幕間短編「ダナという神」
本編より7年前です。
「死に神」と「死の神」は違う。
ラウリーがそう思うようになったのには当然、理由がある。昔「死に神」と言われたことがあるせいだ。
何も分かっていない子供が吐いた、イジメの言葉に過ぎない。
今ではそう思えるが、昔は苦しめられた。なげく娘に、母親は言ったものだった。
「死に神のわけがないわ。けれど、お前の髪にも何か理由があるはずなの。だから拒絶しないで。ありのままの自分を受け入れなさい」
7歳の少女には難しすぎて何を言っているんだか分からなかった母の慰めは、しかし、ラウリーの心を落ちつけた。落ちついた彼女は母に言った。
「理由って?」
母親は彼女を膝に抱いたまま優しく髪を撫でて、くすりと楽しそうに微笑む。
「例えば、お前が世界一可愛く見える色だとか」
そう言って頬にくれた柔らかいキスは、今でも忘れられない心の支えだ。
髪を伸ばしはじめたのは15歳を過ぎてからだった。それまでは狩りに邪魔だからというのが理由で、少年のように短くしていた。だが魔法を学んで魔道士になる──という夢を持ってからは、長くしようと決めた。18になる頃には、肩を越える長い髪になった。
村から近いとはいっても王都だと当然ラウリーを知らない者は多くて、色を忌みきらって陰口を叩く者がいたようだった。だがラウリーは気にしないようにした。叩きたい者は叩けば良い。
私は言葉なんかでは殺されない。生きることが許されている限り。
そう思えるようになった決定的な事件は、11歳の時だった。
◇
紫色。
この世界を守護する7神は、7色を有する。
ラウリーの髪には、死を司る神、ダナの守護色が現れている。
髪にまで色が現れることは滅多にない。通常は瞳だけで、髪は茶色や黒、珍しいと金髪や銀髪もあるが彩度──鮮やかさは皆、低い。幸運のナティが守護する水色や、豊穣の神ライニの色は朱に近い茶色。ニユは安息の神で、緑色をしている。他に美の神マラナの碧色、イアナ神の赤色と続く。真実神のクーナだけが彩度のない黒と白の二色を有する。
瞳を見ても微妙な色合いで、どの神か分からない場合も多い。
特にロマラール国では神話が廃れていて、魔法は邪法で使い手がほとんどおらず、神の業を引きつぐ『魔力』の真骨頂『魔道士』だなんて存在になると、もう架空だよという風潮が強い。だから神の色など占い師が使うていどで、さほど気にされていないのが現状だ。
だが「気にしていないんだったら髪の色も気にするな」と言いたいところなのに、人は負の噂が好きなようで、そうした迷信だけは風化せず言い伝えられていたりする。
いわく、
「死の神ダナが世界を滅ぼしかけて魔力が廃れ、今の世の中になったのだ」
ということである。
ゆえに、死に神。
その色を強く持っているラウリーは、だから、死に神と揶揄される。
単純な式だ。
けれど、ちゃんと本などを調べれば神話がもっと複雑で、旧世界に人として暮らしていた神々が滅びかかったのも、ダナのせいではないのだということが分かる。本が読めれば、それが分かる。読めない平民は興味を示すこともなく、時代と共に段々と歪んでいく神話を語り継いでいって、果ては違う物体にしてしまう。
本当に滅ぼしたのはイアナなのだ。
戦いの神、イアナ。
赤い目と赤い髪を持っていた、情熱的な神。どのくらい赤かったのかは知らない。けれど多分、燃えさかる炎のようにか、あるいは鮮血のようだったのに違いない。
強い意志をたたえた瞳だったに違いない。
まっすぐに人を見つめて揺らがない。
二重で、爛々としていて好奇心に溢れていて。
顔つきはまだまだ少年のくせに目だけが時々大人びて、人をどきっとさせるのだ。
「うわ!」
ラウリーは思わず声を上げて、飛びおきた。急に体を起こしたので、避けきれなかった彼の胸に、ラウリーの顔がぼふんと埋まった。ぼふんと言っても薄い胸板だし支えてもらえなかったので痛かった。
