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3-7(決裂)

 空から落ちてきたのではなかった。彼女の手が、マストに光の矢を打ちこんだのだ。目を伏せている物憂げな姿とはうらはらに、彼女の行為は力ずくで柱を粉砕する暴力的なものだった。

 叩きわられたマストが、悲鳴を上げながらヒビを走らせていく。すぐに甲板に到達した幾筋もの裂け目は、次の瞬間、大木を破壊させた。船上にだけでなく、海の彼方にまで届くような大音響だった。

 直立していた巨木は、自らの重みに耐えかねて落ち始める。

 人の大きさほどのある木片から目を刺しそうな破片までが、ひしめきあいながら音を立てて皆の上に降りそそがれる。船上が、阿鼻叫喚に包まれた。

 木片に頭を潰された物や、ざくりと首に切れ端が刺さった物。避けたつもりでも、別の破片に襲われる。上を見れば顔が傷つき、うつむけば後頭部をやられる。誰もが頭を押さえて逃げまどい、船底に降りる階段が人であふれかえった。

 クリフは、近衛兵らが掲げてくれた盾の下から、この惨劇を見つめていた。

 だが一瞬である。クリフはすぐに兵らの傘下を抜けて走りだした。手近にあった盾を拾いにいったのだ。黙って守られているタチではない。

「陛下っ」

 ノイエの声がしたが、ふり向かなかった。守られるなど、自分の性分ではない。今はラウリーを引きずり降ろすのが先だ。彼女を何とかしないと、本当に船が沈む。

「降りてきやがれ、手前ぇ!」

 砕けたマストに手を突くと、おざなりに盾をかざして、クリフは上空に向かって叫んだ。大きな木片はあらかた落ちて、落ちついた。ラウリーは砕けたメインマストから、隣に飛び移っていた。フォアマストだ。帆は健在だし、縄もピンと張っている。ここで彼女の攻撃を止められれば、船はまだ走ることができる。

 するとクリフの願いを聞きとげたように、ラウリーがふわりと動いた。気のせいではなかった。空にマントを広げた魔女は、甲板に向かって落下を始めたのだ。

 最初は、ゆっくりと……すぐに速度を上げて。

 目を見開いたクリフが何かを考えるよりも先に、足の方が動いていた。言葉は、飛びのいた後に口をついて出てきた。

「危ない!」

 叫んだのは、破壊音と同時だった。

 ドォンと重い音が響いて、甲板がビリビリと揺れた。ラウリーは撃ち込まれた弾のように、甲板を貫いてしまったのだ。

 落ちるラウリーと一瞬、目があったような気がした。クリフは気のせいだと思った。甲板に大きな穴が空いた。

 呆然としたクリフの頭上に、破片の雨が降ってくる。小さい木片になったが、小さいからこそ厄介だ。クリフは慌てて盾をかざし、ラウリーが埋まった穴へ駆けよろうとした。

 足を動かしかけた時、次の恐怖が訪れた。

「!?」

 空いた穴から勢いよく、水の柱が噴き上がったのだ。砕け落ちたメインマストの生まれ変わりのように、大きく太く、高々と舞いあがって皆をずぶ濡れにした。噴水は怪物のように吼えて、皆を呑みこみ洗い流して海へと落とし、船を傾けさせた。

 船底に空いたらしき穴は、恐ろしい勢いで浸水を許しているようだ。全員が立っていられないほど、船が揺れた。雷のような音が轟く。ガリガリと響くのは、歪んだ木の悲鳴だ。

「陛下、こちらへ!」

 ノイエ・ロズがクリフの腕を掴んだ。彼がノイエだというのは、引っぱられてから気が付いた。ノイエも負傷していた。背中に破片が当たったらしく、服が裂けて血だらけになっている。引っぱられたクリフの腕にも、木片が刺さっていた。小さくない破片だったのに、クリフはそれを感じていなかった。

 痛覚が麻痺している。この状況がひどすぎて、痛みを感じている精神状態ですらないのだ。クリフは無造作に、だが渾身の力をこめて腕の木片を引き抜いた。

「うがぁっ!」

 叫ばずにはいられなかった。痛みのせいではない。

 なす術もなく負けている自分が、悔しくてたまらなかった。力で負けているだけではない。

 眼に、気押された。

「船尾の小舟が生きていますっ」

 誰かが叫んだ。

「何艘だ!?」

 ノイエが返す。

「2……いた、3だ!」

「降ろせ、早くしろっ」

「そっちじゃない、こっちに!」

 船と水の咆吼に混じり、皆が口々に騒ぐ。船尾には、逃げまどいつつ怪我人をかばい、必死に小舟を守る皆が見えた。たった一撃でこの有様なのかと思うと、クリフは泣きたいような笑ってしまいたいような無力感にかられた。

