4章・向上のイアナ-1(混沌)
カーテンを透かす光がかげり、ほとんど闇と化した。吹き抜けの窓から流れる風は冷たくもおだやかで、瞑想するオルセイを邪魔しない。
暗い方が落ちつくのは、魔力を研ぎ澄ませやすいからだ。体中に『魔の気』が満ちるのを感じると、心身が充実する。雑念が消える。自分の『気』が、空気と同化する。
彼は薄く、目を開けた。
「ラウリーか」
「兄さん」
妹は兄を気遣ってか、気配を消して立っている。しかし『魔の気』は消しきれない。オルセイは彼女を見ずに、ふたたび目を閉じた。
ここ数日の彼女は平静を努めているが、かえって緊張している。ヤフリナ国のキナ戦から逃げ帰って以来、彼女のまとう『気』の凄みが増している。
「お願いがあるの」
ラウリーが室内に足を踏みいれた時、オルセイはピクリとまぶたを動かした。かすかだったので、ラウリーが気づいた様子はない。心も読まれてはいない。オルセイがラウリーの心を読めないのと同様に。
ラウリーは相手の思わくを無視して、間合いに入ることができる。読心能力に目覚めず、使えるだろう今になっても使おうとしない彼女にとっては、死の神もただの兄だ。
側に立った妹は、兄を見おろした。
オルセイが目を開けて見あげると、ラウリーは言った。
「イアナの剣を貸して」
意外な申し出ではなかった。
ラウリーにはナティの指輪を与えたが、エノアはクーナの鏡を持っている。媒体をひとつ増やせば、勝てるのだ。クリフと互角に渡りあいたければ、他の媒体では駄目だ。剣で劣るラウリーは、魔力の乗った腕でイアナの剣を振り、初めてクリフと戦えるのである。
神の媒体を2つも身につけるという無謀に耐えられたらの話だが、ダナを内包したラウリーなら大丈夫だろう。
「勝ちたいか」
見透かした笑みで、妹を見る。能面を努めているところを見ると、図星だったらしい。
ラウリーは言葉を換えて応えた。
「ヤフリナが欲しいの」
オルセイは目を細めた。
側に置いたからとて、兄妹らしい会話などない。戦時中だからだとか環境のせいなどでなく、オルセイ自身が変わったせいだ。自分が一番、自覚している。
物心ついた時から2人の間には、クリフがいた。同じ場にいなくても、会話の中にも心の中にも、クリフがいた。彼の名を封印して、会話が成立するわけがないのだ。
心を閉ざしても、感情を消したことにはならない。
「“転移”でなく、船で行け。軍師に左大将アナカダが就くし、エノアの相手はクスマスがする」
「クスマスが?」
ラウリーの眉が歪んだ。クラーヴァ国から撤退して、ラウリーに指輪を与えた魔道士である。ラウリーには、なぜ彼がまた出動する気になったのかが、理解できなかったのだろう。
彼はシュテムナフと共に、戦意を喪失したはずだった。
「退いたのは、意味のない戦いからだけだ」
オルセイはラウリーの表情を読んで、肩を竦めた。
「魔法使いの爺が現れたのは計算外だったが、エノアを弱らせた成果は大きかった。今お前が言ったことだ。ヤフリナが欲しい。クラーヴァ戦が攪乱だった、それは心得ていただろう?」
大きな怪我もなく帰国した2人の魔道士は、魔法使いウーザの供養と称して一ヶ月に相当する52日間、瞑想をした。ウーザの守護月クーナが供養の月となったのも、何かの縁のようだった。
春を感じさせるはずのマラナ月だというのに、干ばつが風景を荒涼から解放しない。むしろ寒さから解き放たれて戦意も上がる、といった風情がネロウェン国を包んでいる。
魔道士の瞑想とて、供養と称しながらも『力』を発して死の神を支え続けている『補佐』となっている。暴走寸前の神は、常に抑えられていなければならない。ラウリーを支える鳥は、食事に出かけてオルセイと会わないようにしているが、ラウリーとは心がつながっている。
オルセイが言った。
「死にぞこないの魔道士が、どこまで踏んばるか」
面白そうに呟かれたのに対して、ラウリーは「エノアは……」と言いかけて、口をつぐんだ。
