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4-2(決意)

 クリフは腹筋をしていた。

 朝晩の日課だが、今日はまだ夕刻である。午後の訓練を終えてから夕食までの時間が手持ち無沙汰で、とにかく身体を動かしたかったのだ。

 ヤフリナが与えてくれた仮屋敷である。幸い個室で、扉もついている。野営や船旅よりは住みやすい。だが、どこを向いても豪奢なのが落ち着かない。仮住まいとはいえ王の部屋である。

 金色に輝く天蓋付きの寝具やら、魔石を埋めこんだ細工が素晴らしいテーブルに、身を横たえた途端に眠ってしまいそうな、柔らかい長椅子。それらを見ずに、クリフはひたすら床で腹筋を続ける。

 荒くも正しい呼吸音に合わせて、彼の上半身が上下運動をくり返す。遅くも速くもならず、丹念に躍動する筋肉は、さながら別の生き物である。

 裸の上半身は、起きるたびに真夏のように汗をつたい落とす。冬を越しても色あせなかった浅黒い肌は、子供の頃からの蓄積だ。生まれた時は色白だったのにと義母が言ったらしいが、笑えない冗談としか思えない。

 ズボンに隠れて見えないはずの筋が、曲げた膝から太股まで引き締まってギチギチと音を立てそうなのが、見てとれる。尻の下にはグールの毛皮が敷かれているが、重みと摩擦で毛が潰れて、すっかり薄くなっている。こちらも連日の積み重ねである。毛皮は汗に湿って汚れて、高級感などカケラもない。

 室内には熱気がこもり、景色をかすめるほどである。個室は広くない。調度品まで汗をかきそうな湯気を四肢から立ちのぼらせながら、クリフは人を待って黙々と腹筋をする。

 待ちわびる扉が、誰かに叩かれた。

「はちじゅ……あ~……。どうぞ」

 数え損なって、体を起こす。数そのものは千の位まで知っているのだが、日頃は50回しか腹筋しないので、それ以上になると集中力がおぼつかなくなる。地元では「3の次はいっぱい」という程度の算数能力で生きて行けた。クリフは職業上もあり、まだ数字が言える方だ。だが上にラウリーがいたせいで、そんな優越感を持てなかった。

 入室した者は扉に手をかけたまま、

「どうぞ、じゃないでしょ」

 と笑ってから、扉を閉めた。差しこんできた光が、閉まると同時に消える。後光がおさまって浮かび上がった女性は、クリフの待ち人だ。

「ルイサ」

「まず誰何(すいか)でしょう? なんて、あなたに言っても無駄でしょうけど」

 クリフは懐かしく微笑むより先に、高飛車な金髪女性を睨め付けてしまった。高飛車だが、嫌な物言いではない。クリフの睨み顔も、もちろん本心じゃない。

 失礼しますと入室した侍女がグラスを2つ置いて去ってから、ルイサはクリフに近付いた。

「元気そうじゃないの。もっと、ふて腐れてるかと思ったわ」

 言いながら、ルイサは承諾も得ずに長椅子へ座った。ルイサも、クリフがクリフだと知っている。いや、ルイサを始め“ピニッツ”の連中は、イアナザール王が相手でも調子を変えないだろうが。

「あんたも、あいかわらずだな」

「こら、一応は王らしく振るまいなさい」

 ならば王らしく扱いなさい、と言いたいところだ。

 クリフは立ちあがると、ベッドに放りだしてあった上着をはおって、前を止めた。軽く手ぐしを入れてから、ルイサのことを「エヴェン侯」と呼んでみせる。

「はるばるの来訪に、まずは礼を言おう。だが私から貴君に有益なものなど、何も出せんぞ」

「めっそうもありません」

 ルイサも素早く立ち、ロマラールの敬礼をした。

「益を求めて拝謁に臨んだなどとお思い頂いては、錯愕(さくがく)いたしますわ」

 かしこまってから体勢を戻して、ニヤと笑う。

「クラーヴァ王ともあろう御方の器が知れるというものでございますよ」

 やられた。

 クリフは肩を竦めて、天井を仰いだ。それなりに演じたつもりだったが、やはり平民たる本質はぬぐいきれないものらしい。ルイサはコロコロと笑いながら、ふたたび長椅子へ腰を下ろした。

