3-9(進軍)
ヤンナズィーレ。
その呼ばれ方に、クリフは聞き覚えがあった。
2年前、この長い旅が始まった、すぐの頃だ。“ピニッツ”がヤフリナ国に到着して、クリフとオルセイはルイサに手紙を託されて、テネッサ・ホフム・ディオネラを訪ねた。いきなり殺されかけてオルセイとはぐれて、クリフだけが捕まってソラムレア国へ連れて行かれた時に襲ってきたソラムレア人。
アムナ・ハーツだったのだ。
背後で滝が鳴りひびく、暗い森だった。けれど月明かりに浮かんだ敵将の顔は、何となくだが思いだせる。
あれからオルセイと、はぐれたままでいる。
「どう思う?」
クリフは不愉快げに身をよじってから、かしこまるナザリを見た。まつられるのは好きじゃない。広い部屋の中央に据えられたテーブルには10人が座しており、クリフはむろん上座だ。クラーヴァ兵も並ぶ軍議では、クリフになれない。“ピニッツ”の友、ギムやカバクも同席しているというのに、やけに遠い。
居心地が悪い。
ナザリは能面のまま「どう、とは?」と返してくる。いつもはクリフの舌足らずな物言いを理解してくれるのに、今のナザリは手順を踏まねばならず、ひどく面倒だ。
クリフは一言ずつ区切った。
「私はハーツ軍に期待しているが、お前たちはアムナ・ハーツについてどう思うか、ということだ」
“たち”とは言ったが、実質、ナザリにだけ問うている。“ピニッツ”の2人は最初からナザリ任せだ。クラーヴァ軍の官僚にも切れる者がいないでもないが、今ひとつパッとはしない。漂流の時クリフを助けてくれた無名の騎士もここに座らせたいと思ったものだったが、爵位からすると入室できる立場ではないらしい。
爵位なるものを、ひときわ疎ましく感じるクリフにとって、最初から面白くない会議だった。
「信用なりませんな。彼は裏切るタイプだ」
投入される言葉が、いちいち爆弾だ。場が騒然となった。発言の当人はしれっと「一意見です」と肩を竦めている。
ずっと敵だった、ソラムレア正規海軍とディオネラ商会。テネッサ・ホフム・ディオネラの顔は最初に少し見ただけだ。印象深い男ではなかった。なのに、あれから何度となく彼と戦っている。
ハーツ軍に再会した時も、クリフは思わず「生きていたのか」と言いかけたものだった。“ピニッツ”の面々も言葉を飲んで喉を鳴らした辺り、皆、同じ感想だったに違いない。
アムナ・ハーツに勝って、ヤフリナの平民に自由を与えた戦いだった。参戦したソラムレアの反乱軍には王女を奪還した戦いだった。戦うことが楽しいわけではないが、結果は嬉しいものだった。まさか、あの時アムナに逃亡を許したことが今になってこのような関係になるとは、誰も想像しなかっただろう。
傭兵ハーツ軍の雇い主はむろん、ディオネラ商会だ。一時は痛手を負って権限を弱くしたテネッサだったが、徐々に勢力を盛りかえしたのである。ソラムレアが誇る最新鋭の戦艦と軍力は、おおいにテネッサの役に立った。
そんな彼らと今さら手を結ぶのだ、頭では理解していても気持ちが萎える。
再会時の会合で、アムナ・ハーツは言った。
『別々に行きましょう』
同じ思いだったらしい。
“ピニッツ”がアムナを覚えていたのと同様に、アムナもナザリたちを憶えていたらしい。会議の際、彼はクリフのことはまさかクリフだと分からなかったようで、ちらちらとナザリだけを気にしていた。
『東西に分かれて、キナを包むように南下して行きましょう』
アムナの提案に異論がなかったので、二手に分かれて進軍し、今に至る。
進軍中に救いだったのが、国民の傭兵に対する感情が思ったほど悪くなかったことだった。かつては平民の敵だったテネッサと手を組んだのだ、それなりに覚悟をしていた。しかしテネッサも馬鹿ではなく、戦後はうまく市民団体と和解していたのである。
クリフらは進軍中に2度ネロウェン兵と出会って小競り合いを起こしたが、どれもが村人には歓迎された。物資の略奪を受けて苦労するのは、現地の者たちだ。いくらネロウェン軍の狙いがディオネラ商会の財産だとしても、たどり着くまでの補給は、やはり現地人を襲わなければならなくなる。その点、クリフらには王朝からの充分な供給がある。
おかげで途中経過の今も、こうして宿の一室を借りて会議などという贅沢が実現できている。
アムナ・ハーツが一緒じゃないから歓迎されているのだ、などと言う“ピニッツ”の船員もいるが。
