4-5(魔力)
神の媒体は、時代と共に変化する。
イアナの剣は、昔は片手持ちだったと言われる。だが現在は両手持ちである。寂れて朽ちて崩れ去り、新しい剣へと神石がはめこまれたのだ。銀製のランプが昔は胴だったとか、ナティの指輪が腕輪だった時代もあるという。
媒体が生まれかわる節目に起こる事件も、様々残されている。快楽の過ぎた領主や、裁判が厳しすぎた国。そして戦争。揺れる心は、少し揺れすぎただけで人の域を出てしまう。人の間にいられなくなる。
ダナが堕ちた時すでに、振り子は振り切れていたのかも知れない。
──ダナの魔女は、呆然と自分の手を見つめた。
硬く握った拳の先には、あるべき刃が半分しかない。半分より短いかも知れない。短剣のようになった剣を、彼女は睨みつけるしかできなかった。まるで、睨んでいれば剣が生えてくるのではないかというように。
クリフも同じように、呆然としてしまった。折る気など、なかった。濃度の高い、密な手合わせの中に一筋だけ見えた隙を逃してなるものかと、針の穴に糸を通す気持ちで振りおろしたに過ぎない。この筋を見逃せば、負けていた。
とはいえ心のどこかでは、
『この角度と速度でイアナの剣にぶつかれば、折るかも知れない』
と、分かっていた気がする。仮にもクリフは剣士の称号を手にしている。それだけの腕前を持っている。知らないわけがなかったのだ。
クリフは、自分の剣が折れたかのように自失した。自分の剣だと思えばこそ、折ることができたのかも知れない。自分の手にないからこそ。
周囲の兵らまでが呆然と、折れた剣を見つめている。
風まで止まった。すべての音が止まった。
赤い剣が神体であるとは誰も知らないはずなのに、凍った空気は人々の心の底まで冷やした。特別な、恐ろしい現象だということを、生き物が皆、本能で感じたのだ。
場が凍った一瞬を味わった者には、それは永遠の闇だった。
何が起こるのかを、固唾を呑んで見守っている。
まんじりともできない、緊迫の中で。
魔女が。
壊れた。
「ああああああああっ!!」
高音が、空気を引き裂いた。
声にもなっていないほどの悲鳴である。
兵らも乱れた。逃げる者や、再び戦い出す者。場が混乱した。
クリフもやっと、弾かれて瞬きした。
「ラウリー!」
叫ぶが、彼女の耳には届いていない。魔女は奇声を発しながら、折れた剣を短剣の握りに換えて、襲いかかってきたのだ。
「!?」
まだ戦うのか!? と驚きながらも、防がないわけには行かない。受けとめた剣が、ズンと重さを増した。
剣が折れたのに、一目でラウリーがおかしいと分かるのに、おかしくなった分だけ彼女の力が増しているのである。魔力が強大になっている。
クリフの狼狽は、力の増大にとどまらなかった。
今まで一度も聞かなかった言葉が、彼女の口から飛びだしたのである。
「死ね!!」
──魔女の叫びは、遠くで戦う魔道士たちにも、はっきりと聞こえた。徐々に近付いてはいるのだが、特にクスマスがエノアを行かせまいとするため、なかなかクリフたちと合流できないでいる。
クスマスの斧を避けて、エノアは言う。
「停戦だ」
「できんな」
水色の魔道士は、あくまで姿勢を変えない。
「今が勝機だ」
「人を狂わせてでも、か?」
「何をもって狂気と呼ぶかね?」
面白そうに、幸運の魔道士は言う。言わんとするところは分からないでもない。
「あれが彼女の本心さ」
言いながら斧を振る、その速度が増している。指輪が輝いていた。マラナのブローチも、力を増しているようだ。優勢を感じているのだろう仕草は、戦場であるにも関わらず、踊るように軽やかである。
その軽やかな足取りの、浮いた瞬間をエノアは見きわめた。
クスマスが、踏みこむために助走した足を地面に着けないうちに。
「!」
踏みこむより一歩速く、クスマスは斧を振らざるを得なかった。だがテンポの狂った斧の先は、エノアを逃した。懐に迫られて、クスマスは体をのけぞらせた。
エノアのマントは、もはや布屑である。今しがたも切り裂きはしたものの、体を捕らえることはできなかったのだ。細身の体がむき出しになっている。見とれそうに整った手が、クスマスの腕を掴みあげる……不似合いな怪力で。
クスマスはエノアを振りほどけず、押しあったまま動けなくなった。
「それでも、」
と、エノアはクスマスを睨んだ。