 金髪はぴっちりと引っ詰められていて、服装も、踊り子のそれじゃない。ズボンにブーツ、マントと紋章。ロマラール大使、エヴェン騎士団長のものである。彼女の来訪は“公式”だ。だからクリフも待っていたのだし、侍女も普通に茶を出した。

 茶である。

 干した果実もなくなり、一昨年の茶葉を水出しにするのが精一杯な現状だ。茶は薬だし、めったに出されない。大事な客だからと誰かに説得されたのだろう。ロマラールの客人は希だ。

 もちろんのことだが、ラウリーが煎れていたラタ・ティーには到底およばず、自分の舌があの味を覚えてしまったことを実感せずにはいられない。クリフは飲みくだしてグラスを置いてから、椅子を引っぱってきてドカリと座った。

 上着の前をくつろげると、まだ襟元から湯気が上がる。暖かくなった。

「もうナティの月だなんて、信じられない」

 時間のたつのが速すぎる。特に戦争が始まってからは。

 クリフにとっては意味のない毎日がだらだらと、電光石火で過ぎていく。

「やっぱり、ちょっと腐ってるわね」

 ルイサは茶を飲みながら、目を細めた。

「いい屋敷じゃないの。迎えの船も、もうすぐ来るんでしょう?」

 言われて、クリフの顔がさらに歪む。

 そうなのだ。

 ここは戦場じゃない。

 だがキナの町でもなく、ましてクラーヴァ国に戻ったのでもなかった。クリフらクラーヴァ国軍はヤフリナ国王都に凱旋させられ、そのまま留め置かれているのである。

 凱旋には、ソラムレア国ハーツ軍もロマラール海兵団も、共に戻った。後のキナには、ヤフリナ国の自警団が入った。奪還の手伝いはしてもらったが、国造りに外人は不要とでも言いたげな措置である。その推量を裏付けるように、2つの部隊は歓迎と慰労もそこそこに、次の地へと旅立たせられた。

 なのにクラーヴァ軍だけが王都に引き留められたのは、これ以上イアナザール国王を危険な目に遭わせられない、という名目だった。船まで手配されて、とっとと帰れと言わんばかりである。

 思わず、馬鹿なと吐き捨てたものだった。

 何を今さら、だ。

 だがヤフリナもクリフの気を紛らわすお題目を、色々と持ってくる。つまり、クラーヴァ国軍は王都の護衛という立場にされたのである。クラーヴァ軍駐留の屋敷は王都の端にあって、見張り台も近い。伝令も直接受け取れるように配慮された。

 クラーヴァ王を気遣ってのものとは言えなかった。別にとどめ置く名目なら王都でなくとも良いのだ。

 ヤフリナの王が必要としたのは、身を守ってくれる強力な魔法使いの存在だった。

 魔軍の再襲来を怖れて、王がエノアを欲したのである。

 王族は『魔の気』が読める。ダナに殺されかけた恐怖を、強力なエノアの『気』で払拭したのだ。だから帰らされるのはイアナザール王だけである。

 一国の王が派遣軍と一緒に他国へ駐留し続けることも、ないではない。だが大国では珍しいし、むしろクラーヴァ王から帰還日を指定してもおかしくない関係なので、やはりクリフには断る道理がないのである。

