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3-10(戦術)

 新しい組み紐を調達する気になれず、クリフは結局だだらな髪のままで戦場に臨んだ。

 どんなに激しく動いても切れず、なくなりもしなかった組み紐は、知らぬうちにお守りとなっていたようだ。首筋を包む髪は、クリフの気持ちを多少そぞろにさせる。だがナザリが秘策として持っていったのだ、計画が成功するように彼を守ることだろう。

「大丈夫さ」

 マシャの声だった。いつの間に近付いてきたのか、丘に立つクリフに向かって(ゴーナ)を寄せていた。クリフもゴーナに乗っている。途中の村で調達してきたのだ。クラーヴァ軍には、ちょっとした騎馬隊ができている。

 騎馬隊は、突撃に備えて整列したままだ。ゴーナは痩せていて気も荒かったが、何とか御せている。顔つきが厳しいのは、ゴーナのせいだ。とクリフは、自分では思っている。

 マシャには不安げな顔色に見えたようである。

 クリフは唇を尖らせながら、兜をかぶった。

「何がだよ?」

「何がだろう?」

 すねる子供みたいなクリフに、マシャは余裕の笑みを返す。どことなく雰囲気がナザリに似てきた。こういうものは、血のつながりではないらしい。笑みを納めてから、マシャも兜をかぶった。

 眼下に広がる港町は、ひっそりとしている。遠目で判別しにくいが、航行する船もないようだ。あちこちから立ちのぼる細い煙が、町に生活があることを示している。それが町人なのか敵兵かまで知る術はない。だが港に停泊する船がいくつか、幾何学模様をしている。ネロウェンの柄である。彼らが潜んでいることは間違いない。クリフは馬上から、味方の煙を捜すように町を睨んだ。

 待っているのはハーツ軍の煙でなく、ナザリの合図である。

 ナザリは軍議が済むと、即座に別行動を採った。西に向かった彼がいかなる策を用いるのかは、詳しく説明されなかった。

 普通に考えれば、ロマラール海兵団とはいえ“ピニッツ”は胡散臭い存在だ。外国の部隊である。なのにクラーヴァが彼を信用できたのは、ある秘密を知ったからだった。

『話し方で、あの方はあなたが王じゃないとご存じだ、と感じまして』

 と、同席していた者が笑ったのだ。

 軍議におけるナザリの口調が砕けすぎていたらしい。第三者にしてみれば、いくら進軍中で気が荒いとはいえ、乱暴に感じられたようだ。確かに“余興”など特に、やりすぎだった。

『ですが、だからあの連中を信用する気になりました』

 秘密の共有が親近感を生んだ。ナザリのことだ、クリフへの荒ささえ計算の上でしたことだったのだろう。

 そして、その乱暴さゆえに策への言及すら、まぬがれた。ナザリは“ピニッツ”だけでなく、クラーヴァ軍も連れていった。魔力ある者を。信用がなければ、できない相談である。西に魔軍を惹きつけるためだろうと皆が思っているが、確かにそうだと聞いたわけではない。

 ハーツ軍が全滅しているよりも、ナザリに退かれる方が怖い。

 クリフの元にマシャが残っていることが、ナザリの忠誠心だと思うしかない。付き合いも長くなった。

「来るよ」

 マシャが呟いて、町の右手側に盛りあがる小高い山を睨んだ。正面に広がる海は、冬とはいえ南国のおだやかさを示すような深い碧色をたたえている。

 マシャの口調もかなり荒いが、彼女の場合は公認と化している節がある。違和感なく王族にタメ口をきく娘というのもどうかと思うが、マシャの人柄がクラーヴァ軍と“ピニッツ”をつないだと言っても過言ではないだろう。クリフ自身がこれを許しているせいだ。

