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4-7(断裁)

 両手の指先を5つ、合わせる。指の腹と腹を、ズレがないように、人差し指から丁寧に。手のひらまでは合わせない。指の腹だけだ。互いの皮下に血が通っていると感じられる強さは微妙である。弱すぎず強くなく、脈を探る。

 血の流れは指先から手首、腕、胸へと続いて、身体をめぐる。床に接触する膝には熱がなく脈も感じにくいが、それでも何とか膝から足の甲まで使って石の感触を味わい、大地に溶けこむかの感覚に陥ることができている。ひたすら無心に、静かに体内と向きあう。

 そうっと吸って、肺の奥まで空気を入れる。暖かい息を吐いて、身体から絞りだす。呼吸が、空気と同化する。肌を撫でる風を捕まえて、意識を乗せる。『気』が、固体から離れる。

 すると、物音がした。途端に『気』が四散した。

 ラウリーは意識を引き戻されて、嘆息した。それは安堵の溜め息でもあった。大丈夫だ、という確信を得たのだ。自分は、ちゃんと、自分だ。

「ラウリー」

 呼ばれて、顔を上げようとする。だが上がらなかった。こわばっているし、痛くて、首どころか体すべてを動かせない。中途半端に吊るされて首をうなだれたまま、ラウリーは何時間も同じ格好で硬直している。頭が重くて首が痛いのは、血と汗でごわついた髪が重いせいもあるだろう。

 戻ってきた意識は、容赦なく体の痛みを脳に伝達してくれる。この伝達を魔法で遮断することも可能だったが、ラウリーはしない。痛みを受け止めて、何度も気絶していた。何度目かに目覚めてみると誰もおらず静かだったので、『気』を集中して自分の状態を確かめてみた次第である。

 体の状態より、精神状態が心配だった。

 イアナの剣を折られたまでは覚えていたが、次に気付いた時には、この石牢だったのだ。見張りに立つ男も鞭打つ男も褐色で、ネロウェン語が飛びかった。だからネロウェン国に戻ったのだと分かった。

 鞭を打つ男の向こうには、紫髪の兄が立っていた。だから王宮内と察した。おそらくはクーナ宮だ。真実を明かす宮。罪に問われる拷問室があり、罰を負う牢獄がある。

 腹を蹴られて吐き、打たれて切れて血が流れている、このような汚い場所へは、王族も魔道士も顔を見せない。吐瀉物(としゃぶつ)と汗、血の生臭さがないまぜになり腐臭と化した中に取り残されていると、もう自分は用済みなのだなと実感できる。

 なのに自分はまだ生きていて、オルセイに見おろされている。

『殺さないの?』

 言いかけてはやめた言葉が、脳裏に漂う。答は分かっている。愚問だ。

 目覚めた今も、目覚めた以上は愚問を口になどしない。言いはしないが、やっぱり心中に渦巻いている。弱っている今、目前に立っているのだろうオルセイには、そんな心が感知されているのだろう。こちらが感じるオルセイの『気』は、底なし沼がたたずむかのように静かで不気味だ。

 実際、鞭で痛めつけられただけなど表面的なものであり、オルセイにしては優しすぎる。逃げないように足を切るぐらいのことは、されるかと覚悟していた。

「足などと、くだらないこと」

 くつくつと笑う声が降ってくる。やっぱり、心を覗かれている。『気』を練られないので、心が隠せない。だが『魔力』が充分でも隠す気はなかった。むしろ奥底までひけらかして、進んで「見ろ」と言う気持ちだった。後ろめたいものは、何もない。

 恍惚とすら、なった、自分を。

 ヤフリナ国で振った、イアナの剣。

 戦場を経験するたびに、剣はラウリーのものになって行った。手に吸い付いてきた。クラーヴァ軍の大将と対峙する頃には、違和感なく扱える剣になった。違和感がなさすぎて、振っているうちに自分が剣に振らされているかの感覚に堕ちた。馴染みすぎて、面白すぎて。そうだ。あの戦いは、面白かった。その感覚に気付いて、ひるんで、型が崩れたのだ。崩れた瞬間を、見逃されなかった。

