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 濃い闇がたゆたっている。完全な暗闇ではなく、うっすらと室内の様子が見て取れる、紺色の暗がりだ。かなり目をこらさなければ見えないが、動くものがないのは分かる。

 人は、いる。

 室内には小さく延々と、音が響いている。音は息遣いを持ち、言葉を成している。どの国の人間も理解できない、完全に意味を熟知して使いこなしている人物は今や世界に7人しかいないだろう古い言葉だ。彼方でうごめく夜の動物から聞こえる遠吠えよりも、かすかな声である。

 昼の生き物がすべて寝静まっている中で、声の持ち主は昼夜を問わず古い言葉を発し続ける。もう何日続けているのかは、しかるべき者に訊けば教えてくれるだろう。だが呪文を唱えている本人は、気にしていない。

 体力の続く限り魔法を使い、疲れれば交代して休む。交代できる者は、赤紫の髪を持つ少女一人のみだ。代わっても、長くは休めない。何度繰り返したなどと憶えているだけ、記憶力の無駄だ。一心不乱に唱えるしかない。

 部屋の中央に眠る者を、起こさないよう。

 紺色の闇がわずかに白んできても、閉ざされた空間には影響しない。朝は来ない。永劫に変わらぬと思えるほど、よどみない声である。男女の別がつかない、天上のものがごとき声音には、時を止める力すらありそうだ。

 だが時は無常に流れており、多少の休憩では癒えない疲労が、確実に声の主を蝕んでいる。誰もそうとは気付かないだろうが、彼の声は最初の頃より小さく低くなった。彼が座しているさまも単なる黒い塊でしかないので誰にも注視されないが、今の彼は動かないのでなく、動けないでいるものである。もっとも、彼を目にしていい者は紫の少女とこの国の王に限られている。しかも王は不在だ。

 ゆえに、その『変化』が来た時に彼の声が明るくなったように聞こえたとしても、無理もない事態だったのだ。

「訪れた甲斐があるな。まさか、お前さんが歓迎の意を示してくれるとは」

 現代語と共に起こった『変化』は、白くなっていく朝の光よりも輝かしいものだった。目に見える変化としては、闇の室内に黒い塊がもう一つ、もこりと生まれただけだった。音もなく存在感もない、あらかじめ見ていなければ気付かなかっただろう程度の、静かな来訪だった。だが室内の空気は、明らかに軽くなった。

 なお詠唱をやめない彼の側に、塊が近づいていく。同じ黒い服を着た男は、詠唱する男の隣に座った。声は、男性のものだった。どこか飄々としていて、それでいて重く安定感のある、詠唱している者の声とは違った意味で、不思議な声だった。

 しかも、ロマラール語だ。

「安定している。よく(こら)えたな」

 場内の誰かが聞いたなら、クラーヴァ語だと思ったかも知れないが、それにしても訛りが強い。ロマラール語を知る者が聞いたなら、田舎育ちか、と思ったことだろう。

 男の言葉に安堵したのか遮られたのか、詠唱がすうっと消えた。いつ消えたのかも分からないほど静かに消えていたが、訪れた沈黙がかの者の思案を示している。一旦は軽くなった空気が、夏とは思えないほど冷ややかで硬くなった。

「むくれるな。私だけでは頼りないだろうが、ものは使いようだ」

 むくれたというのは怪しいが、気を許したのは確からしい。部屋が呼吸を始め、暖かい色になった。外の太陽が一層あがってきたためだろう。暗いままだが、塊の黒さは黒いマントだからだとか、横たわる者が赤毛の青年だといった様子は浮かんできた。