 クリフも同じように、西の山を見た。

 山から町までの間には見通しのいい平原がある。平原に人影は見えなかったが、どこかにネロウェン軍が潜んでいるものと思われる。戦場になるとしたら、あそこだ。

 決意したクリフを待ち受けていたかのように、西の山頂が曇った。

 煙だ。

「……出た」

 クリフの不安を吹き消すように、するりと一本の濃い煙が上がった。やけに唐突で、あっさりとして見えた。

 不意を突かれて呆けたクリフの代わりに、

「赤だ!」

 と、クラーヴァの誰かが騒いだ。にわかに隊列が崩れて、皆が浮き足立った。隊の空気が乱れた。

 やにわにクリフは叫んだ。

「突撃!」

 叫ぶと同時に剣を掲げて、一気に丘を駆けおりる。兵がときの声を上げて続いた。一度は崩れた雰囲気が、すぐに戻った。

 ナザリの合図ではなかったのだ。赤い煙は、ハーツ軍が上げると約束した信号だった。煙は血の霧を噴出しているかのように赤く濃く、空にくっきりと一筋の帯をたなびかせた。

 ナザリは綿密だった。もし自分からの合図より先にハーツ軍の煙が上がっても、迷わず走れ──ナザリは、そうクリフに伝えたのだ。軍の皆にもナザリの教えは行き渡った。自分たちには策が用意されているのだと知っていた方が、安心できる。ナザリの動向は気になるが、たたらを踏むよりはいい。

 ハーツ軍は裏切らなかった。初めは戸惑ったものの、赤い合図はすぐに、クラーヴァ軍に力を与えた。喜び勇んで雄叫びを上げたクラーヴァ軍は、閃光のように町に突き刺さった。町を守るネロウェン軍は、ほとんどいなかった。西に集結していたのだ。

 ハーツ軍の存在は、案の定ネロウェン軍に露見していた。ネロウェン兵らは、ハーツ軍を待ちかまえていた。クラーヴァ軍も知られていたようだったが、クリフらにあてがわれたネロウェン兵は、さほどいなかった。面白いように駒を進めることができた。彼らの背中を、クリフらが刺す形になった。目指すは西だ。

 この戦いの目的は、キナの町を取りもどすことである。そのためネロウェンを町から連れだして、留守を狙ってクラーヴァが押し入った。押し入ったためでは足らない。放っておけば主が帰ってくる。攻めに行って、叩き出さなければならない。むろんハーツ軍がネロウェンを倒して町を奪取できるなら、それに越したことはない。だが、その気配はまだない。

 建物の影から現れる敵兵を、クラーヴァ騎馬隊が撃った。ゴーナは石畳を蹴り上げて、道を壊した。撃たれた敵兵は吹っ飛んで、木造の家を壊した。レンガの建造物も沢山あったが、戦いの爪は辺りを傷つけてまわった。その後ろを歩兵が、町を舐めるように制圧していく。

 クリフらは、なるだけ火を使わず、民間人なら保護した。キナは長く戦場と化している町なので、不用意に出てくる町人はほとんどいない。だが中には、敵に回った者やネロウェン兵をかばう者もいたので、すんなりとは事が運ばない。それでもクリフらは、町に手を出さなかった。取り戻しに来たのだ、あくまで敵はネロウェンだけだと自分に言い聞かせて、駆けぬけた。

 向かってくる敵は、魔法を使わなかった。本当に魔軍を西に惹きつけているようだ。クラーヴァ軍はここぞとばかり、休憩もそこそこに、干し肉を片手に進軍した。次の瞬間に死んでいても、悔いがないように。

 約400しかない兵を小分けにして、町の要所要所に置いていく。町を抜ける頃には、100人いるかどうかになった。ネロウェン兵は推定2000人、ハーツ軍は1000人だ。大海にはねた雫といった風情である。

 郊外に広がる枯れ草の大地は、すでに血と熱気にあふれていた。兵が入りまじっており、どこに統率があるのか分からないぐらい混戦していた。だが大将なら、安全な場所を確保しているだろう。クリフは剣を振って突進した。

 クラーヴァ軍の姿を認めた敵兵が、慌てふためいた。

「敵だ!」

「クラーヴァだぞ」

「2手だと?!」

 ネロウェン人が、誰かにすがるように首を振って叫んでいた。クリフの分からない言葉が飛びかったが、2手は聞き取れた。他にも「援軍が、」という言葉が理解できた。ナザリたちは、ハーツ軍に合流していたのだ。ハーツ軍が狼煙を上げたから、ナザリは合図の必要がなくなった、ということか。

 群れに分け入ると、確かにクラーヴァの兵がすでに闘っていた。死に絶えた仲間の姿も見える。クラーヴァ軍の分隊は、ネロウェンに大きな衝撃を与えたらしい。皆の取り乱す様が、ゴーナ上からでも感じられた。

 駆けながら、クリフは「おや?」と思った。

 多すぎる。

 ナザリが連れていったクラーヴァ兵は、せいぜい20人だった。魔法が使える兵など、多くはない。“ピニッツ”とて50人がいいところだ。なのにクラーヴァの目には、2~300人のクラーヴァ兵がいると見えた。走りながらなので数えきれないが、ソラムレア人ともネロウェン人とも外見が違うから、少しは分かる。ヤフリナ人が扮しているとも考えられるが、何しろ観察などしていられない。

