っていることに、気が付いた。ついさっきまで、こんな者はいなかった。
直立不動で黙す者は、イアナザールの側にいながらもイアナザールを見ておらず、ネロウェン王を向いている。だが、どこを見ているのかは、分からない。
黒いマントとフードに、全身を隠しているのだから。
先ほどとは違う意味で、広間が凍り付いていた。皆、目を丸くしているのだろう。
臣下の誰かが呟いた。
「エ、ノ……」
言いかけて、立ち消えた。言ってはならぬと思えたか。だとすれば気持ちは分かる、とイアナザールも思った。口にしては消えてしまいそうで、名前にすら魔力がありそうで、呼ぶのが怖くなる。
この状況で絶妙に登場するなど、できすぎではないか。
イアナザールは思わず、憎まれ口を叩いてしまった。
「どこから見物していたのだ?」
「クリフのようなことを言うな」
透明な声は、嫌そうな響きを含んでいる。性格まで似せたつもりはないので心外だったが、なるほど確かに以前のイアナザールなら、開口一番は謝辞だったろう。それだけ慣れたのかも知れない。
間髪を入れず、第二波が飛んできた。今度はカマイタチと来た。
「うわぁっ!?」
皆が転がり、エノアは飛びすさって避けた。空気の刃は幸い、人を傷つけず椅子を真っ二つにして消えた。叫声が激しくなり、皆が逃げまどった。
静まれとヤフリナの老王が叫ぶものの、誰も聞かない。扉を叩き「出してくれ」とわめく者たちがいる。
「開けてくれ!」
外からも叩かれているようだった。ようだと分かったのは、室内が大人しくなったためだ。ネロウェン兵が貴族らを取り押さえてしまったのである。それだけではない。立っているのも辛いほど蔓延した『魔の気』に体をむしばまれ、気絶したり吐いたりする者が続出しているのだ。
ようやく体が楽になって立ち上がれたイアナザールは、すかさずネロウェン兵の一人をなぎ倒して剣を奪った。エノアもダナに向けて、手をかざし詠唱を始めた。
気負うイアナザールに手をかざして、制止をしながら。
「……え?」
エノアの魔法は、ダナを攻撃するものではなかった。
どす黒い『魔の気』が薄れて、空気が軽くなっていく。わずかな変化だったが、イアナザールには広間が明るくなったのが見えた。ダナも手を止めて、不思議そうにエノアを見ている。
それは、エノアの魔法に身をゆだねている状態だった。『気』の流れていく方向と吸収されている先が、はっきり見て取れる。
詠唱を終えたエノアが、わずかにフードを揺らした。クラーヴァ王に対して苦笑をしたと感じられた。
「イアナを冠するだけはあるな。思いのほか勇猛だ」
言われてイアナザールは気まずげに剣をおろし、眉をひそめた。
「……何のつもりだ?」
ダナに対しての、今の所業。“治癒”に似ていた。
「死なれては困る」
エノアの言葉通り、ダナは復活していた。ダナたる魔力が安定し、異常な憎悪が消えている。オルセイの本質に変わりはなく、一触即発の緊張感が漂ってはいるものの、目の輝きが違う。
暴走しかけていたダナを抑えたというところか……イアナザールは息をついて、オルセイから目をそらした。
だがエノアは、詠唱を終えてもなお、手をかざしたまま目を離さない。
「クラーヴァ国への介入を、おやめ願いたい。代わりに私がダナ様の力を補い、お支え致しましょう」
「な」
場がどよめいた。黒マントから流れた声の、ぴぃんと通っているのに霧をまとっているかのような印象に驚いた者もいたが、大半の者は内容に注目した。
「何を……!?」
と言った驚きが、そこかしこから聞こえた。
誰の口から出た言葉なのだと、耳を疑うセリフである。言葉遣いにも驚いた。俗世が分かってきたようだとは思ったものだったが、まさかここまで染まるとは。
イアナザールが仰天している間に、エノアはもう一つ付け加えた。
「私はエノア・ケセタル。クラーヴァ国の魔法使いでございます」
つまりエノアは、クラーヴァ国を守るために人質となって、ネロウェン国へ行くというのである。だから、へりくだる必要があり、なるほど敬語とて使わざるを得ないわけである。
皆がどよめく中、イアナザールはエノアに、些細なことを耳打ちした。
「貴殿に苗字があったとは意外だった」
「適当だ」
2人のささやきに、側近の怒号が重なった。
「貴様ごときが国の代わりなどとは、おこがましいわ!」
エノアが魔道士だと知る者はいない。力のほどが大きいことは分かるだろうが、たまにしか顔を見せない魔法使いを、一国と同じまでの評価など、できようはずがないのだ。
イアナザールは側近を「決めるのは私たちではない」と厳しく諌めた。
「エノアの価値は、ネロウェン国が決めることだ。だが……」
イアナザールは言葉を切り、今しがた自分を殺そうとしたダナに向かって、一礼をした。
「エノアの申し出を甘く見るディナティ王では、ありますまい」
挑むイアナザールにディナティが目を細め、ダナは、唇の端でだけフンと笑った。
「いまいましい」
思わず洩れたらしき小声は、限りなく本音に聞こえた。ダナの本音に動かされてか、ディナティも「検討しよう」と頷いた。
イアナザールは後日、側近にこうも言って、なだめたものだった。
「どこの馬の骨とも分からない魔法使いを差し出しただけで、クラーヴァ国が安泰になるのなら、これほど得な取引はないではないか」
それがイアナザールの心身ともにも、国としても、どれほどの損害なのかを知る者は少ない。
◇
この日、広間での調印が終えられると、にわかに大雨となった。
待ち構えていた豊穣の雨はすぐに姿を変えて、すべてを押し流す天の怒りと化した。街は一時、水に浸かった。水はけの悪い煉瓦作りのせいだ。
死傷者がいなかったのが不幸中の幸いで、この際、「ダナ様」と叫んだ者も少なくなかった。ヤフリナ国の隅々にまで、ダナの名が雨と共に浸み込んでいったのである。
数回に渡った三国による協議も、すべて雨の中でおこなわれた。
暑い月が雨にさらされ涼しくなり、野菜を育てて過ぎ去った。雨の恩恵は、遠くロマラールにまでおよんだ。
ヤフリナ国が賠償金を払い、イアナザールがエノアをさし出し……これらの代償によって、戦争は終わった。
かに見えた。
~5章・豊穣のライニに続く