 新しく来た男がフードをかぶっていないことも、この男も赤い髪であることも。

 イアナの魔道士で、名をノーヴァという。

「エノア」

 ノーヴァが親しげに、名を呼んだ。

「私は正直、手放しでお前さんに賛同したんじゃない。ここに来た今も迷っている。だが、」

 半端に言葉を切って、ノーヴァは横たわる青年に目を向ける。青年が胸に抱える折れた剣も、彼と同様、魂を失ったまま動かない。

「クリフと言ったか?」

 話の矛先を換えたノーヴァに、フードの奥からエノアが短く答える。

「クリフォード・ノーマ」

「そうか」

 ノーヴァがクリフを見おろす目は優しい。目じりにたたえられている小じわが、余計にそう見せるのかも知れない。

 イアナの魔道士は、老人には至っていないが壮年である。かつては鍛えていたらしき体つきを黒マントの下に持っているものの、長い魔道士生活と年が老いを進行させている。エノアのように生まれついての魔道士でなく、妻子を失ってから、ふと山に入った男だ。

 そういう魔道士が多い。

 開花するきっかけは、人それぞれである。

 黒装束でなければ、髪を短く刈ったノーヴァが町にいても“少し不思議な、ただのおじさん”かも知れない。もっとも“少し不思議”という形容を付けたくなる時点で、ただのおじさんではないのだが。

「行くのか」

 ノーヴァはまた、話を換えた。

 エノアが応じる。

「任せる」

 肯定の意。来てくれた感謝。クリフを任せることの、信頼。

 エノアの言葉には、聞こえない部分に沢山の意味が含まれている。

「もう少し待てば、こいつも剣もよみがえる。使い物になると思うが、」

「無理だ」

 天空から降るような声音は、鋭い刃となって男のおしゃべりを両断した。

「斬れない」

 ダナを。ディナティを。ラウリーを。

 誰を指すにしても、そうだろうと納得できる非難である。クリフには斬れないだろう、と思える。寝顔にすらも、人となりは浮かんでいるものだ。

 斬れないから連れて行かないというエノアの論法は、逆に言えばエノアが斬る、ということだ。エノアが当初より主張していた“不安定なダナをオルセイからラウリーに映して安定させ、ダナごとラウリーを浄化する”案は、いまだに健在なのだ。エノアがラウリーを守っていたのは、そこで死ぬべき人材じゃなかったからだ。

 ――という建前は理解できるし、しかもノーヴァは机上でないエノアの本音も心得ている。いざとなれば殺さざるを得ないラウリーを、エノアはクリフにさせたくないのだ。自分の役目だと思っているエノアを、ノーヴァには止められない。

「あいかわらず無口だな」

 赤毛の壮年は、久々に会った緑の青年が変わっていないことに苦笑した。根本は変わっていない、昔からのエノアである。

 6人に反対されても一人でダナに挑む、優しい男である。

 山で拾われたエノアは、人世を知らない。ゆえに冷たく、ゆえに人が好きだ。なまじ『妻子』という特別な相手を抱えていたノーヴァより、よほど達観的なのは確かである。

 変わったのは、その達観性が崩れたことか。

 ノーヴァは、エノアとクリフを見比べた。

 目も動かさずに、そっと内心で思っただけだったのだが、エノアには気付かれたらしい。「何が言いたい」と問われて、あやうく目を丸くしかけた。エノアを変えた男に、ますます興味が沸いてしまうではないか。

「いや」

 ノーヴァはクリフに意識を向けて、言った。

「目を見てみたい子だと思っただけさ」

 その感想から何を読み取ったのか、エノアは、今度は応じなかった。

 彼らの会話に釣られて幕を開けて行くように、暗かった室内が徐々に明るくなっていく。窓をふさぐ鉄の戸から、光が洩れているためだ。布を張っているものの完全には遮断されない。天井付近には換気口もある。

 だが、折れた剣の柄に施されている装飾の細やかさまでは見えない。柄尻の赤い石まで暗がりに沈んでいるほどだが、これは石自身の生命力が萎えているためでもあるだろう。かつて世界を白く染めるまでに輝いたイアナの石は、折れた刀身を悼むように黙している。