頭突きをくらった少年が、すっ転んだ。
「ってぇ! お前なぁ!」
赤い目をした少年がわめきながら胸を押さえ、ラウリーは額をさすってベッドにうずくまった。背中まで伸びた髪がさらりと床を這う。もう香の匂いも消えていた。絵本を読みながら、うたた寝してしまったらしい。全開にした木窓から入ってくる光が薄暗くなっており、風も冷たくなっていた。
「なんでクリフがあたしの部屋に入ってきてんのよ! 出てってよっ」
夢うつつだった自分の顔を見られたことと赤い瞳に惹きつけられていたなんてことが言えない羞恥心があいまって、少女のわめく声は必要以上に大きくなった。
「晩飯だから呼びに来たんだろー。返事がなかったんだから、仕方がないじゃねぇか!」
のっけからケンカ越し、すぐにでも取っ組み合いを始めそうな雰囲気である。けれど本当に取っ組み合いのケンカになることは滅多にない。仲裁役もちゃんといるからだ。
「お前らなぁ」
ため息をついて額を押さえるのが、この2人を仲裁する時の兄オルセイが取るポーズだった。戸口に立つ第三者、オルセイの姿を見てラウリーが矛を収めた。いつまでも部屋から妹が出てこないので、兄も心配して呼びにきてくれたらしい。
台所には良い匂いが充満している。冷めてはいなさそうだ。
「サイアンを頂いたのよ」
と母親は嬉しそうに、大きな魚のバター焼きを切り分ける。これ一尾で家族5人の腹が満ちる大きさである。切った部分から、湯気と香りがもわりと上がった。バターに混じる香草が、食欲を引きだす。
だが。
「……ごめんなさい、お母さん。あたし、いらない。あ、ううん少しだけちょうだい。スープも、ちょっと多いや」
ラウリーは自分用に出されたスープを、鍋に戻してしまったのだった。11歳。プロポーションを気にするのはまだ早い、食べざかりのお年頃である。
というか元々、彼女が女の子らしいものに興味を示したところなど、見たことがない。髪を伸ばさせているのは母親の趣味もあるのだが、切るのが面倒だからという彼女と利害が一致したものだ。けれど、それを結んだり飾りを挿したりなどして遊んでいるところを見たことがない。外ではねまわることが多いので、いつも一つにまとめて、くくっているだけだ。
母親以下4人は怪訝な顔になってしまった。
「食欲がないのか?」
と父親が小声で尋ねる。ラウリーは所在なさげな顔をした。
「病気?」
と聞かれた、この母の問いには首を横に振ることができた。
「お前、サイアン嫌いだっけ?」
「嫌いじゃないんだけど……」
兄の気遣いは嬉しいが答えにくい。嗜好の問題ではないのだ。
「まぁ良いじゃん、取り分が増えた」
げし。
ラウリーは無言でクリフのお尻に蹴りを入れた。クリフが椅子から落ちかけて、慌てて体勢を直す。危うく手にしていたフォークを落としかけたが、かろうじて堪えた。
「痛ってぇなぁ、もうお前さっきからっ。俺に恨みでもあるのかよ」
「恨みがあったら、もっと正確にあんたの頸動脈を止めてるわよ、この穀潰し! 遠慮なく食べてないで、さっさとグール捕れるようになってみたらどう?」
「ラウリー!」
低音の怒号があがった。これには父親が黙っていなかった。ふんぞり返っていたラウリーだったが、さすがに自分の非に気づいたらしく、しゅんと縮こまった。
「……ごめんなさい」
「謝るならクリフにだ」
ラウリーは我が家に居候をしている、兄と同い年である男に向きなおったが、自分を見てくれないので、どうにも謝りにくかった。何とか頭だけ下げてみる。
「言葉も」
父親は厳しい。
「ごめん」
あまりに小さくて聞きとれなさそうな声だったが、クリフの耳には入ったらしい。クリフが「いや」とか何とか言うのが聞こえた。クリフとて、まだ13歳である。素直に謝る術を知らない年だった。
再開された食事は、通夜のようになってしまった。