「あんなラウリーは、ラウリーじゃない」
「お前の弟子じゃあるまいに」
エノアの吐いた生の声に、クスマスはうろたえてしまった。エノアの思考を占めるラウリーの存在が意外に大きかったのだ。クスマスも、それなりには彼女を見ていた。彼女の人格や心理について考慮したことは、ある。ただの駒とまでは言わない。だが、エノアが彼女を人間らしく扱っていることの方が、やけに不思議に感じられた。この差がクスマスの計算を狂わせて、勝算を低くした。
クスマスが思っていたよりラウリーの存在は、エノアの中で『意外に』どころではなかったのだ。
エノアは若干、眼力をゆるめて言った。
「あれは魔道士になるかも知れん」
「なっ……」
クスマスは、腕力をゆるめてしまった。
すかさずエノアが攻めた。押しきられて、クスマスはたたらを踏んだ。ふいに腕を離されて体勢を崩したところに、エノアの蹴りが飛んできた。腕を蹴飛ばされて、斧を落としてしまった。
「エノア! お前っ」
慌てて魔力を練って放ったが、走り去るエノアには届かない。立ちあがりながら走ったが、ラウリーの元にはエノアが先に着くだろう。それは予想でなく確信だった。
エノアなら、先に着いてもラウリーを殺さない。そんな気がした。それで油断した。
クスマスの方は、エノアより先に現場へ着いてクリフを殺すつもりだった。彼の存在が、ダナの魔女を乱すからである。彼がいるから魔女は、がむしゃらに戦うのだ。彼が消えれば、魔女は冷静に戦えるのだ。
ラウリーの奇声は、まだ続いている。胸に刺さりそうなほど聞こえている。死ねと連呼する叫び声は、狂人のそれである。イアナの剣から放出する魔力を受けて、理性を失ったのだ。
媒体を持たないダナが解放されて、人々から心を奪った時のように。
「目を覚ませ!」
と呼びかけてみるが、覚めない。クリフの脳裏に、オルセイとの戦いが思い浮かぶ。
正気に戻れと叫びかけたが、実は正気なのかも知れない。剣は、正確無比に鋭い。オルセイも狂気に堕ちたかに見えたが、今の彼が正気なままの本来の彼だということは前回の手合わせで吐き気がするほど味わった。もう沢山だ。
浴びせられ続ける、呪いの言葉。疲れが目に見えそうなほど、倍増していく。手元に引きよせたと思えた希望がみるみる萎んでいくのを、クリフは感じていた。
ダナの魔女が叫ぶ。
「お前さえ、いなければ!」
──俺さえ?
クリフは、はたと眉尻を上げる。
奇声よりも、意味をなす言葉の方が胸に刺さる。
──俺がいなきゃ、お前は平穏に暮らしていたというのか?
剣を振るう、ラウリー。彼女が剣を握ることになった、きっかけは、クリフだ。髪を切ってグール狩人になろうとしたラウリー。その後ラウリーは髪を伸ばしなおして、魔道士になろうと足掻いた。
きっかけは、クリフだ。
──俺がいなきゃ、普通の娘に育っていたと?
クリフは戦いながらも、思考が止められなかった。なのに体はよく動いた。ある意味では上の空な状態だ。受けている剣は狂気のもので、しかも魔力の乗った剣だ。なのに受けて、互角に戦っている。自分の体が自分のものでないように、思ったままに、思った以上に速く反応している。
だが、それは先ほど体験した一体感とは違う。
彼女とは何か、相容れない大きな壁を挟んで撃ち合っているようだった。
何にも知らないくせに、と彼女は言う。
なら彼女はクリフのことを知っていたのかといえば、そんなわけがなく。
クリフにはクリフの苦労があった、それを理解しないまま敵となったのだろうラウリーの態度は、本当ならば許せない。自分を抑えて彼女を想ってオルセイを思いやって、何とか今まで凌いできたのだ。
──お前さえいなければ、などと。
クリフをこそが言いたかった。お前たちが、いなければ、と。
──俺はずっと、お前たちに振りまわされている。
「この……!」
クリフは腕を振りあげた。両手で彼女の剣を受け流した後、右手で彼女を殴ろうとしていた。
イアナの剣は長剣でなくなった。とはいえ短剣とも勝手が違う。力を増したとはいえ、剣としては無能になったのだ。暴走する魔力を駆使して魔法を剣に乗せて振ることができていない今、力の軍配はクリフにある。
クリフの拳は、完全にラウリーの頬を捕らえていた。
まともに当たっていれば奥歯の一本や二本、欠けただろう。脳しんとうが起こったかも知れない。やもすれば失神したまま、目覚めなかったかも知れない。