 あるいは刀身の復活を待ってか、自身を抱く主の目覚めを祈って、息を潜めているのか。

 どちらにしろ、神石どころか魔石と呼ばれるに値する魅力は、まったくない。

 石に触れかけて、手を退く。

 思うところがあったのか、ノックの音がしたからかは不明である。

 コンコンと響きはしたものの、ノックの主は返答を待たずに扉を開けた。開けてもいい室内であると感知できる者だからだ。エノアから肯の気が出たことを読み取る力と、入室できる権利の持ち主は、クラーヴァ城に一人しかいない。

「お初に、いえ、お久しぶりです、と言うべきでしょうか」

 開けるや否や、少女はノーヴァに向かって深く頭を下げた。驚きはしなかった。ノーヴァもまた、少女の『気』を読んでいた。魔道士の村で一緒に“遠見”をした仲でもある。漆黒の闇の中、顔を見たことも自己紹介をしたこともなかっただけだ。

「ノーヴァだ」

「リニエス・ジェマと申します」

 名だけを告げる。この際、肩書きなど蛇足というものだ。

 案の定、世俗に疎い魔道士は、ジェマという姓を聞いても反応しなかった。反応すべき事柄じゃないからでなく、知らないからである。

「お召し上がり下さい」

 リニエスは持っていたトレイを床に置いて、乗っていた丸い器を彼らの前に置いた。とぷんと中身が揺れ、受け皿に置いてあるスプーンがわずかに堅い音を立てた。わざわざのテーブルセッティングやらダイニングマナーなど、彼らには必要ない。

 少女は魔道士を放っておくと、面倒がってか忘れてか食欲がないからか、何日も食べずにいてしまうことを知っている。何しろ物心ついた時からの、ラハウからなる付き合いだ。心得たものである。

 明け方の胃に優しそうな、薄味らしき緑色の液体が、ほわりと湯気を上げている。受け皿には、クラッカーも2枚、乗っている。

「マニか」

 緑色の正体を名指しして、ノーヴァは器の暖かさを確かめるように両手で包んで、リニエスに「ありがとう」と柔らかく礼を述べた。

「いい子だ」

 言われて、リニエスの目が瞬いた。「いえ」とか「別に」とか何とか呟いたようだったが、言葉にならなかった。困ったように目を伏せる少女をノーヴァはさらに誉めたくなったが、すると、もっと困ることだろう。微笑ましく思いながら、赤毛の魔道士は口元にしわを作って、マニスープを味わった。

 エノアも、スプーンをフードの奥に運んでいる。どうやらリニエスが差し出すものは、すべて胃に収めているらしい。2人の間に流れる空気は、魔道士たちが差し向かいで話すよりも自然だと感じられる。

 任せると言いつつも立つことすらできないエノアである。立ち去るためにも、休息が必要だ。詠唱の口を閉ざしたエノアの『気』は、すでに霧散している。完全にこの場をノーヴァに任せたのだ。

 赤毛の魔道士も覚悟して、『気』を腹に溜めんかとするように、スープを一口ずつ丁寧に飲み込む。食べ終わった2人がリニエスに器を返し、リニエスが退室すると、ノーヴァがエノアの位置に座った。エノアは体をずらして、隅のベッドへ退散する。フードがずれて、エノアの横顔が見えた。顔色が悪くないので、寝れば元気になるだろう、といった風である。容態もさることながら、あいかわらずの目に毒な美貌に、ノーヴァは苦笑した。7人中でも、エノアの造作は突出している。

 エノアの黒マントを見て、ふと気付いた。

「新しいな」

 マントだけではない。ズボンも新品だ。

 エノアは能面のまま「彼女が」とだけ応えて、コトンと眠りに落ちた。今度ばかりは『彼女が作った』のか『彼女が手配したのか』など分からなかったが、その彼女がリニエスなのは間違い。