重い空気をかもしだす食卓の中で、母親がラウリーの気落ちの原因に思いあたり「あ」と声を上げた。すぐ気づいて口を閉ざしたが、オルセイが「何?」と訊いたので、続けざるを得なくなった。
「今日ラウリー、村に新しく入った子と一緒に皆で遊んできたのよね? 何かあったのかと思っちゃって」
「ラウリー、そうなのか?」
父親が娘を覗きこんだが、そのような聞き方をされて答えられるものではない。少女は苦い顔をした。少年2人はすでにグール狩人になるための訓練に入っていて、滅多に遊んだりしない。2人で競いあって上達していくのが楽しくて、他事に興味が移らないのである。
普通の狩人よりも、グールという動物に対しては力と技が必要になる。国内でも数が少ないグール狩人という職業を担っているのは、村の中では、ここコマーラ家の主ともう一人ぐらいしかいないのだ。兄2人は、継承者としてグール狩人の道を選んだ。
だが、それとこれとは別で、新しく入った者たちの顔は知っていたりする。山が近い麓の、小さな村だ。どこの貴族が落ちぶれてきたのか知らないが、母一人子一人に従者つきという馬車が外れの大きな家に来ていたのは、村人全員が知っている。
子供は、ラウリーより少し体の小さい、意地の悪そうな少年だった……というのは、オルセイの偏見だろうが。
その偏見があったせいでオルセイから、
「あいつが何か言ってきたのか?」
という問いが飛びだした。平気なフリを務めたようだったが、少女の顔は歪んだ。
「何もないよ」
何かあったことが明確なくせに、少女は強がる。無意識のうちに、ラウリーは髪を触っていた。頬を撫でる毛を耳にかける。
気が付かないわけがない。
だから皆、気が付かないふりをした。
母親が何かを思いだしたように勢いよく手をパンとうち鳴らした。
「そうだわ、ラウリー。あなたのズボンを縫ってるんだけど、糸が足りなくなってきたの。食べ物の調達もしたいから、明日お母さんと一緒に王都へ行かない?」
王都に出かけるのは一日仕事になる。わざとらしい誘いだったので気づかないわけがなかったが、余計な反論はしなかった。
「ううん。明日も遊ぼうってセディエと約束してるから、あっちに行ってくるよ」
「あいつもいるんじゃないのか?」
聞いたのはクリフだ。皆が内心でツッコミを入れたが、ラウリーは同居人の罪なき失言を流すことにしたらしい。笑顔でうけ答えた。
「うん、いると思うけど構わない」
やっぱり全員でツッコミを入れたくなる、険のある口調だったが。
◇
そんな調子で出かけた娘である。いくら「昨日のことは忘れた」と言わんばかりの元気ぶりを発揮していたって、本当には忘れているわけがない。親が心配するのは当たり前である。とはいえ、大の大人が実際に後を付けていくわけにも行かない。
かくして両親から命を受けた兄2人が、妹を見まもることになったのだった。もしイジメられたりなどしていたら、さりげなく、狩りをしていたオルセイたちが彼女を見つけたという風にふるまって、子供たちを諫める……という、穏便なシナリオが作られた。
面と向かって戦うわけには行かない。ラウリーの髪をからかうていどのイジメなら、彼女にも耐える努力が必要になる。仮に染めたって、今度は逆に「染めたのは後ろめたいからか?」とイジメられる種になるだけだ。
そう思いながら草場の影からラウリーらが遊ぶ様子を見ていたオルセイとクリフは、自分たちの認識が甘かったことに、すぐ気づいたのだった。
ラウリーは抵抗する少女なのだ。
そして新参者の少年は、抵抗を面白がる子供だった。
金を使って子分にしたのだろうか、さっそく従えた仲間3人と共に、ラウリーやセディエら子供たちが森で遊ぶさまを邪魔しにかかって貴族の子供は、言ったのだった。
「お前らも、こいつから離れた方が良いぜ。僕たちと一緒に遊ぼう」