 しかも“ピニッツ”まで帰るとあっては、そりゃあ気分も滅入る。

「どうせ帰るなら、“ピニッツ”に乗りたいものだね」

 揶揄まじりの言い方は、子供が拗ねているようだ。ルイサの苦笑を誘う。

 今日のルイサは、一足お先に失礼します、と挨拶しに来たのだった。“ピニッツ”が戦場へ駆りだされている間にルイサはヤフリナ入りして、外交に勤しんでいたわけだ。

「帰りたいなら乗せるわよ。魔軍に会いたいんじゃなかったの?」

「いつ来るのか、本当に来るのか分からんしなぁ」

 ボヤいたクリフに、ルイサは苦笑しながらも挑戦的な目をして「来るわよ」と言い切り、反応をうかがった。案の定、クリフは「え?」と前に乗りだした。

「“ピニッツ”の帰国は契約期間切れだからでもあるんだけどね。……ネロウェン軍が大挙して攻めてくると分かったから、退散させてもらうのよ」

「は?」

 クリフは言葉を失って息を飲んでから、やっと言葉を吐きだした。

「逃げるってことかよっ」

 声を荒げてしまい、慌てて首を竦める。だが小声にしても、憤りは抑えられなかった。

「一緒に防衛するんじゃないのか?」

「負け戦と分かってて?」

 ルイサの反応は、あくまで涼しい。

「イアナザール王は、兵に死ねとおっしゃる」

「言ってねぇよ」

 クリフは心のどこかで、ここが城じゃなくて良かったなぁと呑気なことを考えながら、憤慨に勤しんだ。

 別宅だし多少特別な部屋ではあるが、内外にヤフリナ国の警備隊がいる。これが城だったりしたら、口にすらできない相談だ。加えて長期化すれば、にわか仕込みの正体が暴かれてしまう。本当なら別宅に甘えておらず、クリフとしても早く撤退すべきところなのである。

「でもヤフリナ国でネロウェンをくい止めないと、次に狙われるのはロマラールなんだろう? マシャが言ってたぞ」

「そうよ。だから帰るの」

 揺るぎがない。

「きたるべき敵に備えて自国を強化するのは、当たり前でしょう? ヤフリナから退く代わりにロマラールに手を出すなと免除を乞う外交もしているけれど、決裂を見越しての準備は必要だもの。ロマラールが攻められるとすれば、玄関口はサプサよ。私の町なのよ。“ピニッツ”を殺させている場合でもないの」

 口調は静かだったが、強烈な生の声だった。クリフは内心、たじろいだ。ルイサの本音を見せつけられて、その規模に反論などできようはずがない。国を背負う王の大きさは理解できないが、それだけにルイサが吐いた「私の町」が妙に生々しく、クリフに理不尽をも感じさせた。

「ヤフリナの民は見殺しか」

「降伏すれば、長期戦より死なないわ」

「ロマラールも降伏したら、どうなる?」

「私と“ピニッツ”は極刑でしょうね」

 何となく言葉が紡げなくなって、クリフは押し黙った。ヤフリナの尊厳は死ぬよ、とか、でも尊厳って何だろうとか、ヤフリナ貴族なら降伏しても上手にネロウェンをまるめこむのかななど、色々な思慮が交錯してしまったのである。

 慣れないことは考えるものじゃない。

 クリフはそっと、ため息をついた。

「ネロウェンへの密輸を終えたヤフリナの貿易船が、出陣の準備をするネロウェン軍を見たそうよ」

 ルイサが話を元に戻した。

「……魔軍は?」

「黒マントの女性が、誰かと話をしていたって」

「はっ」

 クリフはそこで、やっと乗りだしていた身を背もたれに押しつけたのだった。明確すぎること、この上ない。見せつけるために立っていのではと疑えるほどだ。

 ネロウェンの港町にラウリーが立つ姿を、鼻白むぐらい鮮明に想像できる。“誰か”には親衛隊一番隊長のサキエドが、何となく思い浮かんだ。

 今のところネロウェン人で知っている顔とは、まだ会っていない。長く滞在したとはいえ、見知った者を見る確率など皆無に等しいだろう。ラウリーのような立場は、特別だ。

 何しろ“ダナの妹”である。

 クリフは近頃、彼女の異名“ダナの魔女”に、あまり違和感を覚えない自分を感じている。初めて黒装束を見た時の衝撃も、2度目は薄れていた。今は自分に『見慣れるなよ』と言い聞かせたい心境だ。

 一度こうと決めたら、とことんまで突っ走るのがラウリーだ。間違っているかも知れないから、などと周囲をうかがう人間なら、魔道士をなぞ目指していない。

「退いたはずの魔軍だもの。再来となれば、威力は倍増してるでしょうね」

 クリフの物思いを引き戻すように、ルイサは続ける。

「ヤフリナが敵のネロウェンに密輸して、しかも成功したのよ。国を挙げて差し出したわけじゃないでしょうけど、有力者が手引きしたのは明らかだし、ネロウェンの国力も衰えてないって裏付けになるわ。しかも魔軍を連れて来るとなれば、ヤフリナとしては早めに降伏した方が傷も浅い。クラーヴァ軍を留め置いているヤフリナ国王の魂胆を胡散臭く考えるなら、出動を命じられる前に撤退すべきだわ。イアナザール王に怪我させたくないっていう配慮はある意味、本音でしょうけど」