「畜生」

 クリフはうなり、甲板の穴に向かった。

「駄目ですっ」

 周囲から押しよせるクラーヴァ兵とノイエの手にはばまれて、やはり動けなかった。船が揺れて、皆が倒れた。降ってくる海水が波なのか、噴水からの水しぶきなのかも分からなかった。クリフは濡れた体を引きずって、ノイエの手を逃れて立ちあがろうとしたが、ノイエは、体当たりでクリフにしがみついてきた。

「陛下! 陛下、おやめ下さいっ」

「俺は陛下じゃねぇ!」

 すんでのところで踏みとどまったが、ノイエを蹴りつけるところだった。この期に及んで体面を気にするのかと思うと、怒りすらこみあげる。船が沈みそうな時に、ましてラウリーから背を向けて逃げるなど、恥もいいところだ。

 イアナザールの船を自分が沈めるなど。

 だがノイエは罵倒されても、ひるまずに足を踏んばってクリフの胸ぐらを掴んで、彼を引きずり上げた。噛みつきそうな至近距離でクリフを睨み、彼は一言ずつ言葉を句切って声を響かせたのだった。

「あなたの存在がっ。皆を助けるのです! あなたが、浮き足立てばっ、皆も狼狽します! 今は、あなたが、陛下ですっ」

 ──まるで、父親のように。

 クリフはふと、ノイエの表情をジザリー・コマーラのそれと重ねあわせてしまった。ジザリーも真に迫ると同じ表情になった。爛々と光る目に揺るぎない信念を宿して、クリフの過ちを諫めたものだった。

「……」

 言葉をなくしたクリフは、改めて自分の格好を見おろした。手の先で、赤いマントが揺れている。柔らかで滑らかな手触りは、濡れても汚れても、なお衰えない。革の靴と金のベルトも原形がないほど傷だらけになったが、一国の長しか身につけることができない最高級の価値は変わらない。

 影武者だし傀儡だ。だが、象徴として今いる自分が、皆の支えになっているのだ。

 頭では理解していても実感がないので、すぐに約束を忘れて突っ走る。

 おとなしくなったクリフから、ノイエの手が離れた。

「救命艇に、乗って下さい」

 頷いて、クリフは縄ばしごに手をかけた。小舟はすでに海へ降ろされている。本船が完全に沈む前に乗り移り、この場を離れなければならない。

 クリフははしごを降りる前に甲板へふり返り、兵らに向かって声を張りあげた。

「退却だ! 船を見捨てて、生きのびろ!」

 叫びながら縄ばしごを降りて、小舟へと足をかける。王の勇気ある撤退に続き、兵らも降りてきた。中にはクリフに従わない者もいるようだったが、それは官職に任せるしかない。今のクリフが下手に動けば、兵もそれに続く。ダナの魔女と戦いたい気持ちは、皆が持っているのだ。

 イアナザールから借り受けたのは、帆船だけではない。60の命も、クリフの手にあるのだ。

 その時、船に響く轟音が増した。

「!?」

 もう一撃、噴水が上がった。いや、今度は噴火も伴った。強力な『魔』が熱を帯びたのだ。

 船首だった。船が顎を上げて揺らいだ。波が立って、船尾の小舟を沈めそうになる。暴雨のような海水がバシャバシャと降りそそぎ、小舟の中に溜まっていく。火のついた破片も飛んできた。崩れた木切れは、面白いような船中に火を灯していった。巨大な帆船はずぶ濡れだったにも関わらず、あっという間に火だるまになった。皆が改めて『魔法』に恐怖した。

「急げっ」

 乗りこんだ半数が小舟の水を出しにかかり、半数が船を漕ぎだした。木片や道具を駆使して、あたふたと水を排除する。まだ乗り切れていない者が、燃えながら海に落ちた。

「いかんっ」

「座っていて下さい!」

 立ちあがろうとしたクリフは、誰かに押さえつけられた。小舟はすでに満員だった。同じように満員になった小舟が、本船から離れようとしている。小舟に乗れなかった者や船から落ちた者が、水面に溢れている。