セディエたち5人は怖がりながらも、ラウリーをかばってくれた。ラウリーが何も悪くないことを、古参の村人は知っている。だが妙に知恵のある少年の言葉は巧みだった。
「“文献”って知ってるか? 古い、難しいことがいっぱい書いてある本なんだぜ。僕はそれを読んだんだけど、紫色の髪したダナ神の使いは、村を滅ぼしちゃうほどの魔力を持ってるんだ」
子供たちがざわめいた。身を潜めて聞いていたクリフたちも、ちょっと顔色を変えた。「文献って何だ?」「文の本だろ」などと、ささやきあう。
しかも少年は畳みかける。
「僕が引っ越ししてきた日、大雨だったろ? あれは村に僕たちを入れたくない、こいつの心が引きおこした現象なんだぜ。お前、僕のこと嫌いだろ?」
ラウリーに向かって、にやりと笑う。雨が降ったのは本当だが、ラウリーにそんなことが、できるわけがない。しかも言い方が陰険だ。「心が引きおこした」などと言われれば、そんなものを証明する手だてなど、何もない。
しかもラウリーは、この少年が嫌いである。
ラウリーの味方をしてくれていたはずの子供たちから勢いがなくなり、若干、彼女との間に距離ができた。そこに少年らイジメグループがずいと割りこんだ。
しょせんは子供たちである。10歳に満たない幼子もいる。もっともらしく言われると、そうなのかなと思ってしまう。まして皆、心中では死の神ダナを恐れている。お伽話で語りつがれるダナは子供にとって怖い存在だ。「早く寝ないと闇に潜むダナ神がお前をさらいに来るよ」などと活用される。
ラウリーは迫ってくる少年から一歩退いたが、それ以上は退かなかった。気持ちが足を止めて、退けなかった。
すると、紫の瞳に射ぬかれた少年が歪んだ笑みを浮かべながら、急に懐から大きなハサミを取りだしたのである。刃を動かすと、シャキンといかにも切れそうな音が出た。女の子は悲鳴を上げ、男の子たちもどよめいた。
少年は、
「髪の毛を切っちゃえば、変な魔力がなくなるんだ。ありがたく僕に頭を出せよ」
と、ラウリーにすごんだ。
とたんに子分3人が、すばやくラウリーの腕や髪の束を掴みにかかった。一度は退いた子供たちだったが、さすがに騒いだ。
「ラウリーを放せよ!」
「何するのよ!」
様々な叫び声が飛びかって森にこだました。オルセイとクリフも飛びだしていた。これは冗談にならない。
だが。
おぼつかない手つきで刃が開かれたハサミは、ラウリーの頬をかすめつつ後頭部の束に襲いかかったのだった。ラウリーの頬に赤い亀裂が走った。だがラウリーの神経は、それよりも後頭部に集中していた。
ジャキン! という、まるで耳を切るかのような大音量が響いた……ように思われた。
背筋が凍った。
頭のてっぺんから足の先にまで、冷たい感覚が走った。次いで頭が軽くなった。
髪を引っぱられたことなど、痛くなかった。その拘束が急にほどけたことの方が、辛かった。頬に投げつけられた紫の髪が、生き物のように風に舞った。それはずいぶんと長かった。ひとくくりにしていた束を、一気に切られたのだ。
くくっていた紐も切れたらしく、中途半端に残った長い毛が自分の首筋を撫でていた。
だが少年は「まだだぜ」とラウリーを押さえつける。全部を丁寧に刈りとってしまう気らしい。あまりのできごとに呆然としてしまったラウリーは抵抗すら忘れて、また羽交い締めにされた。
「お前らっ!」
そこへ、ようやく追いついたクリフが飛びこんでいた。オルセイはどう切りだそうと思案した分だけ足が遅れたが、クリフには、ためらいがなかった。さきほどまで描いていた穏便なシナリオなど、どこかに消え去っていた。
容赦のない一発が、少年の頬にふり落とされる。
鍛えはじめた狩人見習いの、しかも年上の男からくり出されるゲンコツから逃れられるわけがない。彼の頬が一気に腫れて赤くなり、貴族の坊ちゃんは号泣してしまった。
「何するんだよ、お前っ。僕は死に神をその子から追いはらおうとしてただけじゃないか。髪なんか伸ばしてるから悪いんだよ、そんな色してるくせに!」