「!」

 クリフの足下から槍が生えた。慌てて手綱を引いた。 ゴーナが悲鳴を上げて、前足を上げる。クリフはかろうじて避けた槍を、蹴り上げた。足を下ろしたゴーナが一歩進み、持ち手の兵をも蹴りつける。ゴーナの足で蹴られたら、下手をすれば肺が潰れる。ネロウェン兵は、もんどり打った。

 即座に次の兵が、クリフを襲った。正確にはゴーナを、だ。戦場では乗り手より先に、ゴーナを殺される。騎手は落ちたところを刺される。だから、ゴーナの足を止めるわけに行かない。

 東から突撃を始めて、どれぐらい経っただろうか。

 丘を駆けおりて、大通りの石畳を踏んできたゴーナの足には、乗っているクリフに伝わるほど、震えが来ている。限界だ。ただ走っているのでなく、敵の刃を避けながら、止まったり飛んだりと激しく動いているのだから。

 クリフはゴーナの背に立って、尻から飛びおりた。

 飛びながら、ゴーナの尻を蹴飛ばす。と同時に剣を振る。ゴーナがいなないて走り去り、足下のネロウェン兵は、血飛沫を上げて倒れた。

 クリフは頭から、血に濡れた。兜が赤く染まったようで、兜のつばからポタポタと雫が落ちてくる。尋常じゃない量に、肉片まで付着したと悟った。クリフは倒したネロウェン兵を凝視してから、兜を脱いだ。

 赤髪が血風に舞う。前髪をかき上げてから、走りだす。人の目線に降りた戦場には、むっとする人いきれと血と汗が立ちこめている。何度嗅いでも、慣れるものではなかった。慣れないが、クリフは濁った空気を大きく吸って、気を落ちつけようとした。

 感じる。

 戦う者たちが放つ、力まかせの殺気ではなく、澄みきった気配が荒野に漂っている。空気のように実体がないものではなく、かと言って質量はなく──見えているのに掴めない濃い影のような確かな存在感が、そこかしこから感じられる。

 距離感がないほど大きな『魔の気』に遭遇するのは、初めてじゃない。

「どこだ?」

 戦いながら呟いて、クリフは神経を研ぎ澄ませた。間違いなく彼女は、ここにいる。

 ラウリーだけのものではない『魔の気』も、多々あった。魔軍もクラーヴァ軍の魔法使いも、集結しているのだろう。

「いた」

 見つけたのは、味方の魔法師だった。接近戦に苦労していた彼を助けて、クリフは怒鳴った。

「ナザリは?!」

 叫びながら剣を振り、彼をかばって敵を斬る。クラーヴァ兵は慌てて敬礼した。

「分かりません、ここにいると思うのですが」

 彼は言うが早いか、何かを唱えだす。すると『魔の気』が立ちのぼった。現象はそれだけだった。

「今のは?」

 クリフが眉を寄せると、魔法師は「何も」と答えた。

「何も?」

「詠唱をして、『気』を高めただけです。キャロウ殿の指示なのです」

 キャロウ殿って誰だと思ってから、ナザリの名字だと思い出す。姓など、ほとんど使わない上に偽名だから、憶えていられない。続く戦闘に、ゴーナ同様クリフも疲れはじめていた。

 幻覚か、エノアまで見えた。

「……え?」

 兵らがもつれあって戦う景色の向こうに、黒いマントがひるがえったように見えたのだ。黒マントだからといって、エノアとは限らない。ラウリーも戦場では長衣ローブでなく、黒ズボンに黒マントだったと聞く。クラーヴァ国で戦った魔道士、シュテムたちが再び参戦しているのかも知れない。

 なのに、エノアだと思った。

 クリフの直感は正しかった。

 エノアがいた。

 黒マントは実在していた。中には緑色のものが揺れていた。周囲の兵らを蹴散らしながら近付くと、ますます確かになった。細身の体が兵らの中を踊るように一閃すると、赤い霧が舞った。容赦のない戦いぶりも、まさしく彼だ。

 声をかけようとして、息を吸った。

 息は声にならず、一気に吐きだされた。

「?!」

 瞬間、剣同士が鳴いた。反射神経だけで、無意識に腕を振っていた。ギン! という金属音が光になって、クリフは思わず目を閉じた。振りきった余韻を聴きながら、クリフは邪魔してきた者を見た。