ハーツ軍が西の予定地へ来ないかも知れないと軍内で噂されているのも、そのせいだ。今は噂を否定して軍の志気を高める相談をしなければならないのである。肯定してどうするというのか。
クリフは落ちついた声を努めた。
「ナザリ・キャロウ。私が知るハーツ軍は勇敢で、軍力も確かだ。何より彼が敵前逃亡するとは思えん」
「なら、どう思うかなどと、お訊ね召されるな」
楽天的なクリフを叩き伏せるように、手厳しくナザリが叱咤した。
「自主的な撤退でなくとも、やられた場合もあります。私たちがぶつかったネロウェン軍に、魔法の使える者はいなかった。西にかたまっていたなら、どうします? 魔女の恐ろしさは、貴軍が身をもって体験なさったのでしょう?」
言葉遣いは丁寧だが、内容は容赦がない。確かに、とクリフは詰まった。おそらく今のラウリーなら、たやすい。
ハーツ軍も“ピニッツ”も、他に類を見ない船を持っている。なのに、どっちも海から攻めようとは言わなかった。クラーヴァの船が沈められた状況を、重く見ているのだ。
口ごもったクリフに、ナザリは畳みかける。
「彼は私と同じ臭いを持っています。狡猾な策士だ。利のない戦には、手を出さん」
ずいぶん自分を褒めちぎったものだ。
「利がないというのか?」
「できれば私も戦いらくありませんよ。私たちと“魔軍”は違いすぎる」
室内が意気消沈に包まれて、重くなった。ナザリの見解は現実的すぎて、空元気を吹き飛ばしてしまう。マシャを部屋に入れていない理由でもある。空元気製造器のマシャが大人しくなっては困るのだ。
彼女なら、よどんだ空気を払拭してくれそうな気がする。だが飲まれて気が退けたら、終わりである。すでに進軍は半分以上、来ている。衝突したネロウェン軍は村に居座る小隊だったが、そのことで大部隊にも存在は知られたはずだ。ハーツ軍もとっくに勘づかれているだろう。彼らの方が大規模だし、キナは西が栄えている街だ。
いわばハーツ軍が正面から堂々と攻めて、クリフらは裏口を襲う格好である。と言うと聞こえが悪いが、言い換えれば、ハーツ軍が囮なのだ。
もしハーツ軍が予定通り順調なら、逃げたらクリフらが裏切りになる。ここで降りるわけに行かない。
皆の思案が、クリフには不思議に感じられた。
「行くしかないだろうが!」
たまりかねて、クリフは立ちあがった。ロウソクがおののいて、クリフの影を揺らした。椅子を蹴飛ばしたクリフに驚いたのは、一部のクラーヴァ人だけだった。
「逃げても追われて殺されるなら、立ちむかう方がいい」
ネロウェン軍から。魔軍から。……ラウリーから、背を向けて逃げるなど考えられない。
「俺、いや私は。私一人でも戦う」
クリフの荒い鼻息に、やっとナザリが微笑んだ。にやり、と。
同じく立ちあがったナザリは、すかさず踏みこんでクリフに拳を突きだしていた。ぎょっとしたクリフが平手で、それを止めた。椅子が転がり、ナザリに叩かれた机がバンと音を立てた時には、皆が固まっていた。クリフとナザリの間に座る3人は、動くこともできなかった。ナザリは3人分の距離を一気にまたいで、クリフを襲ったのだ。
ぬるかった部屋が、瞬時に凍った。
「お見事」
ナザリがささやく。
クリフは、自分の左手が止めたものを見て、息をついた。
ナザリの拳は拳だけじゃなく、指の間から細いナイフをくり出していたのだ。刃の先端が器用にクリフの指の隙間を抜けているのは、クリフがナイフを見きわめて掴んだからである。ナザリのナイフは爪の先一つ分の近さで喉元に迫っていた。
刃先の向こうには、ナイフよりも鋭く氷より冷たい、ナザリの目があった。
「余興です」
クリフは言葉を返さなかった。
「死ぬ気になるな。熱くなるな。……真剣だからこそ、思いつめてはなりません」
淡々と述べながら、ナザリはナイフを納めて椅子を直す。視線を外されて、クリフも肩から力を抜いたが、同時に口元に力がこもってしまった。グールを狩っていた自分が、今さらこんな説教をされるなんて。
クリフも椅子を直して、どっかりと座った。ナザリは先ほどと同じ笑みを浮かべた。
「あなたの双肩には500の兵だけでなく、100万の民が託されてらっしゃいます。ご自分をお忘れなきよう」
素直に自分を見おろしてしまった。目を落としてから歯がみしたが、ナザリの口調が絶妙だったので釣られたのだ。自分の格好をなど、改めて見る必要はない。ナザリの言うことは理解できている。