未遂でなければ。
「あ……」
クリフの腕を止めたのは、エノアだった。飛びこんできて、かじりつくようにクリフの腕を掴んだのである。
「エ、エノ……」
息が上がっていた。よほど急いできたのだ。エノアが。
どれだけの激戦をこなしてきたのか、マントがなくなっている。ボロ布が背中に貼りついているだけの、傷だらけの姿。戦場に出るたび満身創痍になる彼にしては、まだ綺麗な方なのかも知れない。痛みを感じていないとしか思えない能面がクリフを捕らえると、クリフは嫌でも我に返る。
掴まれているクリフの腕から、何やら力が抜けてきた。
抜けるのでなく、込められているのかも知れない。どちらか分からなかった。だが、どちらでもいい気がした。腕の緊張がほぐれて、ふんわりと暖かくなるのを感じたのである。
「落ちつけ」
久しぶりに聞いた気がする天上の声に、クリフは文字通り毒気を抜かれた。深呼吸してから、ラウリーを見すえる。クリフの歪みかけた感情が、元に戻っていた。いや、奥底に閉じこめなおした、というべきか。彼女に対して抱く感情は、赤やら黒まで複雑な色が混ざりあっている。
彼女が憎しみの言葉を吐くたびに。
「ぎあぅっ!」
いや、もう言葉にもなっていなかった。
眼球が飛びでそうなほど血走った目で、泡を吹きそうな、よだれを垂らした口元で。せっかく返した組み紐も、ほどけて落ちてしまった。髪が乱れて顔を隠す。鋭い剣技も消え失せた。ただただ魔力で無理矢理ねじ伏せるように、剣を振っているだけである。
これが、魔の力なのだ。
エノアが彼女に手をかざした。呟かれる言葉に反応して、ラウリーの体が跳ねる。それを嫌がるように、また襲いかかってくる。
「よせラウリー、剣を放せ!」
叫び声は、別の者だ。頭上からだった。
「え?」
ダミ声の鳥が旋回していた。クリフの手が止まりかけた。
「クリフ!」
「!」
ガキッと鈍い音が衝突する。エノアに呼ばれなければ、首が飛んでいたかも知れない。狂人の怪力をいなすのは、至難の業である。魔女の剣は変わらず、英雄の首を狙っている。それも、正確に。
怒りと憎しみ、2つの魔力をして。
2つは、ラウリーの中にある。
今しがたクリフが抱いた怒りは、イアナによるものだったのだ。魔力が漏れだした影響だった。
けれど、それより外の皆は、さほどおかしくない。ということに、今しがた気が付いた。気付かないほどに、クリフもおかしかったということだ。
暴走したダナ神は、国一つを潰して狂気の集団に変えたというのに。それともイアナの剣は、“刃が折れた”というだけで、そこまでの威力ではないというのか。想像の域を出ない。
出ないが、ラウリーが2神の魔力を外に出すまいとしていることだけは、分かった。
『力』の流れが、ラウリーの周りだけで渦を巻いてとどまっている。それをエノアが手伝って、抑えこんでいる。自身を取りもどして、やっと見えた光景だった。
一体の動物と化してしまったラウリー。
見る影もないほどに乱れ、顎が外れそうなほど吼えて、クリフをなじる。わめく。泣き叫ぶ。汗と血と涎でギトギトになった彼女の顔に、目に涙が浮かんでいるのを、自分はどうして見えていなかったのか。
クリフは胸を締めつけられた。
「もういい!」
引きよせて、抱きしめる。暴れられるほどに、強く抱きしめた。彼女の手に刃物があろうと、それが自分を刺していようと、構わなかった。クリフは脇を犠牲にして彼女に抱きついて腕を締めあげ、イアナの剣を止めた。
「もう、いいんだ」
刺されても痛くないほどに、心が痛い。
降下してきた鳥が「とりゃっ!」とラウリーの手元を蹴飛ばした。ゆるんだ手から、クリフが剣を引きはがした。剣を持ったまま彼女を抱くクリフの手に、エノアが手を重ねる。もう一方の手がラウリーの肩に置かれて、エノアは詠唱を始めた。
クリフは彼女の頭にしがみついて紫髪を撫でる以外に、何もできなかった。そんなクリフの肩に、ケーディがとまる。ケディからも優しい力が流れこんでくる。ラウリーに向けられている。クリフは、せめて『力』をラウリーに届けんと、より強く抱きしめた。
腕の中ではラウリーがまだ、わめき、もがいている。放せと叫んでいるようである。もう泣き声だった。汗の甘い匂いと一緒に、血のすえた臭いも漂った。クリフの頬だ。