 攻撃を止められた者が放つ憎悪の目が、クリフを襲った。

 紫色に輝いて。

「やっと見つけた」

 前回のような、淡々とした口調ではなかった。まっすぐ睨みつけて吐かれた生々しい言葉に、これまで以上に正気で素直な彼女が宿っている。

 醜い鳥が飛んできて、クリフを突こうとした。

「ケディ、来ないで!」

 彼女が叫ぶ。思考をまとめる暇もなく、第2刀が向かってきた。避けるだけでは足りなかった。剣技に加えられた彼女の魔力は強く速く、血に濡れた刃なのに、鋭くクリフを切り刻もうとする。クリフは体を退いた。腹を裂かれるところだった。

 充分な戦闘意欲を持っているつもりだった。剣を合わせなければ、攻めなければ殺される。また金属音がクリフの耳を叩いた。2度3度と重なっていく。知っている顔が、知らない表情をしてクリフを襲う。

 覚悟したはずだったのに、この時になってクリフは寒気を覚えた。

「敵だ」と。

 ラウリーは、敵なのだ。

 しごく当たり前な事実に驚愕して、クリフの足がもつれてしまった。ラウリーが首を狙ってきた。身をひねったところに、刀が空振りをした。耳元で風を切る音がした。クリフは背中に汗が流れたのを感じた。次の攻撃に備える体勢が、まだ取れない。

「クリフっ」

 声がして、クリフの視界が黒くなった。エノアが立ちはだかったのだ。驚きはせず、むしろ「遅かったじゃねぇか」と心中で毒づいた。図々しいが、エノアがクリフに気づいていない筈がないという確信があったのだ。目に見えている距離なのだから。

 なのにクリフの援護に来なかったのは、自分の敵に手こずっていたのか、何らかの魔法を練っていたのかの、どちらかだろう。と思えるていどには、クリフもエノアを信頼している。いつ戦場に来たのか知らないが、彼の移動手段はどうせ“転移”だろうから、来たばかりなら疲労困憊だ。苦戦してもおかしくない。

 幸いにも、クリフの読みは後者だった。

 立ちはだかったまま、エノアは手をかざしていた。手の平に、ラウリーが捕らわれている。触れていないのに、ラウリーは身動きできないらしい。手も出せないのか、ケーディが上空で旋回している。

 彼女がエノアに向けた目は、クリフへのそれと違って弱かった。戸惑いなのか悲しみか、やもすれば泣きそうな顔に見えた。

「エノア」

 消えそうなほど小さな声だったが、クリフには聞こえた。

 エノアも聞いたのだろう、彼は一呼吸置いてから「去れ」と呼びかけた。来いと言わない辺りがエノアらしいと言えよう。クリフは苛立つことなく、妙に納得した。

「魔法は許さん」

 あいかわらず極端に短い言葉だが、弟子たる彼女は師匠の心を痛感したようだった。ラウリーは、くっと歯がみして剣を振った。何かを断ちきるように。

 彼女のまとう殺気が、再び強くなった。『魔の気』ではない。魔法なしで来る気だ。そうしたら今度はエノアの助けがない。クリフは構えながら、祈る気持ちで覚悟を決めた。

「?!」

 だが今度も、邪魔が入った。

 邪魔だったのか救われたのか、想いは微妙だ。クリフは体を揺らされながらもラウリーに対して構えを崩さず、音の方角に目を走らせた。

 地面を揺らす巨大な爆発が、彼らを襲ったのである。

 爆音と爆風が、まとわりついてきた。耳が利かなくなり、砂煙が顔を刺した。皆が腕で顔を覆った、音の方向は、町中の港だった。

 砂煙が治まりかける中、薄く目を開ける。皆、町に顔を向けて立ちつくしていた。動きが止んで静かになっていて、小さな、しゅぱんという音が聞こえたほどだった。

 続いて皆の頭上に、ひゅるひゅると間抜けな音が流れる。わずかに音が途切れ──破裂音が、広がった。先ほどに比べると、ずいぶん可愛らしい爆発だった。

 この破裂は、空いっぱいに輝いた。

「……花火」

 ナザリだ。

 クリフは迷いなく思った。彼は自分の合図を、『光る弾を空に上げる』と表現したのだ。ナザリは西の戦いを後目に、港を攻めていたというのか。クラーヴァ兵が分かりませんと言ったのも、もっともだったということか。クラーヴァ軍に戦わせておいて、のうのうと、制圧した町の中に入っているなどと……。