「彼らを助けろ!」

「我らも海に落ちますっ」

 クリフの怒りに対して、隣でオールを漕ぐ兵が泣きわめいた。確かにそうだ。今は一人でも多く逃げるのみだ。

 魔女の攻撃から。

「あいつは?」

 ふり向いて眺める光景の中に、ラウリーがいない。ずっと海に潜っているのだろうか。人間業ではないほど長いが、魔力を使えばあり得るのかも知れない。

 探るクリフの視界に、ラウリーより先にノイエが映った。最後まで船にいたのだろう彼の髪は燃え落ち、服もボロボロになっていた。彼が乗っていなかったことに気づかなかったクリフは愕然とした。

「彼を! ノイエをっ」

 彼は助けなければならない。

「ノイエだ、彼を救え! でなきゃ俺が降りる!」

 これだけは譲れない。彼がいなければ、先々の見通しが立たない。だがノイエに辿りつくまでには、沢山の兵が浮かんでいる。彼らを見殺しにしてノイエだけ救うという勇気が、クリフにはまだ持てない。

 すると、クリフらが乗る小舟の横に、もう一艘の舟が近付いてきた。騎士なのだろう格好をした男が中央に立って、指揮を取っている。彼はクリフを「陛下!」と呼んだ後、端に座る兵士に命じてロープを投げさせてきた。小舟に降りる時に使った、縄ばしごだった。クリフは反射的に手を伸ばしていた。

 他の兵らが、縄ばしごを捕らえた。しっかりと押さえられたロープが2艘の間に渡った。

「これに皆を捕まえさせます」

 なるほど、2艘で綱を渡せば、舟への重みが軽減する。乗せられないのは辛いが、見殺しよりいい。機転の効く男だ。

「お前……えーっと」

 名を思い出そうとしたものの、顔も記憶にない気がする。紹介されなかったほど無名の騎士だったのだろうかと首をかしげていると、察して騎士は、くすんだ金髪をかきあげて微笑んだ。

「陸に上がったら、名乗らせて下さい」

「頼む」

 クリフも笑い、すぐに向きを変えてノイエ救出に舟を漕ぎ出す。気づいたもう一艘も寄ってきて、ロープを用意し、3艘はちょっとした集落になった。心なしか波の抵抗も和らいで、心強さが湧いた。

 ぐんぐんと舟を漕いで兵らを回収し、ノイエに近付く。

 ノイエは板きれに捕まったまま足をバタバタと動かして、舟に近付いてくれた。物を言う余裕はなさそうだが、彼は明らかに怒っていた。火ぶくれを起こした目尻が、つり上がっている。自分のために救命艇を戻すとは、と言いたいのだろう。

 彼を舟に上げたら、たっぷり叱られそうだ。クリフはそう思って微笑みつつ小舟の先頭にしゃがみ、彼に手を伸ばした。

 ノイエも軽く手を揚げたように見えた。距離はまだ遠かったが、クリフは心で彼と握手できたような感覚を味わった。

 だが彼の手は硬直して、それ以上は上げられることがなかった。

 白目をむいたノイエの様子に、クリフも目を見開いた。

 ノイエの体が、水中から持ちあげられたのだ。水面に浮かんできた、ノイエを持ちあげている手の主は、ラウリーだった。皆の目前にすうっと浮かんだラウリーは、ノイエを持ちあげたまま水面に立った。まるで、そこが地面であるかのように。けれど彼女の足下で泳いでいるクラーヴァ兵もいるし、自分たちの周囲とて普通の海だ。

 彼女が手を下ろすと、ノイエ・ロズは呆気なく沈んでいった。

 ピクリとも動かなかった。

 だらりと立つ濡れねずみの魔女に向かって、どこへ消えていたのか、どこからともなく現れたケーディが肩へとまった。乾いているところを見ると、一緒には海に落ちなかったのか、火であぶって乾かしたのか。

 燃えさかる帆船を背負って立つラウリーの姿は、ぞっとするほど綺麗だった。

 彼女は完全に、クリフを見ていた。

「痛みはなかったと思います」

 ノイエのことだ。

「俺も苦痛なく殺してくれるのか?」

「お望みとあらば」

「断る」

 舟の先頭でゆっくりと立ちあがりながら、クリフは剣を抜いた。まだ錆びてはいないだろう。皆を守るように胸を張り、手を軽く広げる。剣を握る手に力がこもるのを感じつつ、息を整えてラウリーを見すえた。だがラウリーからは、殺気が立ちのぼらない。