暴れられるたびに、クリフの頬から飛ぶ鮮血が彼女を赤く染めていく。まるで血の洗礼であるかのように、彼女の動きが弱まっていった。
「大丈夫。大丈夫だから」
「しっかりしろ、飲まれるな」
一人と一匹が呼びかける中、ようやく暴れるのをやめたラウリーが顔を上げた。汗で顔中に貼りついた髪を拭ってやると、泣きじゃくった顔が現れる。
ラウリーは泣きながらも、しっかりとクリフを見上げていた。
「うあ、うああ」
幼子がすがるように見上げられて、そんなラウリーが手を上げようとしたので、ついクリフの拘束がゆるんでしまった。だが再び暴れはせず、ラウリーは、クリフの腕から引き抜いた手でクリフの頬を包んだ。
「……ラウリー……?」
熱い手の平だった。
クリフの頬は肉が裂けて、骨が見えそうなほどにまでなっているはずである。手合わせで極限まで集中して、痛みを感じなかっただけだった。触れられれば、改めて痛みがよみがえる。倒れそうなほどの失血を感じる。
それが、彼女の手によって緩和されているのだ。
泣きながら、うなりながらクリフの頬を“治癒”する彼女は、自分が何をしているのか分かっていない風に見える。だが行動はラウリーである。かつての彼女が、まっさきにするだろう行動である。
クリフは涙をこらえて歯を食いしばり、さらに抱きしめようとした。
だが。
「ラウリー!」
別の声が、これをさえぎった。
途端に彼女が目をむいた。バチッと破裂音がして、クリフは耐えたものの、エノアが吹き飛ばされた。一旦は大人しくなった彼女が見せる怒りが、まだ狂気なのか正気に戻ったのか、クリフには判断できなかった。頬にあった彼女の手が、クリフの首を絞めたからである。
それと同時に、急激に体が冷えて動かなくなった。
「……う……」
話そうとする口も回らない。周囲の声が遠くなった。視界がじわじわと暗くなっていく。やけに長い時間に思えた。押しよせる闇が、クリフから力を奪っていく。それでもクリフは手を硬く握りしめて、イアナの剣とラウリーを放さない。
ふいに視界が晴れた。ラウリーが手を放した。
自主的に放してくれたのなら嬉しかったが、黒い男に引きはがされたのだった。水色の魔道士が、エノアと同じに聞こえる言葉を紡いでいた。クリフは『お前のせいで』と言いかけたが、言えなかった。喉が詰まって、声が出ない。
クリフはよろけて、尻餅をついた。羽ばたいたケーディが、今度はクスマスの肩に乗り移っている。クスマスも負傷したようだったが、エノアよりまともな格好だ。
クスマスがラウリーを抱きしめるのを、クリフは見ているしかなかった。手を伸ばしたくとも、その力さえ入らないのだ。完全に、魔女に力を吸われてしまった。ラウリーが腹を打たれて気絶する光景もすべて、見ているだけである。
彼女を横抱きにした魔道士が、何やら魔法を詠唱している。周囲の兵らは彼を守るように、円陣を組みだした。戦争の流れが変わったと感じられた。クリフが……大将が倒れたせいだ。魔道士は魔女を抱えて“転移”で逃げるのだろうと察しがついたが、彼の詠唱には力強さがあり、悠然としている。負けて逃げる者の態度ではない。
打ちのめされているのは、クリフの方だった。
泣きわめきたかったが、そんな力もなかった。握る柄だけが熱くて、どれもこれもが気に入らなかった。すべてを破壊し尽くしたい、自分の心をも壊したいほど燃えさかる感情は、エノアに触れられて鎮火した。
エノアがクリフを押さえつけながら、口を開いた。
「クスマス」
呼ばれた方が驚いていた。分かる気がする。おそらく初めて、名を呼ばれたのだろう。
エノアは滅多に人の名を口にしない。
「死相が出ている」
誰のことを指したのかも分からない一言に、クリフの脳が激しく動いてしまった。ラウリーのことを言ったのか? だが、それを伝えることの意義は、何だろう? 守ってやってくれとでも言うのか。何から? 死から? ダナから?
オルセイから?
いや。エノアは無駄なことを言わない。そんな漠然とした訴えじゃないだろう。確信の上で、死相を回避せよと呼びかけたのだ。すなわち、クスマス本人に。
クリフの思考が辿りついた時、当人も首を竦めていた。
幸運の魔道士は、笑って応じた。
「生まれたからには、いつか死ぬさ」
言い残して、消えた。
クリフも頭を使ったのがとどめになったのか、とうとう限界に達して落ちた。
頬の血だけが止まっていた。