 折れた剣を見た時の感情を、何と表現すればいいのだろう。

 激情の奔流が体内をむしばんで、五感を奪いとった。自覚していなかった黒い渦の中に、白いダナを見た気がした。一方では、なぜか爽快ですらあった。その感覚は、目覚めた今も覚えている。

 解き放たれたと感じたことは、兄に対する罪だ。そう自覚しているから、軽い罰だと思える。

 石牢の天井に埋めこまれている楔からは、皮の縄が垂れ下がっている。縄の先は、ラウリーの手首を縛っている。手首の薄い皮は幾度も切れて血を噴き出し、気絶して休憩しては、固まった。固まった血を鮮血が覆って、また固まる。食いこんだ縄は赤く染まり、手首と一体化している。

 立ち上がれば、手首が楽になる。ラウリーは膝で立っている。座ることができない高さに、吊るされている。だが立ち上がる力はない。縄を握る力もない。悲鳴をこらえる元気もなくなった。情けないが、ラウリーは何度も叫んで声を枯らした。

 喉がひりついて喋れないのは、好都合だったかも知れない。

「気分はどうだ?」

 知った声が頭上から降ってくるが、答える元気もない。声音が近い。もし目を開けたら、すぐ目の前にオルセイの顔があるのかも知れない。目が開かないのは、まぶたが腫れているからだ。

 身体中、痛くない場所はない。服が切り裂かれているようで、素肌に空気を感じる。まだ身を覆っているのかどうか怪しいものだが、ところどころに布の感触があるので、かろうじて着用しているようだ。鞭の使い手がうまいのだろう。皮の鎧は脱がされているだろうから、下着のみか……。夏で良かった、とラウリーは明後日なことを考えた。

「ヤフリナを制する大きな功績とはなったものの、世界の宝たる、神の媒体を壊したのだ。しかも敵の手に渡ってしまった、この罪は大きい」

 分かるな? と言いたげな、諭すような口調である。だから見せつけとしてお前を傷つけているのだ、とオルセイは語っている。罪が鞭だけなのも、そのためだ。見た目に分かりやすい。

 ラウリーには、この戒めの裏にオルセイ自身の苛立ちも含まれているように思えた。手中に収めたはずの妹が、思い通りになっていない事実への苛立ち。馬鹿な人だ、とラウリーは心の底で、低く思う。あなたと彼では、最初から立ち位置が違うのに。

「!」

 頭に衝撃が叩き込まれた。バシンと派手な音がした辺り、おそらく平手を打たれたのだろう。じんじんと痛かった体の感覚が、一瞬すべて吹き飛んだ。視界がパッと光って、また暗転した。引っぱられた手首が、ちぎれたかと思った。だが、まだ宙ぶらりんだ。革紐も手首もちぎれていない。

 やっぱり今の自分では筒抜けだ。ならば逆にオルセイは分かっているはずである。こんなになってもラウリーはオルセイを、ダナを見捨てない。ダナが暴走すれば世界が滅ぶ、その危うい魔力を支えているのが、あろうことかラウリーだからだ……などという理由は、やもすれば建前である。

 オルセイを見捨てられない理由は、理性だけじゃない。が、この感情が家族愛なのかどうか分からない。

「俺を元に戻す目的が、お前の存在意義だからじゃないか?」

 オルセイの声がこともなげに言葉を作り、「殺さないさ」と続いた。

 平静を取り戻した声と共に、ブツッという音が響いて、ラウリーは崩れ落ちた。ラウリーは手を突く暇もなく、頭から落ちて床に激突した。鈍く硬い音が耳の奥を打ち、頭の先から爪先にまで、鐘がガンガンと鳴り響いた。体勢を立て直す力も湧かないラウリーの上に、切られた革紐がパサリと落ちた。

 目前のダナが自分を蹴っているのか撫でているのか、それとも見おろしているだけなのか。分からない。感覚が鈍い。だが押しつぶして来そうなほど大きい『魔の気』は側にあって、まだそこにオルセイがいることを示している。

 苛立ちと憎しみに揺れるダナの『魔力』は不安定で、彼を取りまく者たちを混沌に陥れる。不安にかられ、不振を持ち、不満をかかえ、不幸を背負う。不幸から逃れる方法を、ダナは自分より大きな不幸を作ることしか知らない。