少年の剣幕に合わせて、子分たちも口々に「死に神!」とわめく。自分たちの正当性をなくしたくないのだ。
「いい加減にしろ、ラウリーは何もしてない!」
かばうクリフに少年は、なおも叫んだ。
「何もしてなくたって、何かしちゃってるんだよ! 魔法ってそういうもんなんだよ。知らないうちに嫌なことしてたり、誰かを殺してたりするんだよっ」
「物騒だなぁ、お前」
背後から近づいたオルセイが、さも嫌そうな顔をしながら坊ちゃんの襟首を掴んだ。頼りになる兄貴分2人の出現に周囲は湧いたが、肝心のラウリーは硬い顔のままだった。
クリフの背がピクリとはねたのを、見逃さなかったからだ。
坊ちゃんの言葉に反応したのである。
昨日のケンカが思いだされたのかも知れない。
一昨日も何だったか、言いあいをしたはずだ。
いや、先週もやっぱり……。
そして3年前にはクリフの両親が……死んだ。
クリフの影で、ラウリーの顔がどんどんと暗くなった。
そのことに気づいていなかったクリフは、ラウリーが走りだすのを止められなかった。
「お、おい!」
ラウリーは反転して、森の奥に入っていってしまったのである。
オルセイも後を追おうとしたのだが、「やっぱりな! 心当たりがあるんだ」と少年が喜ぶので足を止めた。こいつを何とかする方が先だ。
オルセイは彼の正面にずいと立ち、ハサミを構える彼の手首を叩いて取りあげた。逃げられないように、がしっと頭を押さえつける。森の狩人見習いと街の坊ちゃんでは、天と地ほどに差があった。
オルセイも、髪は黒いがダナ神を守護に冠する少年である。
紫の輝きに射すくめられて、子供たちがびくりと首を竦めた。
「生きてるだけで何かしちゃってるもんだと思わんか? お前だって何もしてなくたって腹が減って、メシ食うだろうが。ペーネの丸焼きかもな。その瞬間にお前はペーネを殺してるんだぞ」
オルセイは理論好きの坊ちゃんに合わせて、丁寧に喋ってみせた。これは彼らが狩人の師匠でもある父親から口すっぱく言われている言葉だが、この坊ちゃんにも分かるはずだとオルセイは判断したのだ。性格は悪いが、頭の良い少年だ。
理解したらしい。
少年は二の句が継げなくなった。
「ラウリーが死んだら、お前が殺したことになる。その時は俺がお前を殺すがな」
単刀直入に脅迫したオルセイの目は、真剣だった。心なしか瞳が鮮やかに光ったようにすら感じられた。震えあがった子供たちをその場に残して、オルセイもラウリーとクリフの後を追ったのだった。
皆がおののいたり「格好いい……」と呟いたりする者がいる中、本当に敵に回してはいけない者が誰かを悟った貴族の少年は、失禁をこらえるのに必死だった。
◇
オルセイが見つけた2人は、崖の下に落ちていた。
どうやらラウリーが足を踏みはずしたのをクリフが支えようとして、一緒に落ちたらしい……とオルセイは推測した。砂の崖は斜めに、あり地獄の様相をていしている。しかも重なって落ちているクリフの方が足を、クリフの上に乗ったラウリーが腕を押さえてうめいているではないか。落ち方が悪かったらしい。高さはさほどでもないが、登ることはできなさそうだ。坂がきついので、回りこむ道も見あたらない。
「大丈夫かー?」
とにかくはまず、声をかけてみる。
すかさずクリフが「大丈夫じゃなーい!」と叫んだ。
大丈夫そうだ。
「すぐ戻るから、そのままじっとしてろよーっ。父さんを呼んでくる」
するとラウリーがオルセイの名を呼んだ。
「何だ?」
覗きこむ兄に、ラウリーは遠目ながら笑ったように見えた。寂しげな笑み。
「お父さんとお母さんには言わないでね。うっとおしくなったから自分で切ったことにして」
髪のことだ。
オルセイの胸が痛んだ。
「分かった」
兄は力強く頷いて、2人の前から姿を消した。クリフも当然2人のやり取りは聞いていて、彼はオルセイが去ってからラウリーに「馬ぁ鹿」と言いだした。