「いえ」
落とされた視線が、さまよっている。心が読めなくても、感じることはできる。ラウリーはすぐに、くるりと表情を明るくして反転した。よっぽど読まれたくないらしい。強気はあいかわらずだ。
オルセイは去りかけた妹に「ラウリー」とゆっくり呼びかけた。ふり向いた彼女と目があっても、目で会話することはない。
「負けるなよ」
「その時は一緒に死んでね」
ラウリーは爽やかに笑い、わざわざつけ加える。
「兄さん」
と。
昔から見慣れているラウリーが、立っていた。
迷いのない返答は本音だ。
ラウリーは立てかけてあったイアナの剣を掴んで「じゃあ」と、あっさり下がった。剣を手にされた時に目を細めたのも、彼女には悟られないようにした。一瞬、剣が震えたように思われたが、すぐに魔女が抑え込んでしまった。
クリフから奪って満足したはずの、欲しかったはずの安らぎは得られていない。
「怖い妹だ」
オルセイは片膝を立てて、髪をかきあげた。ラウリーが自分を裏切らない確信はある。彼女はネロウェンの民に、身を犠牲にして尽くす。死の神が暴走しないよう、オルセイを補佐する。ダナの盾に、神が封じられる日まで。
くっと口元を歪めたオルセイは、音もなく入室した黒い影を見た。
「感謝するよ、魔道士」
髪もマントも黒い男が、薄暗い中で揺れた。
「何をです?」
「すべてを」
「なるべくして、なったまで」
黒髪の魔道士シュテムナフは事もなげに呟いて、オルセイの前に座った。ラウリーの立った位置よりも一歩、オルセイに近い。
「俺に盾がないと教えたことも、必然か?」
さらりと口にしてから、オルセイは聞こえよがしに言いなおした。
「ダナの盾など、存在しない」
「流れです」
シュテムは目を伏せて、表情を殺した。
「あなたは知るべきだと判断しました」
神話の時代から孤独なダナは、媒体に収まらない不安定な存在である。確かに、盾にはめこまれていた頃もあった。しかし媒体は壊れる。新しい鏡や修繕されたランプに、受け継がれていった。
ダナを継ぐ盾は現れなかった。
存在していれば、自然と収まるものなのだ。
「薄々そんな気がしていた」
オルセイは部屋の出入り口をうかがった。ネロウェン式の部屋には、ドアがない。間違いなく聞こえただろうに、外から動揺する気配は感じられない。
「大したものだ」
息をついてからシュテムを見ると、彼が口を小さく開けた。
「ディナティ2世が、おっしゃっていました」
「何と?」
オルセイは近頃、彼と話をしていない。ラウリーを迎えたことで、ディナティが遠ざかったようだった。もしくはラハウを失ってから、なのかも知れない。
「ダナの魔女はイアナの英雄を殺せるのか、と」
これを言った時のディナティは、シュテムの平然たる口調とはうらはらに、相当に苦悶していたことだろう。会話の前後はおそらく、重い沈黙をはさんでいたに違いない。
ディナティがラウリーに持つ感情は、複雑だ。亡くした母を重ねて見るか姉のごとくか知らないが、身内のような気安さと、幼い自分を諫めるかの厚い壁を併せ持っている。ディナティはそんな感情から生まれた呟きを、直接オルセイには伝えられなかったのだ。
「返答が要るか?」
「命じられた問いではありません」
「流れか」
「私の興味です」
さほど興味のなさそうな顔をして言う。オルセイはもう一度、入り口に気を配った。ラウリーは去ったようだ。
オルセイは「なら答えん」と笑った。
「俺が訊きたいよ」
ラウリーに。
殺せるのか。
本人に訊いたって「分からない」と答えるだろう。迷いがなくなれば殺せるという相手ではない。だからイアナの剣を持ちだしたのだ。少なくとも勝つ気でいる。勝ってヤフリナをくだせば、ネロウェンが生きかえると信じているように思われる。
その思いを確認する気も、くつがえす気も、今はない。
「期待してるさ」
悦に入った顔で呼びかけたが、言葉は当人に届いていない。ラウリーは、すでに遠く歩き去っていた。