 ラウリーは時々ダナに負けそうな自分を感じる。

 今もそうだ、痛めつけられ放り出されて、誰もに見捨てられた現状は、自分が望んだ結果のはずなのに、いざ突きつけられると、こんなに苦しい。

 そんなラウリーを熟知した上で、オルセイは追い討ちをかける。

「何しろ、あいつに『死ね』と罵倒したダナの魔女だ。今後も働いてもらうとも」

 ――いっそ負けてしまった方が、どんなに楽になれるだろうか。

「……何それ」

 声にならない声で、呟いてしまった。これを聞いたオルセイは悠然と、嘲笑すらも含んでラウリーに言い聞かせる。

「イアナの剣が折れてからの記憶がないようなのでな。知らないままでは不快だろう?」

 知っても不快な気がする。

 とはいえ、この現状では彼の言葉を防ぐ手段がない。覚悟するしかない。自分の悲鳴とわめく声、罵声と、そして嘆き声に。目をむいて荒れ狂う姿と、力尽きて泣き崩れる醜態に。必死で抱きしめて大丈夫だと勇気付けてくれた、あの腕の甘さと心地よさに。あまつさえ、その手を振りほどいて力を奪って倒した大将の負け姿に、ラウリーは覚悟をするしかないのだ。

 激怒と憎悪に、心が赤く焼けついた。憎しみ、だ。巣くうダナが殺せと叫ぶ。憎いのだと嘆く。

 飲まれた人間は、人間じゃなくなる。

「う……」

 うつぶせのままラウリーは、一層体を曲げて、たまらず吐いた。空になったと思われていた胃からは、血が塊で出てきた。まぶたの隙間から見えたそれは、どす黒かった。内臓が破れたのかも知れない。

 血の海に沈んで朦朧とするラウリーに、オルセイがさらなる映像をねじこむ。それは過去の記憶でなく、“遠見”だ。ここではない、どこか。ラウリーがよく知っている部屋である。

 魔法陣の真ん中に眠る赤毛の男と、そのかたわらに座る男の、翠の髪。

 オルセイはほんの一瞬しか見せてくれなかった。幻のように儚かった光景が、しかし幻じゃないとラウリーには分かる。オルセイもそれを知っているから、一瞬で充分だったのだ。希望と安堵であり、残酷な絶望でもあった。戦いは終わらないのだ。

 胸が締めつけられるのは、体が壊れたからじゃない。

 いや、ずっと以前から壊れているのだろう。きっと、クラーヴァ城を出た日から。あの城へ彼らが帰っているのを安堵と感じられたのは、あそこが第二の故郷になったせいだ。

 庭で剣の稽古をした。畑も手伝った。図書館はラウリーにとって、宝の蔵だった。魔石集めをして、時には狩りにも行った。街へ買い物にも出かけた。集会に顔を出し、酔狂な魔法使いだと言われたが、王都の人々の運動に参加もしたものだった。教義も受けて、試験にも受かり、リニエスと共に魔法師の称号を得た。晴れて仕事に就き、その多忙さに驚き、喜んだものだった。水脈を探し、怪我人を治し、風を読み、いくつもの魔法陣も描いて練習を重ねた。時折、書き順を間違って暴走したのも、今なら笑って話せるだろうか。術を磨き、エノアの補佐をして、戻る人を愛して。

 脳裏を、記憶が駆けていく。

 あまりに速くて、目が回る。

 倒れ伏して動けないラウリーは、自分が痙攣していることに気付いていない。まぶたが開いても、彼女は白目をむいているだろう。泡を吹く妹を冷ややかに見おろして、オルセイは「そろそろか」と呟く。ラウリーの回想は止まらない。

 オルセイに連れられ、砂漠の民に会い、ネロウェン国に仇なす者を殺して、奪って、魔女と化し、ついには人ならざる者になり、それでもまだ止まらない。

 何もかもが消えて、白く、遠くなっていく。駆け抜けた記憶が去って、虚無になる。激しくも緩慢な痛みが、ラウリーの心を壊して逃げていく。

 あと一歩で、逝ける。

 そう感じられた。

 感じた時には、遅かった。

 感じたということは、逝けなかったということだ。

 我に返ったラウリーに再び、どんよりとした痛みが襲ってきた。とうに麻痺したと思っていた嗅覚まで戻ってきたようで、顔が貼りついている床の血と吐瀉物に、新たな吐き気を覚えた。聴覚も健在だった。