 ああいう子なら、いい嫁さんになるのだろうな、などと俗っぽくノーヴァは思う。いい相手に巡りあうことを祈りたくなる子だ。

 もしくは、と考えた言葉は、つい口に出てしまった。

「ダナの魔道士……」

 素質は、充分にある。推薦や希望でなれるものでなく神の意思によって、つまり自然になるべくしてなるのが魔道士なので、これは愚考でしかない。愚考だが、思わずひらめいてしまうほど、彼女の『気』は魔道士に近い。

 ケイヤはいくつだったかなと思った、この呟きの方はさすがに心中に収めた。

 ほどなくして再びノックと共に、リニエスが入室した。エノアが眠るベッドと反対の隅に座り、あぐらを掻いて両手の指の腹を合わせ、さっそく『気』を集中させ始めている。

 ノーヴァも応じて、『魔の気』を高めにかかった。

 低い声でゆるく言葉をつむぎ、部屋全体に魔力を満ちさせる。呼応して中央の魔法陣が、暖かな気を放出し始める。陣に横たわるクリフの寝顔までもが、少し和らいだようだった。低い声に合わせて、そっと可愛い声が寄り添う。陣がさらに力を増した。

 魔法を紡ぎながらノーヴァは、今度はためらわず、だが慎重に剣へ手を伸ばした。張り詰めた空気が彼を包む。触れる直前の指先に『気』が集中し、緊張が高まった。心なしか詠唱も速くなった。

 ピシリ、と空気が音を立てたように感じられ――ノーヴァの指が、イアナの剣の柄に増えた。

 そのままゆっくりと、そっと手を回して、もう片方の手でクリフの腕を上げ、剣の半身を抜き取る。詠唱は、緊張感を持って続けられている。危険な作業だ。

 ノーヴァは「耐えられるか?」と自身に問うた。神石のついた方を手にして制御できている以上、本体とはいえ、もう片方にかかるリスクは少ない。だが2つともを手にして狂わずにいられる自信は、ない。

 ないが、『魔力』が充実している今のうちに取り上げられなければ、この先も無理だろう。エノアのおかげで、剣は安定している。

 ノーヴァは思い切って、剣身を掴んだ。掴んだ瞬間、後悔がよぎった。やはりエノアを放っておくべきだったか、来るべきではなかったか……下手をすると、魔道士になった自分に後悔し、怒りを感じ、急に妻子のことまで思い出した。

 火事に呑まれて死んだ息子。子供を助けようとして、死んだ妻。火事は、自分の不始末が原因だった。自分が妻子を殺したのだ。なぜ自分は生きているのだ。魔道士になぞ、なったのだ。

「ノーヴァ様」

 可愛らしい声が、小さくロマラール語を口にした。したとも分からないほど一瞬で、彼女はすぐ古代語に戻った。その一言で、ノーヴァは救われた。目をつむると、見開いて力を入れていたことに気付いた。口も歪んでいたようだ。顔にこわばりがある。

 ノーヴァは息をついて、あぐらの上に並べた剣を、改めて睨んだ。

 真っ二つに折れた刀身。切れ目は、綺麗だ。

「ありがとう、リニエス」

 呼びかけて、顔を向ける。リニエスは目を伏せて応じた。

「鍛冶場の手配を頼む。この国で一番熱い炉を、貸してくれ」

 一つの大事業を終えた室内が、さらに明るくなっていく。今日も晴天らしい。きっと城外には、すでに憎らしいほどの青空が広がっているのだろう。

 落ち着いて穏やかになったノーヴァの輪郭も、濃く浮かび上がった。リニエスは驚かなかったが、彼の顔の左半分には、目尻から顎にかけて頬全体がケロイドにおおわれている、火傷の跡がはっきりと見えた。

「かしこまりました」

 最初からの同じ調子で応じ、リニエスは立ち上がった。と同時にノーヴァは、魔法を再開した。剣を取り上げたとはいえ、クリフの治癒は続いている。眠らせておくためにも、続けなければならない。

 ノーヴァは詠唱しながら柄を握り、かつて鍛冶屋だった頃の記憶を辿った。

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