ナザリから笑みが消えた。
「クラーヴァ王」
無茶な話だ。クリフにそんな器はない。ないが、王を任された。自分も、引きうけた。
袋小路で足踏みするような沈黙が漂った。クリフには、根性で押しきる以外の有効な策がない。他の者も考えあぐねているようだ。ナザリを除いて。
ナザリは常に、追いつめられた顔をしない。
「出直す、か?」
自分で決断することができなかった。クリフの質問を受けたナザリは、真顔でとぼけた。
「退くのですか?」
思わず「おい」と突っこみかけた言葉を飲みこんだ。鼻白んだクラーヴァの誰かが「なら最初から、そうと……」と口をもぐもぐさせたが、ナザリは耳を貸さなかった。やはり打開策を持っているのだ。
「例えソラムレアが負けていたとしても、クラーヴァまで逃げては後世に残る恥となりましょう。若王ひきいる援軍が精鋭だと、見せつけなければなりますまい」
挑むように腕を組んで、ナザリは仲間に向かって、わずかに首を傾げた。
「ロマラール海兵団も」
ギムが破顔した。
「どうする?」
クラーヴァの子爵とかいう男が、身を乗りだした。クリフの隣に座しているが、彼が発言したのは、ここに来て初めてだ。もしや彼が口火を切らなかったから、誰も声を上げられなかったんだろうか? とクリフは気づいた。だとしたら、イアナザールも大変だ。場の空気を殺してしまう男が王の隣に座れるなんて。
ノイエ・ロズが亡くなったがために。
伝令は出してある。ほどなく王は、クリフの失敗を知るはずだ。側近が亡くなったこと、船を失ったこと。せめて援軍として手柄の一つも立てなければ、おめおめとクラーヴァ国に戻るなど、できやしない。クリフの中には、そうした焦りもあった。
ナザリの一閃で、少し目が覚めた。
そのナザリが、クラーヴァの子爵に顔を向けた。
「私たちが分隊して、西を攻めます」
自信たっぷりな申し出に、皆はざわつくことも忘れた。クラーヴァですら奇襲軍なのに、そこから分かれて正面玄関を行くなど、無謀きわまりない。むざむざ殺されに行くようなものだ。
だが無言の責めを浴びても、ナザリは自信を崩さない。
「さいわい、キナを征服した敵の将は魔軍じゃない。うまくすれば、隙がありましょう」
ナザリはそう言うと、クリフを見て微笑んだ。今度は静かな、いたわるような笑みだった。
「そこで、です。クラーヴァ王」
「?」
「あなたの持ち物で『魔の気』がある品を、お貸し願いたい」
「え」
ナザリの提案には、いちいち驚かされる。クリフの思考は停止した。
突然そのように願われても、クリフの持ち物に『魔の気』だなどと崇高な物が、あるわけがない。イアナザールの品ならあるだろうが、荷物は船と一緒に海の底だ。
クリフの途方に暮れた表情を察したのだろう、ナザリは「彼女の持ち物でも構いません」と言いなおした。“彼女”とは訊かなくても分かる、ラウリーのことだ。確かに彼女の物なら、『魔の気』とやらも含んでいそうである。
とはいえクリフの荷物とて、身につけていたもの以外は海に沈んだ。最初の頃ラウリーに貰ったペンダントは、首から外されて、それきりだ。短剣も自分の物だし、彼女と交換した指輪などという洒落た物もない。
「あ」
アクセサリーが、一つだけあった。組み紐だ。
願をかけて伸ばしている髪。いつか皆で帰る日まで、と思っている。短かったイアナザールも髪を伸ばしてくれているのは、きっとクリフのためだ。
髪を束ねているのは、ラウリーの紐だ。先端にぶらさがる水色の石は、魔石なのかも知れない。彼女に尋ねてみるのを忘れたまま、彼女も言及してこなかったので、すっかり我が物顔で使っていた。
クリフは渡すのをためらって別の品を捜したが、他に有効そうな物が思いあたらなかった。以前オルセイの侍女だったミヌディラに似た人形もラウリーのものだと言えるが、あれはクラーヴァ国に置いてきた。
「これ」
紐をほどく。
髪が思いがけず長くて、首筋にまとわりついた。癖がついて、はねて右往左往しているようだ。クリフの風情が大きな子供にでもなったのだろう、誰かが小さく吹きだして場が和んだ。紐を受けとるナザリも、目が笑っている。
憮然としたクリフに、ナザリが「失礼」と小さく咳払いした。
「戦が済んだら、お返しいたします」
皆が不安がる中、ナザリは紐の感触を確かめるように、じっくりと指先で撫でたのだった。