 耳元で「ラウリー」と呼ばれたのが、はっきりと分かった。

 オルセイの声ではなかった。

 人間の声じゃない。

 しゃがれている。

 耳障りで汚らしいダミ声に、ラウリーは何よりも救われている。

 同時に、室内からオルセイの『気』がなくなっていることにも気付いた。ケディと入れ違いに出ていったのだ。オルセイがケディを入れたのかも知れない。ケディはオルセイが苦手だ。ダナは、生きとし生けるものから敬遠される。

 ラウリーは息をついて、呼吸が軽くなったのを確かめた。ケディが近くにいなかったせいで、『魔力』が暴走しかけていたのだ。オルセイの仕置きだけが原因じゃなかった。いや本当の仕置きは、ケディを外されていたことかも知れない。

 ラウリーの中で確実に一つ、壊れたものがあった。

「ごめんね、ケディ」

 喉が治っていた。内臓が正常に機能している。だが体の傷は痛くて、思うように動かせない。まぶたも腫れたままらしく、鳥の姿が見たいのに目が開かない。必要最低限だけ“治癒”されたらしい。

 思わず謝罪したラウリーに、醜悪な鳥はにべもない。

「謝る理由が分かってんなら、気軽に謝れないはずじゃねぇか?」

 ごもっとも、である。ただケディを振り回したこと、彼の存在を忘れていた先ほどの自分を振り返って、自己満足で謝罪したに過ぎない。ケディの受けた思いを察するなら、こんな手軽な言葉じゃ許されないだろう。

 なのに側にいてくれる、許してくれている。どうして私に尽くしてくれるのかと問うても、きっとケディはケッと笑って否定するだろう。尽くしてなどいない。好きで、ここにいるだけだ、と。

「ありがとう」

「それも一緒」

 などと切り返してくる、この知能のどこが鳥なのだろう。ラウリーの口元に、久しく忘れていた笑みがよみがえった。

「ケディは大丈夫だった?」

 訊いてから、これも愚問だったと後悔した。大丈夫と言うに決まっているではないか。

 と思いきや、意外にもケディは殊勝に答えた。

「ちょっとな」

 と。

「怪我したの?」

「いや」

 珍しく言いよどんでから、ケディはいつもの調子に戻った。

「俺もダナに引っぱられた」

 あまり言いたくなかった言葉のようだった。言った後、彼は顔をそむけて格子を見つめた。

 人が人じゃなくなるように、ケディはケディたる名をなくし、ただのケーディに戻ったのだ。ネロウェンに戻った直後、王宮を飛び出して、ふらふらとさまよったのだという。クスマスに捕獲されて、ようやく戻ってきたらしい。

「よく帰ってくれたのね」

「ここの方が食いっぱぐれないからな」

 気遣いある嘘で締めくくって、ケディは「それより」と続けた。

「俺がいない間のラウリーを、あいつが支えていたんだ。そのあいつを、ユノたちが総出で支えていた。とはいえ魔力が足らないのは、お前が一番知っているだろう?」

 ラウリーは一瞬「あいつ」やら「ユノ」やらと表現された人名に鼻白んだが、すぐに頷く仕草を見せた。顔を床に貼りつけたままだが、ケディには通じたようだ。彼は言った。

「不安定なダナの『気』が王宮に影響して、ちょっとした騒動が起こったぞ」

 大事(おおごと)だ。

 戦争以上の騒動など想像がつかなかったが、わざわざケディが報告するぐらいなのだから、かなりの事件なのだろう。怪訝さをかもしだしたラウリーに応えて、ケディは「今は治まったけどな」と言い置いてから、その名を口にした。

「王弟が死んだ」

「……マラナエバ、様が?」

 ラウリーの脳裏に、殺しても死なないと思われていた不敵な笑みが、浮かんで消えた。

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