「はぁ?!」
叫んでふり向いてから、自分がクリフに乗っかっていたことに気づいてラウリーは体をずらした。木々も生えていて支えられてはいるが足場が弱いので、大きく動けない。狭い窪みの中で2人はもみ合いかけたが、お互いの怪我に気づいて大人しくなった。
クリフは足をさすってみた。血が滲んでいたが、ひねっただけのようだ。折れてはいない。ラウリーは自分の腕を確認せずにクリフの怪我を見おろしている。クリフはもう一度「馬鹿」と言って、言葉を続けた。
「言わないでって言ったって、バレるもんなんだよ、こういうのは。変に強がってないで、ありのまま言っちまえば良いんだ」
「だって……。だって、そんなこと言って余計な心配かけたくないじゃない。死に神なんて言われてる娘なんて、お父さんたちだって……。私……」
ゆっくりと立ちあがったラウリーは、そろそろと足を動かした。窪みの外に出るつもりらしい。泣きそうな顔をしている。
「おい!」
「もう、いいんだもん!」
自棄になったラウリーを、寸前で取りおさえた。またクリフの足がズキンと痛んだが、それどころではない。ラウリーは崖から飛びおりようと……死のうとしたのだ。
「放してよ!」
「放せるか!」
「もう嫌だ、ずーっと、あんなこと言われつづけてっ。生まれかわって紫色じゃない髪の毛になるんだもん」
「生まれかわったって、それはラウリーじゃなくなるだろ! ラウリー・コマーラは消えるじゃないか」
「消しちゃってよ! 兄さんもクリフもいるんだから、私一人いなくなっても誰も困らなっ、きゃっ?!」
クリフはラウリーを窪みの中へ引きずり倒し、尻餅をついている彼女の頬をパンと引っぱたいた。ためらいのある鈍い破裂音が、草葉に吸収されて消えた。
ラウリーは頬を押さえてクリフを睨んだ。
「クリフには関係ないでしょ!」
「ある」
自信たっぷりに、すかさず返された短い言葉に、ラウリーは言葉を失ってしまった。
クリフは足をさすりながら、明後日を向いて呟いた。
「お前が、俺が死んでも何とも思わないっていうんだったら、俺も何とも思わないかも知れないけど」
回りくどい。
が、言いたいことは分かった。
クリフが死んだら、と想定したら答はおのずと出てくる。
「俺が死ぬとしたら、理由は孤児だから、かな。アホオヤジのせいで親戚に長いことたらい回しにされたから、今でも俺のことを嫌いな貴族もいるだろうし」
「それは……っ。そんな、クリフのせいじゃ、」
「お前の髪が紫なのも、お前のせいじゃないしな」
クリフの笑みがやけに大人びた、落ちついたものに見えた。ラウリーは目をそらした。
「私には魔力があるって」
「ねーよ、そんなもん」
「でも神の色が濃いと、魔力も強いって」
「迷信だろ、そんなの」
「分からないじゃない!」
「じゃあ調べれば良い」
「え」
ラウリーが再び凍った。
「あいつが、そう言っただけだろ。本当かどうか分からないじゃないか。王都にいる賢者や村の爺さんにでも、手当たり次第に聞いてみろ。今までに誰か、そんなこと言ったヤツがいたか?」
いた。
王都に行った時、公爵とかいう人がラウリーを見かけた時に「不吉な子だ」と呟いたことがあった。
けれど、すぐ別の人がそれを否定してくれた。買い物に行った先の老婆だったが、彼女が「あたしは神の色した人を何人も知っているよ」と言ってくれたのだ。
常に人の噂は、半々だった。
半々であることに、ずっと救われてきた。
「生きてても良い理由なら分かるが、死んで良い理由は、俺には分からん」
「理由って何?」
「今、生きてるから」
クリフが言った。
「父さんと母さんは……俺たちは皆、お前が勝手に死ぬなんて許さないぞ」
「許さないって」
ラウリーは息を詰めてから、せき払いして続けた。なぜか段々と気持ちが軽く、嬉しくなるのを感じながら。