 また爆音が轟いた。

 思考に捕らわれたクリフを叱咤するような、ひときわ大きな音だった。今度は吹き上がる黒い煙も、わずかに見えた。やはり港だった。

「船がっ」

 味方の叫びではなかった。ネロウェン語だ。ナザリは、敵の船を砕いたのだ。いや、まだナザリだとは限らない。限らないが、このタイミングでこんな攻撃をしでかすのは、ナザリとしか思えない。

 ネロウェン人が大わらわになった。足踏みの乱れた彼らに向かって、ソラムレアの軍人が襲いかかった。クラーヴァより、彼らの方が戦い慣れている。まして、昔からいがみ合っている。

 ネロウェン兵は一斉に逃げだした。どこかから「撤退!」という号令も聞こえた。敵将だ。声の方向にクリフの気が逸れた時、ラウリーも反転した。

「あ、おい!」

 ラウリーはふり返らない。黒マントをなびかせて走る後ろ姿が、遠く感じられた。魔力が戻ったのか、彼女の姿はみるみる小さくなった。他の敵兵も皆、町を見捨てて西の山へと逃げていく。追おうとしたクリフは、腕を掴まれて足踏みした。

「陛下は、この場に。護衛兵と共に、町へお戻り下さい」

 滑舌のいいロマラール語。マシャだ。ゴーナを引いていた。

 彼女はクリフの前に立ちはだかったまま、周りに向かって声を張りあげた。

「ネロウェン人を追え! 逃がすな!」

 続いてソラムレア語でも、何かを叫ぶ。内容は分からなかったが、はっぱをかけたのだろう。男たちが野太く応答した。

 マシャの声は、よく通る。キィンと、一本の光が空を貫くように響き、皆を突き動かす。追撃の軍団が吼えて、クリフの前を駆けていく。

 マシャの引くゴーナに、もう一頭が並んだ。ナザリが乗っていたが、彼は降りる元気すらない様子だった。真っ青な顔を能面にたもって、かろうじて体を起こしている風情だ。クリフの方が彼に近付いた。

 いつの間に、と言いかけた言葉を飲みこむクリフの頭上で、ナザリが礼をする。いつの間にではなく、最初から戦場にいたのだ。港を襲った一派の中に、ナザリ自身はいなかったのだ。彼の指示だろうことは、まず間違いないが。

「お返しいたします」

 ナザリは手にしていたものを、拳の中から垂らした。

 流れ落ちた青色の紐が、クリフの手に、水たまりのように丸く座した。

「組み紐か」

 クリフの側に近付いてきた黒マントが、クリフの手を見て呟く。いつも通り、顔をフードに隠して、何を考えているのかは、さっぱり分からない。だが彼の目線がナザリを捕らえているらしいことは、雰囲気で読みとれた。

「?」

 クリフが紐を広げていると、ナザリが急にエノアへ笑みを向けた。

「私は非力ですよ」

 会話の流れが読めない。確かに今のナザリは蒼白の顔に汗を浮かべて、とことん非力そうではあるが、そういう話ではないだろう。

 クリフの怪訝な目を受けて、ナザリは肩を竦めて見せた。

「私たち魔法使いが紐を媒体にして魔力を増幅させたため、エノア殿も魔軍も、ここにイアナザール王がいると錯覚して下さったようです」

「作戦成功」

 マシャがケケケと言わんばかりに笑った。

 つまり、エノアはクリフの『気』を辿って“転移”したつもりが間違ってしまい、ラウリーは、クリフがいるものと思っていたために「やっと見つけた」と怒りを見せた。

 そしてクリフが西に到着してからは、それをカムフラージュにして港を攻めた。魔力を持たない者が向かったのだろう。クリフは、ナザリも魔法を使える男だということを、すっかり忘れていた。だからナザリはエノアに対して、謙遜したのだ。

 合点したクリフは「なるほど」と息をつきながら、髪をしばった。冷たい風が首筋を乾かし、頭を冴えさせた。

「見事だった、ナザリ・キャロウ!」

 叫びながら、マシャのゴーナを取りあげる。

「あ?!」

 飛び乗りながら、クリフも「追え!」と叫んだ。クリフの声も、よく通る。マシャが何かわめいたが、クリフはふり返らず走った。今からでは間に合わないだろうが、とにかく追いたかった。

 全身を赤く染めあげてゴーナを駆る勝者の姿は、戦場に残る兵らの敵味方の別なしに、

「イアナの英雄」

 と言わしめた。

 落日までがクリフの心をも赤く染めるように、一日の終演を告げていた。

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