「いらん世話だ」

「そうも行かないわよ」

 肩を竦めて、ルイサはもう一言つけ加えた。

「それだけ“ダナ様”が怖いってことよ」

 クリフは聞き慣れてしまった固有名詞に、わずかばかり失望を覚えた。ラウリーの魔女を見慣れたくなかったのと同じ理由だ。彼はラウリーを連れ去って以来なりを潜めて、すっかり妹を後任にしている。亡くなったのではと噂する者もないではないが、クリフを始め大抵の人間は、彼の健在を信じて疑わないでいる。ここまで世界をかき回しておいて自分は隠居だなどと、ないでもない可能性だが信じるのは無理だ。

 オルセイを引きずりだすためにもラウリーと戦わねばならないのだとすれば、それは必然だったのだろう。

「撤退は、しない」

 自戒するように、クリフはうなった。はっとして顔を上げると、ルイサと目が合い、苦笑いが漏れた。

「しないというか、できないというか」

 ルイサも同じように笑った。

「どこまでも不器用だこと」

「俺らしいだろ」

 おどけて返し、また笑いあった。雲の上に近かった騎士団長様が、少し近い存在に感じられた。王の格好が感じさせた錯覚かも知れないが、それでも良かった。今ちょっとだけ気が楽になったことが、重要なのだ。

 立ち去るルイサは、まるで勝利の女神に見えた。開けた扉からの光がまぶしかったせいだ。光に向かって颯爽と去るルイサに、物怖じなどない。男を気兼ねなく戦わせてくれる女なのだ。

「ご武運を」

 と彼女は言った。

 何となく、予感が働いた。いや、予感というよりは、確信だったかも知れない。

 しばらくすると事態が展開し、クラーヴァ軍に要請がかかったのである。要請が出された背景に何があったのか、クリフには分からない。分からないが、何となくルイサの置き土産なのだろうかと思えた。

 ネロウェン軍は懲りずにキナの町から上陸してきたらしい、それを迎え撃ってくれ、というものだった。

 事前にキナで迎撃準備に入っているのは、ヤフリナの自警団だけでなくソラムレア国ハーツ軍もらしい。“ピニッツ”やクラーヴァ軍が抜けている穴を自警団と考えるなら、人数的には妥当だ。だが聞いただけで、ずいぶん頼りなく感じる守備軍である。

 クリフの心が焦る。

「なんで、まだいるんだよ、お前」

 出撃の準備をする合間、エノアの部屋を訪れてクリフが訊いたものだった。

「てっきり先に“転移”してると思ったのに」

 エノアなら、国王だの政治だの放っておいて、ラウリー率いる魔軍を止めに行くだろうと思っていたのだ。それが魔道士エノアの役目なのだと、本人が言ったのだから。

 けれど予想に反してエノアは、屋敷の一角でじっと瞑想をする毎日だった。

「魔軍は来てないのか?」

「来ている」

「じゃあ、」

 なぜ、と言いかけた言葉は、途中で遮られた。

「魔法を使っていない」

 しごく単純な、衝撃の事実だった。魔軍なのに魔力を使わず戦っているとは。

 そんな理由で出ないエノアもエノアだと思えたが、そこは彼なりに法則があるのだろう。クリフは動かないエノアに苛立った。

「んじゃ今からの出撃にも、お前は行かないつもりかよ」

「魔力が用いられなければ」

 眉一つ変えない淡々とした口調には、脱力させられてしまう。もっともエノアの表情など、フードに隠れているので分からないのだが。

 だが、いざとなった時に“転移”で戦場に着くのは疲れるので、進軍には付き合う、と言う。使えないかも知れない戦力だなどとは皆に言えないが、いるだけでも心強いので、クリフは少しほっとしたものだった。

 目指すは再び、キナの港町だ。

 とはいえクリフには、そこにまで辿りつかないだろう予感が働いていた。いやクラーヴァ軍の者はほとんどが、そう思っていたかも知れない。自分たちが着くまで、キナが陥落されずに持ちこたえると思えず、自然と足は速まった。

 間に合っても勝てるか分からず、むしろ負けていたら自分たちが一層危険なことは分かっているはずなのに、志気が落ちない。ルイサに踊らされたのか、クリフを焦らせたヤフリナ国王の采配が上手かったのか。戦闘意欲は充分にある。

 これも一種の恋心なのかも知れない。

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