半々ではない。
「でも、うっかり死んじゃうことがあるかも知れないじゃない」
「誰かが側にいたら、滅多なことでは死なせないさ」
「クリフが側にいてくれても?」
悪気のないあどけない妹の言葉に、義兄は思わず咳きこんだ。分かっていないラウリーは小首を傾げた。クリフは苦笑して約束した。
「ああ」
それから付けたす。
「父さんだってオルセイだって、そうだろ」
「だね」
オルセイの名で納得してくれるというのも悔しいが、ラウリーの表情が晴れた。だからクリフは、もう一つ追加しておいた。
「お前だって誰かが死にそうになってたら、助けるだろ」
「うん」
完全に納得したらしい。少女は笑顔で「分かった」と頷いた。
「もう死にたいとか自分はいらない人間だとか言うなよ」
「言わない」
「約束しろ」
ラウリーは「はーい」と言いながら、急に小指を突きだした。
「?」
「セディエに教えてもらったの。小指と小指を引っかけてね、指切りげんまん、嘘ついたら針千本、飲ーますって言うんだって。王都で流行ってるんだって」
「ふぅん」
クリフは不可解な顔をしながらも、小指を出した。せっかく機嫌良くなった少女をまた怒らせたくないという気持ちがある。戸惑いながら、ラウリーのそれに小指を引っかける。
「でも針千本ってのは、すごいなぁ。そんなにいっぱい買ってもらえないぜ」
「それもそうね」
鉄や真鍮、銀に金。貴重である。道具の一つ一つをすべて丁寧に使う母の姿を見ていて、そのような要求などできない。
「きっと3本ぐらい飲んだだけでも、すごく痛いよね」
ラウリーは思いだしたように、空いている手で頬の切り傷を触った。落ちた時のすり傷が増えていて、顔中が痛い。その中でも特に、金属で切りつけられた傷はじんと熱を持った痛みを頬に与えていた。
一本だけでも充分一大事だが、3本もあると、かなり効きそうである。ころ合いの良い数字だとして少年少女はそれで手を打ち、“指切り”という約束を交わしたのだった。
「嘘ついたら針3本、飲ーますっ」
高らかな声が薄闇の森にこだました。直後に複数、自分たちの名を呼ぶ声が聞こえ、クリフたちも大声でそれに応えたのだった。
◇
後日、切られた髪よりも、さらにばっさりとショートヘアになったラウリーが朝の食卓に現れて、クリフらを驚かせた。
「おはよう」
少女の顔は明るい。先の傷がまだ残っているせいで、少年に見えそうな凛々しさである。
「昨日の夜、切ったのよ」
母親が手がけたらしい。彼女はニコニコしながら、娘の分としてパンとチーズを切りわけている。
「っていうか、お前いつもは、まだ寝てる時間じゃないか」
学校なるものはない。ラウリーは母親を手伝ったり友達と遊んだり、村の老人に面白い話を聞きに行ったりして楽しむ年齢なのである。すると彼女はめいっぱいの笑顔で、兄たちに宣言したのだった。
「私も今日から狩人修行を始めます。宜しくお願いします!」
ぴょこんと腰を曲げた勢いの良い挨拶に、クリフたちは目を丸くしてしまった。それから師匠である父親に顔を向ける。父親はさすがに了承済みらしい。驚いている息子2人に「そういうことだ」と微笑むと、意地悪く人差し指を立てたのだった。
「お前たち、ラウリーに追いぬかれるなよ」
「誰が!」
怪我を治療し終えたクリフが意気込んだ。
「追いつかれもしないさ」
「どうだか。すぐ強くなってやるもん」
その一言にラウリーの想いが凝縮されている気がして、つい父親は大きな手で短くなった彼女の髪を撫でたのだった。今の彼女に向かって、女がグール狩人になるなんてというような意味のない言葉など、吐けるわけがなかった。
「しっかり食べなさい。ちょっとしたことが山では命取りになるぞ」
師匠の言葉に小さな弟子たちが「はい」と返事をして席に着く。
食事を終えたラウリーは、まっ先に、上天気の光が降りそそぐ世界へ飛びだした。
~了~