「あなた方は殺しません。漂流して、のたれ死ぬか、どこかに辿りつくか……お任せします」

「反撃するぞ」

 凄んだクリフに返したのはラウリーでなく、ケディだった。

「できるならな」

 人を小馬鹿にした言い方が、この鳥がやはりケディなのだと物語っている。ケディの言葉を最後に、魔女の姿が消えた。“転移”だ。

 同時に燃え落ちた船もすっかり沈んでしまい、海には急に静けさが訪れた。

 その場に残された全員が、呆けてしまった。鳥一羽すら飛んでいない、雲一つすら浮かんでいない空が海と溶けあって、彼らの視界を真っ青に染めている。まだ何か起こるのではないか、と呆けながらも不安がよぎる。

 皆の心を、徐々に怒りが浸食していく。

 恐怖を振り払うために、怒りを作りだしているのだ。でなければ心が負けるから。どうしようもなく広く青い空と海に、押しつぶされてしまうから。

「何だったんだ、今のは」

 誰かが小さく呟く。

「畜生っ」

 と、誰かが悪態をつく。

 徐々に声が上がってきたが、皆の声色に含まれている暗い怯えは、拭えるものではなかった。舟も一撃なら、人も一撃だったのだ。小娘が手を下した迷いのない殺戮が、男たちを戦慄させた。しかも「必要な者だけを殺したのだ」という意味合いが一層、カンに障る。

 ノイエは殺しておく必要があり、クリフには殺す価値もないのだ。お情けで生きのびたと思うと余計に悔しいし、何もできず目の前で死んだノイエへの申し訳も立たない。あんたが命をかけて守ってくれた自分には、殺す価値もないらしいぜ……とクリフは自嘲してしまう。

 ノイエが船に残っていると、もっと早く気づいていれば。

 あの時、一緒に小舟へ乗っていれば。いいや先に乗せるべきだった。

 その前に彼に従っていれば。短気を起こしていなければ。

 ──彼と、握手ができていれば。

 後悔は尽きず、反省にもならない。

「……ノイエ」

 一旦はざわめいた船上だったが、クリフの呟きは響いた。はっとして皆が口を閉じ、めいめいがうつむいた。

 目を閉じて、黙祷を捧げる。ノイエだけではない。見えている人数は、全員ではない。瓦礫と共に浮かぶ死体もあるかも知れなかった。今はそれを捜索できる状態にない。生きのびた者は、ただ詫びるように目をつむり、眉をひそめるしかなかった。

 穏やかになった波の音だけが、男たちをいたわるかのように流れる。

 ノイエとクリフの会話は、数えるほどしかなかった。もっと語ってみたい人物だった。イアナザールの腹心を、クリフが殺したのだ。

「先に降ろしていれば……」

 呟いてから、クリフはそれが見苦しい言い訳であることと、それでも防ぎきれなかっただろう見通しに気づいて、口をつぐんだ。ノイエへの攻撃が、船上の皆に及んだ可能性もある。その攻撃を自分が防げたかどうかは……残念ながら今は自信がない。

「くそ」

 剣を収めたクリフは小さく吼えて、左手の平に右拳を打ちつけた。やるせない。自分には腕力しかないというのに、それが通用しない相手では何とも戦いようがないではないか。

 ラウリーが去った今になって、クリフは『戦わなければならないのだ』と、はっきり感じていた。去ったからこそ、かも知れない。彼女と再び相まみえて戦えるかどうかは、会ってみなければ分からない。

 だから何としても、また会う。

 会わなければならない。

「陛下」

 隣の舟にいる騎士が、クリフを呼ぶ。

「行きましょう」

 釣られるようにして、待ちかまえていた兵らも声を上げだした。

「引き返すより、ネロウェン国に向かう方が近いです。方角はあっちです」

 見ると、小舟には簡素ながらも航海用具と水が積んであった。クラーヴァ国らしい用意の周到さに、クリフは思わずほころんでしまった。

 水を見て、兵がおどけた。

「大切に飲めば、一ヶ月は保ちますぞ!」

「?」

 それは無理だろう。人数は約50人近い。小舟に10人ずつ3艘と、泳ぐ者たち。彼らに振り分けると、とても水の量は一ヶ月分に満たない。

 クリフが怪訝な顔をすると、おどけた兵士が「いや失礼」と苦笑いして、頭を掻いた。

「笑えない冗談でした」

 その言葉の方に、どっと笑いが起こった。

 皆が彼をペシンと叩き、活気が戻った。

「行くぞ」

 男たちは死者を振りきるようにして水平線を見すえる。誰もが魔女との対峙を胸に誓った。


 ──その4日後、彼らは黒い船に救出される。

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