――ダナの秘密を耳にしてから、すぐにラウリーは急いで離れたのである。部屋を出る時にシュテムナフと入れ違ったことは知っていたが、まさかあんな話をするとは思わなかった。
いくら離れても、心を乱せば感知されてしまう。歩を早める心こそが乱れているが、なるだけ冷静に、深くじっくりと息をしながら急ぐしかできない。周りの景色は見えていなかった。絢爛さを失って久しい千年回廊は、すっかり慣れた道となった。今や病人と怪我人に溢れるディードム・エブーダ宮殿も、この王族とダナが住まう一角だけは、静かなものだ。
イアナの剣を背負うと、魔力の濃さもさることながら、重さに息苦しくなる。革の匂いに、息が詰まる。鞘にもベルトにも彼の面影を捜してしまう自分を御して、ラウリーは歩く。黒を身にまとってからの彼女は、張りつめた糸さながらである。
衝撃を覚えながらも、どこかで納得している自分がいた。その“自分”とは、“ダナ”の部分かも知れない。
ダナの盾が存在しない、などと。
驚愕の告白だったが、感情としても現実的にも、ひどく理にかなっていた。2年に渡る無駄骨が、逆に頷けるのだった。他の媒体は惹かれるようにして、出揃っている。
ならば、なぜエノアが徒労を押して盾を探し続けていたのだろう、という疑問が浮かぶ。エノアは知らなかったのだろうか? 盾がないことを。
「まさか」
ラウリーは歩きながら、思わず呟いてしまった。魔道士という希な集団に中でも更に至高と思えるエノアが、シュテムナフやクスマスの知ることを知り得ていないはずがない。などと断言できる理由は何もないのだが、少なくともラウリーには、そう思える。
顔で決めたわけじゃないけど。
久しぶりに見たエノアの目を思い出して、ふと、ほころんでしまった。
「何が“まさか”なのです?」
“まさか”だけロマラール語で発音された、ネロウェンの言葉。ラウリーは笑みを消した。近付いてきていることは、感知していた。大仰な王族の空気をまき散らして歩く人間で、心当たりは一人しかない。
背後の彼が自分に触れる前に、ラウリーは軽く前進して避けた。
「マラナエバ様」
ふり返らずに名を呼ぶと、男の気配が苦笑めいたものに変わった。
「気づかれましたか」
気づくも何も。ラウリーは笑いそうになったが、あくまで表情を殺してマラナエバを見る。ディナティ王より年上だが、王弟という肩書きを持つ青年だ。彼は初めて出会った時から、ずっと笑みと猫なで声を保っている。ラウリーをおとしいれても、支援者を失っても、どんなに追いこまれていても。
その点は評価している。
「ご機嫌うるわしゅう」
マラナエバは魔女の冷徹さを見せられても笑みを崩さず、にじり寄るようにしてラウリーの手を取った。だが、彼女の手はするりと逃げる。捕まえそびれて、唇をつきだしていたマラナエバは、ばつが悪そうにラウリーを見た。
「つれない方だ」
「手を洗う水がありませんから」
にべもない。が、マラナエバには効かない。こんなところだけ、やたら打たれ強い。
「ならば水の国に行かれよ」
「言われなくても」
「待ち人もおられることだし」
「待ち人?」
「あの男」
「男?」
噛みあっているようで、ずれている。ラウリーの表情が険しくなっていく。剣呑な問答である。
「今日はあの忌々しい鳥は、いないようですな」
マラナエバは愉快げに笑って、さらに近付いてきた。一歩退いても詰め寄られて、ラウリーは自分の領域が浸食されている不快感がぬぐえない。
「男の名を挙げる必要はありますまい」
「何が言いたいんですか?」
「あの男でしょう?」
とうとうラウリーは、「だから何をっ」と声を荒げた。のらくらと逃げるマラナエバの口調が、軽侮を含んでいる。
「あなたを変えたのは」
王弟の笑みが、下卑た。
略された言葉の合間がやっと見えたと同時に、ラウリーの胸がすうっと冷えた。ずいぶん熱くなっていたことに、冷えてから気づく。
「蕾の先を、ほどき始めたようですな」
ラウリーはまた一歩下がったが背に柱が当たり、内心はっとした。うまく誘導されて、押しつけられたのだ。マラナエバは、人の体より太い柱に片手を突いて、もう一方でラウリーの顎を触った。
押さえ込まれて、普通なら身動きできない位置関係にある。加えて、人通りがない。王弟の口元が優越感に歪んだ。
「私を知ってもっと変わって咲き誇る、あなたが見たい」
国一番の高貴と称されるだろう顔が、醜悪さを帯びて寄ってくる。彼の手が顎から首筋、胸元へと這う。
下劣な手が胸に降りる前に。彼の唇が到達する前に、ラウリーは彼から動きを奪った。刃物で脅すより、得体の知れない『魔力』で恐怖を与えた方が有効だと判断したのだ。
王弟が硬直した。
「……っ」
マラナエバは目をそらすことも閉じることもできず、もろに至近距離で魔女の双眸を凝視した。王弟の瞳が徐々に、怯えをにじませる。魔女は名残を惜しむような鈍重な動きで、彼の腕から体を抜いた。
まだ魔法は解かない。離れれば自然と解けるように調整してある。
「確かに、知れば変わりそうです」
去り際に、ラウリーは告げた。マラナエバは柱を見つめたまま、遠ざかる魔女の言葉を耳に入れるしかできない。自分の滑稽な姿に、ただ上気するしか叶わない。
「変わり、あなたを殺すかも」
ラウリーは、マラナエバがどんな反応をしたかは確認しなかった。する必要もない。知ったりなど、しないのだ。
この有り様は兄に筒抜けだろう。さっさと休んで、早く戦場に臨もう、とラウリーは思った。左大将との協議もあるだろうし、魔軍の鍛錬もある。魔力の強い兵は貴重だ。
「おい」
肩をいからせてしまったラウリーに、ふわりと柔らかな気配が降りた。食事を終えたらしい。
「お帰り」
醜悪な鳥が放つ『魔の気』はラウリーにとって、とても心地よい。心が近いとはいえ、体も近くに寄りそった方がいいのは当然だ。ケディを肩にとまらせたラウリーの呼吸が、軽いものに変わった。
その様子を確かめて「落ちついたか?」と訊いてきたケディは、ラウリーの「うん」という返事を合図に、また飛び立つ。どこへ行くのかと思ったら、背後からマラナエバの「痛ぇっ」という悲鳴が響いてきた。
戻ってきたケディは「ほら行くぞ」と、しれっと翼を落ちつかせる。
――彼らから見えない室内で、オルセイはくつくつと笑ったものだった。
「馬鹿な男だ」
ラウリーの推測通り、彼は一連の揉め事を読んでいた。妹の動揺も嗅ぎとったが、それは気にすることではない。むしろ、どう影響するのか興味深い。
張りつめた糸は、思いの外しなやかで弾力に富んでいる。
「面白いけどな」
火種に手を出す愚者も要る。火を大きくするために。
泳がせる期間や、締める時期。使いどころを間違えなければ、役に立つ人材だ。
この男も。
「お前はヤフリナに行かないのだな」
オルセイは、2人の魔道士に戦いを命じていない。彼らの意思でオルセイを助けて、戦いにおもむいているだけなのだ。
シュテムナフは無言の返事を示す。話す必要がないというよりは、言葉が浮かばなくて敢えて黙っているかの風である。オルセイは口の端を上げた。
「心配か? 俺が」
側に魔力ある者がいなければ我を失う、死の神。すべての者を殺して回るなら、その方が可愛いものだ。
ダナに憎しみを増幅させられた人々が人形のように、他人の生気を喰らうように行進した地獄絵図は、次に勃発すれば止められないだろう。現時点ですでに、荒れた感情と利を追う理性が戦争を起こし、止められなくなっているのだから。
「お前は俺を殺せるか?」
立て膝に頬杖を突いてくつろぐダナ神を、真実の魔道士が一瞥する。
「死をお望みですか?」
「冗談だよ」
今度のオルセイは、本気で笑った。だが笑った後に、得体の知れない不満が残った。
「お前には無理だ」
心の中で水たまりのように澱む一滴の感情に付ける名前は、まだない。